214 いじめ その1 |
いつかはこのことについて書きたいと思っていた。「いじめ」について。 今日、芸能人と一般人いろいろな人が討論する番組『ジェネジャン』で、このことについて討論されていたので、いい機会だと思った。 正直言って、俺はいじめをしたことはない。そしていじめられたことがある。何度もある。だからこそ思うことを語り、誰かがこのVOICEを読んで、自分なにに考えてくれることがあればいいと思う。 ちなみに、これは学生を卒業した人だからといって、まるで人ごとではない。社会に出てからでもいじめはありうるし、いずれ老人ホームにはいることになったとしても、そこでもいじめはある。また、あなたが親になったとき、このことは今まで以上に深刻な問題になるかもしれない。だからこそ、いつになってもいくつになっても、このことに対しては真剣に考え、自分なりのしっかりとした考えをもっていなければならない。 さて、「いじめ」についての考えだけど、よくある議論に「いじめる側が悪い」それとも「いじめられる側が悪い」というものがある。こと「いじめ」ということに関して議論をするのであれば、いじめる側が悪い。いじめられる側が悪いという考え方は、俺からすれば論外だ。 なぜかと言えば、まず単純なことを言ってしまえば、「いじめる側」がいなければ「いじめられる側」というのは存在しない。 いじめられる人間というのはいる。俺が思うに、個性が強い人間というのはいじめの対象になりやすい。それは良くも悪くも、という意味で。話すのが下手だったり、暗かったりっていうのもひとつの個性だし、人より飛びぬけてスポーツや勉強ができるというのも個性のひとつ。どちらのタイプでもいじめられる対象になりうる可能性がある。いじめられないのは、とくに誰かが目を見張るような何かがなく、周囲の空気に溶け込んでしまえる人間。それを個性と呼べなくもないけど、個性としては弱いし、少なくともそういった人はいじめの対象にはなりにくい。いじめをする人間は、そんな個性の強い人間の「飛びぬけた良さ」や「飛びぬけたダメなところ」に目を向ける。 いじめたとしても誰にも何も言えなさそうな大人しそうなやつは狙われるだろうし、クラスの人気者で何をやってもできるやつを妬むやつもいる。いじめられている人間をかばう正義感の強い人間が疎ましく感じたりもする。 いじめる人間の心理というものをそこまで詳しくはわからない。ただ、いじめる側の人間は人の痛みがわからない。自分が言った言動、自分がした行動に対して人がどう感じるか、そのことに鈍感な人間は、「自分がしたこと」と「それを受けた人間の気持ち」を連動して考えられない。ましてやそれを自分がされたら、なんて考えない。
気に入らない人間はいるだろう。俺もいる。生理的に受け付けない人間はいる。ホントにむかつくやつ、人間としてなってねぇよ!って思うやつ、いるよ。そんな人間に対して、自分はどう接するか。どう自分の怒りを相手に表現するか。そこで「いじめ」という手段をとった時点で、自分が悪い人間に成り下がってしまうことを考えなければならない。 こう言うと、いじめられる側の人間にも原因があると思われるだろうけど、そうじゃない。「いじめ」という手段を選んだのは「いじめる側」であって「いじめられる側」じゃない。自分が相手に対して怒りや憤りを表現するための手段はちゃんとある。面と向かって相手に自分の意見、考えを表現できない人間は、陰険な手段をつかっていじめをする。いじめられる人間には、その人が弱いからで、心に隙があるからだという意見をよく聞く。でも、それ以前に自分の考えを相手にきちんということを恐れ、いじめという逃げの手段に走った「いじめる側」の心の弱さのほうが圧倒的に問題だ。
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2005年03月23日(水)
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