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りょうちんのひとりごと
りょうちん
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2006年04月17日(月)
Vol.650 渋温泉

おはようございます。りょうちんです。

俺のルーツを探るシリーズ・その1。
次の旅行はどこに行きたいか母に尋ねると、母が答えた場所は渋温泉。群馬県と長野県の県境にある渋温泉は、けして有名とはいえない山あいにあるひなびた温泉地だ。特別何があるわけでもないこじんまりとした渋温泉に、なぜ母が行きたいと言ったのか、実は理由があった。
父と母は、いわゆる職場結婚である。父は代々続く床屋の息子で、祖父と一緒に店を営んでいた。そこへ見習いとしてやってきたのが母である。父と母はこうして出会い、恋に落ちたふたりは1970年12月、結婚に至る。しかし結婚式はかろうじて挙げたものの、店を営んでいるふたりは新婚旅行には行けずじまいだった。
その翌年の初夏。たった2日間だけの休日を利用して、ふたりはドライブに出かけた。結婚してから初めての遠出で、これがふたりにとっての新婚旅行のようなものだったのかもしれない。ふたりはあてもなくただ車を走らせ、すっかり日も暮れた頃、辿り着いた場所がたまたま渋温泉だったのだそうだ。そして渋温泉のKという老舗の旅館にふたりは飛び込んだ。宿泊の予約なんて到底してないのにその宿の女将はふたりをこころよく歓迎してくれて、無事夜を明かすことできたのだそうだ。
「渋温泉のあの老舗の旅館に、また行ってみたい!」という母の希望を叶えてあげようと、父と母の記憶を元に俺もいろいろと調べてみたのだが。今でも実在するその老舗の旅館は急な階段があったりして、足の不自由な母が宿泊するにはちょっと厳しそうで、残念ながらあきらめざるを得なかった。
さて、話を元に戻すが。ここからはあくまでも俺の憶測なのだが、ふたりが渋温泉に行ったのがきっかけで、俺が生まれたのかもしれない。渋温泉への旅行が1971年の初夏、俺が生まれたのは1972年の4月。計算上ぴったりなのだ。もしもあの時、父と母が渋温泉に行ってなければ俺が今ここにいなかったとすると、是が非でも渋温泉に行ってKという老舗の旅館に泊まってみたくなった。



2006年04月12日(水)
Vol.649 たけのこは今が旬

おはようございます。りょうちんです。

実家に帰ると、母が大きな鍋でたけのこを煮ていた。竹やぶで取れた朝取りの大きなたけのこを、ご近所さんから3本もいただいたんだそうだ。たけのこは今が旬。「雨後のたけのこ」とは良く言ったもので、4月になって雨が降ったあとには、ぞくぞくとたけのこが顔を出してくるのだ。
たけのこといえば。ちびっこだった頃、よく梅干をたけのこの皮に巻いてしゃぶったことを思い出す。キャンディーをなめる感覚でおやつとして口にしていたのだが、たけのこの皮に生えている細かい産毛を包丁の背できれいにこそいで、それを梅干に巻いてしゃぶるだけのもの。ほのかに香るたけのこの香りと梅干の酸味が口に広がって、俺にとってはとても懐かしい味なのだ。しかも、この梅干を巻いたたけのこはすぐに食べ切ってはいけない。なぜなら、長時間梅干を巻いていることで、たけのこの皮が次第に赤く変色していくのを楽しむという遊び的要素もあるからだ。ちなみに、梅干の代わりに味噌を入れると青く変色するし、両方を入れてしゃぶると紫色になる。リトマス試験紙のように、酸性とかアルカリ性とかの理由で色が変色するのかどうかは定かではないが、しゃぶっているうちに色が変わるという楽しいおやつはたけのこが出てくるこの時期ならではのものだった。
そんなことを思い出しながら、母がたけのこを煮ている横で、久しぶりに梅干を余ったたけのこの皮に巻いてしゃぶってみた。けしてうまいものではないけれど、やっぱり懐かしい味だ。固いたけのこの皮も、しゃぶっているうちに俺の口のカタチになじんで柔らかくなってくる。そして次第に繊維に沿って色も赤くなってきた。こんなことで単純によろこんでいた幼かった自分が、なんだかかわいく思えた。
そういえば、ずいぶん前から相方がたけのこが食べたいと騒いでいたっけ。下茹での処理だけしたたけのこをおみやげにもらって戻ってきた俺は、相方のリクエスト通りチンジャオロースーと若竹汁を作ってみた。やわらかくてちょっとだけえぐみの残るたけのこはとてもおいしくて、春の味がした。



