2002年02月04日(月) |
Girl's Party |
今日は、プレゼンテーションをクラスでしたので、精神的に疲れ果てた私。
寮に戻ると、私のフラットメイト(同じ寮に住む友だち)、ベッキ−がもう、料理を始めていた。 今日は、彼女と他の数人で晩御飯を一緒に作って食べることになっている。 イギリス人の彼女が作ったのは、レモンマスタード味のマッシュポテトと、モッツァレラチーズとレタスとトマトのサラダ。 イギリス人にしては珍しくグルメな彼女が、イギリス料理を作るのを私は見たことがない。 私は中華風卵スープと、菜の花の炒めもの(土曜日にロンドンで買ってきた)を作る。他の寮から遊びに来たのは最近親しくなった、香港人のスーとイタリア人のフランチェスカ。 スーは、魚料理とえびの炒め物をつくり、フランチェスカはパスタを用意。 4ヵ国の女性がそれぞれバラエティーに富んだ料理を作り、テーブルはゴージャス。
みんなで料理と一緒に記念撮影をしてから、Let's eat! 話題は、各国の食べ物、大学教育、性教育、星占い、そして、BFの話まで多岐にわたり、話題はつきない。ワインがはいったこともあって、機嫌よく会話もはずみ、とても楽しかった。 どこでも、女同士の語りあうことなんて、たいして変わりない。でも、とてもリラックスできる貴重な時間。
他のフラットメイトにはちょっと迷惑だったかも、それに、明日までの宿題も残っているけど、今日は幸せな気分。 勉強は今12時!からがんばります。
今週末、三ヶ月ぶりにロンドンへ行って来ました。
目的は初期浮世絵の展覧会とそれに沿って行われる、浮世絵の学会に出席すること。
しかし、普段ノリッジという地方都市(人口20万人の田舎町)で学生生活を送る私には、イギリスは大都会で・・・・正直、混んだチューブに乗り、街をあるくだけで、本当に疲れた。しかし、つくどく、ロンドンとノリッジの街の違いを感じた。
まず、何がノリッジとは違うかというと、
1.ロンドンは暑い
タートルネックのセーターにダウンジャケットを着ていた私がアホでした。 ロンドンでは誰もこんな格好してなかったね。
2.ロンドンは人が多い
当たり前なんだけど、とにかく人が多い。チューブの中で、人にぶつからないようにするのに一苦労。駅とか、切符買うのにもいちいち並ぶし、ああ、都会生活ってこういうストレスあったよね。って東京を思い出しながらも、現在、歩いて10分で大学に行ける私にとっては、混んだバスや地下鉄に乗るのは、もはやストレスだ。
3.ロンドンは物価が高い
金曜の夜、ピカデリーサーカス(ロンドンの中心地?)でインド料理を食べた。 パッと、見た感じ、値段はノリッジのインド料理店の1.5倍くらい。 味もサービスも良かったので、簡単には比較できないけど、カフェとかレストランとか何でも高いのは事実。まあ、これは東京でも同じだけど。
4.ロンドンっ子はおしゃれ
やはり、さすがにおしゃれな人がいっぱいいて、目には刺激的。しかし、なぜかジーンズの着用率がめちゃめちゃ高い。 これは週末のせいなのか、それともロンドンっ子とはいえイギリス人のジーンズ着用率が高いのか。 パリのジーンズ着用率はもっと低かった気がするので、しょせん、質素堅実なイギリス人。おしゃれといっても、限界がここにあるのか・・・という気がした。
というわけで、浮世絵の学会は面白かったし、ロンドンwatchingもできたしということで、久々に活動的な週末でした。
今日、同じアートスクールの数少ない日本人から聞いた話。
Lordという称号から貴族の息子だとは思っていたが、 私と同じゼミのしかも、私が、今度ペアを組まされて彼の発表内容に 関して質問することになっている、ハリー19歳はスコットランド の伯爵の1人息子。つまり将来の伯爵だそう。 スコットランドの半分くらいは、もともと彼の家に領土だそうだ。 お城みたいな家に住み、車が7台。ハイスクールはもちろんイートン。
ボロボロのアーミーファッションで、ときには、洋服にできた穴からパンツ丸見えのハリー。 教室に遅れてくると、三段抜かしで講堂の階段を駆け下り、勢いあまって、先生の前まで転がり出てしまい、モダンアート論の厳しい先生に苦笑されていたハリー。
伯爵のしかも、嫡男には見えませんよ。
そんなハリーに私はどう突っ込みをいれていいのやら・・・・ まあ、天使のようなかわいい顔をしているので、こわくはないんだけど、 こんな接点がない相手というのは初めてかも。
まあ、私たちにはイタリア美術という共通の議題があるわけで、 ゼミメイトなので、話さないでいるわけにもいかないわけで、 お手柔らかにお願いします。
といいたい今日でした。
今日、手相を見てもらった。 以前から知っている、日本人の女性が手相をみれると知ったのは他の友人からだった。偶然、彼女に会って、今度手相みてよ。と言ったら、誰に聞いたの?内緒にしてたのに・・・と笑って、見てくれるということになった。
