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りょうちんのひとりごと
りょうちん
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2013年10月31日(木)
Vol.810 どしゃ降りの雨の中で

おはようございます。りょうちんです。

愛車の調子が悪くなり、修理に出した。部品を取り寄せるため数日の入院が必要だが、あいにく代車がすぐに用意できないという。たまにはしばらく車を使わない生活もエコで悪くないだろうと、その時は軽い気持ちで考えていた。
片道6km弱の職場までは徒歩で1時間ちょっと。日頃の運動不足解消にもなるし、秋の穏やかな陽気の中を歩くのはすがすがしくて気分転換にもなり一石二鳥だと思っていたのだが。天気予報を見ると、まもなく台風が関東地方を直撃すると伝えているではないか。多少の雨は覚悟していたが、ほんの数日前まで天気図に影すらなかった台風なんて予想外だ。しかも大型で勢力の強い台風は猛スピードでこちらめがけて進んできている。案の定、午後から降り始めた雨は夜が更けるに連れて急に強さを増し、俺が帰宅する深夜になると徐々に風の音も大きくなってきた。
用意しておいた雨ガッパを上下に纏い、大き目のピニール傘をさして、どしゃ降りの雨の中で俺は家路を急いだ。バケツをひっくり返した様とはまさにこのことかと思うほど、シャワーみたいな勢いで叩きつける雨。時折吹き抜ける突風が、しっかり握った傘の柄を激しく揺らした。完全装備で挑んだはずの俺のカラダは、瞬殺で下着までずぶ濡れになった。横切った川にふと目をやると、いつもは穏やかな川面が今はごおごおと音を立て激流と化している。まさか数時間後に川が決壊してあたり一帯が水没するなんて夢にも思わず、この時の俺はただ必死になって歩き続けていた。どこからかサイレンが聞こえる。こんな真夜中に市の防災アナウンスが流れているかと疑問に思ったが、激しい雨の音で詳細は聞こえない。不安は募る一方だったが、やがてやっとの思いでどうにかこうにか家に辿り着くことができた。
思い出の地、伊豆大島が甚大な被害を受けた台風26号は、俺の住む街にもたった一晩で300mm以上の雨を降らせ各所で土砂崩れや床上浸水など大きな水害をもたらした。こんな時に愛車がないとは、タイミングが悪いとしか言いようがないのだが。久しぶりの大きな水害で、自然を甘く見ていた自分に反省が必要だと思った。



2013年09月29日(日)
Vol.809 ビエンチャンの55時間

おはようございます。りょうちんです。

ラオスという国をご存知だろうか。東南アジアにある唯一の内陸国で、大半がメコン川左岸に広がる国土は日本の本州ほどの面積を持つのに、人口はわずか600万人強の小国である。今月半ば、遅い夏休みを取った俺らはそのラオスの首都、ビエンチャンに行ってきた。東南アジアは最近人気が高いというのに、ラオスに関する情報は本当に少ない。書店でもラオスの旅行ガイドはほとんどないし、インターネットからの情報も集めるのに苦労する。だからこそ未知の世界を訪れる気分になれる。
日本からラオスへ行く直行便はないので、タイのバンコクで乗り継いでビエンチャンに入った。コンパクトなビエンチャンの街に観光地なんて何もないと言われる。タートルアンと呼ばれる金色の塔とフランス統治時代に建てられたパトゥーサイと呼ばれる凱旋門、それにいくつかの市場とあまたの寺社。効率良く回れば半日足らずでそれらのめぼしいスポットはある程度巡れるらしいのだが、俺らはそれにさらにプラスして、2日半の独自のビエンチャンの旅を作り上げた。
オレンジ色の袈裟を纏った僧侶たちが列をなして歩く早朝の托鉢を見学し、地元の人たちと一緒に喜捨をする。活気あふれる市場に向かい、見たことのない野菜や魚や肉の塊などの食料品などを見て回る。自転車を借りて至るところにある寺社を巡り、派手に装飾された上座部仏教の仏閣や石像を見る。ラオスでしか食べられないさまざまな食べ物を、街中の食堂で堪能する。ラオス名物のハーブをふんだんに使ったサウナに入り、伝統的マッサージを受ける。雨季も終わりに近い悪路をバスとトゥクトゥクと呼ばれる三輪タクシーを乗り継いで、郊外まで行ってみる。雄大なメコン川に広がるコトバにならないほどきれいな夕焼けにたそがれる。
日本語は全く通じないから、カタコトの英語ともっとカタコトのラオス語だけでラオスの人たちと触れ合うのが楽しくて仕方なかった。癒しの国ラオス、何もないビエンチャンなんて言われてるけど。俺にとって、滞在したビエンチャンの55時間はとても貴重で、ここでは語りきれないほど刺激の強いディープな時間だった。