2006年03月31日(金)
Vol.648 今年の高校野球

おはようございます。りょうちんです。

今年も高校野球のシーズンがはじまった。3月半ばに対外試合が解禁になり、甲子園ではセンバツがスタートし、そして各地区では春季大会も開催される。俺が最もわくわくする季節の到来だ。そういや、去年はセンバツを見に甲子園まで足を運んだっけ。その後も各大会ごとにいろんな球場に赴き、シーズン中は仕事もそっちのけでどっぷり高校野球にのめり込んで、気づけば年間50試合以上も生で観戦していた俺。はまればはまるほど高校野球がおもしろくなり、もう高校野球なしでは生きていけないとさえ思った俺だったが。実は、今は高校野球から少しだけ距離を置いてみようと俺は考えている。
例えば、空の色が毎日微妙に違うように。満開に咲く桜の花も毎年どこか違って見えるように。高校野球も、その時その時で毎回変わり続けるものだ。注目している選手のコンディションだったり、チーム全体の雰囲気だったり、端から見ればそれがいつもと何も変わらないように見えても、ずっと見続けているとその微妙な変化がどうしても気になってしまうのだ。だからこそ、できることなら去年のように、いや去年以上に高校野球にのめり込みたい気持ちでいっぱいだったのだが。
今年は、今の俺にとって高校野球よりももっと大切にしなければならないことがあると気がついたのだ。それは、母とともに過ごす時間。母に残されたわずかな限られた時間を、俺は最大限に捧げたいと考えている。1年や2年の間、高校野球から離れていたって、高校野球は逃げていかない。いつか俺の中にもっと時間の余裕ができたら、その時に改めて高校野球に熱くなっても遅くはないんだ。
そんな心持ちで仕事の合間に実家に帰ると、TVのセンバツに夢中になっている母がいた。その横で一緒に応援をはじめた俺。やっぱり俺の中では高校野球をゼロにすることはできないようだ。でも、それでいい。母のことを優先して考え、なお余裕があれば高校野球にも熱を入れよう。俺の今年の高校野球は、そうやって肩のチカラを抜いた楽しみ方ができたらいいと思っている。



2006年03月27日(月)
Vol.647 10km完走

おはようございます。りょうちんです。

競技場には2時間も早く着いていたのに、うだうだやっていたらいつのまにか時間は迫っていて、気がつけばスタート直前になっていた。俺らは足早にスタート地点に向かい、定刻通りにピストルが鳴るとランナーは一斉に走り出した。
競技場を出ると、いきなり急な下りがはじまる。重力に任せてテンポ良くリズムに乗って走り始めたいのに、スタート直後のせいで必然的に渋滞が起きてしまう場所だって、去年のレースで俺は学習済み。だから今回はスタート時にできるだけ前の方に陣取ったため、去年のようなじれったさを感じることはなかった。
坂を下ると、今度は緩い上りが続く。自分のペースをまだつかみ切れないままで上るこの坂が、練習の時からいつも俺を苦しめる。何人もの人に抜かれながら、俺は走った。駅前まで来ると、コースは左に折れて線路沿いの蛇行した道にさしかかる。いくつもカーブを切るたびに、この線路沿いの道はいつまで続くのだろうと先が遠く感じる。それでも沿道の人がかけてくれる応援の声が励みになり、やがて徐々に自分のペースがつかめてきたのか気持ちは楽になってきた。
のどが乾いた。レース前はちゃんと水分を補給しておいたのに、なんだかすごくのどが乾いた。5km過ぎにある給水所で、俺は水を手に入れる。砂漠の旅人のように水に飢えた俺は、ひと口含んだだけで再び元気を取り戻した。テーピングを巻いた右ひざも、今日は痛くない。ここからは長い田んぼの中の道。ずっと遠くまでまっすぐに伸びるコースが続く。気分的にも負けそうになるポイントだが、さらに追い討ちをかけるように、遮るものが何もないため向かい風が急に強く襲ってきた。でも気持ちは楽だった。走りながらいろんなことを冷静に考える余裕があった。
ゴール直前は、急な上り坂。これが死にそうにつらい。最後のパワーを振り絞って、進まない足を無理やり前に出す。苦しさで歪んだ顔のままさっきスタートした競技場に入ると、ついにゴール。10km完走。練習不足がたたってやっぱりタイムは去年よりも良くなかったけど、無事に完走できたことがうれしかった。



