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2011年07月31日(日) ■ |
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Vol.780 田舎ライフに憧れる |
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おはようございます。りょうちんです。
2学期が始まって久しぶりに学校に行くと、全身真っ黒に日焼けしたクラスメイトが必ずひとりかふたりはいた。海水浴には何回くらい行ったのか聞くと、「だって田舎のおじいちゃんの家が海のすぐそばにあるから、ほとんど毎日泳ぎに行ってたよ!」なんて得意げな顔で言う。そんな彼が、俺は無性にうらやましかった。父も母も地元出身なので、俺には田舎がない。だから小学生の頃は、夏休みは田舎に帰るという友達がすごくうらやましくて、すごく田舎ライフに憧れる俺だったのだ。 いつだったか母に、俺も田舎に帰りたいとごねてぐずったことがある。もちろん友達が話してくれたように、海がすぐそばにあって毎日海水浴に行けるような田舎なら最高だが、この際そんな贅沢は言わない。田舎と呼べるどこか遠い場所、ひとりで行くには到底無理な電車や車を何時間も使わなければ行けないところにあって、優しいおじいちゃんやおばあちゃんが待っていてくれる、そんな田舎が俺にも欲しいと訴えたのだった。でも母は、うちは本家だからお盆になれば逆に親戚の人たちが集まってくるし、ここがみんなの田舎にあたるんだよと諭してくれたのだが。やっぱり俺はそんな説明じゃ、なんだか納得ができなかった。 でも、海水浴こそ毎日できなかったが、俺はずいぶん憧れていた田舎ライフに近いものをしていた気がする。カブトムシやセミ捕りに行ったり、スイカやトウモロコシをたらふく食べたり、自転車を乗り回してあちこちを探検したり、夏祭りや肝試しなど地元のイベントで大騒ぎしたり、時々は隣の町にあるプールに友達と出かけたり。夏休みの宿題なんかそっちのけで、毎日朝から日が暮れるまで汗まみれで遊び呆けていた。今思えば、十分にうらやましがられるような田舎ライフをしていたと思えるのに。あの頃の俺は、そんなことすら気づかないバカな少年だったのだ。 今でこそ俺に田舎がないことに、コンプレックスも不満ももはや感じないのだが。あの頃憧れていた田舎ライフは、やっぱり今でも少しだけうらやましく思える時もある。
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2011年06月30日(木) ■ |
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Vol.779 おばあちゃんの昔話 |
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おはようございます。りょうちんです。
伊豆でのんびり暮らしている相方のおばあちゃんは、今月誕生日を迎えて満96歳になった。相方がおばあちゃんに会いに行くのに時々俺も一緒にくっついてお供するのだが、96歳とは思えないご健全ぶりには毎回驚かされる。少し耳が遠くて大きな声でゆっくり話す配慮は必要だが、あらゆる分野に精通していて博学なのだ。俺らが読めない難しい漢字もすらすら読んでびっくりさせる。部屋には小説が山積みされているし、その横にはすでに大半が完成したクロスワードパズルやら数独の本がたくさん置かれている。おばあちゃんにとっては、ボケなんて一生無縁なのだ。 それだけじゃない。足腰もまったく丈夫であちこち出かけるし、見るからに健康そのものである。好奇心旺盛なのが若さと元気の秘訣だと俺は思っているが、一昨年の夏に相方と皆既日食を見に上海まで旅行したのには度肝を抜かれた。先日お伺いした時も、動物園に遊びに行ったり買い物に連れ出したりしたのにまったく疲れを知らないようで、夜は中華でおなかを満たしたあと誕生日祝いのケーキは別腹だと言ってぺろりとたいらげた。相方が自慢のおばあちゃんだと胸を張るのも当然だ。 でもよく考えてみると。大正生まれのおばあちゃんは、昭和前期の激動の時代を生き抜いてきた。俺らの知らない大変な苦労もたくさんされてきたに違いない。昔の辛く貧しく暗い時代をあまり語りたがらない人は多いが、それでもおばあちゃんは俺や孫である相方に昔の話を惜しげもなくしてくれる。関東大震災の話も、戦争で疎開した話も、昔を懐かしむように楽しそうに。 俺の祖父母はすでに他界してしまったので、大正から昭和初期の頃の話を直接知りたくてもなかなか難しい。だからおばあちゃんの話はとても貴重で、リアルに体験してきただけ説得力がある。教科書では学べなかった歴史を身をもって語ってくれる。本人は気づいてないと思うが、おばあちゃんの昔話はかけがえのない財産なのだ。おばあちゃんにはなかなか会いに行けないけれど、ありがたい話がまた聞けるのを俺は楽しみにしている。
