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2005年07月18日(月) 太陽が大好き。

■我が家から観劇に銀座へ、銀座から仕事で渋谷へ。今日の移動は久しぶりの自転車。休日なので新宿通りも246もすいてて、気分良く車道をすいすい。お濠端は相変わらずいい気分。この間実家に帰って感じたのだけれど、川っぺりに産まれたものだから、水辺に近づくとわたしはリラックスするらしい。梅雨明けして暑かったけれど、汗をかくのもまた心地よい。仕事場に着くなり、「どうしたの、いい歳して日焼けして?」と突っ込まれたけれど、いいのよ、いいの。わたしは幾つになっても日焼けなんぞ気にしない。太陽はわたしのエネルギー源ですから!太陽浴びないと、ウルトラマンみたいに胸のタイマーがピコンコンと鳴り始めますから!

■来年の夏まで、具体的に仕事が決まった。また海外公演が含まれたりはするものの、ちょっとルーティンワークになりそうな予感。今年の11月、12月に、2ヶ月の休みが取れそうなので、そこを上手に過ごさなければなあ。


2005年07月17日(日) 帰京。

■昨日のわたしの苦しみより、もっと深い深い悩み痛みを抱えた主演俳優が、一晩を越えて、会心の演技を見せる。

 23歳の彼がしょっている十字架の重さ。それを見守る自分の役目。来し方と、来たる日々。様々に思いを馳せながら、早々と荷物をまとめて帰京するカンパニーの中、楽屋で祝杯。乗るはずの新幹線には乗り遅れるも、晴れやかな気持ち。喜び溢れる。

 一週間後には、このツアーの最終目的地が待っている。渡米間近。

■明日は朝から師匠の新作を観にいき、それから次の仕事の打ち合わせ。帰京早々スケジュールはパンパンに詰まっている。
 でも、昨日から今日にかけての一連の心のぶれで、仕事への愛情を再確認した。
 自分の仕事の重みと難しさを深々と感じ取った。
 
 気力は充実している。



2005年07月16日(土) 頑張れる。また、明日。

■何をしてるのだろうなあ、わたしは。
 と、自分を責める夜である。

 この間、わたしは他者を映す鏡であるのだと書いたが、このところの自分がまさに正しくない鏡を演じていることに気づかされることが、今日、あった。

 不安、怖れ、自分の曖昧な立場からの遠慮、などなど、わたしを間違った鏡たらしめた原因を思い、自らを責め苛む気持ちから立ち直るのに、3時間ばかりかかった。

 他人の土俵で相撲をとっているから、こんな半端なことで悩むんだ。
「あんた、そろそろ自分の名前で仕事しなさいよ、身体はりなさいよ」と、わたしに囁くわたしがいた。

 わたしは本当の意味で勝負なんてしてないので、取り戻せないことなんて何もない。(はず。)だから、今日までのことは、きっと明日からで取り戻せる。

 よし、明日からまた頑張ろうじゃないか。

 まあ、いつも頑張ってるつもりなんだけれど、間違うこともあるし、ずれることもある。抜けることもある。

 だから、また、明日。

■大体において、何があって前向きに生きていけるわたしを支えているのは、精神力なんかじゃなくって、親からもらった健全かつ屈強な肉体なんではないかと、ふと思うことがある。

 母親は、先日退院した。医師も舌を巻く驚くばかりの快復力だ。それをわたしは受け継いでいる。会いにいって、その母に力をつけてあげることばも、持っている。自分の鋭気を母に移してあげる余裕が十分にある。

 夜公演だけで昼が空いた日に、スポーツクラブで筋力と筋肉量のテストを受けた。最近飲み過ぎ食べ過ぎで太ってきたと思っていたが、体脂肪は標準以下。筋肉は全身標準を遙かに上回っていた。アスリート並みと絶賛された。

 親からもらって、かつ自分で大事に乱暴に育ててきた肉体が、わたしを守ってくれている。

 よし、まだまだ頑張れるぞ、43歳。精神よ、ついて来い。


 

  


