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■それにしても、世の中、携帯に毒されてるなあ。まあ、毒されてると言い切ってしまう語弊も感じないではないけれど、それにしたって、電車の中とか、街を歩きながらとか、車を運転しながらとか、どうしてそこまで携帯を握りしめてなきゃあならんのか? 交差点で、歩行者が目に入らず曲がってくる車のほとんどが、ながら携帯運転だし。歩くってのは前を見てが基本だろうに、メールを打ちながら歩くあぶなっかしい人たち。でもね、電話とか、メールとか、コミュニケーションツールとして使うなら、まだいい。まだまし。
電車の中でひたすらに、携帯ゲームに興じる人々。……恥じてほしい。自分のかっこ悪さ、わかってほしいなあ。そんなとこでまで、あんなとこでまで、小さな画面に閉じこもらんでもいいではないか。
と、ふだんはそんなこと思ってても面倒くさくて言わないし、日記に書こうとも思わないんだけれど、このところ、わたしの職業を脅かす、そうは言っていられない現象が起こっているのだ。
劇場で新しい物語が始まるとき、新しい世界が開けるとき、「暗転」というものから始まることが多い。現実の世界が、一瞬真っ暗になるという「暗転」儀式を経て、劇的世界に明かりが入る。これ、とっても大事な闇の瞬間なのだ。だから、美しい闇を作るために、袖中(舞台の脇の隠れた部分)に必要な明かりだけ残して、毎日チェックをしてから開場する。
そして。
このところ、美しい闇が破られてしまうことが頻発している。ほぼ毎回と言ってもいい。暗転の中でまで、メールチェックする人。いい加減にしてください。その小さな液晶画面が、どれだけ眩しく、闇の邪魔になることか。電源を消し忘れて取り出すなら、せめて明かりが入ってからにしてください。
我が職場の、暗転の話だけじゃあないな、これは。自分のいる場所を認識するってこと。自分が社会の中にいるってこと。そういうことを分からない人が、増えてるってことです。
こういうことって、言うだけ、書くだけ、時間の無駄なような気もするのだけれど、でもねえ、闘ってかなきゃならない。諦めちゃあいけない。うるさがられようと、何の結果も生まなくっても。
■東京は、明日はかろうじて晴れるみたいだけれど、あさってからはずっと雨マーク。わたしにとっては、一年でもっとも気の塞ぐ季節。
映画「雨に唄えば」みたいに、土砂降りの雨の中だって心が弾むような、踊り出してしまうような、そんな毎日を生み出したい。いい仕事をして、その結果としてのいい芝居を観て、恋人と心を交歓し続け、いやなことはさらりと忘れて、夢見て、夢見て……。
まあ、現実はそううまくはいかないけれど、世の中の憂さは、自分で跳ね飛ばすものとして暮らしていくことが大事なんだよなあ。
文句言っても始まらん。嘆いてもどうにもならないことばっかり。どうせこの世は不公平に出来てるものだし、なんたって、これだけたくさんの人間が共に暮らしているんだもの。
自分、自分。自分で色んなこと、跳ね飛ばそう。あ、でも、物の力ってすごいから、雨の日が楽しみになるような新しい傘を買おうかな。
2005年06月08日(水) |
自分の年齢と向き合う夜。 |
■わたしは元気だなあ、なんて思っていた矢先のこと。
シャワーを浴びていたら突然お風呂のタイルが真っ赤に染まり。
訳が分からず自分の体をチェックすると、鼻からどんどん血が零れてくる。鼻血を出すなんてこと生まれてはじめてなものだから、びっくりしてしまい、洗いかけの髪をさくさく流して風呂場を出、詰め物をして応急処置。綿を抜くとどんどん零れてくるものだから、不安で仕方ない。そうこうしていると、口の中に血が逆流してきて、気持ち悪いことこの上ない。これが、一時間強も続いた。
思い出すのは、今年のお正月。2日初日の新春公演。さあ初日だわと、早めに楽屋に入ったら、今年70歳になる名女優Nさんが、「鼻血が止まらないのよ。鼻血なんて生まれてこの方出したことないのに……」と笑って話しかけていらした。
