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●世界中でいろんなことが起こっている中、わたしの周りでも相変わらず埒のあかないいろんな問題が起こっており、もう、ただただ、振り回されている。
ひとつところに腰を下ろして、じっくり考えたいと思うのに、わたしはふらふらふらふらと、個人と、わたしを取り巻く小現実と、大現実の間を、行ったり来たりしている。足元の覚束ない日々が続いて、夜、寝る前に、自らの一日を振り返って、がっかりしたりする。
●ずいぶん年下の男性と惹かれあって、心を交わし合っていることが、わたしの日常を乱してもいる。
持ち時間はそうそうないのに、わたしは何をしているのだろう?
それなりの幸福を享受することと、更なる人生の成果を切望することの狭間で、気持ちは乱れる一方だ。
●久しぶりに、自分の時間がたくさんある毎日を送っている。3時に仕事場に出向いて、11時半には帰っているのだから、普段から思えば夢のような生活。
そうなってみると、某かが起こる。某かを考える。某かを感じる。
思いがけず、多忙多感なプライベートタイムが展開していて、忙しい時より、落ち着いて書いていたりする時間が少ない。
おかしなものだと思う。
楽しくも、険しい生活。
●昨日のOFFは、久しぶりに横浜に出かけ、海風に吹かれた。
5月の、最も心地よい季節、そういう時間が持てて幸せ。ただただ働いているばかりと思える生活にも、こんな時間がある。幸せ。
2004年05月16日(日) |
ひたすら、ひたむき。●きっと「イエス」と言ってもらえる(シェリー・ブレイディ) |
●この何日か、もうジェットコースターに乗っているような気分。これで上がっていくのかと思いきや、大どんでん返し、真っ直ぐ進んでいるかと思いきや、目的地から遠ざかっていたり……。ただただひたすらに、今信じるところを信じて、その時間時間を過ごしている。もちろん、ゴールは待っているはずなので、走り続けるのだけれど。
それでも、たくさんの人間が一度に乗り込んでいるから、走り損ねないようにバランスを取らなきゃいけない。創るって仕事は、大変。個々である人間が複数集まってひとつのものを創ろうとがむしゃらに動く限り、そこには幾ばくかの理不尽や不合理だって生まれるし。
●家に帰り着いたら、もう、明日の朝起きて現場にたどり着く時のことを考えている。繰り返してるなあ、こういうことを。
仕事中、突然の頭痛に襲われることがある。かなり痛い。ひどく痛い。ふだん頭痛持ちとして過ごしていないので、すごく不安になる。やりたいことが山ほどあるのに、突然ぽっくり死んだりしたくない。休みになったら、また整体に行って肩の荷を少し下ろしてもらったり、CTを撮ってもらったりしよう、などなどと考えながら、忙しく立ち働く日々。
●眠るまでのベッドと車中で、脳性麻痺の男性がトップセールスマンとして生きる手記を読む。そのひたすらさ、ひたむきさに、単純に感動する。出来が良くっても悪くっても、人間は自分という存在をフル活用することで、某かを勝ち取ることができるのだという、とっても当たり前で難しい真実。
2004年05月10日(月) |
大詰め。●コーネルの箱(チャールズ・シミック) |
●仕事はいよいよ大詰め。
●カディロフ氏に関するあれこれを、昨夜眠りを少し削って読み続ける。
チェチェン総合情報を訪ねるだけでも、概ねのことは分かる。
このサイトから、「コーカサスの虜」を配信しているサイトにも飛べる。
2004年05月09日(日) |
誤消去。■コーカサスの虜 |
●いつものようにこのページにことばを埋めていたら、二度も誤って全文消去してしまう。考えながら考えながら時間をかけて書いていたし、久しぶりに長文だったので、ちょっと嫌な感じ。
●書いていたこと。
・昨夜、観劇後後輩と語り明かしたのが、年齢を超えて、思わぬ「対話」の経験になったことについて。
・仕事仲間が自己破産したことについて。
・一昨日観た映画「コーカサスの虜」について。
・チェチェンの傀儡政権大統領カディロフが、爆弾テロで死んだことについて。