2005年07月14日(木) 7月13日は。

■去年の今頃、わたしはあまりに大変な仕事に参加していて、朝から晩まで稽古場にいた。で、恋人に会う暇もなかった。しかも家のエアコンが壊れていて、修理を頼むことも新規購入する時間もなく、サウナの夜を過ごしていた。
 そして去年の7月13日。恋人と空き時間がたまたま重なったので、わたしは新宿の某有名ホテルの一室を予約した。ネットで予約すると割引になるプランで、それだけでも贅沢だったのに、チェックインしようとすると、予約のクラスの喫煙部屋が満室ということで、なんとジュニアスウィートの部屋に案内された。新宿の夜景を高層階から眺めながら、だだっ広い三部屋ぶち抜きを飛び回りながら、たかだか夜10時から朝10時までの12時間、それでも幸福に過ごして、翌日からの元気を蓄えた。

 そして、今年。またまた仕事の休みが重なるのが7月13日だったので、これも何かの思し召しと、わたしはまた高級ホテルを予約。ちょっと贅沢めのダブルをとってチェックインしようとしたら、またしても喫煙部屋が満室。エグゼクティブフロアなる、贅沢極まりない部屋に通された。いやはや、二年続きの大当たり。
 思いがけない心地よい部屋に、恋人と二人、おおはしゃぎ。夜景を楽しみつつワインを二本空けたら、最近神経がたって眠りを奪われていた恋人は、縦横同寸のでっかいベッドに転がるようにして眠ってしまう。肌触りのよい真っ白なシーツと羽布団からのぞく幸せそうな彼の寝顔を楽しみながら、わたしは静かな部屋で読書を楽しんだ。

 というわけで、7月13日は、ホテルの日なのだ。
 こうなると、来年も、と、思いたくなるが、いやいや、偶然は、予期しないから起こるし、偶然を必然と思いこんだ途端、人生はつまらなくなってしまう。

■昨日、心と体の疲れや憂さをすっかりぬぐい取る休日を過ごしたというのに、さっき電話で話したら、お互いにまた、新しい疲れや憂さを貯めている。たった一日のリラックスなんて、何の役にもたっていないように思えるほどに。でも、まあ、そうこうして過ごしているから、休日その時だけでもその有り難みを大きく感じるし、休日の女神様だって微笑んでくれるのだ。……頑張って、この日々、日々を、乗り越えていくこと。


2005年07月09日(土) うぬぼれ鏡を眺めながら。

■演出家不在のカンパニーを守って旅を続けているが、毎日毎日観続けていると、自分の感性のどこかが麻痺して、作品が何かを喪ったり何かを過度に獲得したりすることによって微妙な崩れを起こしていることに気づかないのではないかと不安になる。そのことに意識的に仕事してはいるが、不安は不安。今日は久しぶりに演出家がやってきて、わたしはいつもと違う緊張感。もちろん俳優たちだってそうだ。
 結果は上出来で、演出家もご機嫌。わたし自身も、自分がずれていなかったことにほっとし、誇らしい気分。何が変わったわけではないけれど、穏やかで、ニュートラルな感情でいられる、幸せな夜だ。

■地方に来ると、都市によって大体利用するホテルは決まっていて、馴染みの宿に幾度もチェックインすることになるのだが、今回は初めてのホテル。入ってみて感じたのは、設置されてる鏡が、全部「うぬぼれ鏡」だってこと。
 鏡って、ひとつひとつ色んな特徴がある。総じてありのままを映すものみたいに言われるけど、縦に伸びたり横に伸びたり、微妙な歪みを生じていたり、平面的に映ったり立体的に映ったり。で、とにかく美しく見せてくれる鏡を、わたしは「うぬぼれ鏡」って呼んでいるのだ。

「うぬぼれ鏡」を眺めながら、ふと、自分は仕事をしている時、俳優たちの鏡として存在しているのだと思ったりする。自分の姿を自分で見れない、演じる自分がどう見えているか分からない彼らを、「こう見える」「ああ見える」と伝えながら、導いていくのだから。
 基本は、出来るだけ「ありのまま」を映す鏡になってあげること。でも、時には「うぬぼれ鏡」になってあげることも。そして時には、ありのままを少し誇張して映してあげることが力になることもある。
 
 人を映す以上は、自分がニュートラルでなきゃならない。ちっぽけな人間であるから、感情は常に千々に乱れがちだけれど、仕事する自分は、安定してなきゃいけない。大変な仕事をしてるんだなあ、と、しみじみ。
 ホテルの中間照明でさらにうぬぼれ度を増す鏡を眺めながら、「今日は終わった。さあ、明日が来るよ」と自分に声をかける。


