2002年02月17日(日) |
Lost Highway |
デビット・リンチシリーズ第二弾。 東京では渋谷シネマライズで数年前に公開していた記憶があるが、忙しくて行きそびれていたこの映画、本日、ここノリッジ唯一の名画座シネマシティで観て来ました。
一緒に行くつもりだった、友達が行けなくなり、ベンとは現地集合ということで、1人でバスに乗り込むと、映画友達(?)のコリンが同じバスに乗り込んできた。 私の顔を見つけると、「もちろん、ロスト・ハイウェイ観にいくんだよね?」と聞いてきた。
街につくやいなや、映画が始まるまでの30分で買い物を済ますために、コリント別れ、スーパーを駆け巡り、焼きそばとパスタソースとレタスとシーザーズサラダ用ドレッシングを買った。
映画館まで、ダッシュしたが、もう時刻は上映時間二分過ぎ、大急ぎでチケットを買っているときにベンが来てくれて、席を取ってあるという。
しかし、ベンの取った席は後ろのほうだったので、私は1人で、前の方の空いている席に座った。
映画の内容はというと・・・一言で言うと、ものすごく怖かった。 コリンはモルホランド・ドライブのほうが奇妙と言っていたが、ロスト・ハイウェイは、私が思うにデビッド・リンチの中では一番怖い映画だと思う。
特に、前半の家の中の暗闇と、悪魔役の男の顔のアップはもう怖すぎて画面を直視することが出来なかった。
後半は打って変わって、日常的なシーンが多くなり、作品自体は興味深い内容なので、かなり楽しめた。だんだん悪魔役の男の顔も見慣れてきてしまったような。
しかし、モルホランド・ドライブしかり、この映画しかり、女はいつも、よく言えばミステリアス、悪く言えば男を不安に陥れる存在でしかなく、デビッド・リンチはよっぽど女性不信なのかな?または、マゾヒスティックなのかな?(こういう色っぽくて、わけのわからん女に翻弄されたくてしかたないようにも見える)と思った。
まあ、相変わらず、奇妙なイメージを作り上げること(たとえば、画面全体に漂う妙に日常を逸したような緊張感)、抽象的な悪意や狂気の存在を人間を使って具体化すること、またはフェードイン・フェードアウトを効果的に使った、不安のあおりかたなどは、天下一品。途中、なんどか、ああ、デビッド・リンチだなあ、としみじみと感じる映像多々あり。
映像ドレミファドンをやったら、わかりやすいかも。=他の数多くの映画監督と比べて、際立っているということなので、やはり只者ではない監督だなあと思う。
殺人シーンも、セックスシーンも一応あるので、18歳以下禁の映画だったが、これを子どもの時にみたら、違った意味で、トラウマになってしまいそうなので、18禁もうなずけるかなと思ってしまうような、こわさを持つ映画でした。
見終わった後は、映像のせいか、頭痛が止まらず、奇妙な感覚がしたけれど、その後、コリンの誘いで、彼とその友達6人とパブに飲みに行ったらだんだん楽しくなってきて、頭痛と映画の恐ろしいイメージも吹き飛んだ。
つまんない週末と思っていたが、出かけてみると以外と楽しい展開もあるものね。
今日は、とても天気がよく、気分が良い。 なぜか、少し自分の憂鬱やイライラが吹っ切れたような感じ。 昨日のバレンタインは勉強しなかったけど、私の好きな人たちといっぱい話をすることができたし、日本にいる彼からも、ひさびさに電話があった。
私は、田口ランディのMMの読者であるのだが、今日配信された記事を読んでいたらなんだか、とてもじーんとくるものがあった。 そのエッセイの中で、失われた生活を取り戻すことにより、彼女は彼女自身を取り戻し、その場所からエネルギーを得ていかないと、何もできないとわかった。というようなことを書いていた。
私の尊敬する須賀敦子は、著作「ユルスナールの靴」の中で、「ぴったりと合った靴があれば、どこまでも、歩いていける気がした」と書いているが、私は田口ランディも、彼女も本質的には同じことを言っているような気がする。
忙しい生活や、世間の評判?やら、悪意ある他人や、自己嫌悪など、私たちは様々な理由から、自分を見失ってしまう。自分のベースがどこにあるのかわからなくなってしまう。 それは、きっと田口ランディが言っているように、身近な自分の生活の中で、築いていくしかないし、自分探し(この言葉はバカみたい)なんてする必要なしに、ある程度生きてきた人間だったら持っていると思う。
その個人にとっては、そのベースとなっている価値観や、世界がどういうものであるのか? は当たり前すぎて、人はしばしば無自覚になりやすい。しかし、そこがおぼつかなくなると、人は生きるエネルギーを失ったり、他に対して攻撃的になったり、不安に苛まれてしまったりする。
逆に、自分のベースがしっかりあれば、どこまでも飛んでいけるような気がする。私が持ちたい自分の靴というのは、それを履くことで、逆に制限がなくなるような、そういうもの。自分の価値観にとらわれて、狭くなってしまうのではなくて、それが他のことを理解し吸収するための媒体となるような、考え方や物事の見方。