●こうして箇条書きしていると、自分の書いていたことばには、実はさほど意味がなく、書きながら考えた時間だけが、自分にとって必要だったのだと思えてくる。
2004年05月07日(金) |
人と暮らしの矮小化。 |
●仕事場では、文字通り、劇的な瞬間とつきあうことが多い。心を揺さぶる大感情と接した帰り道、シブヤを歩いていると、ここにはなんと矮小化した人間、矮小化した生活が多いことよ、と思う。別にシブヤに限ったことじゃない、目に立ちやすい街だってことだけで、今の日本全体に蔓延していることなのだろうけれど。
ささやかなこと、ささやかな暮らしが、わたしは好きだ。それでも、感情がささやかなぶれしか示さないわけじゃない。
振れ幅が広くっても、静かな表出しかしない人だっている。
問題は、貧相な想像力と甘い自己認識。他者との距離の読み間違い。人の矮小化は、だいたいそこら辺から始まるような気がする。
そういうことを、こうしてここに曖昧に書いていても何にもならないのだけれど、このところこの国を賑わす事件を眺めていると、ついついこぼれてきてしまう。
●明日はお休み。このところ休みと言えば、心と体の疲れで使い物にならず、病院にお世話になったり家で寝込んでいたり。明日は久しぶりに、元気な状態で休める。
来年の仕事の打ち合わせ一本と、夜には、次に仕事する俳優の主演作を観劇。……休みのような、休みでないような。でも、大丈夫。心は解放されている。
●現場に12時間いる生活をしているので、家に帰り着くと、もう明日の朝起きることを考えている。そんな数日が続く。あと2日頑張れば1日休める。休日は、次に一緒に仕事をするプレイヤーの舞台を見に行こう。
●過酷な仕事をしていても、運命共同体がしっかりと築かれているので、へこたれないでいられる。
現場には、もう20年来この業界で一緒に働いてきた仲間がたくさんいる。すでに幼なじみのような気分で、いるだけで、それぞれがそれぞれを支え合っている。
今までたいした人生を送ってこなかったような気もするし、奴らの顔を見ていると、ずいぶん素敵な人生を送ってきたような気もするし。
2004年05月02日(日) |
孤独を認識する。●宿命の交わる城(I.カルヴィーノ) |
●4ヶ月の大仕事を無事終えて、さあ明日から新作の稽古場に本格的に参加だと思っていたら、突然の高熱、激しい頭痛、2日間、倒れ込む。
わたしはよほど疲れていたらしい。目覚ましなしで眠ったら、なんと16時間ぶっ続けで寝てしまったし……。
このところ、普段はほとんど経験しない頭痛に悩まされていたので(たぶん目の疲れと肩こりからくるのだろうと自己判断していたが)、人はこういう時、くも膜下とか脳梗塞に襲われるのではと、小心なわたしはベッドで不安を覚えつつ過ごす。
弱っているときに弱っている姿を見られるのが嫌いなわたしは、こういう時、誰にも救いを求めない。只一人恋人だけが別なのだが、彼が今はロンドンにいるのだから、仕方ない。
この夏、恋人以外の男性にプロポーズされてその気になりかけたときも、相手がわたしを守るのだと執拗に主張し始めたとき、さーっと気持ちが冷めてしまった。そんな自分なのだから、仕方ない。
この孤独は自ら選んでいることと、認識する。
でも、まあ、本日、仕事復帰。
●日本はゴールデンウィークに突入。電車が空いていて快適快適。帰りの電車の中は、いつもの風景と違って、親子連れがいっぱい。お父さんたちの疲れた顔が目立つ。
●カルヴィーノの小説は、78枚のタロットカードの絵にインスパイアされて、物語をねつ造していくもの。ねつ造にとどまらず、そこからギリシャ神話だのシェイクスピアの物語だのも読み取っていく。
人生の顛末や、ドラマと呼ばれるものは、たった78の状況状態だけでつむいでいけるものなのだ。タロットの占いで言うと、正位置逆位置でその2倍で読み取ることになる。
世の占いと呼ばれるものに全く興味のないわたしは、突然タロットに猛烈な興味を示し、早速カードと解説本を購入。美術的にも惹かれるものがあって、しばらくはまりそう。
●解放された人質の男性二人が、メディアの前に現れた。日本という国に戻ってきて、彼らはどんな喧噪に巻き込まれ、何をどう感じ考えて過ごしたのだろう?
