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2006年11月17日(金) ■ |
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Vol.670 母のプロデュース |
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おはようございます。りょうちんです。
今日から母が再び入院をしている。検査入院なので大げさにすることはないのだが、それでもやっぱり心配ではある。お互いの都合が合わず紅葉を見にドライブに行こうという約束も来年に持ち越しになってしまいそうだが、今月末には退院して家に帰ってくる母にはやっぱり少しでも長生きをしてもらいたい。 ところで。病気で伏せている人や老人の前で、「もしも死んだら…」なんて話をするのは良くないこととされている。「死ぬ」なんてコトバはもちろん普段から簡単に口にしちゃいけないのだが、縁起が悪いということで特にそういう場ではタブーとされているようだ。日本という国がそんなお国柄なのかもしれないのだが、個人的にはそれはどうかと実は密かに俺は思っている。 例えばお葬式。誰もが人生の中で、成人式や結婚式などいくつもの儀式を経験するが、その最期を締めくくる葬式というセレモニーこそ、自分の思うように取り計らってほしいと考えるのが普通なのではないか。結婚式の時はさんざん式のコーディネートをしたのに、自分の葬式は全部他人まかせだなんて淋しすぎる。自分の葬式の主役は、自分なのだ。だから、身近な人がもうじき死ぬかもしれないという状況に陥った時は、最期を飾る葬式をどんなふうに執りおこなってほしいかを聞き出しておくべきだと俺は思う。そしてこの世にその人がいなくなったあと、こうしてほしいという要望がさらにあるなら、それもちゃんと聞いておくべきだ。遺書を書くまで大げさじゃなくても、残される人に要望だけでも話しておく方が良いに違いない。てか本当は、元気なうちにそんな話をしとくのがいちばんではあるのだが。 そういうわけで。母が病に倒れたすぐあとも、大きな手術をすることになった時も、俺は母に「もしも死んだら…」の話を持ちかけた。それがきっかけで、母は病院のタイクツなベッドの上で自分の葬式のプロデュースをはじめた。生花だけはたくさん使って、でも式は質素に、友人にはできる限り連絡をして。母のプロデュースした最高の葬式が、いつまでもやってこないことを俺は祈っている。
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2006年10月31日(火) ■ |
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Vol.669 ハバネロの涙 |
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おはようございます。りょうちんです。
実家の庭で父と母が趣味で作っている家庭菜園が、夏から秋にかけて今年もたくさんの実をつけた。トマトやミツバやシソやトウガラシやミョウガやカキやブドウなど、実った果実は調理しておかずとして食卓に並べられたものや、収穫したそばから俺や弟がつまみ食いしてあっという間にたいらげてしまったものもあったりで、とにかく大豊作に誰もが喜んだ。しかしたくさん採れた数ある家庭菜園の中で、たったひとつだけあまり喜ばれなかった果実がある。ハバネロだ。 世界でいちばん辛いトウガラシと言われているハバネロは、数年前に某スナック菓子に使われて以来そこそこ有名になった。そのハバネロの苗にたわわにぶらさがった果実が、秋が深まるにつれ日に日に赤く色づいてきた。いくら辛いものが好きな父でも、激辛なハバネロなんてほんの数粒あれば十分である。実家だけじゃさばき切れないハバネロの実は、ご近所や店のパートさんたちにも配ったりしたのだが。それでもまだ余るハバネロの実を、結局は天日干しにすることにした。そして俺はハバネロの種を抜くため、実を裂いて指先で種を取り除く作業に取りかかった。 数時間後。忘れた頃に悲劇は起きた。無意識のうちに、指で目を触ってしまったのだ。激痛が走る。いや、痛みというよりもヤケドのような熱さに近い。その瞬間、原因はハバネロだということに気がついた。そういやさっき、ハバネロの実をさんざんいじくったっけ。そのあとちゃんと手洗いはしたはずなのに、激辛エキスはまだ指先に残っていたようだ。それが目に入り、焼けるような激痛に襲われているのだ。さすが、世界一辛いトウガラシである。痛みでどうしようもない俺の目からは涙がとめどなくこぼれたが、いくらタオルで拭ってもなかなか痛みは消えなかった。激痛にもだえ号泣する俺の姿を見て、母は心配しながらも大笑いをしていた。 やがて時間がたつにつれ次第に俺の流したハバネロの涙も止まってはきたのだが、うっかりトイレなんぞに行って大事な部分をうかつに触らなくて良かったのかもしれない。おそるべし、ハバネロ。ココロの中で、強く思った。