2013年08月31日(土)
Vol.808 先生の訃報

おはようございます。りょうちんです。

ひどく暑いその夜、中学時代の友人Sくんからメールが来た。「先生が亡くなったらしいんだけど、詳しいこと知ってる?」と。びっくりした。そんな話、初めて聞いた。一瞬あわてたが、とりあえず何かわかったら連絡すると俺は折り返す。
先生とは、俺の中学時代の恩師である。俺が中学校に入学した年に新任でやってきて、それから卒業するまでの3年間ずっと担任だった。今では考えられないが、当時は管理教育最前線で鉄拳制裁も黙認の厳しい学校生活を余儀なくさせられたが、温和で年齢もあまり離れていなかったせいか比較的打ち解けやすく、数少ない好きな先生のひとりだった。もちろんこっぴどく叱られた思い出もあるが、部活でココロが折れそうになった時や進路で悩んでいた時など、親身になって相談にも乗ってくれた兄貴的存在でもあった。だからこそ卒業してからも俺らの間では先生の話題は時々出てくるし、それが思い出話であってけして悪口ではない。さらに言えば、中学を卒業してもう25年もたつのに、今でもしょっちゅう俺らが集まっているのは先生のあの日の教えがあったからなのかもしれないのだ。
先生の訃報について、友人Oくんと電話で話す。何しろ詳細が全くわかってない。Sくんからの情報はあまりにも曖昧すぎて、先生がいつどこで亡くなったのか、いつまで教鞭を取られていたのか、どちらにお住まいだったのかすら俺は知らないのだ。すでに葬儀も終わってしまったかもしれないが、線香の1本でもあげに行きたい。Oくんのお姉さんが市の教育委員会で仕事をしているのをつてに、詳細を聞き出してもらう約束をして俺は電話を切った。
翌朝。友人Yちゃんからのメールで俺らは安堵する。先生は今も現役で元気に教職をされているとのこと。Sくんからの情報はまったくの誤報だったのだ。Sくんの人騒がせも甚だしいが、ウワサに踊らされた俺らも俺らだ。とにかく元気で良かった。今度みんなで集まる時は先生にもぜひ来てもらおう。一緒に飲んで懐かしい話がしたい。俺らももう、そういうことが抵抗なくできるような年齢になったのだ。