念のためにと病院に行ってもらったら、その場で緊急入院。脳内の血管破裂寸前みたいな状況だったらしい。新年早々の交代稽古は大変だったけれど、鼻血が出て、異常に気づけて、命拾いできたことを、みんなで本当に喜んだ。
ってなことが記憶に新しいものだから、なあんだかわたしも不安で……。
■職場で古い仲間たちに話すと、「いい歳なんだから、CTスキャンとか、そういう機会に行っておいで」と薦められる。かなり年下である恋人からは、「いつまでも元気で愛してほしいから、近いうちに色んな検査をしてね」と言われる始末。(それって、大好きだから長生きしてねって言われてるみたいで、ちょっと悲しい。)
歳をとるって。歳をとるって、うーん、そういうことでもあるんだなあ。
若い時は、粗っぽく、杜撰に、わざと暴力的に、自分の体とつきあうのが、ちょっとかっこよかった。これからは、無理してきた分も、大事に、優しく、壊れ物扱いしてやんなきゃいけないんだなあ。
一生不良で居続けるためにも、ちょっと自分に優しくなって、元気でいなきゃ。
2005年06月06日(月) |
ありきたりなようでありきたりじゃないかもしれない大事な休日。 |
■休日。久しぶりの。休日の前夜から恋人と過ごす。ただ一緒にいる。食事を作って二人で食べ、お酒をどちらかが眠くなるまで飲み続け、ふだんは十分にとれない眠りを貪って、朝食を作って二人で食べる。わたしには、そんな当たり前なことが、最高の休日の過ごし方になる。
恋人が美味しい美味しいとたくさん食べてくれるので、わたしも一年でずいぶん美味しいものを作った。はずれなく美味しいものができてしまって、自分でも感動する。料理におけるさまざまな冒険や実験や創意工夫は、ことごとく成功して、わたしたちを喜ばせる。
それなのに。わたしは世間的には、料理なんてとってもできない女と思われがちだ。仕事をばりばりやってる女ってのは、どうもそういうイメージで見られがちであるようだ。「わたし、実は料理上手なのよ」と宣伝しても意味がないので、自分を語らない。恋人と食卓を囲むたびに、ものすごーく幸せな気持ちになれるのを、ささやかな秘密として楽しんでいる。
■今の職場はさいたま市。先日、駅まで乗るつもりだった自転車で、ついついさいたままで走り続けてしまった。太陽ってやつは、時々わたしに思い切ったことをさせる。
車で送ってもらった経験から、道は知っていた。とってもシンプルな道のりなのだ。環八を走って、笹目通りを走って、新大宮バイパスを走る。1時間45分かかって、職場に到着。ほとんど疲労感はない。自分で自分の体を移動させた仄かな充実感みたいなものがある。
でも、仕事が終わると、いきなりの雨模様。
お休みの今日、ようやく晴れたので、恋人と別れたあと、休みだっていうのに職場まで出向き、自転車を連れて帰る。夜の道を無心に走って帰る。頭の中にはいつも仕事のことをはじめ考えることがいっぱい。無心になれる時間がなかなかないので、これもまた、いい休日の過ごし方。帰り着いたら、ものすごくおなかがすいていて、朝の残り物をもりもり食べる。なんと健康的な43歳。
■しばらく、また仕事漬けの日々。7月末には、ニューヨークでの仕事も待っている。その先も、大変な演目を延々と。でも、来年の前半6ヶ月は何も決まってない。ちょっとした巡り会わせでそうなっているのだけれど、なんとか6ヶ月、仕事せずに暮らせないものかと考えている。勉強したい。まとまった時間、勉強したい。それなのに、無駄遣いばっかりしてるわたしがいる。お酒は飲むし、タバコはやめる気もないし、本屋へ行けば必ず大きな紙袋をさげて帰ることになるし、コスメフリークぶりは嵩じるばっかりだし・・・。
自分はどうなるんだ、これから?っていう誰しもが抱える不安や希望や諦念と、わたしもずっと共に暮らしている。
2005年05月24日(火) |
姿が見えなくなるまでずっと手をふり続けるということ。 |
■新宿三越に新しくJUNKUDOが出店し、かなりの規模らしいと聞いたので、仕事帰り、早速行ってみる。ルミネに出来たBook1st.にがっかりしたばっかりなので、余り期待をしすぎずに。