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2006年10月28日(土) ■ |
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Vol.668 人生の第2章 |
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おはようございます。りょうちんです。
25歳の誕生日を迎えた朝のことを、俺は今でもはっきり覚えている。見上げればさわやかな青空が広がっていて。降りそそぐひざしがとてもまぶしくて。ひんやりした朝の空気が俺のココロを引き締めてくれて。穏やかな風に揺れるたびにはらはら散りゆく薄紅色の花びらの中、職場へと続く桜並木の緩い坂道を一歩一歩確実に踏みしめながら、俺はひとつの誓いを胸に立てた。今日から俺は、生まれ変わろう! 例えば俺が100歳まで生きるとすると、それまで生きてきた25年間はその4分の1にあたる。日本人の平均寿命から考えて75歳まで生きるとすると、25年間は3分の1だ。つまり25年という年月は「四半世紀」と括られるように、区切りをつけるにはちょうど良い時間の長さなのだ。ならば俺もそれまでの気持ちに区切りをつけて、新しいスタートを切り出すには絶好のタイミングなのではないか。そうだ、俺の人生の第2章は今日からはじめよう。そう誓ったのだ。 振り返ってみれば、それまでの25年間はいろんなことを教えられてきた俺だった。当たり前だが、俺がこの世に存在して何ひとつわからない赤ん坊の時から両親は俺をしつけて育ててくれたし、学校では勉強だけじゃなく社会のルールや厳しさも教えてくれた。家族や恩師や友達やそれ以外のたくさんの人たちに、いつでも俺はいろんなことを教えられてきたのだ。自分から教えて欲しいと頼んだわけでもないのに、恵まれた環境と恵まれた人たちに出会えたおかげで、俺はいろんなことを教えてもらえたのだ。だがこれからは、自分の手でつかみに行こう。受け身でいるだけじゃダメだ、欲しいものは自分で動いて手に入れなきゃ。それまでの恵まれた経験を武器にして自ら立ち上がり動き出すことが、俺が生まれ変わった証になるのだ。 俺は今、34歳。あの誓いはまだ胸に刻んだまま、人生の第2章を夢中で歩いている。つらい時もあるけれど、今のところいたって順調だ。やりたいことは山のように存在して、実際にできることはそのうちのほんのひと握りしかないのだが。可能な限り時間を見つけて、積極的にいろんなことに顔を突っ込んでいる俺である。
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2006年10月18日(水) ■ |
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Vol.667 母のリベンジ |
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おはようございます。りょうちんです。
母は小さい頃から、ずっと描いていた将来の夢があった。それは歌手になること。歌うのが得意だった母は、物心ついた時からよく人前に出て歌を歌っていたそうだ。結局その夢は叶わなかったのだが、俺が知っている母は、宴会の席なんかでは率先して歌い始めていたし、カラオケ大会に出場して賞品にTVをもらってきたこともあった。それより何より、母はどんな時もすぐに歌い出すのがクセだったので、その歌声を俺は四六時中聴いて育ってきたのだ。息子の俺が言うのもなんだが、本当に母は歌が上手いと思う。病に倒れてからは昔ほど母の歌声も聞かなくなったが、それでもしょっちゅう好きな演歌を口ずさみこぶしの花を咲かせている。 今から約40年前。母がまだ10代半ばだった頃。母は、NHKの「のど自慢」という番組に出場したことがある。誰もが見たことのある、今でも長寿番組として日曜の昼間に放送されているとても平和なあの番組である。若き母は、その時全国放送されるTVに初出演したのだ。めざすのはもちろん合格。友達や両親や大勢の観客が見ている中で自慢の歌声を披露し、たくさん鐘を鳴らしたい願っていた。番組のいちばん最後に歌う順番をあてられた母は、スタッフに背中をドンと押されながら舞台に進んだ。そして母は、想いを込めて精一杯歌い出す。 しかし、幼い頃からいくら人前で歌うことに慣れていたとはいえ、歌手を夢見る若き少女にとって舞台はとても大きく感じたのかもしれない。おまけに生放送という時間の制限もあって、母の歌声はわずか2フレーズだけで判定がくだされた。鐘の数は、2つ。「悔しかったなぁ。緊張しちゃったのは確かだけど、サビまで歌えればたくさん鐘を鳴らせたと思うのに…」と、母は常々言っていた。 今度の日曜、隣の市で「のど自慢」が公開放送される。実は俺、その前日におこなわれる「のど自慢」の予選会に出場することになった。本選に出場できるかどうかさえまだわからないのだが、俺もあの頃の母のように、舞台で歌いたくさんの鐘を鳴らしたいと夢見ている。母のリベンジが、俺にできるのだろうか?
