ベルリンの足音
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本当は行きたいところもやりたい事もわかっているのに、実行できない。
寂しい人の文章を見ては、一緒に悲しくなって慰めているのか落ち込んでいるのかわからない。
打算が働いて、また決心を実行する際につきまとうもろもろもの問題に突き当たるのが嫌で、うずくまったままでいる。
ずるい生き方のできない自分が自慢だった。 大人になったなと自分でも思うのは、最近はずるい生き方を覚えてしまったことだ。
ずるい生き方をしている人のそばにいると、ちょっとはズルさを覚えないと、一気に食われてしまうという側面はある。 それでも、私は損をしようが傷つこうが、ずるく生きるということのできない女だった。 それが今は、相手の打算を見ては、こちらも同じだけ採算を取ろうと思うようになった。皆に対してではない。
結局私は迫られるとダメなのである。 ある種の距離感を常に保ってもらわないと、息苦しくていろいろと自分では驚くようなことをしてしまうのだと思う。
破壊主義といえばそうである。
そんな生き方をしていると、この年齢になって辛くなってくる。何かを決定的に変えないといけない。その答えももうわかっているのに、縮こまっているのも年齢だろう。
いっそのこと、すべてを打ち明けて、もう解放してくださいと懇願したい。それを言えた頃が懐かしい。 今は言えない…。
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ひとりで生き続けるのは、恐ろしく寂しいと思う。 悲しみなんか、一人で消化できる。いくらでも出来る。 でも、喜びを分ち合えない悲しみは、一人で悲しむよりずっと深い。 人に与えてあげたいと思ったとき、子供も育ち、一人きりで、与える個人的な相手もいないことを考えると、恐ろしい孤独だろうと思う。
それでも、一人でいる孤独の方が、打算でいる二人よりもずっと多くの真実に囲まれているのだ。 寂しいことも、悲しいことも真実で、覆い隠したり、気を散らしたりする生き方のなんと空虚なことであろう。
それに耐えるより、一人でいる孤独の方を自ら喜んで選択するということは、なにを見るより明らかである。
それなのに、なぜ前進できないのだろう。
愛されることは、愛することより全然大切じゃない。 愛し返せないなら、もらっているものも愛じゃない。
結局、人生は能動。愛さなければ始まらないということ。また真に愛されたなら、愛し返すしか道はないはずだということ。
チャンチャラおかしいままごとに終わりを遂げたい。
自分の中に新年も旧年もない。そういうこととは関係なく、リセットや抱負などとは全然関係のないところで、真実が常に渦を巻いて背中に押し寄せている。
真実の力は怖いから、早く正直にならないといけない。 打算も妥協も、なんと言う安易な道だろう。甘い道、とりあえず自分も世間もごまかせる道。
ああ、怖い。 ああこれからが怖い。
自分が強いことは承知でも、人を傷つけるのも嫌だし、人と議論するもの嫌。
嫌には理由がないのに、その嫌を説明する義務は過酷。
人間関係の責任はまじめに考えれば重いから、常に軽薄な気持ちで他人の人生に立ち入ってはいけないと、常に意識すべし。
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