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211 言論の自由とは

昨晩、「ジェネジャン」という番組をみていた。芸能人や一般人や、色々な人が集まって円になり、現代の問題について議論する番組だ。今回のテーマは「プライバシー侵害」。
そのテーマの中で、無法地帯となっているインターネットの中の世界をどう捉えるか?という議論がなされた。そのことについて触れたい。

インターネットは確かに便利だ。そして同時に危険だ。危険である一番の理由が、顔が見えないということ。悪いことをする人間にとって、一番便利なのが、匿名性。
俺は正直言って「2ちゃんねる」ってやつが嫌いだ。良く利用されることもあるんだろうけど、イメージで言えば悪いし、実際悪く使われることのほうが多いと思う。匿名であることを言いことに、人を傷つけたり、偽ったり、やりたい放題。普段、実生活では1対1ではっきりと意見を言えない人間が、ここぞとばかりに言いたいことを制御もせずに言いまくるというのは、見ていて気持ちのいいものじゃない。そのような書き込みを目にするたびに、「あぁ、たぶんこいつは面と向かったら何も言えないやつなんだろうな・・・」って思ってしまう。
とは言え、利用者からすれば「どこが悪いんだ?」と言うと思う。なぜ悪くないかと言えば、それは「言論の自由」があるからだ、と言う。問題はそこだ。
「言論の自由」とは何だろう?「集会の自由」とか「思想の自由」とか、色々と日本国民には自由が保証されているわけだけど、だんだんその自由の意味が歪んできていないだろうか?
自由=何をしてもいい、ではない。言論の自由がなんで生まれたかと言えば、戦時中の日本が、今の北朝鮮のように、本当に自由でなく、すべて制御され、支配されていたからだ。本当の「言論の自由」を、大きな意味の民主主義で言えば、日本という国の中で、国民としている我々が、政府に対して物申す!ためのものだ。小さな意味で言えば(政府とかいった問題に比べてね)、学校で先生に対して、ただ従うだけでなく、生徒の意見も尊重しろ!と、意見があれば発言させろ!と言えるためのものだ。
元々、言論の自由は過去にひどい日本だったときに、より良い日本にするためにうまれたものであって、それによって日本はかわったんだと思う。言論の自由は人々に幸せを運んだ。せっかくそんな素晴らしいものを、「自由」という言葉で括られているのを言い事に、逆手にとって悪いことに利用して、非難されれば逆ギレする。
言論の自由・・・、自由という意味を、道徳的に考えることも必要なんじゃないかな?言葉では定義しきれないものもある。そこにきちんとした意味付けをできるかどうかは、その人のモラルにかかっている。
2005年02月27日(日)

VOICE / マッキー

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