大阪に旅の仕事で行くたびに通っている難波のJUNKUDOほど空間を贅沢に使っていないものの、品揃えの良さ、売るべき本の際だたせ方には、かなりぐっとくる。背の高い書棚が整然と並ぶ様も、外国の図書館みたいで、わたし好み。時間がなかったのでざっとフロアを散策し、あっという間に紙袋一杯の本を購入してしまった。
■その中には、浦沢直樹氏による、手塚治虫「プルートー」リメイク版の第二巻も。
第一巻は少年のようなアトムの登場で終わっていた。そして、第二巻では、近未来を生きるアトムのことが、少しずつ紹介されていく。
かなり高性能な人工知能を持った彼は、人間の真似をして生きるうち、真似であった行為が日常行為になり、人間の感情も獲得しながら暮らしている。それも非常に純粋に。
アトムに危険を知らせるために来日したロボット刑事の帰りを見送るとき、アトムは彼の姿が見えなくなるまで手を降り続ける。ロボットである刑事は思う。
「そのコはずっと手を振っていた……見えなくなるまでずっと……私は胸がいっぱいになった……ロボットの私が……」
先日、この前向きポジティブなわたしが、もう死んでもいいやとまで思って、知らない街を彷徨い続けたことがあった。(なんでそんな気持ちになったかはおいておいて)かなり自分をやばいと思ったわたしは、まあ、それがわたしの生命力なのか、独りでいちゃあいかん、危ない、と、迷惑を省みず、地に足着いた人のところに行こうと、友人に電話をかけた。その彼女が翌日は昼夜二回公演を控えていると知っていたし、幼い息子娘もいるというのに、まったく迷惑省みず。でも、彼女は、快く迎え入れてくれた。
午前二時過ぎ。熱いお茶をいれてもらい、わたしはただただ泣くばかり。ちょっとおさまれば、このところの母の病気の顛末を話したり。彼女は彼女で、今の仕事がどんなに楽しいか、夜中に静かにうきうきしてみせる。
その日おばあちゃんのところに行っていて不在だった小学生の息子の部屋に布団を敷いてもらって、わたしは眠りについた。独りになってもまだ泣いていたけれど、もう大丈夫だと思った。
翌日の朝。友達とは言え、彼女の家に行くのは五年ぶりくらいだったので、新しい家族である四歳の娘とは初顔合わせ。出来損ないの大人が寝ぼけた顔して現れて、「こんにちは」なんて挨拶するのを、テレビを見続けたまま無視している。画面に展開する野生動物の生態に見入っていて、わたしなど目に入らない様子。ぎりぎりに起きてきたこともあって、わたしは、娘とはまた訪れて出会い直そうと、お礼を言って早々に彼女の家を出る。
玄関まで、我が友人である母と一緒に、娘も見送ってくれる。わたしが「またまともな時に来るよ」と外に出ると、母が手をふり始める。娘も手をふり始める。とっても自然に。歩き始めてふり向いたら、母も娘も、まだ手をふっている。またふり向いたら、まだふっている。玄関から駅への曲がり角までは200メートルほどもあるのに、母と娘は、わたしの姿が見えなくなるまで、手をふってくれていた。
わたしは角を曲がったとたんに涙があふれてきて、止まらなくなって、路地に隠れてタバコを出して、一本を長く長く吸いながら、目に焼き付いた、母子の手を振る姿に感謝した。それはとっても素敵なことだった。思いがけない、生きる力のプレゼントだった。
■姿が見えなくなるまでずっと手をふり続けるということ。
姿が見えなくなるまでずっと手をふり続けるような気持ちで、人と関わり続けること。
相手が誰であれ、姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けるような愛情を、持てるということ。
■ようやく暖かくなってきた。さいたままで出勤するのに、わざわざ新宿までは自転車で通勤してみたりする。でも、今夜は雨に降られてずぶ濡れ。濡れても暖かく、気持ちのよい雨だったけれど。
■最近は、仕事のスケジュールが少し楽になったので、自分の時間が多い。
本を久しぶりに読み耽ったり。(新潮クレストシリーズ、デイヴィッド・ベズモーズギスの「ナターシャ」は抜群の面白さだった!)