2013年07月28日(日)
Vol.807 ウルトラマンおばちゃんの正体

おはようございます。りょうちんです。

今年も高校野球は夏の選手権の地方大会が各地で大詰めを迎えている。俺も今月に入ってから、千葉だけでなく東東京や群馬の大会にも足を運んだのだが、やはり夏は鋭い日差しやブラバン応援など、特有の雰囲気で必然的にテンションもあがる。
さて。高校野球ファンの中にはオタクと呼ばれる熱狂的ファンもいて、夏はもちろん、春や秋の大会やマイナーな公式戦、好カードの練習試合にも観戦に足を運ぶつわものもいる。恥ずかしながら俺も十分オタクの領域に属しているのかもしれないが、野球場で顔見知りになった人からコアな情報が手に入ることもあるのだ。まぁ一概に高校野球オタクといっても、何に執着するかによって細かく分類できる。選手のプレーを写真に収める写真マニア、選手の情報やチームデータを収集するデータマニア、試合のスコアを取り展開を分析するスコアマニア、チームや選手の応援に徹する応援マニアなど。ちなみに俺はデータマニアとスコアマニアの中間かな。
いろんな高校野球オタクの中でも、応援マニアに属する人は独自の応援方法で高校野球に熱く入れ込むので、やはり周りから注目を浴びやすい。千葉の高校野球で言うならば、その代表的存在としてウルトラマンおばちゃんと呼ばれる人がいる。彼女は試合中にいろんなパフォーマンスで応援チームを盛り上げる。ただ、その応援方法が独特だ。馬のマスクを被ったり。ウルトラマンやおじゃる丸の人形を棒に突き刺して高く掲げたり。上手くないバイオリンやギターを演奏したり。よくわからない自作のポスターを掲げたり。そうやって奇行とも取れるパフォーマンスをしつつ、試合そっちの気で何かを叫びながらスタンド内を歩き回るのだ。誰も彼女の応援に賛同しないし好奇の目で冷ややかな注目をいつも浴びるのだが、そういう熱の入れ方が高校野球に熱くなる彼女の方法らしく、どこか憎めない存在なのだ。
ウルトラマンおばちゃんの正体を、実は俺は全く知らない。俺が高校野球オタクになった10年以上前からすでに有名で、昔はいろんな野球場で彼女に遭遇したが、この夏は一度もお目にかからなかった。体調を崩されたと情報も入り、心配である。



2013年06月30日(日)
Vol.806 少女に何が起こったか

おはようございます。りょうちんです。

相方の夕食を心配する必要のないその日、立ち寄った真夜中の牛丼店。店には先客がいた。50歳前後のおじさんと、中学生くらいの少女。何も考えずふたりが見える席に着いた俺は、腰掛けて初めてその光景がただならぬ雰囲気なのに気がついた。
少女は泣いている。目を赤くして、肩を振るわせながら。おじさんに対して何かを切々と訴えているものの、おじさんはたまに相槌を打ったりうなづいたりして話を聞くだけだ。ふたりの関係は父親と娘か? それとも教師と生徒? いや、この状況からして、もしかしてもっといかがわしい関係かもと疑ってしまう。ふたりの会話に耳を傾けていたが、流れるBGMのせいで会話の詳細はよくわからない。やがて食事を終えたおじさんは、少女に「がんばれよ!」と告げ店を出ていった。少女はおじさんに何度も頭を下げ、ひとりになったあとも大粒の涙は止まらなかった。
しばらくして。今度は少女の母親らしき人が店に入ってきた。少女を見つけるなり大声で一喝する。あわてて従業員が出てきたが、短い会話のあと半ば強引に少女を連れて店を出ていってしまった。残された俺は思わず、「何かあったんですか?」と従業員に尋ねると、苦笑いをしながら事の真相を話してくれた。
少女は母親と言い争いをして、衝動的に家を飛び出してしまった。夜の闇の中、行くあてもないまま灯りのついている牛丼店の前にやってきた。不審に思い従業員は少女を店内へ入れる。未成年者をひとりで帰すわけにはいかないので、従業員は本部に連絡したところ、警察か身内の人に引き渡すよう指示があった。身内の人に来てもらうよう少女に尋ねたが、それはイヤだと拒否をする。そこへ男性のお客さんがやってきて、少女の話を聞き説得をした。やっと納得した少女に母親が迎えに来たのだが、母親は取りつく島もないまま少女を連れ帰ってしまったというのだ。
少女に何が起こったか、俺にはわからない。だが涙を流しても家に帰りたくなかった少女の意地は、相当な覚悟だったのだろう。誰もがいろんな悩みを抱えながら、そうやってぶつかり合ってこそ成長していくのかもしれない。



