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2012年03月11日(日)


■2012年3月11日現在 個人的な観点から

※ほんとうは誰かのためになることを言えたらいいのだけど、それはたぶん今のわたしにはできないことなので。自分の今いる場所から確認してみます。

去年の3月11日は浜松町のオフィスにいて、初めて体験する揺れだったが、本格的に揺れ始めるまで数分かかり、震源はここじゃないというのがわかったので、とりあえず東京は大丈夫だろうと思った。それでも竹芝のビルからお台場のフジテレビ裏が炎上しているのが見え、携帯でニュースを見ていた人から津波の映像を見せられたとき、思ったよりも大変なことが起きているのがわかった。

……ただ、思い返すと、結構のんびりしていて、仕事もすぐに再開したし、電車も夜には動き出すんだろうと思っていた。オフィスにはニュースがほとんど入ってこなくて、本当には何が起きているのか全然わかっていなかった。

金曜だったこともあって、会社に泊まるのも嫌だったので、19時ごろに会社を出た。(後で聞いたら、食料とか毛布とか何も配布されなかったとのこと)

その時点でも、まだ明日から日常に戻るのだと思っていたのだけど、泊めてもらった同僚の家で初めてテレビを見て、東北の沿岸部が大変なことになっているのを知った。翌日、やっとの思いで家につき、少し眠ったところで母親から放射線に気をつけろとのメール。ここで初めて原発の事故を知るが、自分にできることはない。友人の安否の方が心配だった。

実家に帰ると連絡すると、来なくていいとの返事にぶち切れた。ずっと家にいた母はのんびりしていて、わたしよりずっと情報があったのに、と思ったが、それは前日の混乱を体験していないということかもしれない。中越地震のときに、祖母の家が被災して、新潟の親戚たちは大変だっただろうと思う。ニュージーランドの地震で亡くなったひともいる。ただ、等しく感じることは不可能で、距離や関係性によって、感じ方が違うということは心に刻んでおきたい。ひとりひとりの温度差が違うのは当たり前のこと。それに反発を覚えるのもまた、当然のこと。

東京は1週間ぐらいはずっと混乱していて、地震と原発の問題がごちゃごちゃになっていて、私自身も結構振り回されてしまったなと思う。最初、節電が東北支援になる、みたいに言われていて、それが違うのは少ししてわかったのだけど、東京の電気なんだから節電は当たり前、みたいに言われるのはちょっと心外だった。もちろん企業も個人もみんな進んで協力したけれど、日常を奪われること、それがいつまで続くのかわからないという辛さを覚えていようと思う。誰もがささやかな日常を生きる権利があると思う。

もちろんもっと大変なひとがいる。それは自分ひとりに言えばいい。被災地で、家が残ったひとは運がよかったかもしれないけれど、そのひとが他のひとより大変じゃなくてよかったね、なんてことはない。


また、原発に関しては、東京に住む私たちは当事者なので、これはずっと考えていかなければならないことだと思う。時に、被災地そっちのけで大騒ぎしてしまうことは、本当に申し訳ないことだとも思う。

一般企業の対応はすばやくて、東京も結構物資が不足したけれども、それでも東北に真っ先に送ってくれた企業も多くて、このことは本当に素晴らしかったなとおもう。これは個人ではできないこと。

政治や、東電などの利権が絡んでいるあたりのあまりの鈍さには失望というよりは、むしろ戦慄をおぼえるほど。それから各地での放射線に絡んだ差別のニュースが絶えず流れ込んでくるのが悲しい。


個人的なことでは、影響が大きかったのは言葉のこと。
いろんな立場のひとがいて、それぞれ違う体験をしているのだから、恐れずに言葉に発していくことが重要だろうと地震のあとしばらく思っていた。それは今も大事なことだと思っているのだけど、自分の状況が落ち着いたあとになって、私は逆に言葉をなくしてしまった。

私の言葉は誰かを傷つけることがある。その言葉を跳ね返すためにまた言葉が生まれて、それが私に帰ってくる。始まりはどこなのかわからないけれど、時々そういう風に循環してしまうことがある。問題は、どの言葉も自分や相手を傷つけないように発せられた言葉であることだ。恐れてはいけない、と思う。でも今のところうまくいっていない。

本当の意味で自分を癒すことができるのは自分しかいない。ひとりで抱え込めということではなくて、誰かに話すとか、好きな音楽を聴くとか、そういうことでもよくて、ただその方法を見つけられるのは自分しかいないということ。近い時期に後悔する形で友人をなくしたので、自分のなかで震災のこととごっちゃになってしまっているのだけど、日常は取り戻せても、まだ傷ついたままでいると感じている。