恋人と喧嘩して、泣きながら知らない夜の町をさまよったり。(自宅に帰ったら何をしでかすかわからない状態だったので、1万円のタクシー代を払って、古い友人の家に泊まった!)
リハビリに励む母に2時間かけて手紙を書いたり。(罪なことに感動させてしまった。正直に素直に書いたつもりなのに、あまりに感動されると、嘘八百きれいごとを並べてしまったような罪悪感に襲われるのはなぜ?)
デパートに寄り道して、たくさんの化粧品を衝動買いしたり。(夜、寝る前にお気に入りの基礎化粧品で肌を整えるのは、何よりの幸せ。快い香りもテクスチャーも、自分へのご褒美。)
恋人と仲直りして、豪華な夕食と、幸せな朝食を作ったり。(最近は、特製クロックマダムの朝食がいちばん幸せ。)
■最近。仕事仲間の旦那さんが交通事故で亡くなった。昔の劇団仲間が自殺した。知り合いのスタッフが自殺した。そして、母は奇跡的に死の寸前で生に戻ってきた。
自分自身の生きている足場がぐらぐら揺れるようなことが続いても、天気がよかったりするだけで、扉を開けて外に出て行くのが楽しい。不安に怯えて眠れない夜を過ごしても、まずは扉を開けて出て行くことができる。そして、笑うことができる。わたしは健康だ。わたしは生きている。
2005年05月15日(日) |
五月はまだ肌寒く……。 |
■新しい仕事が始まる。今年に入って、3作目。前年から引き続いての仕事をいれれば4作目。ちょっと過剰か? 仕事に追われて、ちっとも私的読書の進まないのが悩み。まあ、最近は母の病気にまつわる時間が大きかったのだけれど。
■その母。この間の帰省、看病が、奇跡的な結果を生んでしまったことを先日書いた。母はさらに、支えを使って歩き、尿管につながれたパイプを外して自分で排泄することを覚えた。その進捗は素晴らしい。
ただ、日常的に母を支えている父には、少し申し訳ない。
親不孝の限りを尽くしてきたわたしが、たった4日間で、この上ない親孝行娘に、母親の中で化けてしまった。電話をかけてきては、わたしの名を呼んで、恋しがる。娘に依存してる感じ。それって、母の中で生まれてしまったわたしの虚像かもしれない。父のことばに、このところ、ちょっとしたジェラシーを感じることさえある。……しばらく帰らない方がいいのか? それとも、本当の親孝行をするために、いくらでも無理して、母の元に帰ってあげるべきなのか?
なんとも贅沢なことを考えられるようになったものだ。生きてるって、こういう細々した感情の堆積なんだなあ。ああ、よかった。生きててくれて。
そうだ、これからは父への親孝行をも、考えていけばよいのだな。とは言え、しばらくは仕事にひたむきに過ごさざるをえないのだけれど。
■母の生を喜んでいたら、古くからの仕事仲間のご主人が、突然の交通事故で亡くなったという報せ。お通夜に駆けつけると、顔を見るなり、「一人になっちゃった」と抱きつかれ、ことばもない。死は、ときとして、カードを裏返すように易々と訪れて、生きてることを当然のことみたいに安穏と受け止めてる自分をまごつかせる。
■寒い日が続く。サンダル履きにはまだまだ日がありそうなので、通勤用のウォーキングシューズを購入。稽古場が埼玉県なので、さすがに自転車通勤とはいかず、少し寂しい。新しい靴で、軽やかに歩いて、寒い5月をそれなりに味わおう。通勤路のバラたちは、それでも、5月を楽しんで咲き誇っている。
2005年05月06日(金) |
生きてるって素晴らしい。 |
■夕刻からの打ち合わせに出る支度をしていたら、父から電話がかかってきた。毎日、深夜、わたしが仕事から帰るのを見計らって、父は「今日の母」についての報告電話をくれる。昼にかかるのは珍しい。
電話に出ると、なんと母の声が聞こえてくる。
■わたしが先日帰ったとき、母は、単語でしかことばでのコミュニケーションが出来なかった。しかも、わたしは、母の妹の名前である「礼子ちゃん」でしか呼んでもらえなかったのだ。それが。
母がちゃんと文章でしゃべっている! 接続詞ってものがちゃんとあって、思いが連なっていく。母にことばが戻った!
