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りょうちんのひとりごと
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2012年04月30日(月)
Vol.790 時間が早く進む魔法

おはようございます。りょうちんです。

昔から、俺は薄々感づいていた。俺には魔法がかけられていることを。時間が早く進む魔法を知らないうちに俺はこっそりかけられていて、そしていつの日か魔法使いが現れて俺にこう言うのだ。「ごめんごめん、お前を驚かすために黙っていたけど、親や家族や相方や友達などお前を取り巻くすべての人に協力してもらい、時間が早く進む魔法をかけていたんだ。今すぐそれを解いてやる!」と。そして俺は、「そうでしょう。ちょっと変だと思ってた。だってこんなに早く時間が進んでしまうはずないもん!」と笑い、魔法使いから魔法を解いてもらうのだ。
こんなことは妄想の世界の話で現実にはありえないと口では言いながらも、ココロの片隅では常に魔法使いの存在を信じていた俺。10代の頃に思いついた妄想は、20代では真剣に魔法使いの登場を待ち望み、30代になるとそろそろ魔法使いが現れてくれないと遅過ぎると焦り出し、今月ついに俺は40代を迎えた。まだ、俺の前には魔法使いはあらわれていない。そしてやっと俺は気づいたのだ。魔法使いなんていないと。そもそも俺には、時間が早く進む魔法なんてかけられていないと。
時間は誰にも平等に流れていく。俺だけが魔法にかけられているはずはない。現に俺は40回分の春夏秋冬を経験してきたし、そのそれぞれに大切な思い出がある。こんなに早く時間が進むはずがないという感覚は錯覚で、この流れの早さが現実だ。40年も生きてきて、それすらちゃんと理解してなかった俺はおかしいのだろうか。
10年前のひとりごとを読み返してみると、30代に突入する直前の俺は毎日のように誕生日までのカウントダウンをしている。そこからは30代に入ることを待ち望んでいるようにも取れるし、30代になってしまうブルーな気持ちも読み取れる。でも30代になるということを意識しているのは明らかだ。あれから10年、40歳の誕生日を迎えた俺はあの頃と違い、40代になったことをなるべく意識しないように努めた。40代になるからといって、そこには希望も絶望もないからだ。俺が30代だろうが40代だろうが俺に劇的な変化はなく、日々は同じように今日も続いていく。



2012年03月30日(金)
Vol.789 PRESENT

おはようございます。りょうちんです。

英和辞典で【present】という単語を引いてみると、「贈り物」という意味の他に「現在」「今」という意味も載っている。そういや高校の英語の授業で、名詞として使う【present】には【now】とほとんど同じ意味で用いられることもあるが、文語的でかしこまった言い方だと教えてもらったような気もする。
春は旅立ちの季節だ。この春も、俺の職場を離れゆくバイトくんたちが数名いる。みんな高校や大学の卒業を機に、進学や就職でやむなくバイトを続けられなくなったのが理由である。優秀なバイトくんたちばかりなので、仕事的にはかなりの痛手だし何より寂しい気持ちは隠せない。中高とバレーボールで鍛えたTさんは、母が昔やっていた仕事に就きたいとゴルフ場のキャディーさんになるし、器用で繊細な作業が得意なSさんは、その特技を活かして都内で調理師として働く。美術系の大学に進学希望だったIさんは、念願が叶い山形県にある美大に通い4月からはひとり暮らしをするそうだ。「なぜ山形なんかに決めたの?」という俺の問いに、「行きたい大学がたまたま山形にあったからです!」とまっすぐに答えた彼女の意志は強かった。Tくんは大学卒業とともに、歌手として華々しい芸能界へ就職することが決まった。教育実習までやったのに建前上教員になるという保険も捨てて、「歌うことが好きだから誰かに自分の想いを歌うことで伝えたい!」と、この春めでたくCDデビューを果たした。有名になれる人なんてほんの一握りの世界なのはわかっているけど、それでもがんばりますと彼は宣言してくれた。みんな夢や希望に向かって旅立ったんだなぁと思うと、俺も応援せずにはいられない。
最近運転中にずっと聴いているのが、Tくんこと寺田竜也さんの『PRESENT』。誰でも時間に限りがあるのだから、タイムリミットがあることを肝に銘じて愛や感謝などの伝えたい想いを今すぐ贈ろうというメッセージソングだ。お世辞抜きで名曲だと思う。これからはこの曲を聴くたびに、がんばっているみんなのことを思い出すのかもしれない。