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2006年10月03日(火) ■ |
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Vol.666 残しておきたいコトバたち |
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おはようございます。りょうちんです。
「おぼすなんわきにあるへこったみのぼっかんとこによ、かしゃっぱがしっかりふっちゃってあんでん。そこにおんばくとかまんちょろをいっしょくたにくっかいたいっかいくちゃめがいただよ。おっかなくなってそんままふっちゃりばすけにしてけってきちゃったけど、あんとんあっしねだろか?」 俺が実家に帰って父や母や弟たちと話すコトバと、普段相方や仕事で話すコトバとでは、大きく違いがあるということは自分でもよく自覚している。千葉には方言がないと思っている人も多いようだが、そんなことはない。違う土地の人が聞いたら何を言ってるのかまったく理解できないくらいの訛りが、確かに存在するのだ。 幼い頃から俺を育ててくれた父も母も祖母も、俺のいちばん近くにいる家族はみんな地元で育ってきた人だったから、昔から方言のある会話が俺には日常的だった。だから、つい最近までそれが標準語だと思って使っていたのに実は方言だったなんてコトバもある。例えば「おっかく」。標準語では「折る」の意味になる。「箸がおっかけた」なんて平気で使ってたのだが、そんな方言を聞いて「箸が追いかけてくるのかと思ったよ!」なんて言われてしまった。 それでも最近は他県から越して来た人が急増したりTVなどいろんなメディアが普及したせいで、方言を知らない人もたくさん増えた。あれだけ今まで使ってきた方言なのに、使わないでいると俺も忘れてしまいそうになることもある。でも、実家に帰って近所のご老人たちが完全なる訛りで話しているのを聞いたりすると、なんだかほっとする自分がいる。急速に消えつつある訛りだけれど、俺にとってこの方言は大切に残しておきたいコトバたちなのだ。 ちなみに冒頭で記した方言は、「神社の横にある窪地の切り株のところに、落ち葉がたくさん捨ててあるでしょう。そこにカエルとトカゲを一緒にくわえ込んだ大きなマムシがいたんだよ。怖くなってそのままほったらかしにして帰ってきちゃったけど、なんともなかったのだろうか?」の意。
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2006年09月29日(金) ■ |
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Vol.665 命のリレー |
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おはようございます。りょうちんです。
俺のルーツを探るシリーズ・その4。 俺が存在するためには、俺の父と母の2人がこの世にいなければならないわけで。俺の父と母が存在するためには、それぞれの父と母、つまり俺の父方の祖父と祖母、母方の祖父と祖母の計4人がこの世にいなければならないわけで。その4人が存在するためには、それぞれの父と母、計8人がこの世にいなければならないわけで。そうやって考えていくと、俺の先祖はいったい何人いるんだろうか? そんな疑問が突然わいてきた。確かめる方法は簡単、逆算しながら時代をさかのぼっていけばいいのである。おもしろくなってきた俺は、さっそく計算をはじめてみた。 仮に30歳で次の世代の子どもが産まれたとして。今から約90年前の大正時代、俺の曽祖父や曾祖母にあたる3代前の先祖たちは計8人。ペリーが日本に来航した約150年前、5代前の俺の先祖たちは計32人。作曲家シューベルトがこの世に生まれた約210年前、7代前の俺の先祖たちは計128人。江戸時代中期の約300年前、10代前の俺の先祖たちは計1,024人。豊臣秀吉が天下を統一した約420年前、14代前の俺の先祖たちは計16,384人。応仁の乱が起こった約540年前、18代前の俺の先祖たちは計262,144人。室町時代全盛期の約600年前、20代前の俺の先祖たちはついに100万人を越えて計1,048,576人。元寇が攻めてきた約720年前、24代前の俺の先祖たちは計16,777,216人で東京都の人口を越える。そして鎌倉幕府が開かれた約810年前、27代前の俺の先祖たちは今の日本の人口を越え134,217,728人にもなるのだ。 ここまでやって、あまりの数の多さに俺は計算をやめた。こんなにまで俺の先祖たちが存在したなんて、思いもしなかった。そしてそのうちの誰かひとりでもこの世にいなければ今の俺がここに存在しないと考えると、なんだかすごすぎて目が回りそうになった。命のリレーは、こうやって俺まで確実にずっと続いていたのだ。 お彼岸の中日、俺は墓参りに行って墓前で手を合わせた。そして数えきれないほどの多くの先祖たちに向かって、ココロの中でありがとうを言った。