母は、わたしへ「ありがとう」の気持ちを伝えたくって、電話してきてくれたのだ。
■父からの電話によると、母はわたしが帰京してから、奇跡的なスピードで復活を遂げている。
病院にいる間、長らく使われないため壊死しそうになっている足が痛そうなので、わたしは何度も何度もマッサージしてあげた。栄養不足と乾燥でしわくちゃになった足に、肌に優しいクリームを何度も何度もすり込んであげた。3日もすると、肌がつやつやしてきて、母は「きれいな足が戻った」と父に誉められ、うれしそうだった。
そのマッサージが功を奏したのかどうかは分からない。でも、わたしが帰った翌日、母がわずかな時間ではあるものの、自分の足で「立った」というのだ。足が足として機能せず、車いすに移動するときも、体重がほんの少し足にかかっただけでも顔を大きくゆがめていた母が、なんと、立ったというのだ。
わたしは、娘として認識されているのか分からないままに、母とわたしの話をたくさんした。幼い頃からの、母との思い出話。まさに、母の死が近いと医者に告げれた時、わたしの脳裡を過ぎった思い出たちだ。母が理解していそうになくっても、楽しい話として、いい話として、たくさん話した。
その話が、どう母の中に積もっていったのかは分からない。でも、わたしが帰った翌々日、母は父に、「自分の名前を覚えて、書けるようになりたい」と願った。そして、自分がなぜこんな病院にいるのかを知りたいと願った。それから、母のことばは、体系的に、驚くべきスピードで戻り始めたらしい。
わたしが行ったとき、母はまだ「食べる」ことが下手で(食べ方を忘れているのだ!)専門の看護士さんがついていないと食べることができず、鼻から食道にいれたパイプで流動食を摂取していた。
看護士さんが「なかなか食べてくれないんですよ」とこぼしながらも、明るく真剣に母に食事を摂らせてくれている間、わたしは母に、母がどれだけ料理が上手だったかを話した。小さいときから作ってもらったたくさんの料理の話をした。母がどれだけタフな胃を持っていて、どれだけ大食漢で、どれだけグルメで、我が家がどれだけ食べ歩きをしてきたかを話した。食べることの楽しさ、喜びを、一生懸命話した。わたしがそうしていると、看護士さんは、「一緒にいてくださると、お母さんずいぶん食が進むようですね」と喜んでくれた。
わたしが帰ってから、母は、進んで食べるようになったと父は言う。そして、なんと、あの不快な母の鼻に突っ込まれた管が抜かれたらしい。自分の口から、必要な栄養分を摂取できるようになったのだ。
■わたしは、どこからどこまでも、親不孝な娘だ。どこを切っても金太郎ってな具合に、わたしの中に親孝行な部分なんて、まったくなかった。それは今も変わりないと思う。
仕事に体してはいつも全力であたる、そして仕事で出会う人たちは全力で愛する。でも、両親には、血の繋がった甘えで、愛情を形にすることを、まったくしてこなかった。
そんな出来損ないの娘に、母が電話口で「ありがとう」を繰り返す。目が熱くなった。親不孝な娘に、母が体をはって親孝行する瞬間を作ってくれているような気がした。
■母の現在を見て、いちばん驚くのは、執刀医だろうねと、父と話した。何度、「これが最後かもしれません」と呼び出され、仕事の後、最終の新幹線で実家に帰ったか。植物人間になっても生かすか生かさないか、そんな選択を迫られたこともあった。手術後、母は一ヶ月強、眠り続けていたのだ。
■記憶が完全に戻るまでには、まだ時間がかかるだろうし、支えなく立てるようになるには、辛いリハビリの毎日を耐えなくてはならない。床ずれは目もあてられないほどひどく、痛みを思うとわたしの胸は詰まる。
それでも、母は生きている。きっと、生活者に戻れると思う。人間ってすごいなあ。なんて素晴らしいんだろう。
■さて。たまたま一般の人の休みと重なったわたしのOFFも、今日で終わり。明日からは新しい仕事。
東京と地方をまわったあと、ニューヨークに持っていく芝居だ。またまた、気合いをいれて立ち向かおう。
2005年04月27日(水) |