2005年07月07日(木) 「生きている」って。

■ロンドンで、またもテロ。

 何者でもなく生きている時間がこうして一日一日積み重なっていくと、若い頃、今在る自分を否定して未来の在るべき自分のために時間を使って生きていた感覚は、どんどんすり減ってなくなっていく。
 今の自分が生きているということだけで、穏やかに幸福であるという感覚。向上心が薄れるというのとも、ちょっと違う。今の自分がどうであれ、生きているだけで、暮らしているだけで、自然に人生を肯定できるようになってきた、という感じ。
 死に直面した母が、記憶を喪ったところからひとつずつ再獲得し、歩く機能を喪った足に再び歩くことを教えこんでいる姿を見ても、単純に、生きているということの幸福を感じる。
 いずれ死ぬのに、どうせ死ぬのに、今は「生きている」のだ。

 その、人に与えられたわずかな「生きている」という自由時間も、こうして人が存在するゆえの諍いを起因にして、無意味に無作為に奪われていったりする。

 この自由時間は、あまりに不公平で、秩序がない。「生きている」という原罪が「生きている」という幸福を冒していく。

■こぶりでささやかなわたしの人生も、もう半分以上が過ぎた。さて、何歳で自由時間が終わるのかはしれないが、たぶん、半分は。
 
 こう在りたい自分をいまだに抱えつつ、現在の自分の仕事も愛している。働いていないと自分じゃなくなると思うくらい、仕事が好きだ。恋人や親の愛情だけじゃ、ましてや自己愛なんかだけで、生きてはいけない。

 また、次の地方公演にやってきた。ホテルの窓から都市の夜景を眺めつつ、明日のための眠りの準備のことを考えている。


2005年06月30日(木) 恋のお腹は蛇腹です。

■地方公演と地方公演の間に、帰京日があって、OFFだというのに当然のように次の仕事の打ち合わせに行って。それでも半日余ったので、何処に行こうか何をしようか考えながら自転車をこぎ。月曜日ゆえ観たい芝居はほぼ休演日で、そういう場合、大体わたしは本屋に行って新しい本を買い込み読み耽ったりするのだが、一昨日は違った。

 何年かぶりにヘアサロンに行ってみた。女なのに何年かぶりって言うのもなんだが、ストレートロングの黒髪を何年も守っているわたしには、ヘアサロンは不要なのだ。前髪は自分で切るし、ちょっと不揃いになってきたなと思ったら、恋人にはさみを渡して、「真っ直ぐに切って」と頼めば良かった。それはそれで、幸せなのであった。
 でも、一昨日は、ふと思い立った。パーマをかけよう。カラーリングしてみよう。

 行きつけのヘアサロンなどないので、本屋に入って女性誌のヘアスタイル特集を探し、出来たばかりのサロンに目をつけて電話をしてみたら、当たり。すぐに予約が取れた。で、神宮前に自転車を走らせた。お陽さまの力をぐんぐん肌に吸収しながら(わたしは日焼けを気にしない。)、ちょっと珍しい行動にわくわくしながら。

 担当しますと出てきた男の子は普通に可愛い子で(作りすぎてないという意味の普通)、じっくりとスタイルを相談。好感度が高かったので、わたし持ち前のサービス精神がむくむくと起き出し、彼が仕事をしていて楽しいと思わせることに喜びを見いだす。どんどん話しかけて、笑わせて、素敵になってきたと思ったらちゃんと意思表示して喜んで。……そうすると、ちゃんと彼は仕事するのが楽しい顔になってきて、これはこれで喜ばしい。
 若い頃、サービス業のアルバイトをずいぶんとやってきたので、サービスされる側がどうであれば仕事が楽しいか、わたしは知っている。買い物をしても、食事をしても、ほぼ、愛されるお客さんになれる。そうすると、買う側も売る側も、サービスする側もされる側も、同じお金の動きでも、より幸せになれる。

