長い長い螺旋階段を何時までも何処までも上り続ける
一瞬の眩暈が光を拡散させて、現実を拡散させて、其れから?

私は、ただ綴るだけ。
音符の無い五線譜は、之から奏でられるかも知れない旋律か、薄れた記憶の律動か。








2008年03月15日(土) 200803160018_音と言葉と[手記・覚書]

 嗚呼、如何しよう、此の言い知れぬ不安にも似た、心揺り動かされる何か、大きな塊が私の胸の内側を支配する(梶井基次郎の言うところの檸檬のように、あの爆弾のように)、酷く心に響く――打たれる、衝撃というよりは打ち寄せる波と逆巻く渦と、其処に、底に、引き込まれる感覚。
 言葉と音との融合。音楽? 純粋な「歌詞」ではなくて、原初の、そう、言葉が文字ではなくて音しかなかった頃の(オングの言うところの一次的な声の文化に限りなく近いのではないか――?)、再現? 違う、新たなる試み。

 時期が重なったのがいけなかった。
 前日の夜にはイタリア人作曲家カルロ氏の、洋と和の楽器の融合音楽を耳にして、目にして、そう、琴に琵琶に尺八、そしてギターと、巫女装束に身を包んだ舞手、初めは巫女舞を模し、白拍子の妖艶さを纏い、宛ら巴御前――薙刀を使った動きで占め。歴史を感じるものではない、寧ろ、酷くモダンな。音と舞、聴覚と視覚の、洋と和の、融合。
 更に其の前に アフンルパル通信 を頂いて、言葉には敏感になっていたのだ。何かを書きたい、記したい、残したい――もっと純粋に思考を言葉に変換したいという想い。
 そして一週間前には、ずっと気になっていた声の主を間近に拝見出来る――其の声を拝聴出来る機会が幸運にもあって、声色に、声音に、声に潜むアイデンティティに、過敏になっていた。過敏? 過敏だ、だってあの声は既に反則気味だと私は思う。

 ――そういうことが重なった一週間で、其の直後にこれだもの。気になる声の主もゲスト出演しているし、二公演見たけれど夜公演は2列目で真正面に声の主だし(二階ありオールスタンディングでキャパ350のライヴハウス且つ整理番号15番は奇跡的だったと思う。因みに昼公演は101番)。
 音楽、音、旋律、言葉、拍、声、文字、……、…………。

 嗚呼、もう、如何しよう、良いのかな、こんなことを書いて。一瞬にしてBELOVEDの虜になった。明日も行って来る、吉祥寺。明日は207番なんだ、だからステージ全体を見渡して、此の手記とも覚書ともつかない言葉の羅列を整理する心算。










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