2012年02月29日(水)
Vol.788 海外旅行を楽しむために

おはようございます。りょうちんです。

3年ぶりの海外旅行ともなれば、気合が入らないわけがない。ましてクアラルンプール、バンコク、デリーとツアーの予約までして立てた計画がことごとく潰れ、やっと実現することになった待望の海外旅行である。今回の行き先はホーチミン。思う存分最大限に久々の海外旅行を楽しむために、努力を惜しむ必要は俺にはない。
航空券とホテルの予約が完了したら、あとは現地を徹底的に調べ上げる。どういった観光地があるか、どんなことが体験できるか、何が名物か、どんなおいしいものが食べられるか。情報が載っている旅行ガイドを図書館から根こそぎ借りてきたりネットを駆使して最新の情報を手に入れたりして、本当に自分がしたいオリジナリティー満載の旅の計画を取捨選択していく。お決まりの観光地を訪れるだけなんて興味ない。特に今回のホーチミンは、滞在時間がほぼ丸2日間しかない弾丸ツアーだ。旅行の楽しみの半分はああだこうだ考えながら計画を練ることだと聞くが、まさにその通り。出発までに、現地の言葉も勉強してみる。現地の人と現地の言葉で触れ合うことで、より海外に来た非日常感が味わえるからだ。聞き慣れない異国語は日常会話すらほとんどマスターできないが、最低でもあいさつ程度は覚えたい。
十分な準備期間を経て、いざ出発。滞在時間はわずか、1秒も無駄にできない。ぎゅうぎゅう詰めの計画に従って、行動を始める。穴が開くほど見返した旅行ガイドの地図のおかげで、大きな建物や通りの名前はすでに頭の中に入っている。計画中に想像していたことと実際に体験することのギャップを楽しみつつ、旅は続く。綿密にリサーチしたにもかかわらず、予期せぬハプニングにも遭遇する。そしてそのハプニングを大いに楽しむ。旅は最初から最後まで、貴重な経験の連続なのだ。
帰国後も、旅行の余韻にとことん浸る。買ってきたお土産や記念にもらったパンフレットや撮った写真などを見返し、あの日のあの時間はあの場所でこんなことをしていたとか何度も思い返してみる。こうやって120%満喫した今回のホーチミン旅行は、俺の中でかけがえのないものになった。



2012年01月31日(火)
Vol.787 おせち料理を作ってみよう

おはようございます。りょうちんです。

昔から俺の実家では、お正月におせち料理を食べる習慣があまりない。父も母も年末は大晦日まで仕事で忙しかったためか、近所のスーパーで有り合わせに買ったかまぼこや栗きんとん程度のすでにできあがったおせちが数種類、正月の食卓に並ぶくらいだった。だからTVや写真で時々目にする美しく重箱に盛りつけられたおせち料理が実は何万円もする高価なものだなんて、大人になってから知った事実なのだ。おせちって好き嫌いもあるし、大金はたいて買うものじゃないだろうと思うのだが。だったら自分でおせち料理を作ってみようかと、そんな気になった。
最近は男が台所に立つのも当たり前になり、俺も自分と相方の食事は適当に作っている。料理が趣味と言う男性も増えたが、おせち料理まで自分で作る男はそんなにいないだろう。おせちを作れるなんてカッコイイかも。そう考えると俄然やる気が沸いてきて、さっそく俺は図書館で「おせち基本帳」なる本を借りてきた。年末年始は例年以上に仕事が忙しくおせちを作る余裕はなかったため、旧暦の正月に完成することを目標に準備に取りかかる。1月も後半に入るとさすがにくわいと鯛は手に入らなかったが、スーパーではそれなりに材料もそろえることができた。
おせちを作るには、手間と時間がかかる。俺は休日を丸々おせち作りに費やすことを決めた。黒豆を何時間も煮たり、前日から塩抜きした数の子の塩加減を確かめたり、松前漬けのするめと昆布をはさみで切ったり、栗きんとんのさつまいもを焦げないよう火にかけたり。「おせち基本帳」には、面倒な工程もいろいろありますがその手間を楽しみつつ無理せず作りましょうと書かれている。そのコトバを胸に、俺は黙々と作業を進めていった。結局一日では作り切れず翌日と翌々日も仕事が終わってからおせち作りを続け、やっと23品のおせち料理が3段の重箱に並んだ。
失敗は多々あったが、予想以上に上出来だ。記念に写真を撮ってから相方に試食してもらうと、大絶賛。材料費2000円程度でこれだけのおせち料理が楽しく作れるなら、これから毎年作ってもいい。あとは年末に時間があれば、であるが。