 なんてことは、余談であって。
 なんと完成まで5時間半かかった。待ち時間なしの、実際に要した時間がである。
 シャンプーして、カットして、パーマをかけて(真っ直ぐ過ぎるわたしの髪は人の倍の時間を要した)、全体ではなく毛束を少しずつ半量ほど色を抜いて。抜いた部分にオリーブグリーン系の濃いアッシュをいれて。トリートメントをたっぷりして。…………。
「おまかせします。腰を据えますから、よきようにしてください」と頼んだ結果が5時間半。彼はこだわりをみせて、ほぼアシスタントの力を借りず、自分だけでやってくれた。

 で、結果。
 いい。すごくいい。気分がいい。見栄えもいい。ふわふわして柔らかく、軽やか。かなりご機嫌。

■久しぶりにヘアサロンに行っただけで、こーんなに幸せになる自分は、けっこういいなあと思う。ただ、これっくらいの幸せは、毎日あって、書くことは毎日あるのに、ここのところ書かないのは、恋人との時間が増えているから。
 今日は、会いたいのに飲みに行って戻ってこない恋人を待つ夜を過ごしているんである。読むべき本が旅先ゆえ手元になくって、時間を過ごすがもどかしい。で、書いている。

*****

■ここまで書いた時、恋人が扉をノックした。
 
 一緒に眠って、それぞれの仕事があるので、目覚めたらすぐに分かれた。

 堀口大学の詩だったかな。

「待つ間の長さ 会う間の短さ 恋のお腹は蛇腹です」


2005年06月29日(水) 観客席の中には。

■新潟を離れて、愛知入り。滞在中は梅雨らしからぬ晴天に恵まれていた(水不足のことを思えば恵まれていたとは言い難いが)新潟が、ひどい雨に襲われている。膝までに迫った雨水に戸惑う人々をニュースの画面で他人事に見ながら、いつもお世話になっている新潟の人々を思う。
 公演中、わたしのすぐ隣で観ていた車いすの青年は、カーテンコールで車いすから落ちそうになりながら拍手をしてくれていた。障害のある全身を不器用に揺らして、感動を必死になって伝えていた。最後列から思いを飛ばす姿に、自らの仕事する気持ちを引き締めた。

 わたしの師匠は若い頃、観客の青年に喫茶店に連れ込まれ、「希望を語れますか?」と問われ、「そんなもの語れない」と答えると、「あなたが希望なんて語り始めたら、これで刺すつもりでした」とナイフをつきつけられた。それ以来、彼は、観客席には千のナイフが眠っているのだと心したと言う。
 
 そして、千のナイフとともに、観客席には、神様も降りてきている。サリンジャーの「フラニーとゾーイー」の最後に出てきた、あの、足の悪いお婆さんが。

■劇場まで歩いて行こうとしたら、朝からここも雨。時間があまったので、タクシー出発の時間、色んなことを思いながらぼんやり過ごしている。


2005年06月13日(月) この上なく素敵なワンピースと出会う。

■週間天気予報では雨マークが続いていたのに、今日も雲ひとつない晴天。恋人と部屋の中でのんびり休日を過ごしたあと、自転車を飛ばして、新宿伊勢丹のバーゲン会場へ。最終日の残り30分に駆け込む。
 ここで、もう、ほんっとに、ものすごーく、可愛いワンピースを見つけたのだ。
 MARK JACOBで40950円のものが、14000円に値下げされている。試着してみたら、もう、「わたしのために誰にも見つからず残ってたの?」とワンピースに向かって語りかけたくなるほど、顔映りがよく、体に沿っている。胸元はかなり大胆にV字に切り込んでいるのに、上品で、文句なく愛らしい。迷わず購入。帰ってきてもう一度着てみたら、わたしじゃないみたいに、女らしくって素敵。サーモンピンクの花柄、肌触りのさらさらした心地よいシルク。ひらひらと裾が揺れるとふくらはぎが心地いい。
 年がら年中ジーパンで仕事に通うわたしが、突然こんなフェミニンなワンピースを着ていったら、男どもの「何があった、どうした、狂ったか」の質問攻めに会いかねない。仕事に着ていけないとなると、しばらくデビューはおあずけ。陽の目を見るまで、目に見えるところにずっとかけておきたい気分。
 洋服一枚との出会いだけで、これだけ気分が晴れ晴れとするなんて!

