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2004年04月12日(月) 憂国。 ●生き方名人(池内紀)

●多くの人が、誘拐された三人を非難し始めている。
 こんな時期に行くからには死ぬつもりで行け、とか、勝手に行って迷惑をかけているとか、自覚に欠けるとか、NGO、国に迷惑かけるなとか、自分のレゾンデートルを戦争に求めるなとか、まあ、あれこれあれこれ。

 でも、よくそんなに大声で他者を非難することができるよなあ、と、わたしは思う。確かに、興味本位でバグダッドを目指しアンマンに入る若者は多いと聞く。でも、彼らに関しては、行くからには、それなりの覚悟で行っているでしょうよ。自らの死だって、想像の内にあって行ってるでしょうよ。それでも、死が目前に迫るとびびるのは、そりゃあ当たり前でしょうよ。

 家族への非難も存外に多いのだけれど、それだって、肉親が遠い地でテロリストに殺されてしまうと思えば、当たり前でしょうよ。取り乱しもするし、国のこと考える前に肉親のこと考えもするでしょうよ。

 そりゃあ、人それぞれ、意見が違って当たり前だけれど、わたしはどうも、この、他人事になると大声で好き勝手なことばを無責任に生み出す、日本人資質が嫌いなのだ。それが世論だなんて、大間違い。ことが長引けば長引くほど、それは顕著。子供じみた国だなあ、ほんとに。

●職場の同僚が、「あれって、狂言だったらすごいよね」と言う。「あの映ってたイラク人と友達でさ、自衛隊撤廃を求めてみんなで演じてるのかもよ、これくらいしなきゃ日本政府は動かんだろうって」って言う。へええええ、そんな風にも考える人がいるかと、わたしは驚く。想像もしなかった。

 これだけの事件が起こると、どれだけの人がどれだけの持論や想像力を振り回すのかと、なんだか考えていると頭が痛くなってくる。世論ばっかり気にしてる政治家は、そりゃあ目の下に隈くらいできちゃうよね。

●モスクワの劇場占拠のときは、劇場内部での話し合いによって平和的解決に向かっていたにもかかわらず、ロシア政府はテロリストも自国民もひとからげに毒ガスの犠牲にして強行解決し、善と悪の二元論に事件を収束させてしまった。
 アメリカに協力を仰いだ仰いだって言ってるけど、今のアメリカはあのロシア政府とあんまり違わないような気が、わたしはしている。

 どうなっちゃうんだ? ええ? どうなっちゃうんだ?




2004年04月11日(日) 解放の知らせはまだない。●難民の世紀〜漂流する民(豊田直己)

●朝、解放を伝えるニュース番組に、仕事に出かけるぎりぎりまで釘付けになっていた。今は今で、NHKをつけっぱなしにしてキーボードをたたき続けているが、臨時ニュースはまだ入ってこない。家族の人たちは、何処で、どんな思いで過ごしているのだろう。そして、イラクの3人は。
 あの、驚くほど人間的に書かれていた表明文の通り、彼らが無事解放されることを、心から望む。


 ネット上で、この事件に寄せて書かれたたくさんの文章を読んだ。名のある人のものも、そうでない人のものも。
 その多くが、自衛隊撤退を求める考えに基づいているものだった。
 政府があまりにも早急に出した結論に、異を唱えるものがほとんどだった。
 
 国民の声は、なんと無力なんだろう。
 屈せず、やり続けられることは、何がある?

 誘拐された3人も、同じことを考え、実際に行動を起こしている人たちだった。

●この4月頭にチェチェン紛争の実際を書いた本を読んでから、戦争を知るための本を読み続けていた。イラク戦争の実際から始まって、今は、まったく系統だって知っていなかったユーゴスラビアの歴史について読んでいる。
 そんな時に、この事件が自分の国で起こった。
 知るべきことはたくさんある。考えるべきことはたくさんある。選び取るべきことはたくさんある。行動すべきことはたくさんある。



※Book Reviewに「チェチェンで何が起こっているのか」をアップ。



2004年04月06日(火) このところ。●チェチェンで何がおこっているのか(林克明、大富亮)

●映画を見る生活をはじめてから、もう12本を見た。すでに評価が出ているビデオやDVDばかり選んでいるので、無駄な時間はほとんどない。
 
「チェチェンで何が起こっているのか」という、ロシアとチェチェンの紛争を解説した本を読み、衝撃を受ける。一昨年前、ノルドオストの劇場で憤死したチェチェン人の女たちが延々と映し出されていたテレビの映像を思い出す。
 彼女たちには理由があったのだ。
 「テロ」と呼んでしまえばそれで人々が納得してしまう「今」が恐ろしい。