2006年03月20日(月)
Vol.646 パラリンピックもおもしろい

おはようございます。りょうちんです。

スポーツ観戦が大好きな俺は、トリノオリンピックが終わったあとで引き続き開催されたパラリンピックに、オリンピックと同じようにずっと熱を上げていた。
パラリンピックに興味を持ったのは、実は開幕する直前。真夜中に放映していた福祉番組の再放送で、出場する選手をいろいろと取り上げていたのだ。シュートセンスがバツグンで、小柄ながら弾丸のようにぶつかっていくアイススレッジホッケーのルーキー上原さん。アルペンスキーでは、6大会連続で出場を続ける46歳の青木さんや、期待の高校生の鈴木くん。聴力が優れていることを活かし、射撃を得意とするバイアスロンの小林さん。祖父にメダルをかけてあげたいと、厳しい練習に打ち込むクロスカントリーの新田さん。そして、ここでは記せない多くの選手たち。
紹介された彼らを見ていると、障害があってかわいそうだなんて気持ちは俺の中にはまったくなかった。むしろ障害者であることを武器にしてパラリンピックに参加できるよろこびが、十分に伝わってきた。手がないとか足が不自由とか目が見えないとかで大変だとは思うけれど、あわれみの気持ちを持つより先に、ひとりのスポーツ選手としてみんなが輝いて見えたのだ。健常者も障害者も、そんなの関係ない。ひとつのスポーツとして、俺はパラリンピックに大いに興味を持った。
しかし残念なことに、パラリンピックの情報のなんと少ないことか。各局あれだけ放映していたオリンピックとは大きく違い、オンタイムでの放送はまったくなく、翌日に総集編としてほんの数十分放送するだけの毎日。おまけに国会中継で放送時間が急遽変わったり、ニュースでもなかなか取り上げられず、注目の選手がどうなったのか、結果を知るために俺は必死になった。
そんなトリノパラリンピックが閉幕した。日本は合わせて9個ものメダルを獲得。力を発揮できた選手も結果を残せなかった選手も、オリンピックに出場した選手同様みんな輝いていて、大きな感動をくれた。パラリンピックもおもしろい。次の大会では、もっと多くの情報が簡単に手に入るパラリンピックであることを願う。



2006年03月18日(土)
Vol.645 家族のようなもの

おはようございます。りょうちんです。

以前俺が働いていた店で、アルバイトとして活躍していたKくんが結婚した。一緒に仕事をした期間はわずか1年足らずだし、俺があの店を去ってから今年でもう7年もたつというのに、彼はわざわざ俺にまで結婚の報告をしてくれた。2次会の招待状を受け取った俺は、彼を祝福するために会いに行くことを決めた。
今になって思えば。大げさに言うと、あの店の人たちはいわば家族のようなものだった気がする。右も左もわからない俺に一から丁寧に仕事を教えてくれる上司は、時には厳しく叱り時には温かく励ましてくれた父親と母親。面倒見の良い先輩は、頼りがいのある優しい兄貴。俺のことを慕ってくれる後輩は、かわいい弟。一緒にバカをやってハメをはずしてばかりいたアルバイトくんたちは、気の知れた友達。そして、それを見守ってくれるパートさんたち。
就職をして知り合いなんて誰もいない土地で、たったひとりで何もかもを始めなければならなかった俺は、きっと不安でしかなかったのだろう。それでも俺は、環境に恵まれた。まわりにいるいろんな人たちに支えられて、どうにかがんばってこれたのだ。あの日があるから、今の俺がいる。仕事は確かに大変だったけど、あの頃の思い出は俺の中ではかけがえのない大切な宝物なのだ。
2次会の会場に着くと、懐かしい人たちが集まっていた。みんなに会うのは、実に3年半ぶり。俺が働いていた時、まだ高校生や大学生だったアルバイトくんたちはすっかり大人になり、面影は変わらないもののみんな立派になっていた。俺の知らない人や俺のことを忘れちゃった人ばかりだろうと思っていたのだが、そんな不安は必要なかった。会った瞬間にあの頃と同じように打ち解けることができて、懐かしい話に花が咲いた。そして、俺も含めてあの店で働いていた人たちが20人以上も集まり、つくづくKくんの人脈の広さに感心した。
Kくん、改めて結婚おめでとうございます。2次会に出席できて、本当にうれしく思います。お招きしてくれて、どうもありがとう。末永く、お幸せにね。