目覚めた母との再会。 |
■また仕事をひとつ終えた。次の仕事までに2週間の休みがある。こんなにまとまった休みは、一昨年の秋以来だ。そして今、母に会いに実家に戻っている。
■記憶が少しずつ戻りつつある母は、見えにくい目でわたしをちゃんと判別して、「親不孝娘が帰ってきた」と、少し笑い顔を歪めながら涙をこぼした。娘だと分かってもらえたことに、まずほっとする。
父が看病疲れで熱を出しているので、今日は看護を交替して、帰って休んでもらう。
ひっきりなしに出てくる痰を拭ってあげる、痛い足をさすってあげる、身体の向きをしばしば変えてあげる、そして、「痛い」「助けて」「なんとかして」しか言わない母と、なんとかお話をして気を紛らわせてあげること。
わたしのことは、ちゃんと娘だと分かっているのに、名前は呼んでくれない。このところよく看病にきてくれている叔母の名前(母の妹)で、わたしを呼ぶのだ。「違うよ、○○子だよ」と訂正しても訂正しても、叔母の名前。時折は、娘だということを忘れて、叔母に話しかけているつもりのようでもある。記憶は断片的に、消えたり戻ったりするらしい。ものすごくつまらないことを覚えているのに、自分のやってきた仕事のことは何も覚えていなかったりもする。自分の名前を思い出すより、飼い猫の名前を思い出す方が早かったし。
若々しかった外見も、痩せ衰えて、すっかりお婆さんになってしまった。もう、別人。でも、そのことにさほどショックは受けない。この間、何度か帰った時は、「会えるのも最後」と覚悟の上のことだったのだし、医者に「奇跡」と言わせたほどの、死線からの生還を遂げた直後なのだ。疲れ切っていて当然。
明るくて、我慢強くて、前向きな母だが、今やわがままと弱音を吐くことが仕事のように一瞬一瞬を過ごしている。弟に「ママは性格が変わってしまった」と伝えられていたが、これも仕方ないと思う。持てるエネルギーは生きていることに全部使ってしまっているのだ。今まで、さんざん家族のために自分を捨てて頑張ってきた人が、自分の命を守るためによけいなエネルギーを使うことをやめてしまっているだけだ、自己防衛本能なんだと思えて、わたしは母を前に、迷いがなくなる。生きることに必死な母を前に、ここのところずっと悩み続けてきた、自分の在るべき場所が分かってくる。
母は強い。生きて戻ってきた。そして、これからも生き続けるために採るべき生き方を本能で選び取っている。だからわたしも、娘として出来る限りの愛情で素直に向かえばいい。もちろんいつも一緒にいられるわけじゃない、仕事をする、離れた場所で。母もわたしも、離れた場所で強く生きていけばいい。これまでは母にさんざん助けられてきたから、これからはわたしが母を助けながら。
■生きている母を見ている時間は喜ばしい。
口から食べ物をいれて自分で呑み込むということが、母にとっては難しく危ないことらしく、まだ看護の人が来るときしか、経口で食事をとらせてもらえないのだが、今日はラッキーなことに、昼も夕食も、看護の人がまわってきた。おかゆとミネストローネをスプーンに3杯ずつくらい。イチゴ味の栄養ドリンク、一口。そして、ピーチのゼリーを、なんと一個丸々。ゼリーをひと匙ずつ口に含むたびに「おいしいー!」と表情をゆるめる母を見ていると、生きているのはなんと素晴らしいことかと、涙がでてくる。母が生きており、自分が生きている幸せで、胸がいっぱいになる。
■帰ると言うと母が泣き出してしまいそうなので、どんなタイミングで帰ろうかと悩んでいたら、母の方から、しゃべり疲れて、文句を言い疲れて、「眠い」と言い出してくれた。足をさすって、手を握って、眠ったなと思って手を離したらまだ起きてて「けち!」と言われたり、手術の傷口が痛くって何度も身体の向きを変えて寝やすいポーズを探して、そんなこんなを繰り返すうち、母は眠りにつく。電気を消して、病室を出る。あと二日は滞在できる。生きててくれた母に感謝しながら、わたしは父の待つ実家を目指す。
明日もまた、病室で、ひがな一日一緒に過ごそう。明日は、わたしの名前を呼んでくれるかしらん?