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2006年09月27日(水) ■ |
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Vol.664 最近の老いた者は |
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おはようございます。りょうちんです。
最近の若い者は。社会の常識やマナーにおいて、そういうコトバで若者たちを批判する声がよく聞かれる。俺自身34歳という年齢で、そんな批判を言う方の側にいるのか言われる方の側にいるのかよくわからないけれど。個人的には、自分より年下か同年代よりも、むしろ年上の人に対してそう思うことの方が多い気がする。「最近の若い者は…」というよりは、「最近の老いた者は…」と思ってしまうのだ。 混雑した電車の中で。新聞を広げ、大きく足を組んで席をつめようとしないおじさん。けたたましいケータイの着信音とともに、大声で話をはじめるおばさん。コンビニにて。レジでお金を放り、店員に向かってあごで指図しながら偉そうにふんぞり返っているおじさん。列なんて関係なしに、当たり前のように割り込んできて自分の用件ばかりを言うおばさん。高校野球観戦中のスタジアムで。場内禁煙だと放送までされているのに、我が物顔でタバコに火をつけるおじさん。大きなゴミを大量に置き去りにして、涼しい顔で去っていくおばさん。もちろん、若い人たちの中にも常識やマナーを知らない不届き者もいるし、紳士的で社会の模範となるようなおじさんやおばさんもたくさんいる。だからこそ、そういうなってない年上の人に出会うと、俺は余計に腹立たしく思ってしまうのかもしれない。 そこで、なぜそういう人たちが存在してしまうのかを俺なりに分析してみた。その1、良くない行為自体を本人が把握してない場合。これは年齢に関係なく言えるのだが、それがマナー違反だと本人が認識してないのなら、第三者が注意してあげれば解決はする。しかしタチの悪いのがその2、良くない行為だとわかっていながら直さない場合。年を取った分だけ偉くなると勘違いしているのか、年下の人に向かって明らかに横柄な態度を取ったり、自分だけは例外だと堂々と常識はずれのことをしたりする人もいる。これはもはや意識の問題で、すぐにはどうにもできない。 とにかく、少なくとも俺はそんな人には絶対にならないようにとココロに誓い、年を重ねていこうと思うのである。
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2006年09月22日(金) ■ |
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Vol.663 最近の若い者は |
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おはようございます。りょうちんです。
別の店で働く先輩社員のFさんがため息をこぼしていた。「うちのバイト、みんな楽しんで仕事をやってんのかなぁ?」。話を聞くとこうだった。先輩の店で働く大学生や高校生のバイトくんたちが、みんな無気力に感じられる。与えた仕事はこなしても、それ以上をすすんでやろうとしない。働く意欲が全然感じられず、まるで覇気がない。横のつながりも浅く、バイト同士で遊ぶどころかメール交換さえしていない人もいる。だからこそリーダー格になる人がいないため、必然的にバイトの質も下がる、と。そして最後に、「バイトが仕事を楽しんでやってるって感じが全然しないんだよね…、りょうちんの店はそうじゃない?」と質問された。 最近の若い者は、なんて言い方を俺は絶対にしたくない。日々の生活の中で、若者よりもむしろ自分より年配の人に文句を言いたいと思うことの方が俺には多いし、何よりそうやって十把からげにして断定することは明らかにまちがっていると思うからだ。だが、全員が全員そうじゃないという条件付きで言わせてもらうならば、今の二十歳前後の人たちは以前に比べると無気力な人が増えてきている傾向にあるのかもしれないなと、先輩同様に俺も思ってしまうことが確かにあったりする。 バイトは、みんなやっているし部活もしてないし時間もあまってるから、というネガティブな理由で続けている人が最近多くなった気がする。確かに、昔もそんな考えの人はいた。でも、バイトを続けていくうちにお金を稼ぐ以外にも、仕事を覚える喜びだとか仲間との交友だとか、もっと楽しいことがたくさん見つかるはずなのだ。少なくとも俺が学生時代はそうだった。働くって、本来楽しいことなのだ。 自分の店に帰って、高校生バイトのRちゃんに真相を聞いてみた。すると、「バイトは超楽しいですよ。ここで学んだことはホント多いし、私はバイトですごく成長しましたよ。この前Tくんも同じコト言ってましたし!」と目を輝かせて即答してくれた。うれしかった。バイトに恵まれて良かったなと思った。そして最近の若い者の中にも、こんなふうに無気力じゃない人も確かにいるんだと、俺は確信した。