2013年05月30日(木)
Vol.805 びわはやさしい木の実だから

おはようございます。りょうちんです。

父と母と訪れた道の駅で、旬を迎えたばかりのびわを見つけた。房総半島はびわの産地だ。早いものが店頭に並び始めている。びわはやさしい木の実だからキズがつかないようひとつひとつ包まれて、きれいに箱の中に鎮座していた。6個入り4500円はさすがに手は出せないが、贈り物なら絶対に喜ばれるに違いない。郵送できますという案内があるのを見て、自分用に買う人は少ないのかもと納得する。
社会人も2年目に入ったあの日、俺は南伊豆にある寂れた温泉地にいた。大学時代からの趣味だった温泉巡りも、当時は多忙な仕事のせいでなかなか行けなくなっていたのだが、連休が取れた俺は久しぶりに地図を頼りにひとりで車を走らせたのだった。朝からひとっ風呂浴びて上機嫌な俺は、次の温泉までは車を停めて歩くことに決めた。天気も良く、5月の心地よい薫風が肩を通り抜けていく。海岸線を走る遊歩道から見る太平洋は絶景で、あわただしい日常を忘れさせてくれた。
目的地が近づき、山あいの道に入ったあたりで、頭上から人の声が聞こえる。するとそこには、木に登ったおじいさんとおばあさんがいた。どうやら、たわわに実ったびわの実を収穫しているらしい。目が合ったのであいさつをしてこの先の温泉に入りに来たと告げると、それをきっかけにいろんな話に花が咲いた。農作業の休憩として話す相手に、俺はちょうど良かったようだ。旅にハプニングはつきものだから地元の人と話ができるのも貴重な体験だと、俺もずっとトークに付き合った。
結構長く話し込んだあと、おじいさんに「良かったらびわを持っていきなさい!」と言われた。市場に出せないやつを今からもいで落とすから好きなだけ持ってっていいよと、そこからはしわだらけの手で手際良く収穫されたびわの実が、雨のようにぼたぼたと落ちてきた。遠慮を知らない俺はふたりの好意に甘え、びわを大量に手に入れる。ありがたくいただいた甘い果実は、乾いた喉をうるおしてくれた。
びわを見るとあの日の出来事を思い出す。あの時は高価な果物だなんて意識してなかったけど、あんなにびわを食べることはもうできないだろうな。



2013年04月23日(火)
Vol.804 人生の逆算

おはようございます。りょうちんです。

俺の年齢で老後を心配するのは、やっぱりまだちょっと早い気もする。数年先のことですら、俺はろくに計画できないまま今日まで生きてきたというのに。しかし。人生を逆算してみると、考え方がかなり変わってくることに気がついた。
日本人の平均寿命から計算すると、今月41歳の誕生日を迎えた俺は今、ちょうど人生の折り返し地点付近に立っている。俺に残された時間は、あと約40年。ただし、高齢になるにつれ健康体でいられなくなる可能性も高いので、今のように元気に活動できるのはもっと短い期間になるだろう。やりたいことをいつかやればいいやと後回しにすると、その大半がやれないままで終わってしまうことはすでに学んできた。だから、死ぬまでの間に本当にやりたいことを明確にピックアップして、それにきちんと優先順位をつけ、その都度動いていなくてはならない。また、時間の経過とともに新しくやりたいことが出てきたり、興味が沸くこともある。その時の状況や自分の気持ちをちゃんと見極めて、残された時間をいかに上手く有効に使うかを考える必要もあるのだ。あと約40年という時間は、あっという間に違いない。
幸か不幸か、俺には子どもがいない。だからこそ、自分で働いて稼いだお金を自分のためだけに使うことが許される。子どもが一人前の大人に育つまでにかかる養育費は莫大な金額になると聞いたことがあるが、自分の子や孫のために資産を残す必要が俺にはないのだ。そう考えると、定年まで自分の時間を削って汗水垂らして働くことをしなくてもいいし、ある程度の貯蓄ができたら早期にリタイアして自分のやりたいことに専念する時間を増やすことも可能になる。
41歳の今の俺が、人生の逆算をして死ぬまでに絶対にやりたいと思っていること。両親や相方と一緒に過ごす時間を大切にしたい。国内外問わずまだ訪れたことのない場所にできる限り行ってみたい。海外での生活を体験してみたい。本を出版したい。高校野球に没頭したい。今とは全然違う職種の仕事に転職して自分の力を試したい。以上、残された時間の中で、絶対にはずせない俺の目標だ。