●このところ、この日記のページを書き続ける意味が、自分の中で少し薄れてしまった。自分のための日々の記録はとり続けているが、公開するために伏すことの方が多い文章を書くことに、ちょっと疲れてしまったのだと思う。

 いずれにしろ、今年に入ってから、心が変調を訴えている。だからなんだろう。のんびり自分を癒しながら、書きたいときにゆっくり書いていこう。




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2004年03月29日(月) 映画三昧。

●長らく書かなかった。書かなかった間、ビデオとDVDで映画を見まくっていた。一晩一本。
 毎日毎日、心がひずんだり、へしゃげたりすることが起こるものだから、何か自分にカンフル剤を打ちたかった。特効薬を探していた。で、一日の終わりに映画を見始めたら、これが結構良かった。
 本を読むことと違うのは、連続した時間でドラマの中に入り込めるところ。そして、世界が目に見える形で提示されるから、自分の想像力に委ねられる部分が少ない。よって、自分と少し距離を置くことができる。
 
 自分を取り巻く現実だけが人生ではないのだと、俯瞰する目を持つのに、映画はやはりいい。

●携帯をなくしてしまった。仕方なく電池パックがいかれている古い携帯を取り出して、バージョンダウンの機種変更。2日ほど待って出てこなかったら、新機種を買うしかあるまい。
 変な人に拾われていたら、電話帳データが悪用されかねない。そのことの方が心配。これからは気をつけなければ……。


2004年03月22日(月) 寒い一日。●塩一トンの読書(須賀敦子)

●もう三月も末だというのに、春分の日も過ぎたというのに、雨の降り続く寒い寒い一日。
 須賀さんのことばを支えに、頑張って過ごすが、一人で闘うということは、やはりそれなりに寂しい。
 こんなときに恋人がいてくれれば、と思うが、それも叶わぬこと。それも含めて、塩一トン舐めるまでの心持ちでいなければ。……あと半年たてば、また、ここ東京で、一緒に過ごせるようになるのだ。

●いかりやさんが亡くなったことを、多くの人が悲しんでいると思う。わたしはまさにドリフターズ世代で、「8時だよ!全員集合」の最盛期に小学生、中学生時代を過ごしていた。夫婦共稼ぎでテレビっ子だったわたしは、弟と二人、いつもテレビの前にかじりついた。あれだけの視聴率を稼いだ番組なのだから、多くの同世代が、同じ思い出を抱えていることだろう。
 一度、仕事で、ご一緒できた。1ヶ月弱ほどのおつきあいだったが、穏和で、自分の仕事に厳しい方だった。緻密に演技を分析する論理性と、動物的なノリの良さ、両方を兼ね備えた俳優さんだった。
 いちばんの思い出は、打ち上げの席で、いかりやさんのギャグを生で聞けたこと。
「ウィーッス」「だめだ、こりゃ」「いってみよーぅ」
 もう、嬉しくって嬉しくって、キャーキャーはしゃいでるわたしがいた。俳優もスタッフも、先輩も後輩も、これらのことばを前にしては、もうみんな只のこどもに戻ってしまい……。あの独特のだみ声が、忘れられない。
 昨日今日と、いかりやさんとの仕事が一緒だった後輩と、「あの日のことは一生忘れないね」と、何度も、思い出した。
 時代を支えた人が、また亡くなってしまった。
 どうぞ安らかに。


●このレンタル日記には、検索機能がある。時折、任意のことばで、自分の過去の日記を検索してみたりする。思わず、自分の過去の行動やことばに励まされたりすることがある。思い出したくもない事柄もそこにはあって、抹消したくなったりもする。すべて自分の為したこと書いたことではあるのだが。
 荷風のように書ければ、と、飽かずあきらめずつけているが、あまりにも成長がなく、もの哀しい。
 何かと、センチメンタルな夜。