■昨夜はオーチャードホールでマシュー・ボーンの「スワンレイク」を観てきた。
美しくって美しくって、激しくって哀しくって。もう、わたしの目は、2時間、スワンを踊るジェイソン・パイパーに釘付けだった。
今日、すっかり萎えてまるで筋肉のなくなった母のシワシワな足をあさすりながら、なぜかジェイソン・パイパーの研ぎ澄まされた筋肉を思い出し、人間の持つ可能性に静かに感動していた。母の可能性も、踊り手の表現の可能性も、等価だ。ひとりひとりに、自分の身体があり、ひとりひとり、その人なりに、自らの身体の可能性と向き合って生きる。
自分の仕事が、まさにその人間の可能性を扱う仕事であることを、再び心に刻む。
2005年04月14日(木) |
「わたし」に戻る夜。 |
■年末から東京を離れ、仮住まいを拠点に九州から東北まで飛び回って暮らした。長い旅暮らしを終えて、ようやく東京に戻ったわたしを待っていたのは、予定通り、次の仕事。休む間もなくめまぐるしい生活に入り、久々の休みを翌日に控えて心がゆるんだ矢先に、母危篤の連絡が入った。
■始発の新幹線で病院に駆け込み、動脈破裂寸前で手術室に向かう母と、5分間だけ面会が叶う。医者は「少しでも会えてよかったですね」と、手術に向かう母の気持ちを気遣う余裕もなく言う。
■5時間と予定されていた手術が終わったのは13時間後。それ以来、物語の中でしか知らなかった人の命のあれこれが、自分の人生の一部として展開する。
■これが最後になるかもしれないから、という再三の医者からの呼び出し。仕事を終えて最終の新幹線に乗り込み、集中治療室で眠る母の顔を見て、始発の新幹線で帰ること数回。一往復4万円の交通費も、その頃はどうでもよかった。
人工心肺装置で生き延びたものの、その装置の限界として外さざるを得なくなったときには、植物人間としてでも生かすかどうかの選択を迫られる。
手術の弊害として、脳梗塞が起きていることを知らされる。
肺炎で熱があがり、明日は駄目かもしれないと告げられる。
血圧が高すぎて、目覚めたときの興奮を恐れ、睡眠薬を投与し続けないと危ないと告げられる。
手術後も出血が激しく、輸血の限界と告げられる。
人工呼吸器を外すとき、持病のぜんそくで痰がつまり、気管を切開して声が奪われるかもしれないと告げられる。
■そして、医者が口にするには似つかわしくない「奇跡」という言葉とともに、母は今、生きて目覚めている。目覚めはしたが、自分にまつわる記憶が一切なかった。
父は、最愛の母に名前も思い出してもらえないまま、献身的な看病を続けている。その報告は楽しそうでもある。生きてくれたから当たり前でもあるとも言える。でも、何も出来なくなった母と、他人として出会い直しているのだ。それでも喜びを隠さない父は、わたしにとって純粋過ぎ、美しすぎる。
わたしは、記憶を亡くした母に、まだ会っていない。仕事が詰まっている。さあ、いつ会いにいこう?