2013年03月31日(日)
Vol.803 校長先生との約束

おはようございます。りょうちんです。

第二次ベビーブームの最中に生まれた俺。同じ学校に通う同級生は200人を超え、全校では1000人以上もの生徒が通う俺の母校は、たしか当時市内でも2番目に大きなマンモス小学校だったと記憶している。そんな小学生時代の話。
5年生になってまもなく、市内の研修施設に一泊二日で宿泊するという学年行事があった。クラス単位で発表会をしたり、みんなで夕食のカレーを作ったりと、様々な体験をしながら2日間を過ごすイベントで、その中に班ごとに分かれて工芸品を作るといったプログラムがあった。ろくろを使って陶芸をするとか、草木染めでハンカチに色をつけるとかある中で、俺らは小刀を使って竹とんぼを作ることになった。刃物の扱いには十分注意するよう再三の注意があったにもかかわらず、慣れない小刀を駆使して硬い竹を削る工程で、悪戦苦闘していた俺はうっかり手が滑り、半ズボンから剥き出しになった自分の太ももに小刀を突き刺してしまう。傷口からはあっという間に血がにじみ出てきた。俺は大したことないケガだと思っていたのに、流血する傷を見た先生はすぐに病院へ連れて行くとの判断を下した。
病院までは自分の担任か保健の先生が連れて行ってくれると思っていたのだが、そこにやってきたのはまさかの校長先生。校長先生は自分の車の助手席に俺を乗せ、病院までの道すがらずっといろんな話をした。それまで俺は校長先生と話したこともなかったし少し取っ付きにくいと思っていたが、結構気さくなおじさんだった。
時は流れて卒業の日。校門で先生方に見送られる中、校長先生もそこにいた。おめでとうやがんばれと言われる中で、校長先生からの言葉は「立派なお医者さんになってね」だった。一瞬何のことかわからなかったが、俺は思い出した。あの日、校長先生の車の中で将来の夢を聞かれた時、俺は「医者になりたい」と答えたのを。あの時は本気でそう思っていたが、影響されやすい俺は次々と夢が変わる少年だった。でも、大勢の生徒の中で俺を覚えていてくれたのが、すごくうれしかった。
今、医者ではない俺は校長先生との約束を守っていない。まだご存命だろうか?