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2011年05月25日(水) ■ |
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Vol.778 タケノコの季節 |
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おはようございます。りょうちんです。
お彼岸の間に墓参りに行けなかったことがココロの片隅でずっと気になっていた俺は、ゴールデンウィークが明けた最初の休みを使って久しぶりに墓参りに行った。桶に水を汲もうと集会所に脇にある水道に向かうと、なんだかシンクがかなり傾いている。ここも地震でやられちゃったのかななんて最初は思っていたのだが、良く見るとシンクの下からタケノコが生えてきていて、シンクそのものをぐっと押し上げていた。墓地の隣が竹林だから、これはもうどうしようもない。 その足で実家に寄ると、ご近所からいただいたタケノコがたくさんあった。今朝掘ったばかりの新鮮なタケノコだから、好きなだけ持っていけと父は言う。そうだ、まさにこの季節はタケノコの季節なのだ。雨後のタケノコとはよく言ったもので、雨が降ったあとの竹林ではタケノコが次々に生えてきてしまう。竹の生命力はすごくて、至るところで顔を出したタケノコは放っておけばみるみる成長して立派な竹になってしまうし、そうなると今度は逆に手入れをするのに手間がかかってしまうため、柔らかいタケノコの時分に収穫してしまうのがいちばんなのだそうだ。今年は寒かったせいかタケノコの時期も例年より遅かったが、父のコトバに甘えて大きなタケノコを数本頂戴した。しかし我が家に帰ると相方も職場から立派なタケノコをもらってきていて、翌日にはバイトくんからも自宅の裏山で採れたタケノコをたっぷりいただいた。なんてうれしいタケノコ地獄。 さっそく皮をむいて準備に取り掛かる。糠を入れた水で1時間ほど下茹でして、冷めたらよく洗って冷蔵庫へ。これで数日は大丈夫。あとは小分けにして、タケノコごはん、若竹汁、天ぷら、チンジャオロースー、土佐煮と次々に食卓に並んだ。どれもこれも本当においしくて、旬のものをその季節にいただけることがとてもありがたいと思った。 5月も下旬に入りタケノコの季節はもう終わってしまったが、父がまた教えてくれた。「今度はワラビがたくさん生えてるよ!」。
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2011年05月07日(土) ■ |
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Vol.777 今日をのりこえる |
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おはようございます。りょうちんです。
♪昨日いろいろありまして なんだか足が重いけど ぐっとおへそに力を込めて 今日をのりこえる♪ 真心ブラザーズの「のりこえるの歌」を口ずさんでみた。仕事で疲れきってぐったりしたカラダとココロに、彼らの歌詞はひどく沁みてくる。 東日本大震災は、間接的に俺の仕事にも大きな影響をもたらした。余震が続く中、一刻も早く日常の業務に戻すため普段やり慣れない仕事でパワーを使ったり、あまり計画的とは言えない計画停電に俺らは踊らされたり。震災から2週間もすれば表面的には仕事もほぼ震災前と同じように復旧したものの、世間の自粛ムードから一時的に店の売上も例外なく極端に落ち込み、俺らの業務体制も会社全体で見直しが計られた。これにともない、俺の労働時間は急増し休日もろくに取れなくなった。 春からは今年も高校野球観戦に熱中したいという願望は見事に崩れ、センバツは通勤の間だけカーラジオで聞くのが手一杯だったし、春季大会が始まっても観戦に行くのはほぼ不可能だった。天気が良いほど、悲しい気持ちが胸を締めつける。 体力的に疲労困憊でもゆっくりカラダを休めることができず、見通しのきかない将来に精神的にも追い詰められて、ホントに久しぶりに仕事のせいで打ちのめられそうになった。震災直後から災害ボランティアに行きたくて毎日チェックしていた俺だが、そうすることは今のきつい現状から逃げることになる気もして、結局は仕事を捨てて行くことはできなかった。あの時、何もかもすべてをほっぽり出して被災地へ行きたいと申請していたら、会社は快く送り出してくれていただろうか。 それでも、復興に励む被災者たちの前向きな笑顔に俺は救われた。たいした被害も受けなかった俺はまだ恵まれている。家族も家もすべて失った人たちだって、辛い日々の中でなんとかがんばって今日をのりこえているに違いない。俺も負けてられない。がんばらなくちゃ。俺の背中を押してくれるメロディーは、さらに続く。♪昨日もろもろありまして 気まずい空気を感じます そんな時こそ勇気を出して おはようございます♪
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2011年05月05日(木) ■ |