私は、以前好きになった彼に、「あなたはなんだか、私の帰りたい場所って感じがする」と言った。彼は「ふうの、帰りたい場所であるっていうのはうれしい」と言ってくれた。
私が帰りたい場所、それは、私が私でいられる場所。そこが、私のすべてのエネルギーの原点だと思う。
2002年02月14日(木) |
Everybody in Love |
昨日、勉強のことで落ち込んだ私は元気を出すべく、大学のリソースセンターで、「恋に落ちたシェークスピア−Shakespeare in Love」を観た。そして、今日は、大学の上映会で「お熱いのがお好き−Some Like it Hot」を観た。両方ともとってもラブリーな映画。 特に、「お熱いの」は今まで見ていなかったのが、もったないと思うほど、面白い映画でした。ああ、マリリンはなんてスイートなのかしら。 全世界の男の人が夢中になったのもわかるわー。あのとろけるような声と唇・・・純真そうなまっすぐな視線。それに恋人役の、トニー・カーチスのハンサムなこと。恋をしたことのない大富豪を偽って、マリリンのキスをねだるところなんて・・・。それに、ジャック・レモンのコミカルな演技の上手いこと。大富豪の最後のセリフ−Nobody is perfect. に思わず拍手。
今日はバレンタイン。講義をさぼる人も多く、教室はがらがら、大学のカフェではカップルが肩をだき、頬をよせながら、ささやき合う。
映画の主人公も、まわりのカップルも、みんな恋を楽しんでいるようにみえる今日、世界が愛にあふれているようで、私もなんだか、幸せな気分。
今日、あなたは誰を思いましたか? 大切な人はいますか?
2002年02月13日(水) |
パンがないならケーキをお食べ |
今日、伯爵ハリーのゼミでのプレゼンがあったので、それの質問者に指定されている私は、事前に彼のところに行って、彼のプレゼンにたいする質問を準備するべく、その内容を前もって知ろうと試みた。先週、彼は、 「そうだね。前もって準備したほうがいいねー、じゃあ、来週のプレゼンの前の日に会って打ち合わせしよう。」 と言った。 しかし、昨日彼にあったら、彼のプレゼンの内容すら決まっておらず、私にアウトラインを見せて、「こんな感じなんだけど、どう思う?」。 私に聞いてどうすんだ? こっちが聞きたいくらいなのに?と腹立ちを抑えて、とりあえず、彼が話すであろうトピックを確認する。きれいな万年筆で、うーん、ちょっと待って、といいながら、Islamic Architecture form in Veniceの良い例となる、彼がプレゼンで取り上げる建築物の名前をレポート用紙に書いてくれた。 「サンキュ、それでこれらの建物のイスラム的な特徴について話すわけね?」といぶかしげに聞くと、 「うーん、まあね。そんな心配することないよー。僕のプレゼン聞いて、そこからなんかピックアップして聞いてくれればいいんだから。君の役割はそんな重要じゃないんだから。」 ピキッ、それが出来ないから聞きにきてるんじゃない? プレゼン聞いて、即時に理解して、その内容に突っ込むことができたら、前もって聞きにこないわよ!! そうよ、ゼミにおける私の役割なんて、どうせ誰も期待してないわよ!!
人間思いやりが大事ね・・・ハリーは、ジェントルだし、フレンドリーだけど、彼には想像力というものがない。彼らが出来て当然のことをするのに、英語力のない私が四苦八苦してしまうことなんて理解してもらえない。マリーアントワネットが、パンがないならケーキを食べればいいのに!!と言ったことを彷彿してしまった。あーあ、こういう経験すると、日本で外国人を見かけたら、今度から絶対親切にしようって心から思う。(今までも不親切だったわけじゃないが、英語ができなかったのでうまく説明できないことが多々あり)
まあ、結局、私はハリーのプレゼンに上手く突っ込むことはできず、適当にコメントして終わった。 休憩時間に、私の顔を見て、プレゼンどうだった?と聞いてきてくれたので、一応気にはかけてくれたみたいだし。 もちろん、笑顔で“So interesting!” と答えたけどね。 しかーし、ネイティブの学生との壁は厚いと感じた一週間でした
2002年02月12日(火) |
思わぬことから初体験 |
今日は、朝の4時に宿題とエアメールを書くのを終えて、ようやく眠りにつき、8時半起床。 寝起きでぼけぼけのところに、ロンドンで先週の学会にのときにあって、知り合いになったMちゃんからノリッジに来ているので会いましょうと電話があり、今日のお昼にSISJAC(この町ノリッジにある、日本文化の研究所)で会うことになる。 9時から10時半まで授業、朝食をとり、スクールの郵便箱をチェックすると、Amazon.comで頼んだ美術書が二冊届いていた。重たいので本を置きに寮の部屋に戻って、メールをチェックしてから、町の中心地にあるSISJACにバスで向かう。ゆうに30分はかかり、またバス停から10分くらい歩く。