2011年12月30日(金)
Vol.786 富士山が見える場所

おはようございます。りょうちんです。

千葉県には山という山がない。県の最高峰である愛宕山でさえ408mしかないから、本当にぺったんこだ。周囲の大半を太平洋と東京湾に囲まれてあとは関東平野がどーんと広がっているから、山々が間近に迫り来る景色なんて千葉にいる限りどこに行っても見ることはできない。こういう地形は全国的には珍しいようだが、昔から千葉に住んでいる俺はこれがずっと当たり前だと思っていた。だから遠出をしてかなたに山が見えてくると、ずいぶん遠くまで来ちゃったなぁと思う。
だが千葉にいても、富士山は見ることができる。俺の住む市からはおよそ150kmも離れた場所にあるのにさすが日本一、空気の澄んだ視界良好な日に限って富士山を眺めることができるのだ。実家の近くの広い畑から。高速道路の橋の上から。中学校の屋上から。数少ない富士山が見られる場所は昔から俺にとっては特別なスポットで、そこから運良く富士山を見ることができた時はなんだかとてもラッキーに思えて、少しだけ幸せな気持ちになれるのだ。だから俺はそこに行くと、どんなに視界が悪くても富士山を探してしまう。
冬の初め、良く晴れた朝。最寄駅から我が家の方に向かって線路沿いの緩やかな坂を上り幹線道路に出た橋のたもとで、何気なく目をやるとそこに富士山があった。隣の駅に建つ高層マンションの隙間から見えるのは、真っ白に雪化粧され堂々とした稜線の、あれはまぎれもなく富士山だ。俺の家からわずか3分しか離れていない近所なのに、こんなところに富士山が見える場所があったなんて、10年も住んでいてまったく気づかなかった。
もっと良く富士山が見たくて、橋を渡ってみたり幹線道路を越えて線路沿いの道を先に進んでみたりしたのだが、高層マンションや他の建物が邪魔になってしっかり見える場所はほんのわずかな一部分だけらしい。それでも富士山が見える場所を発見できた喜びと、こんな場所からも富士山が見えるんだという驚きが重なって、なんだかやっぱり俺は幸せな気持ちになった。



2011年11月29日(火)
Vol.785 高校野球観戦2011

おはようございます。りょうちんです。

早いもので今年も11月が終わる。ということは高校野球もシーズンオフに入るということで、俺のライフワークである高校野球観戦もこの前の日曜で今年の最終日を迎えた。そこで今回は、「高校野球観戦2011」と題して今年を振り返ってみる。
言うまでもなく、3月の東日本大震災は高校野球にも大きな影響をもたらした。春季東北大会は開催中止になったし、それでも震災後わずか10日程で開幕した春のセンバツに被災地の高校が出場できたことは本当にすごいと思う。しかし個人的には震災直後から以前のように仕事が休めなくなり、そのせいで例年とは大幅に観戦スケジュールが狂ってしまった。センバツはもちろん、春季大会もほとんど俺は観戦に行くことができず、本格的に試合観戦に復帰できたのは夏の選手権からだった。
それまで思うように観戦できず溜まっていた俺の欲求は、夏以降止まらなくなる。どこかで大会は開かれてないかとこまめにチェックし、地元千葉だけじゃなく車で移動できる球場には極力足を運ぼうと思うようになった。埼玉・茨城・群馬・山梨。試合観戦だけのために深夜に家を出ることも何度もやった。そんな俺を知って少しおかしいでしょと言われたし、客観的に見たらやっぱり俺もそう思う。でも、がんばって辿り着いた球場で初めて出会う球児たちががむしゃらに戦っている試合を見ながら、黙々とスコアをつけている時の幸福感はたまらないのだ。そしてあとからそのスコアを眺めて、白熱した試合を思い出すのも楽しくて仕方ないのだ。ちょっと大げさだが、野球観戦ができる幸せを改めて感じることができるようになった。
今年の観戦数は全部で64試合。去年よりも40試合も少ないが、数は問題じゃない。どれだけ楽しんで観戦できたかという質にある。でもこの季節になると、毎年同じことを考える。来年こそは、高校野球観戦という趣味に力を注がない年でも良いかもしれないと。趣味が義務だと感じて重荷になってしまう前に、アクセルを緩めることも覚えなくてはと。なんて思いながら、春になればまたいそいそと高校野球観戦に出かけてしまう俺だったりするんだろうな。