2004年03月21日(日) 塩一トン舐めるまで。

●今日から、須賀敦子さんのエッセイを読み始めた。
「塩一トンの読書」という一冊。

冒頭部分を引用。


……「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」
 ミラノで結婚してまもないころ、これといった深い考えもなく夫と知人のうわさをしていた私にむかって、姑がいきなりこんなことを言った。とっさに喩えの意味がわからなくてきょとんとした私に、姑は、自分も若いころ姑から聞いたのだと言って、こう説明してくれた。
 一トンの塩をいっしょに舐めるっていうのはね、うれしいことや、かなしいことを、いろいろいっしょに経験するという意味なのよ。塩なんてたくさん使うものではないから、一トンというのはたいへんな量でしょう。それを舐めつくすには、長い長い時間がかかる。まあいってみれば、気が遠くなるほど長いことつきあっても、人間はなかなか理解しつくせないものだって、そんなことをいうのではないかしら。」


●これに続け、須賀さんは穏やかな筆致で、急ぎすぎない「本とのつきあい方」を述べていくのだが、わたしはこの喩え話の直接的な意味合いに、感じいってしまった。

……わたしが今、毎日劇場で顔を合わせている人たちのこと。

出会っては別れを繰り返すこの仕事をしていると、どうしてもどうしても出会い方がせっかちになっている自分がいる。
人と人との、面倒な問題が後から後から噴出する今、わたしはもっとじっくり人と出会うべきなのではないか、と。

読み進めるにつれ、この喩え話と、須賀さんの文章から垣間見える彼女の時間の流れ方が、わたしに、「あせってはだめ、あきらめてはだめ」と、呼びかけてくるのだ。

●見慣れた芝居が少し違って見えてきて、いくつかまだまだ手を加えるべき点を現実的に見いだした。

個人的に、仕切り直しが始まる。状況と他者が変わらないのを嘆く前に、少しでもわたしが変わってみよう。


2004年03月20日(土) メビウス全快。●11分間(パウロ・コエーリョ)

●わたしがプロデューサーに意を決して話したことは、現実的には何も反映されないのだということが早くも分かってくる。
懲りずに、あきらめずに、自分の仕事をし続けていくしかないのだ。世の中には「見えない」人もいるが、「見える」人もいる。確かにいる。だから、自分は自分として、がんばり続けるしかないのだ。

●奈良のシャープ工場に送られていたメビウスが、早くも戻ってきた。実質一週間で!
もう液晶が突然ブラックアウトすることもないし、ぺこぺこして時折打鍵を認識しなくなっていたキーボードもすっかり新しくなった。モバイルノートが手元に戻ったので、これからはまたベッドでも書ける。うれしいことだ。シャープさん、ありがとう。


2004年03月19日(金) 過不足のないことば。●見えないドアと鶴の空(白石一文)

●昨夜はプロデューサーと食事。
 現在の仕事が抱える問題について、先々の再演予定が内包する問題について、65歳のプロデューサーに見えていないことを、わたしが意を決して提言する場となった。
 
 尊敬しているこの道の先輩ではあっても、年齢から見えなくなることは、ある。最近それを痛感し、カンパニーのために、提言の場が必要だと思っていた。
 40代になり、どんな立場であれ、社会の中心になっていく世代の仕事を、しなければならない。
 話し終えて、1時半。……とっても疲れた。

 言い過ぎていないか、失礼ではないか、そして、伝えるべきは伝わったか?
 過不足ないことばの選択の難しさを感じながら。プロデューサーの秘書は「パーフェクトだった」と言ってくれたが、某かの不安が残る。

●今年になって、まったく発症しなかった花粉症だったが、今日、ついにやってきた。それでも朝昼と薬を飲めばおさまったので、軽いものだ。このまま気分よく春を過ごしたいものだ。

●白石一文の新作を読了。好んで読む作家ではあったが、どうも馴染めない傾向も認めていた。その馴染めなさばっかりが集まっている。
 押しつけがちな哲学と、偏った女性描写と、一辺倒なセックス感。読んでいると苛々してきた。まあ、本ばっかり読んでいると、こういうこともある。
 しばし余暇の気分転換手段を映画に乗り換えようかと、久しぶりに帰り道、レンタルビデオ店で長々と物色。


2004年03月17日(水) こころざしの問題。●トゥルー・ストーリーズ(P・オースター)

●平穏な日々はなかなか続かない。今日も、仕事場でいっろいろあって、叫びだしたい気持ちをこらえて1日過ごした。
 話の通じるスタッフ仲間が観に来てくれたので、待っていてもらって一緒に食事。