30日に開かれるという記者会見で何が読み取れるとも思わないし、彼らの内面の旅がどのようであったかなど、想像の及ぶところではないが、それでも、わたしはあり得ることを想像しようとしてみる。考える。
●昨夜、パトリシア・アークエットの監督した映画「デブラ・ウィンガーを探して」を見る。40代になって、表現と生活の板挟みで悩む彼女が、同世代の女優たちを訪ねてまわり、そのインタビューを構成したもの。
心にふれる素顔を見せる女優もいるし、飽くまで女優としての発言の枠を守る女優もいる。どちらも正しい女優の姿。
その幾つかは、40代になったばかりのわたしの琴線に触れるものだった。
すっかりおばさんになったテリー・ガーはかつてない魅力を感じさせるし(「ONE FROM THE HEART」や、「トッツィー」の彼女は、等身大の女性を演じて素晴らしかった)、引退したことを揺るがぬ強さで肯定するデブラ・ウィンガーには、人生には無数の可能性があることを知りつつ、自らの選択に生きる、大人の強さと孤独を感じる。
もう女優に戻ることはないと確信しつつ、演ずることのすばらしさを語るジェーン・フォンダのことばには、涙を禁じ得ない。……恵まれた俳優は、当たり前に人生を生きているだけでは決して味わえない、濃密な時間を体験することがある。それは蜜の味だ。……蜜の味がどんなものであるか知り尽くした彼女が、戻れないものとしてそれを語ることは、人生の歓喜と哀切を同時に語ることとなる。
「NO MAN’S LAND」に、サラエボの現地レポーター役で出演していたカトリン・カートリッジは、2002年に41歳の若さで亡くなっている。その彼女もインタビューに応じていた一人で、飾らない当たり前な笑顔をふりまきながら、
「情熱がなければ、朝がきても起きられない。せめて情熱がなけれね」
と語っていた。自らに直後突然ふりかかる死のことなど知りもしない彼女の、そのおおらかなしゃべり方は、生きることを讃える力に満ちていた。
●北朝鮮の爆発事故の映像が配信されつつある。そこに映る情報だけでも、目を覆いたくなる悲惨さだ。ただ、その映像の向こうに、どのような隠蔽作業があり、どのような作為があるのかはわからない。
9.11があれほどに衝撃的だったのは、事故の映像が同時配信されたことの力が大きい。だって、世界では時を同じくして、悲惨なことがそこかしこで起こっていた。わたしたちは、それを映像という手段で知らされていなかっただけのことなのだ。
わたしたちは、明きながら見えない目を持っている。それゆえにコーディーリアを喪ったリアのように。
●昨日、絶不調と記したのを消してまで、奇跡的な回復と感動を書いたのだが、奇跡が持続したのは一晩だけだった。長い時間をかけてため込んだ疲れは、やはりそう簡単には消えてくれないらしい。
それにしても。
一晩だけにせよ、なぜあれだけ体が軽くなったのか? 15分ほど体を触ってもらっただけで……?
何もわからないとコントロールも節制も努力もできないので悔しい。いつか大病することがあったとしたら、医者に分かって自分に分からない病気の実態に、わたしはいらいらするに違いない。
知ることのできることは、すべて知りたい。
世の中は知りたいことだらけで、その知りたいことの山に押しつぶされそう。
わたしには、穿つべき自分の道がもうあるし、残りの人生はそれで手一杯だろう。でも、知りたい知りたい。なんでも知りたい。
疑問を持てば、どんな分野でもどんどん穿って知りたくなる。
●というわけで、わたしの仕事机は、今、読むべき本と見るべきDVDが山積み。書籍の半分以上が戦争関連で、一冊読めば、また別の視点の一冊を読みたくなる、読書の連鎖が始まってしまっている。
それなのに、仕事仕事で、自分の時間がほとんどない。
人生はかくも短いのだと、若いうちから気づくほどわたしはクレバーではなかった。馬鹿なことばかりで大騒ぎしてきた若い頃を悔やむ気持ちはさらさらないが、でも、今は時間が欲しい。ようやく「考える」ということが出来る年齢になったのだもの。
●こんな風に思っていても、恋人が戻ってくれば、それだけでもう何もいらなくなったりする自分がいることも分かっている。
ただ隣にいるだけで、何も生まず、何も得ず、ただ時間が過ぎていっても満足できることがあることは分かっている。
そう思うと。
ああ、人生ってなんて短いんだろう。
もう半分以上終わっちゃったよ。