2011年10月12日(水)
Vol.784 秋の良き日に

おはようございます。りょうちんです。

一概に長男とは、優しく穏やかで慎重派でマイペースで面倒見が良い、という性格らしい。しかし我が4人兄弟の長男は俺であるにもかかわらず、昔からいちばん上のお兄ちゃんらしくないとよく言われてきた。今でも俺が長男だと言っても、そう見えないと言われることが多々ある。確かにそうかもしれない。上記に羅列した長男の性格に、俺はほとんど当てはまらないと自分でも思う。そして俺の代わりにこれらの性格にぴったり当てはまるのが、次男である4歳離れたすぐ下の弟なのだ。
実家の家業を継ぐのも一般には長男が成すべきこととされているが、この大役も我が家では長男の俺ではなく次男である弟が果たしている。父の代まで続いてきた床屋という生業を継ぐ権利があるのは本来長男である俺しかいないのに、俺は勝手な言い分で自ら放棄した。そしてその意志を受け継いだのがまさに弟なのだ。だから俺は、弟にとても感謝している。俺が避けて通った道をきちんと弟が選んでくれて、もしかしたらその道は弟が好きで選んだ道だったのかもしれないが、それがどうであろうと感謝しているには変わりなく、だから俺は弟に頭が上がらないのだ。
そんな弟が、入籍し結婚した。3連休の中日、穏やかに晴れた秋の良き日に、弟たちが去年から計画していた結婚式と披露宴が執り行われた。こだわりのある弟の性格らしく、いろいろと趣向をこらし手の込んだ結婚式と披露宴で、父も母も参列した誰もが喜びを隠せない、本当に良いセレモニーだった。新しい門出を迎えたふたりを、俺はココロから祝福する。
弟よ、結婚おめでとう。そして今までいろいろと頼りない俺の代わりを担ってくれて、どうもありがとう。本当に感謝しています。そしてそれが重荷だと感じたことが少しでもあれば、本当にごめんなさい。今までもこれからもお前の力になってあげられるかどうか自信はないけれど、俺はいつだってふたりの味方です。全力でサポートしていくと約束します。スタートは今、新しい日々はまだ始まったばかり。ふたりがこれからどんなふうに幸せの道を歩んでいくのか、兄として俺はずっと見守っています。



2011年09月28日(水)
Vol.783 俺でなくっちゃ

おはようございます。りょうちんです。

大物司会者が突然芸能界引退の発表をして、芸能ニュースを騒がせている。高視聴率を保っていた彼の看板番組はこれからどうなるのか、打ちきりになるのか、代役を立てるのならばそれは誰なのか。今まさにテレビ局はてんやわんやで、彼の引退のせいでこの秋からは大幅に番組改編をしなくてはならないのかもしれない。でもそんなドタバタも、今だけに違いない。やがて何もなかったかのように番組は作られていき、視聴者ですらメディアから消えた彼の存在を忘れていく。そう遠くはない未来、そんな騒動もあったよねなんて軽く笑って懐かしむくらいに。
先日読んだ小説に、「大概の不安や恐怖はこれから起こる未来のことに対して感じるのであって、本当にそれが起きてしまえば単なる出来事に過ぎない」みたいな一節があった。なんだか妙に納得してしまった俺。確かにそうだ。こうなったらどうしようとかこうなったらイヤだなとか、まだ起こっていないことを自分で勝手に想像して不安や恐怖を覚えてしまう。でも仮に本当にそうなってしまった時は、悲しみやつらさは生まれてもすでに不安や恐怖はそこになく、起こってしまった出来事とどう向き合っていくかを考えるのだ。そしてどんな大きな不安や恐怖だったとしても、最終的にどうにもならなかったことは過去に一度もなく、いろんな人の力を借りながら何とかどうにかなって今に至るのだ。
じゃあ、すべての結果がどうにかなってくれるのならば。意地を張って自分の存在を主張する必要もない気がする。引退した大物司会者がいなくなってもやがて何もなかったように進んでいくのと同じで、今の自分の立場が俺でなくっても大丈夫だろうと考えてしまうのだ。例えば職場で、例えば家族の中で。
そこまで考えて、でもこれって何かが違う、自分の気持ちとは矛盾していると気がついた。どこに矛盾点があって何が食い違っているのか上手く見出せず理屈では説明できないのだが、やっぱりいろんな立場で俺でなくっちゃダメなんだと思われたい。正しい答えはわからないけれど、そんなふうに考える自分がいる。