2006年03月12日(日)
Vol.644 ふたり分の計算

おはようございます。りょうちんです。

相方と一緒に暮らすようになって、もうずいぶんたった。引っ越しは去年の5月だが、それよりももっと前からほとんど一緒に暮らしていたといってもいいくらいなので、1年以上も共同生活を送っていることになる。引っ越しの荷物もまだ全部片付いてないのに、習慣というのは怖いものでそれまでずっとひとりで暮らしていた俺だったにもかかわらず、いつのまにかふたりでの生活が当たり前に感じていることに気がついた。スーパーで夕食の材料を買うのもふたり分だし、家に帰って作るのもふたり分。無意識のうちにすべてふたり分の計算をしている俺になっている。
さて、ふたり暮らしをはじめて、俺の料理の腕が上がったというのは大きなメリットである。我が家では、食事はほとんど俺が作っている。仕事柄、台所に立つのは苦じゃないし、洗い物や洗濯などのその他の家事はほとんど相方がやってくれるので、俺はぜんぜん不満じゃない。ひとり暮らしの時は食べるのは自分だけだったから、簡単なものやありあわせのもので食事を済ませていたことが多かったけど。今は相方も俺の作った料理を食べるので、毎回同じ味付けや似たような料理が続かないよう気を配るようになった。相方のリクエストに答えてばかりいるわけでもないし、そんなに凝ったものを作っているわけでもないのだが、それでもそのおかげでレパートリーも増えたし腕も上がったと自分でも思う。
だから、たまに俺ひとりで夜を過ごさなきゃならない時は、どうも調子が狂ってしまう。相方が仕事のため不在だった昨日は、何を食べようか考えているうちに結局何も食べないまま電気もTVもつけっぱなしで眠ってしまった俺。その前は、無意識のうちにふたり分のパスタを茹でてしまった夜もあった。ひとりで迎える夜なんてめったにないのだが、だからこそ有意義に過ごしたいと思ってはみるものの。結局普段ふたりでいる時とたいして変わらない夜になってしまったりするのだ。
今やふたり分の計算が普通になってしまった俺の、たまに迎えるひとりで過ごす夜に調子が狂ってしまうのは、もはや仕方のないことなのかもしれない。



2006年03月11日(土)
Vol.643 春の準備をはじめよう

おはようございます。りょうちんです。

とてもうららかな一日だった。気がつけば3月も中旬に入り、真冬のぴんと張り詰めていた空気はいつのまにかやわらかな春の風に変わっていた。
今年の冬は長く、そして厳しかった。秋の終わりから強い寒気が次々やってきて、毎日が凍えるような冷たい世界だった。そんな寒さに追われるように、俺のココロもずっと凍ったままでいた。何もしないでいるのは良くないと思ってはいても、動き出さなくちゃ何もはじまらないとわかってはいても、今は仕事がとても忙しいからとか気分がひどく落ち込んでいるからとか、どうでもいい言い訳にしか過ぎない理由にかこつけて何もできないまま時間だけが流れていった。普段とは何ら変わりない自分を演じ続けているつもりでいたけれど、本当のことを言うとココロの中では歯車が狂ってしまった俺自身との葛藤と、冬の間ずっと戦っていたのだ。
そして季節は春になった。外に目を向けてみると、歩みをためらっている俺とはまったく無関係に、季節は逆らうことなく少しずつ変わり続けていることを教えてくれる。梅の花がほころんだ。菜の花も咲いた。水仙の花も風に揺れる。どこかでまだ下手なウグイスの声が聴こえた。穏やかなひざしが肩に暖かい。ひだまりが心地良い。強い南風が吹きぬけてゆく。はおっていた上着が邪魔に感じる。花粉に悩まされる人も増えてきた。まだまだ寒くて春なんて当分先だと勝手に考えていた俺だったけど、季節はもう冬じゃない。春がやってきたのだ。
そうだ。動き出すきっかけなんて、ささいなことでいいんだと思う。かえって気合いなんか入れない方が、スムーズに動き出せるのかもしれない。春という季節が俺の背中をそっと押してくれるなら、今こそ俺が再び歩みをはじめる絶好のチャンスに違いない。立ち止まっている季節はもう終わった。殻に閉じこもるのはもうおしまいだ。思うがままにココロを開放させよう。
やがて桜が咲き、誕生日もやってくる。春本番になる前に、俺もそろそろ春の準備をはじめよう。だって、企んでいることはまだ胸にいっぱい秘めているのだから。



