ベルリンの足音
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友人の訪問は、確かに嬉しいものである。 しかし、どんなに親しい人間でも、気疲れするということはある。
私の現状は、決して最適とはいえず、普通の生活をしつつ、心の中ではすべての活動を停止してしまいたいほどの疲労感を覚える。
与えるのは大変だ。
愛情をこめてもてなしたり、夕食を料理したり、それが結果的には自分を活動させ続ける原動力になっていたとしても、夜の体力は皆無に近い。
精神的な疲労に埋まりこんでしまうことは、さらにいっそう自分の内面から力を失っていくことではある。
しかし、おそらく母親の奇妙な不安定感や、悲壮感を無意識に吸収しているであろう子供たちの日常生活を保ち、久しぶりの友人に笑い顔を見せてしまった後は、ぼろきれのようになった自分の心が残るばかりで、夜中の憂いと共に、センチメンタルな会話を探して、思わず声を聞きたくなってしまったりするのである。
それでも、人間は与えてばかりでは生きていかれない。
自分だって、どこからか温かみや、エネルギーを得ない限り、精神状態は、冷えついていくばかりである。
必ずしも友人から力をもらえるとは限らない。 友人にさえ、言えない心やわかってもらえない心の方が、生きている間は、多いような気さえしてくる。
そのとき、一人にならない。 絶対に自分の精神を隔離しないという意志を持って、可愛がってくれる人や物に心を開く勇気が必要だと実感する。
そういうものを自らもらいにいくことの、驚くほど下手な私である。
自分を赤裸々な状態にすることの恐怖感は、恐ろしく深い。
しかし、自分のプライドほど、あまり役に立たないものはないと最近実感する。
プライドは、凛とした自分を保つために、最低限は必要であるが、殆どは、つまらない自己防御でしかない。
プライドを捨てても良いと思える相手こそ、心の友であり、家族になり得る人間であり、私が私自身であることのできる相手なのではないか。
今更、そんなことを思いつつ、憂いの深い心を抱いたまま、今日も太陽を見るために外へ行く。
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