2013年02月28日(木)
Vol.802 神様がいる年

おはようございます。りょうちんです。

『御歩射』と書いて「おびしゃ」と呼ばれる伝統儀式が、俺の生まれた場所には残っている。調べてみると300年ほど前の江戸時代から続いている「おびしゃ」は、関東東部の利根川両岸付近の地域中心に各地で今でも残されているイベントで、元は的を弓で射ることでその年の吉凶や豊作か不作かを占う神事だったそうだ。俺の実家がある地区では、今では弓で射ることもしなくなり儀式もずいぶん簡略化されたし、毎年決まって1月20日におこなっていたという日付もそれにいちばん近い日曜日に移されたりと、時代に合わせたものに変化しつつある。だが、そんな「おびしゃ」に、今年俺は参加することになった。
「おびしゃ」の儀式が終わると、地区を代表して本宿と呼ばれる家に神様は預けられる。この本宿、持ち回り制で約60年に一度各家が引き受けることになるのだが、まさに今年、俺の実家がその順番に当たっていたのだ。神様を預かる期限は次回の「おびしゃ」までの1年間で、本宿に当たっている家に悪いことは起きないとされているから、本来すごく縁起の良いことであるのだが。地区の行事には参加したこともない長男の俺は、数年も前から「もうじき本宿の年だからね!」と親から釘を刺されていたこともあり、あまり浮かない気持ちで重い腰を上げた次第なのだ。
「おぼすな」と呼ばれる神社に向かうと、儀式の準備はほとんど整っていた。見回す限り、集まった人の中で俺が最年少だ。定刻通りに始まった儀式は、簡略化されたとはいえ祝詞をあげたり謡いを謡ったり盃を交わしたりと、そこそこ伝統色の強いものだった。正面には重々しい天照大神の掛け軸が奉られ、松竹梅の鉢や大根とごぼうで作った亀など縁起の良いものが供えられている。進行をつとめたじいちゃんがおぼつかなく儀式を進め、15分ほどで「おびしゃ」は無事終わった。
軽い交流会的な飲み食いのあと、儀式で使った掛け軸、火箸、盃などのアイテムととともに、神様が実家にやってきた。店に臨時で用意した棚を神棚にして、そこに奉る。改めて見ると、神々しくてなんともありがたい。今年は、神様がいる年だ。



2013年01月31日(木)
Vol.801 紋付袴の成人式

おはようございます。りょうちんです。

日本男子の正装とされる紋付袴を、身につけたことはあるだろうか。実は俺、たった一度だけ紋付袴姿で一日を過ごしたことがある。今から20年前の、俺の成人式。
以前から、凛々しい紋付袴姿に俺はずっと憧れていた。考えてみれば、堂々と紋付袴を着られる日なんて、人生で成人式か自分の結婚式の2回くらいしかない。そのわずかなチャンスを逃すはもったいないではないか。そう思うと、おのずと決意は固まった。成人式の式典に参加する友達はみんなスーツで行くと言っていたが、そんなの関係ない。さっそく貸衣装で紋付袴のレンタルを調べてみると、5万円ほどの貸出料金が必要だという。たった一日だけ服を借りるのに5万円もの大金を払うのは貧乏学生だった俺にはかなり痛い出費だったが、それでも成人式は一生一度のおめでたい日だからと割り切って、がんばってバイトの量を増やして奮発した。
成人の日当日。朝からどしゃ降りの雨。近所の美容室へ紋付袴の着付けに向かう。すでにきれいにヘアメイクをした人や艶やかな振袖に身を包んだ新成人が何人かいたが、男は俺だけ。昔から顔見知りの美容室のおばさんの前でパンツ一丁になるのは恥ずかしかったが、「赤ちゃんの頃から知ってるけど、成人式かぁ…」なんてお決まりの台詞を感慨深く言うもんだから、俺はもう照れるしかなかった。
友達の車に便乗して、式典会場へ向かう。当時の会場はボロい市民体育館。隣にある高校のグラウンドが臨時駐車場になっていたが、朝からの雨で足元はひどくぬかるんでいた。なるだけ紋付袴を濡らさないように泥がつかないように歩こうとするものの、履き慣れない草履では困難だ。車を降りて体育館に着くまでにはすっかり濡れて、泥があちこちに跳ねてしまっていた。底冷えのする体育館で久しぶりに会った旧友や恩師は、俺の紋付袴姿を見て「バカ殿みたいだな!」と憎まれ口を叩いたけれど、そうやって相変わらず俺に絡んでくれるのがうれしかった。
あれから20年。俺も2度目の成人式を迎える年になった。その後紋付袴を着ることはないけれど、紋付袴の成人式は俺の中で大切な思い出になっている。