死と隣り合わせで闘う母を尻目に、わたしの感情は大きく揺れ続けた。どうやらわたしは、そんなに心優しき人間でも、いい人でもないらしい。様々に揺れ動く自らの感情とつきあって、わたしはわたしと向き合うのに少し疲れた。
■わたしにとっては最愛の母だ。この世で只独りわたしを見捨てない友人と言ってもいい。その人がなくしかけた命を取り戻して、うれしくないわけはない。もう何年か分の涙を流して祈った。母が喪われる絶望と、身を捩って闘った。それでも、死と、命と、現実と、あらゆるものに、正面から向き合わざるをえない時間は、わたしにあまりにもたくさんのことを考えさせ、自らのたくさんの醜い側面をも露わにさせた。
■仕事は、母のこととは関係なく進む。このことを告げてある幾人かのスタッフの心配をよそに、わたしは頑として仕事は休まなかった。わたしはわたしの仕事を、いつものように続けてきた。
■わたしの人生に欠かせない存在になっている恋人は、ずっと辛い時期を過ごしている。心も体も弱っていた。母のことと同様、ある時は母のこと以上に、わたしは彼を守るためにたくさんの時間を使う。彼の苦しみや喜びを、我が事として生きている気がする。そうありたいと思って彼に寄り添う。時間は惜しまない。母に向かう時間、仕事に向かう時間以外の時間を、すべて彼に捧げる。
■この2ヶ月、わたしは何人分もの時間を生きてしまったように思う。そして、わたし自身も、何人かに分裂してしまうほどの現実につきあってしまった。
何をどう書いても書き表せないものばかり、どれだけ言葉を連ねても説明しきれないことばかり。それでも、今夜、少しずつでも書いておこうかと思った。母の命がとりあえず長らえることを確信して、少し心の余裕ができたせいか?それとも、恋人が長い心と体の痛みから少し解放されたせいか?
■今、強く感じるのは。なぜだろう? ひどい孤独だ。ようやく自分に立ち返ったから孤独を感じ、自分のことを書こうと思い立ったのだろうか?
■東北新幹線に乗って、最後の旅の地へ。車中の友は、駅売店で買った渡辺淳一編「ラブレターの研究」。歴史に名を残す芸術家たちの恋文を、渡辺氏が解説している。彼の解説はその小説のように偏見があり(この偏見を説明するのは難しい。簡単に言えば、恋愛小説を得意とする彼の恋愛賛美の仕方が、わたしの好みに合わない、というところか?)、軽く読み飛ばしながら、昇華したり、潰えたり、亡びてしまったり、喪われてしまった、愛情の遺物そのものたちを味わう。
わたしはよくラブレターを書く。今の恋人と知り合ってからは、メールという簡易な方法があることも相まって、1日も欠かさずラブレターを書いている。もう一年近くになる。自分でも、まったく熱心なことだと笑えてくるほど、書き続けている。日記を書かなくなったのも、恋人にラブレターを書くことで、1日が終わり、寝支度が調ってしたうからかもしれない。
相手を思い、ことばを選って思いめぐらし、する時間。それをわたしは「恋」として楽しんでいるんだろう。その時間が、自分の人生の中でとても美しいと思える、ということが、わたしにとって相手を愛している証のような気がする。一緒にいられなくっても、相手を思う自分自身を愛する一方、伝えたい愛情は常に飽和状態だし、書かないといてもたってもいられないので、相手のためにどれだけの時間が無為に過ぎようともかまわない。
いきなり話が墜ちるが、恋人が友人とのつきあいで風俗に行ったことが発覚し、わたしに平謝りしてきたときのこと。
哀しくなったわたしは「好きだと信じさせてくれるようなラブレターを書いて」と頼んだ。そして届いたメールは、限りない、無数の、「大好き」と「愛してる」を羅列し、ほんの一行、誓いのことばを添えたものだった。
感動してしまって、ちょっと泣いてしまった。
わたしの毎日の、あの手この手のラブレターなんて、何ほどのものか、と、思った。
それでも、毎日、わたしはラブレターを書く。わたしはわたしの愛し方。
■こう書いていると、わたしはいい歳してよほど恋愛に浮かれた馬鹿のような気がしてくる。でも、世間では仕事馬鹿だと思われているのだから、面白いものだ。
なんでも精一杯。この生き方で、失敗することもあるけれど、得る喜びもまた大きい。