■わたしは根っからの消費好き買い物好きだ。人にプレゼントするのも、奢るのも好きだ。お金はあるだけ使い切りたくなるという、貯まるわけないタイプ。けちったら最後、お金に支配されそうで、持てるときも持たざるときも、お金とのスタンスは変わらない。
 大好きな洋服や香水や化粧品は、仕事に疲れがちな容姿をバックアップしてくれるし、新しいことば新しい物語と出会う喜びは心を潤してくれる。美味しい食事と美味しいお酒は、明日への活力。海外への高飛びは、劇場と稽古場に閉じこもって暮らすわたしの視野を広げてくれるし、とにかく、お金で買えるものは買ってしまう。そして、また働いて、稼ぐ。働けなくなったら、その時はその時。つましい生活をすればいい。
 こうして気楽にかまえているから、ワンピース一枚との出会いを、のびのびと喜べるのかもしれない。

■しばらくすると、また国内ツアーの始まり。大阪公演のときは、たぶん、リハビリに励む母のもとにしばしば帰れるだろう。うれしい。一昨日、仕事の合間に書いた手紙が、明日には母の元に届くだろう。喜んでくれるだろうかと、どきどきする。
 
■来年上半期の仕事が入っていないので、勉強して暮らそうなどと目論んでいたら、立て続けにオファーが入ってきて、休む時間などないことが判った。生活の不安はなくなるけれど、独立独歩の魂が、どんどんどんどん薄れていく自分が怖い。


2005年06月10日(金) 流れの中で。

■本番中で、本来は楽な時期のはずなのだけれど、次の仕事の準備に追われていて、自分の時間がなかなか持てない。その中でも、最近、またひたすらに本を読んでいる。
 昨夜は、わたしのお気に入り作家、いしいしんじ氏の「ポーの話」を、寝不足承知で読み切る。って言うか、読み切るまで眠れなかった。力の強い物語だったので。
 作者の祈るような気持ちが、ひしひしと伝わってくる。思いの強さが物語を運び、求心力が強い、とても強い。

■昨夏、忙しい時期にエアコンが壊れて、自分の家がサウナ状態になり、結果、ひと夏で10キロ痩せていた。筋肉量が人より多分にあるので、情けない体にはならなかったが、久しぶりに会った人が、小声で、「病気したの?」と聞いてくることもしばしばだった。このところ、そこから3キロほど増えた。食欲もあるし、恋人と美味しいお酒もたくさん飲んでいる。
すると。
最近、どうも人に「きれいになった」と言われる。そう言われて、嫌な気分になる女はいないわけで、わたしは、現在のちょっとふっくらしかかった感じが、自分にあっているのではないかと分析し、キープにつとめている。きれいだと言われたら、もっともっときれいになりたい。きれいであるには、心が健康でなきゃと思うし、お肌の毎日のお手入れにも気が入る。「きれいだ」という、ちょっとした言葉の力はすごい。
 恋人は、わたしが落ち込んでいる時、自分に自信を失っている時、そんなよくない時に、わたしに、ふと、「きれいだね」と言ってくれることが多い。
 そして。逆にわたしは、この人に、どんな力のあることばを投げてあげられるだろう? と、考えてやめたりする。考えて出したことばに力のあることなんて、それほどない。愛している心から自然に出たことばこそ、力を持つのだと信じて、ただひたすらに愛していればいいんだと、そう思ったりする。

■今、とっても才能のある若者と一緒に仕事している。長らくこの仕事をしているが、滅多に出会えない、本当に素晴らしい才能なのだ。才能とは、持って生まれたものだけじゃあ、もちろん、ない。その能力を活かし伸ばす自己を保つ努力が出来る人だということだ。
 持てる心と体のすべてを役に集中する準備をして舞台に出ていき、燃焼しきって帰ってくるその姿を見ていると……その日その日の出来だけが自分の生活のすべてとして生きてる彼を見ていると……自分の暮らしの生ぬるさを、思う。確かに、そんな才能ある俳優を支えている人間のひとりで、わたしは在るのだけれど、自分の心と体を切り売りしない、ぬるさを、思う。
 独りで歩き始めなければと、ずっとずっと思いつつ、それが出来ないでいる。流れに乗って、暮らしている。



ポーの話
ポーの話
posted with 簡単リンクくん at 2005. 6.11
いしい しんじ
新潮社 (2005.5)


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