一言でいうと、私は強運の持ち主らしい。やりたいことには何でもチャレンジするべきと言われて元気がでた。 あとは、近い将来、結婚もしくはそれに近い縁があるらしい。これは、かなり気になる話だった。
しかし、手相の語る運命というのは、そうなる傾向があるというだけで、実際にどうなるかは自分の決断しだいという、彼女のアドバイスはもっともだと思った。
彼女は感受性が強いらしく、人のことがよくわかるようだった。体調とか、精神的な状態を手を見せられると感じとってしまうらしい。
言葉を選びながら、私の手相を説明してくれる彼女は、とても優しく、手を握られながら話していると、どんどん、私も正直になり、なんでも彼女に話したいような気持ちになっていた。
繊細すぎるのは時として、彼女にとっても酷なことかもしれない。 しかし、だからこそ、彼女は人のことがわかる人間なんだろう。
2002年01月27日(日) |
Mulholland Drive |
ひさびさに味わった、デビット・リンチワールド。
映画を観た後で、一緒に観た友達と4人でIrish Pubに寄り、あのシーンはどういう意味だったのかという話になったが、この映画に関しては、意味がない。
あれ、たまんなかったねー。とか、あそこが超-リンチっぽかったねー。と言い合い、解釈なんて放棄。ストーリーを理解するより、イメージに酔おうというのが正しい鑑賞法だと思う。
友達が、I've never seen such a wired movie. (あんなに酔わせるような映画は観たことないよ!)と言っていたが、そこまでではないにしろ、久々にツインピ-クスやブルーベルベットっぽいリンチの不条理ワールドが観れて私は大いに結構。
彼の映画は現代美術の解釈と同じで、映画によってもたらされたイメージがその人にどう影響するかが鍵なんだと思う。
観た直後より、家に帰って1人になったとき、脳裏に残された映画にイメージによって、見慣れた夜道や、部屋の暗がり、鏡の中の自分などを奇妙に感じたり、何かの瞬間に映画のイメージがにフラッシュバックするその感覚こそが、まさに、私が思うところのリンチのなせるすごい技だ。
理論では説明つかなくても、彼の描くイメージに一貫性はあるように思う。私たちが今見ている世界以外にも同時に違う世界はあり、それは、パラレルに存在し、彼は、その世界を自由自在に渡り歩くように、それを覗き見させる。 記憶と、事実と、選択。その結果変化する個人の認識する世界、どこまでがリアルで、どこからが想像で、今いるのは時間軸のどこ? それらのイメージは、懐かしいような、恐ろしいような、人の奥底にある感覚にゆさぶりをかける。 夢がしばしば、当然のごとく矛盾していることがいい証拠で、人が持つことができるイメージというのは、現実とは関係なく、自由自在に飛躍することができる。 私たちの精神はかなりの自由をもっているのだ。 そのことをリンチは思い出させてくれる。
まあ、それがあんまり行くと狂人と呼ばれてしまうので、気をつけないと・・・ね。
どうしても、彼のことが気になって、電話してしまった。 二日前とはうって変わって、元気そうな声。 ひどかった風邪と耳痛はなおったのかな?
「あの日、電話のあと、割れるように耳の奥が痛くなって。医者行ったら中耳炎だって。」
そっか、中耳炎だったのか。
もう大丈夫なの?
「うーん、また医者に行って抗生物質もらわなくちゃいけないんだけど、だいぶよくなった。まだ、くぐもって聞こえるけど」
そっか、良くなったんだ、良かった。心配だったから
「ふうは大丈夫?」
大丈夫、って私のこと? うん・・・ そうそう、昨日、手紙投函したから・・
「うん、ありがとう。手紙、楽しみにしてるから」
たった、こんな感じのたった5分の会話。 彼の声は、なんて温かく私に響くのだろう。耳からはいった彼の声は、そこから私の体の芯まで届いて、なかから私を温めるように感じる。
彼の体調が回復しつつあることに、私は本当に安心して、その元気そうな声を聞くだけで、とても満たされた気持ちになる。
たぶん、誰も、私をこんなふうに温めることはできない。彼以外に。 たぶん、こんなふうでは、私は彼をあきらめることはまだまだ出来そうにもないです。
この間、彼に電話して、彼が言った言葉。
「離れていると、気持ちも薄れてきちゃう。会えないとあきらめもつくしね」
日本とイギリスという、物理的距離はどうしようもないなんてこと、私だってわかってる。そばにいたほうが、いいのもわかってる。でも、今の状況でそういうことを口にする彼は、いったい私にどうしろというの?
「手紙が欲しい、待ってるから」と言われ、二時間かけて、便箋8枚にわたる手紙を書き、今朝投函してきた。これで、少しは伝わるだろうか。
夜、コーエン兄弟による The man who wasn't there を大学の映画上映会で観る。主人公エドのタバコの吸い方、眉間のしわの寄せ方が昔の彼氏に似てた。久々に彼のことを思い出した。彼は今、どうしているんだろう?