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2006年09月20日(水) ■ |
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Vol.662 道を尋ねられる |
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おはようございます。りょうちんです。
まだ夏がはじまる前のこと。仕事の途中、店の前で若い女の人に声をかけられた。「すみません、○○というパスタ屋さんってどこにあるかわかりますか?」。そのパスタ屋さん、おしゃれな店構えでリーズナブルなランチがとてもおいしいと評判の、このあたりではちょっと有名な店なのだ。 だが、背後からかけられた彼女の質問があまりにも突然すぎて、俺は適切な受け答えができなかった。「あ、あっちです…」、そう言って指さすのが精一杯。彼女は俺のしどろもどろの応対にも律儀に礼を言って、足早に歩いていった。しかし俺は彼女のうしろ姿をぼんやりと眺めつつ、次第に後悔と不安の念にかられていく。あぁ、どうしてもっと丁寧に教えてあげられなかったんだろう。とっさの質問とはいえ、なんでもっと上手く説明できなかったかなぁ。「あっちです」だけの答えで、彼女はちゃんと辿り着けたんだろうか。今なら、「通りをまっすぐ行って信号を越えると左側にあります。5分もかかりませんよ!」と的確に案内できるのに。 誰かに道を尋ねられるなんて、そうしょっちゅうあることではない。しかもそういう時はいつだって突然で、ココロの準備なんてできてないのが普通だ。だけど、いくらとっさの出来事でも、頭の中ではわかっていることを即座に上手く説明するチカラがないと、何の役にも立たない。英単語は知っているのに、それを文章にしようとした時に文法の方がごちゃごちゃになって、いきなりちゃんとした英会話ができないのとどこか似ている気がする。道案内の練習なんてする必要はないけど、とっさの時に上手く説明するチカラを身につけておく必要はあるんじゃないか。その日以来、そんなことを俺はココロの片隅に留めておくようになった。 先日、信号待ちをしていると初老の女性に道を尋ねられた。「市役所はどちらですか?」。「この道をまっすぐ行って2つ目の信号を右に曲がってください。そうすると左側に市役所が見えてきます。10分くらいで行けますよ!」。完璧だった。あの日の出来事のおかげで、上手く道案内ができた自分がとてもうれしかった。
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2006年08月31日(木) ■ |
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Vol.661 俺が実家に帰る理由 |
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おはようございます。りょうちんです。
祖母が生きていた頃、毎年のようにきゅうりの古漬けを作ってくれた。大好きだった祖母の作ったきゅうりの古漬け。だが祖母が亡くなり、あの古漬けが食べられなくなってから10年以上たつ。母に、あの古漬けが食べたいと言ってみた。すると母は同じようにきゅうりの古漬けを作ってくれたのだが、食べてみるとどこか違う。確かにおいしいけれど、上手くコトバにはできないがあの頃食べていた祖母が作ったものとは明らかに微妙に味が異なるのだ。たかが漬物だから、材料なんてシンプルなものだし、作り方だって難しくはないはずだ。なのになぜ同じ味にならないのか。きっと、祖母しか知らない隠し味や秘密のひと手間があったのだろう。祖母が作ったあのきゅうりの古漬けは、きっともう二度と食べることはできない。 例えば、そういうことだ。亡くなってしまった人に聞きたいことがあっても、教えてくれない。教えてもらいたくても、もう遅いのだ。だから俺は、今のうちに父や母の知っていることをできる限り教えてもらいたいと思う。いつかはわからないが、この先父や母がこの世にいなくなった時、知らなかった、聞いておけばよかったと後悔しないように、今のうちにいろんなことを教えておいて欲しい。聞いておきたいこと、知らなくちゃいけないこと、伝えておいてほしいことは、山のようにあるはずなのだから。 だが、改めて父や母に何を教えて欲しいのか具体的に挙げてみようとしても、急には思い浮かばない。教えてほしいことは山ほどあるはずなのに、何からどうやって聞いて良いのかさえわからないのだ。だから俺は、できる限り父や母と一緒に時間を過ごしたいと考える。かしこまって何かを質問するよりも、一緒にいる中で何気ない会話やコミュニケーションを交わしていくうちに、自然といろんなことを教えてもらえればそれで良いと思う。伝えるということは、むしろそういう手段の方が大切な時もある。以上、これが俺が実家に帰る理由である。きっかけなんて何でも良い。俺はただ、実家に帰って父や母と一緒に過ごしたいだけなのだ。
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