2006年03月10日(金)
Vol.642 マラソン大会まであと少し

おはようございます。りょうちんです。

冬の間しばらく休んでいたマラソンを、久しぶりに再開させた。ずっと走っていなかったのには実は理由があった。右ひざを負傷してしまったのだ。マラソンが原因かどうかはわからないが、いつからか長距離を走っていると右ひざに鈍い痛みを覚えるようになったのだ。去年の夏の富士登山の時も俺を悩ませた右ひざの痛みは、走るたびに俺を苦しめた。足に負担をかけすぎているせいかもしれないという判断から、秋を最後に俺は走るのを一時的にストップしていたのだ。
去年も参加した市内でおこなわれるマラソン大会が、今年も半月後に迫っている。今回の申し込みもすでに完了している俺と相方。時間が迫っている。そろそろ再び走り始めなくては。追われるようにマラソン復活を決断した俺は、相方との休日が重なった今日をその日に決めた。
大会直前ということで、大会時と同じ10kmのコースを走ることにする。まずは車でコースの下見。ポイントになる地点を再確認する。気温は9℃、天候は小雨。走るには文句ない。しっかり準備運動をして、俺らはいざスタートを切った。
しかし走りはじめてすぐに、俺は気がついた。カラダが重くなっている。足が前に進まない。確認しておいたポイントまでの距離が、考えていた以上に長く感じる。走っていなかった数ヶ月間のブランクが、予想を越えて俺にのしかかってきた。最初の下りを飛ばしすぎたせいか上手くペースがつかめない。おそれていた右ひざも痛み出した。田んぼの中を容赦なく過ぎてゆく向かい風がさらに俺を苦しめる。何度もギブアップして走るのをやめてしまおうと思うのだが、今日の目標は最後まで止まらずに走り抜くこと。すべては自分との戦いなのだ。
とてつもなく長く感じた10kmをどうにか走り切ると、先にゴールしていた相方が出迎えてくれた。タイムはけして良くなかったけれど、そんなことはどうでもいい。右ひざの痛みは出てしまったものの、最後まで完走できたことがうれしかった。マラソン大会まであと少し。この調子で、本番もがんばりたいと思う。



2006年03月09日(木)
Vol.641 切ない気持ち

おはようございます。りょうちんです。

大切にしていたものをなくしてしまったり、大好きな人と二度と会えなくなったり、伝えたい想いがどうしても届かなかったり。今まで生きてきた中で、いろんな切ない気持ちを俺は経験してきた。だが特にその中でも、卒業で経験した切ない気持ちは特別なものだったと、今も俺は感じている。
春は旅立ちの季節だと言われるとおり、卒業式の直前には中学の時も高校の時も受験が待っていたし、大学の時は就職が待っていた。だからうかうか気を緩めてばかりもいられなかった。でもそんな中で、もうすぐ俺らは卒業してゆくんだという気持ちを切り離すことはどうしてもできなかった。きっと俺はココロから学校が好きだったのかもしれない。学校に行けば当たり前のように一緒にいた友達と、もうじき一緒にいられなくなってしまうことが寂しくて仕方なかった。卒業式が近づくにつれて、あとどのくらいこいつらと一緒にいられるんだろうとカレンダーで数えるたびに、ため息がこぼれて悲しくなった。友達の前ではなんでもないように強がって笑っていても、本当はどうにもならないタイムリミットを少しでも引き伸ばしたかった。そして、晴れて迎えた卒業の日。胸に秘めた切ない気持ちををどうすることもできないままで、春の風に背中を押されながら俺らは旅立っていった。
あの卒業の時に感じた切ない気持ちを、俺はいつのまにか忘れかけていた。いや、覚えていたつもりだったのに、あの頃に感じていたどんなに叫んでもコトバにならないどうしようもない想いを、俺はすっかり忘れかけていたのだ。しかし先日、ふいにFMからあの頃よく聴いていた卒業の歌が流れてきて、突然よみがえってきてしまったのだ。あの卒業の時に感じた、どうにもならない切ない気持ちを。
誰もがこんな気持ちを経験して生きているに違いない。卒業で知る切ない気持ちは、誰だって特別なのかもしれない。そうやって人は大人になってゆくのだろうか。そしてまさに今、卒業シーズン。切ない気持ちを胸に抱いて旅立っていくすべての人たちへ、卒業おめでとう。