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Vol.776 伊豆大島体験記・後編 |
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おはようございます。りょうちんです。
前回の続き、伊豆大島体験記・後編。 さすがに朝まで熟睡できるはずもなく。幸い避難指示は解除されたので港のフェリー乗り場へ行ってみたが、大津波警報が出ている限りフェリーは動かないと言われた。翌日は仕事の予定だったが、当面は伊豆大島から出られないと腹をくくる。と同時に、それなら仕方ないと割り切って俺らは観光を再開する決意を固めた。 午後になって大島公園の動物園にいると、島内アナウンスが流れた。大津波警報が津波注意報に変わったので、伊東行きの臨時便が出航するとのこと。伊東から千葉まではかなり遠回りになるのでさんざん迷ったが、またいつ津波が来るかもわからないし東海道線も動き始めたらしいので、俺らは再び港へ向かうことにした。 港では町長や役場の職員たちが、大勢見送りに来てくれていた。こんなVIP待遇を受けるなんてそうそうないと思いつつ、伊豆大島での2日間を思い返してみる。震災のせいで夜まつりも椿まつりも中止になり浜の湯も臨時休業になってしまったが、各所で出会う伊豆大島の人たちは誰もが温かかった。椿園のおじさんも土産屋のおばちゃんも観光案内所の職員もレンタカー屋のスタッフも、大変な時に伊豆大島に来ちゃったねぇと口をそろえて言ってくれた。くさや屋のおばちゃんは乗りかけた車まで追いかけてきて、手作りマフィンとお茶を俺らに押し付けて帰っていった。泊まれなかった船宿に帰り際にごあいさつに行くと、ご主人と女将さんは夕食で出るはずの金目鯛とあしたばを保冷箱に入れて持たせてくれた。困った時はお互いさまの精神は、25年前の三原山の噴火で全島避難を経験しているからか。本当にありがたい。予定は大幅に狂ったが、普段できないことをたくさん体験できた。 伊東からはのんびり各駅停車で帰ってきた。帰宅したのは日付も変わる頃になってしまったが、翌日の仕事には支障はなさそうだ。自宅では地震でTVがぶっ飛んでてびっくりしたけれど。伊豆大島で出会った人たちに感謝の気持ちを込めて、後日お礼の手紙を送った。来年また椿が咲く頃、もう一度伊豆大島に行こうと思う。
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2011年05月04日(水) ■ |
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Vol.775 伊豆大島体験記・前編 |
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おはようございます。りょうちんです。
相方と上手く連休を重ねられたので、急遽伊豆大島に行こうと思い立った。3月11日の朝、俺らは館山発伊豆大島行きの高速フェリーに乗る。東日本大震災が起きた日、その時ふたりは千葉を離れ伊豆大島にいた。 名物のくさや定食とべっこう丼をランチで食べて、午後からは三原山に登った。飛ばされそうなくらいの強風だったが、登山道も後半に入った頃、地面がぐらぐら揺れているのに気がついた。直後、かすかに聞こえるサイレンの音。島内アナウンスは風に消されてほとんど聞こえなかったが、見晴台まで戻ると駐在さんに大津波警報が出たから海岸線には行けないことを告げられた。 カーラジオからの情報で大きな被害が出ていることは知っていたが、それでも俺らはのんきに観光を続け、夕方予約してあった港近くの船宿に向かった。しかし港に入るかなり手前から立ち入り禁止に。避難指示に従い、俺らも住民が避難しているコミュニティセンターに行くようお巡りさんに言われた。そこで船宿のご主人と女将さんに会う。ふたりともとても恐縮していたが、「こんな時だから仕方ないですよ!」と俺らは笑った。パイプ椅子に座り消防団の人が用意してくれたお茶を飲んで避難していると、観光客は町役場に移動してほしいとのこと。借りていたレンタカーで今度は役場に向かうと、ホールにはすでに大勢の観光客が集められていた。 やがて町長直々のごあいさつ。津波のためフェリーの運行が再開されるのはいつになるかわからないこと、今夜泊まる宿がない人は町役場が高台にある宿泊施設を斡旋することなどをご説明される。お見舞金までいただいて夜もずいぶん更け込んだ頃、俺らは紹介されたホテルへ向かった。観光客数と部屋数の関係で、生まれて初めての相部屋を体験する。新鮮な魚を期待して来た伊豆大島だが、夕食はホテルで出されたおにぎりとカップ麺に変わった。 俺らの伊豆大島体験記・前編はここまで。後編に続く。
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2011年04月24日(日) ■ |
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Vol.774 未来はあるよ |