2011年08月22日(月)
Vol.782 あの夏の恩返し

おはようございます。りょうちんです。

俺が初めてのひとり旅をするにあたって東北一周を選んだ理由は、気仙沼に里帰り中の友人Jちゃんの実家に立ち寄らせてもらうためというのもあったからだ。今から19年前の8月、ちょうど二十歳だった俺は気仙沼にいた。
ケータイ電話もなかった当時、不安だらけの俺が気仙沼の駅を降りると、Jちゃんと彼女のお母さんが車で迎えに来てくれていた。すでに到着していた他の友人とともにそれからの2日間、俺らは盛大なおもてなしを受ける。新鮮なお刺身などの豪華な夕食のあと、小さな居酒屋を営んでいる彼女のお母さんに閉店後のお店に招待してもらい貸し切りでカラオケパーティー。翌日はJちゃんや彼女の妹と一緒に気仙沼大島の観光も堪能して、夜は浜辺で地元の方々とともにBBQ。ご好意で2泊も彼女のご実家に宿泊させてもらったにもかかわらず、帰りは仙台までの長距離を車で送っていただいた。気仙沼で最高のスタートを切った俺は、だからこそ最後まで順調に初めてのみちのくひとり旅ができたのだと確信している。それからも何度か俺の自宅に新鮮な魚介類を郵送してもらったりして、Jちゃんのご家族や気仙沼の方々にはココロの底から本当にお世話になった。
だから、俺にとって気仙沼という街はその時たった一度しか訪れたことはないが、ちょっと思い入れのある場所だったりする。東日本大震災で、気仙沼も津波や大規模な火災で大きな被害を受けたとニュースを聞いた。Jちゃんのご家族やあの時お世話になった方々がどうだったのかずっと心配していたが、久しぶりに彼女たちの近況が入ってきた。気仙沼にひとりで住んでいたJちゃんのお母さんと連絡が取れたのは、震災から4日後。幸い命は無事だったが、自宅は津波で壊滅。今では仮設住宅で暮らしているそうだ。上京したJちゃんも彼女の妹も片付けや諸々の手続きのため何度も気仙沼に戻り、大変なのはこれからも当分続くだろうとのことだ。
2度目の災害ボランティアから帰ってきた相方が、まだまだ瓦礫の山が残ってたと話してくれた。お世話になったあの夏の恩返しを、俺も今こそしたいと強く思う。



2011年08月19日(金)
Vol.781 タフなカラダで

おはようございます。りょうちんです。

夏になると山に登る。恒例となった夏登山も、気づけば今年で7回目を迎えた。富士山や八ヶ岳や日光男体山とかに登ったよと言うと、結構本格的な登山なんだねなんて返されるから、もう胸を張って趣味と言えるだろう。そして今年のターゲットは尾瀬の最高峰である燧ケ岳。ちなみに福島県に位置する燧ケ岳は東北地方の最高峰でもあるので、ここを制すれば東北地方を制したと言っても過言ではない。
8月最初の週末。無理矢理連休を取って、ほとんど寝ないで尾瀬へと向かう。初日はあまり高低差のない尾瀬の湿地帯を歩き体力温存。それでも一日で20Km近くを歩き、結構疲労感を感じて夕方着いた山小屋で一泊。でも本当の戦いは2日目。早朝に山小屋を出発し、目指すは朝霧の中にそびえる標高2356mの燧ケ岳。午前中いっぱい使って、ひたすら山道を登る。先日の大雨で荒れた道なき道は静かに続き、カラダよりも大きな岩がごろごろと転がる。悪戦苦闘しながらひとつひとつ岩を越えること5時間、汗と泥にまみれてやっとのことで800mの壁を登りきり頂上に着いた。頂上での滞在時間はわずか45分。おにぎりを食べて下界を見下ろして、一瞬の至福を味わう。別ルートを選んだ下山道も岩だらけの道。1100mを7時間かけて下り、駐車場に着いた時はすでに夕闇だった。
2日間で約40Kmの距離を歩き、かつ2日目は800m登り、1100m下る。そしてそのまま帰路につき、翌日はわずかな睡眠のあと仕事に向かう。言わずもがな疲労困憊満身創痍で、カラダのいたる部分が痛くてたまらない。仕事中は涼しい顔して「山登りは楽しかったよ!」なんて笑ってみせるけど、本当は一刻も早くカラダを休めたい気持ちなのだ。タフなカラダでなきゃ、正直やってられないと自分でも思う。
でもこんなこと、7年も続けて毎年やっている俺がいる。登山中は苦しくてくじけそうになる時もあるし、帰ってくれば過度な疲労を感じながら仕事に励む。登山なんて何が楽しいのか上手く説明できないけれど、こればかりはやった者しかわからないと思う。過酷な山登りだと承知の上で、来年登る山を俺らは探し始めている。