映画は面白かったし、その後、友達とpubで飲んでおしゃべりして、すごく楽しそうな私。でも、心の中は、かなりやけになってた、彼のことで。私は離れていても、彼が好き、でも、それだけじゃ、どうしようもないの? 会いたい時に会えない相手を好きでいてもしょうがない・・・なんて言われたら、私にはどうしようもない。
なんの約束もない私たちは、不安になったり、忘れようとしたり、再確認したり、そうしながら、どうにかここまで、続いてきた。
気持ちが薄れるという言葉に、私は泣いてしまうけど、私は、まだ私たちのつながりを信じたがっている。彼が、どう思うかはわからないけど、私にできるのは、ただ好きでいつづけることだけ。
体は離れていても、気持ちではいつもそばにいたい。
うーん、このページは知らない人が見ることもあるみたいなので、留学日記とするからには、今の私の状況に関して、多少説明しておこうと思います。
私は、去年の7月の終わりにイギリスのNorwichという町に来て、9月からこののUniversity of East Anglia という大学の大学院の学生となりました。専攻はArt History ですが、まだ英語力がおぼつかないので、大学の英語コースを同時にとって、勉強しています。
海外に住むのは以前からの夢だったけれど、英語も全然得意ではなかったし、今まで、海外に短期の旅行以外に滞在したことも無い中で、28歳にして、初めての海外生活。
しかし、まあ、イギリスは暮らしやすい国で、生活費さえあれば、留学生活は思っていたほど、特別なものではなく、東京で働く方が、よっぽど大変だったように思います。
まあ、英語力の問題で、勉強の面での問題は多々あるけれど、まあ、それはあたり前だよなあ、と思ってしまうので、そんなにどうということもなく、それよりも、孤独感や、自立しなければならないと同時に、人間関係を一から作っていかないと、生き残れないという環境のほうが、タフかも・・・と感じたり。
住む場所も人間関係もすべてが白紙から始まると言うような体験は、なかなか得がたいもので、その意味ではすごくおもしろい。 まあ、貴重なこの体験を実り多きものにするかは自分次第ということで、この先も緊張感をもちつつ、しばらくイギリス生活を味わってみようと思います。。。
2002年01月22日(火) |
記憶は支配できない・されない |
新聞を読んでいたら、フランスの思想家が、大事なのは人々の記憶だと言っていた。 軍事力によって制圧しても、人々の過去の記憶を支配することはできない。 権力者は、世界を視覚的にとらえることができると思っているのかもしれないが、人間の心の中は決して見ることができない。 どこかで、それに気がついているから、どんなに目で見えるものを作り上げたところで、人の不安は消えない。
NYのテロ以降、アメリカは自分たちが、世界をコントロールしていると思っていたが、自分たちが、世界に属しているのだということを、認めざるをえなくなった。これは、何よりも大きな変化だろう。
記憶が塗り替えられる、という話はSFによくあるが、個人の記憶こそ、その人間のアイデンティティーを形成する大きな要素なのだろうか? 私たちは、日々、五感を通して、自分たちの体験した記憶を意識するまでもなく、記憶していく。 匂い、感触、味覚、多くの器官を同時に通した記憶ほど、強く残る。 しかし、時間がたつにれ、記憶は人の意識の奥へと沈んでいく。でも、それは忘れたわけじゃない。眠っているだけ。 いつか、忘れてしまったようになるかもしれないけど、私は、彼の記憶をずっと抱いたまま、生きていくのだ。彼との記憶が、忘れたいものになってしまいませんように。
2002年01月21日(月) |
ねずみとり The Rat Catcher |
今日は大学の構内での映画上映会へ足を運ぶ。
今日の映画は、The Ratcatcher ねずみとり とでも訳すのだろか。 ただ、大学でもらったチラシで最高の5つ星がついていたので、観にいったのだが、あまりにいい映画で驚いてしまった。イギリス北部のグラスゴーの貧しい集合住宅に住む12歳の少年が主人公なのだが、その風景が少年の心理描写となっていて、なんとも心を打つ。リアルなカメラワークと編集の妙。ゴミだらけの集合住宅を離れて、自由をもとめて、一人で出かける郊外の草原の美しいこと。近くを流れる川、空、女になっていく姉や妹。年上の少女への淡い思い。多くの人が、そうだ、自分も12歳のころ、世界はこんなふうに見えていたのだっけ、とせつなく思いだすのではないだろうか?
以前、村上龍が男が自由でいられるのは少年時代の数年だけだ(子ども時代は母に縛られ、大人になると女にしばられる)というようなことを言っていたが、これはそのわずかに自由な少年時代を丁寧にしかもリアルかつせつなく写しだすことに成功している。 言葉ではなく、映像で、少年の感じる自責や悲痛を描ききるのはまさに映画でしかできない芸当。このような映画を観ると、映画の力をあらためて思い知らされる。
監督はライン・ラムゼイというイギリスの女性監督。評判によると、この映画はケン・ローチの「ケス」以来の若手監督による最高傑作だとも言われているらしい。
製作は1999年イギリスとなっているが、いまだに日本では公開されていないように思う。「My Life as a Dog」のような映画が好きな人には、ぜひおすすめしたい一本。
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