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おはようございます。りょうちんです。
阪神淡路大震災が起きたのは、俺が大学生だった時。TVのニュースはあまりにも衝撃的な映像を流し続けた。めちゃくちゃになった街、炎を上げる家、途方に暮れる人々。まるで戦時中に空襲にでも遭ったような悲惨な風景が、平成という時代の日本でまさにオンタイムで起きているなんて。死者や行方不明者が何千人と膨れ上がるにつれ、こんなにひどい災害はこれが最後だろうと俺は勝手に信じていた。 あれからわずか16年、さらにそれを上回る悲劇が起きてしまった。今日現在、死者と行方不明者を合わせると27000人強。それだけが災害の規模を表すわけではないけれど、これが最悪の災害だと思っていた阪神淡路大震災をけた違いに超えて、東日本大震災は日本中に悲しみを連れて突然やってきた。地震や津波の恐怖と不安は1ヶ月以上過ぎた今でも消えることなく、たくさんの人がまだ絶望の中にいる。 でも、俺は思う。悲劇が訪れたあの日から、日本は少し変わったかもしれないと。いや、変わったんじゃなく、本来の日本の姿やもともと持っている日本人の特徴が、この東日本大震災をきっかけにはっきりした気がする。災害時でもパニックにならず冷静に行動したことや、秩序を守り治安が乱れなかったことは海外からも賞賛されたらしい。どんなに悲しみに暮れても泣き叫ぶことなく、辛くてもじっと耐えながら笑顔を作り前向きにがんばっている被災者の姿は、何度もTVの映像で見た。思わず涙があふれてしまった心温まるエピソードや感動秘話をいくつも聞いたし、あちこちで励ましや応援が飛び交っている。災害直後から迅速にボランティアが動き出し、大きな力になっているという話も聞いた。非難はいろいろあるが、政府の対応も俺はほとんどベストを尽くしていると思う。誰も彼もが、一生懸命だ。 日本人は愛国心がないとか、最近は他人を思いやる気持ちが薄れたとか。そんな悪い固定観念が、俺の心を縛っていた。でも、そんなことない。みんな、やればできる。自画自賛だが、日本人ってすごい。誇りに思う。これくらいでダメになる日本じゃないんだ。今はまだ絶望の中でも、きっと大丈夫。この国に未来はあるよ。
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2011年03月02日(水) ■ |
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Vol.773 旅先でのハプニング |
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おはようございます。りょうちんです。
先月の初め、両親を連れてドライブに出かけた。目的地は水仙の花で有名な房総半島の保田という場所。花の見頃はすでに過ぎてしまっていたが、水仙ロードと呼ばれる小道の最終地点である人工湖で、俺らはちょっとおもしろい体験をした。 湖の駐車場に車を停めていると、恰幅の良いおばあさんがふたり、血相を変えてひどく慌てた様子で近づいてきた。いくら暖かな日だったとはいえ、まだ2月。なのに彼女たちは上着を脇に抱えシャツ一枚、しかも額に光る汗をハンドタオルでぬぐっていた。事情を聞くと、ずっとバス停を探しているんだという。あいにく俺らも初めての土地、どちらにバス停があるのか、そもそもこのあたりにバスが通っているのかさえ知らない状態なのだ。少なくとも今俺らが通って来た道にはバス停など見かけなかったと話すと、彼女たちは逆の方向に向かって再び歩き出した。 それからもう俺らは、彼女たちが無事にバス停を見つけられたのか、そればかり気になって仕方なかった。散歩も適当に切り上げて俺らは車に乗りこむと、もしもこの先まだバス停を探している彼女たちを見つけたら、今度は車に乗せてあげようと意見が一致した。車を走らせアップダウンの激しい山道をさらに進むと、そこにはまだ必死でバス停を探して歩き続ける彼女たちがいた。 車の中で、息を切らしながら話す彼女たちに耳を傾ける。ひと足早い春を見つけに房総半島まで来た彼女たちは雪深い長野に住む姉妹で、駅からバスに乗って湖まで来たものの降りたバス停がどこだったのかわからなくなってしまったんだそうだ。「まったくふたりともひどい方向音痴なんだから!」と笑っていたが、時計を見るとバスはとっくに出発していたので、車はそのまま駅へ向かうことにした。見ず知らずの人を乗せたわずか20分のドライブ。これも何かの縁だと思う。 旅先でのハプニングは、俺にも数え切れないほどある。その時はどうしようかと青くなり必死になるけれど、あとから思い返すと逆にそれこそが楽しかったりする。彼女たちも、あの日の出来事はステキな思い出に変わっただろうか。
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2011年02月14日(月) ■ |