 わたしのあれこれの憂さをガンガンガンと吐き出し、彼女は彼女で「どうよ、それって」って感じの仕事場での憂さをツラツラツラと述べ立て、二人でストレスを発散。
 世の中の、納得できないことを、すべて並べ立てて、異議申し立てしたい気持ちだった。
 もちろん、納得できないこと、不公平なこと、すべてすべてどうしようもないことを含めて「仕事」なのだとお互いに分かっているので、それぞれにそれぞれの場所でひたすらに働いている。社会の中にいれば、目をつむることだって口をつぐむことだって、そりゃあ知っているから。……でも、志の高さだけは負けない二人なので、会うとついつい、「どうだよ、それは? ありかよ、それは!」と盛り上がってしまう。

●ポール・オースターのエッセイ、読了。「その日暮らし」という、書くことで生きていけなかった頃の貧乏話を読みながら、自分が貧乏だった頃のことを思い出した。
 今だって貧乏には違いないが、若い頃はそりゃあとんでもなかった。
 俳優時代は仕事をしてもまともなギャラをもらえなかったから、20代はずっと風呂のないアパートだったこと。……仕事とアルバイトの二重生活で毎日帰りが遅く、いつどこでお風呂に入るかが日々の大問題だった。現場にたどり着く電車賃がなくって、とんでもない距離を自転車で通っていたことがあったり。人目を避けながら、質屋に足を運んだり。そして……数々の、数々のアルバイトのこと。「若い頃の苦労は買ってでもしろ」なんて言うけれど、今思えば、お金を払ってでも経験したくなかった様々なことを思い出す。ひどい仕事、いろいろしたものなあ……。

 ただ、無茶苦茶でもなんでも、未来の自分のことしか考えず走り続けるエネルギーがあった。それだけは、いつまでも持ってようって、そんな風にも思ったり。

 わたしくらいの稼ぎの者がお金を使って得られる喜びは、お金を使って満たされる時間は、誰だって入手可能。
 わたしはわたしの心と体で、わたしだから知ることのできる、喜びが欲しい。だから、あれこれに心砕きつつ、毎日扉を開けて外に出て行く。こころざしだけは高くして。


2004年03月15日(月) 休演日前の朝帰り。

●かつて一緒に仕事をした演出家の新作を観にいく。よく出来ているし完成度も高いのに、人間が見えてこず、フラストレーションが貯まる。終演後、楽屋に立ち寄り、演出家に思い切って不満をぶつけてみる。「やっぱり……」という顔をした演出家は、楽屋の隅っこにわたしを連れて行き、現場の事情説明をしてくれる。よくよく分かっていることなのだけれど、現実的に俳優がそこまでたどり着いてくれなかったし、自分もそこまで引っ張りあげられなかった、という話。
 なんだか聞きたくないタイプの話だったなと、フラストレーションをさらに強くして、その芝居の舞台監督と飲みに行く。彼とは、去年大きな仕事で苦労を分け合い、話の通じる大事な友人になっている。
 観終えたばかりの芝居のこと、演出家のこと、俳優のこと、それぞれの仕事のこと、話は弾みに弾んで、気がつけば朝の5時。お互いに翌日が休演日という開放感から、テンションあがりっぱなしの夜だった。
 
●劇場で、わたしが東京に出てきてから初めて所属した劇団の先輩に会う。懐かしい話にひとしきり花が咲き、「あの人は今?」の話題で盛り上がる。その中に、私の知らなかった情報がひとつ。先輩女優が、1月に亡くなったとのこと。一緒に仕事をしていた時、わたしは18、9歳、彼女は23、4歳。とにかく可愛らしい人で、ヒロインを必ず演じていた人だった。退団以来一度も会っていないし、彼女は結婚して女優をやめてしまったので、わたしのイメージは、23歳くらいの彼女のままだ。なんともなんとも、可愛い人だった。
 生きている者であることを、しばし考える。




●仕事場では、こんな話題。
 子役として長い間、わたしたちのカンパニーの仕事に出ていた男の子が、某有名老舗劇団に合格し、上京してくることになった。
 はじめて会ったのは、彼が小学校2年生の時だった。つぶらなつぶらな瞳が実に愛らしい子どもで、手足が長く、芝居は素直。何をやらせても一生懸命で、天才子役の名を恣にしていた。中学2年生で子役をやめるまで、何本の仕事を一緒にしただろう。両手ではおさまらない本数だ。旅公演ではよく一緒に遊んだし、オフの時間にも、プロ野球を見に連れてったげたり、我が子のようにかわいがったものだ。
……その彼が、もうわたしたちと同じラインに並んで、仕事を始める。ほんとうに、時間のたつのは早いなあ。感慨ひとしお。



 


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