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Vol.772 楽しい合宿教習 |
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おはようございます。りょうちんです。
車の免許を取ってから、もうずいぶん経つ。当時大学生だった俺は、ひとり暮らしをしていた部屋から歩いて3分とかからない場所に自動車教習所があったため、迷わずそこに通うことにした。教習所から大学行きの無料送迎バスも出ていたので、教習を受けない時もちゃっかりバスに乗り込んで通学の手段にしたこともあった。 友達の中には短期の合宿教習で免許を取得した人もいたが、ウワサによるとこれが最悪な評判しか入ってこなかった。コンビニすらないひどく辺鄙な地方の村でおこなわれる合宿に集まってくるのは、ガラの悪いヤンキーばかり。汚くてボロくて狭い合宿部屋は、彼らとの相部屋。仮免許がもらえるまでの半月はまさに地獄。おまけに教官は厳しいが、決められた期間内で教習過程を終わらせなくてはならないため、普通に教習所に通うより合宿教習の方が事故率が高いらしいのだ。そんな悪い情報を聞くたび、合宿教習に行かなくて良かったと俺は胸をなでおろすのだった。 あれから時は過ぎ、時代は変わった。車の免許を取ろうと思う若い世代の人口は減少し、教習所も変わらなければビジネスとして成り立たなくなったんだろう。今春高校を卒業するバイトのIちゃんが持っていた合宿教習のパンフレットを見て、俺は驚いた。冷暖房完備のホテル並みの合宿部屋はもちろん個室で、期間中の食事は毎日3食ついている。おまけに近隣のアミューズメントパークや温泉への招待があったり、仮免許が取れれば地元の名産品をプレゼントなんて特典があったり。至れり尽くせりの条件で快適に免許が取れるなんて、まるでちょっとした旅行でもするかのような内容なのだ。これなら俺だって合宿免許に行きたいと思っちゃう。 そんなIちゃんが、今まさに合宿教習を受けに行っている。場所は山形県米沢市。なぜこの2月にそんな雪深い場所を選んだのかツッコミどころ満載だが、申し込む時点では雪のことはまったく頭になかったそうだ。きっと米沢牛と温泉に釣られたに違いない。教習車は除雪車かもよなんて俺は笑って送り出したが、今頃彼女は楽しい合宿教習を送っているだろうか。順調ならば、まもなく彼女が帰ってくる。
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2011年01月08日(土) ■ |
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Vol.771 ありがとうでいっぱい |
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おはようございます。りょうちんです。
いつだったか昔、仕事が上手くいかずにいらだっている俺を見て、高校生のバイトくんが「もっと牛乳を飲んだ方が良いんじゃないですか?」と声をかけてくれたことがある。カルシウムが不足すると些細なことでも神経過敏になって、すぐ怒りっぽくなる。そんな時は牛乳を飲んでカルシウムを補給すると、いらいらした気持ちもすぐに落ち着くと教えられた彼女の小さな親切、というか皮肉だったのだろう。牛乳を飲めばいらいらしないというのは半分気休めだと思うが、あの頃から俺はできる限り怒るという感情を表に出さないよう気を遣ってきたつもりだった。 さて。去年の俺のテーマは「感謝」。すべてのものに感謝をするということを目標に掲げて、当たり前なんて何ひとつないはずだから、訪れる日々がありふれた毎日でも感謝の気持ちを忘れず生きていこうと決めた。今、それを振り返ってみる。 確かに2010年を思い返してみると、特に大きな変化があった年ではなかった。とびきりのビッグニュースもなかったし、小さな良いことも些細な悪いことも同じくらいずつほとんど順番どおりに俺に身に降りかかってきた気がする。だからこそ淡々とした似たような日々の繰り返しだったと思いがちだが、ココロの片隅ではいつも穏やかに過ぎ去っていく毎日にありがとうと手を合わせることを忘れなかった。毎回ひとつひとつに逐一感謝をするとまではいかなくとも、今穏やかでいられるこの状況は、さまざまな偶然と自分ひとりでは成り立たない恵まれた環境とまわりの人の協力があってこそ、という気持ちはいつも漠然と胸に感じていた。だから2011年を無事に迎えられたことも、実はありがとうでいっぱいなのだ。 それでもいらいらしたことはやっぱりどうしてもあって、けして牛乳やカルシウムが不足していたわけでも感謝の気持ちを忘れたわけでもないのだが、職場でも家でも実家でも時々いらだって機嫌が悪くなりちょっと自己嫌悪に陥った時は、少なからず反省が必要だったと思うのだ。今年は腹を立ててもスマイルでいかなきゃな。 そういうわけで最後になってしまったけれど、今年もよろしくお願いいたします!
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