SISJACの図書室に着くとMちゃんはもう来ていて、美術の話をしていたら1時を過ぎたので、ランチをエルム・ヒルのBritish Armsで食べる。ここは私のお気に入りのカフェ。 留学生活のことなど、話題は尽きないが、彼女も勉強のためにノリッジにきていることあり、SISJACの図書室へもどる。Mちゃんとお互いのアドレスを交換し、またSISJACのオフィサーのHさんにも名刺を渡す。時折、急ぎの作業があるとき、アルバイトを頼みたいと言われる。これは嬉しい申し出。しかし、このときすでに3時20分。
4時から授業があったので、急ぎ足で、SISJACを出て、テスコで食料を買い込み、バス停まで早歩き。大学に戻ったのは4時5分前。 5時半に教室をでて、寮の部屋にもどると急いで洋服を着替えて、6時に大学のフィットネスセンターで友達と待ち合わせに急ぐ。 昨日、友達にキックボクシングのエクササイズやらないかと誘われ、「あしたのジョー」ファンの私は、うん、やるー、キックがついてるけどま、いっかと軽い気持ちで行ってみたら、なんと、それは「キックボクシングエアロビクス」であくまでエアロビの一種類だった。 先週他の友達にエアロビに誘われて、リズム感が悪いからとか、なんか恥ずかしいから、などと、断っていたのに、嫌がっていたのに、今までやったこともないエアロビを前情報を確かめなかったがゆえに、よくわからないままやるハメになってしまった。
教室は広くて、明るく、先生はとても強そう。べつに、恥ずかしさを感じるヒマもなく、リズムにのって体を動かす。動きは、基本的に、キックしたり、パンチしたりと、キックボクシング的な動きがほとんど。おお、強くなれそうだし、なかなか楽しいじゃんと思っていたが、始まって20分以上たつとまじで苦しくなって、足が上がらなくなってくる。日ごろの運動不足を体感するとともに、結構きついよー。みんな良くやるわー。いつ終わんのよ?と目で時計ばかりを追ってしまう。
もう、体中汗でびっしょりになり、そろそろ限界となったころに、だんだん動きも落ち着いてきて、ストレッチが入り、そこで終了。その間訳50分。やってる間はかなり苦しかったけど、終わってみるとなんだか爽快感。これはくせになるかもね。 終わってから、友達に、「エアロビって結構きついのね」と言うと、「ああ、このコースは一番ハードだからね。私も最初のころは苦しかったよ。」とエアロビ歴○年の友達が答える。 ああ、初体験なのに・・・しょっぱなからハードなことをしてしまった。明日は筋肉痛で起き上がれないかも・・・。
でも、日本にいたら絶対やらなかったであろうエアロビに気がつかず参加して、思わずのってしまうなんて、これも留学生活のおもしろさかな?と思った。
2002年02月11日(月) |
Chinese New Year Party |
あー、お腹減った、と思ってフラットに帰ってきたら、「今日は中国の大晦日なのでご馳走つくるから一緒に食べない? Sとかも来るし。」と香港人のフラットメイトCからなんとも嬉しい申し出。 もちろん、断るはずもなく、参加させて頂く、メンバーは彼女の友達の台湾人Sと香港から来たF、それに私と同じくフラットメイトのベッキ−。
メニューは、湯葉と椎茸のスープ、青菜炒め、たけのこと卵の炒めもの、鴨の照り焼き、豚の角煮、栗いりの炊き込みご飯、それに、Cが香港から運んできた極上のジャスミン茶。美味しいよお、と舌鼓を打ちながら、私が思うのは、ああ、懐かしい母の味・・・。というのも、私の母は中華料理が大好きで、よく作っていたのよね、こういうメニュー。 日本人の私がこう感じるのもおかしいのだけれど、私より年長のCが作ってくれる料理は、私の母の料理に味や素材の使い方がよく似ている。 二人とも料理が上手いのは確かなんだけど、特徴はシンプルで、なんか優しい味がするところ。やはり、身近な人の手料理にまさるものはないよなあ。としみじみ。
ありがとう、ごちそうさまC、今度お礼に・・・何をしようかしら? 彼女にはお世話になってばかりで、(冬休み日本に帰っていた間は、私の盆栽の面倒を見てもらっていた。帰ってきて、受け取りに行くと、私が普段育てているときよりも、葉っぱがつやつやしてた。) どうこの気持ちを伝えていいのかわからない・・・・、彼女の誕生日をチェックしようっと。
2002年02月09日(土) |
孤独に慣れるということ |
今日は土曜日、昨日飲み会(Party?)を二軒はしごした私が、寝たのは3時過ぎ。 起きたら、昼の12時でした。
部屋の片付けをしてあと、洗濯、つまりコインランドリーに行く。両手いっぱいに洗濯物と洗剤をいれたビニール袋を持って、徒歩8分くらいの距離を歩く。
洗濯は25分で260円くらい、乾燥は量にもよるが40分で240円くらい。 洗濯機に放り込んだあとの25分の間に、サンドウィッチを買ってブランチ、その間にもゼミの資料に目を通す。
洗濯機から乾燥機に洗濯物をを移して、さあ、これから40分、というときに、たまたま、夏の間の語学コースで知り合った、ライアンがとなりで乾燥機に衣類を突っ込んでいるところで目が合った。
ライアンはビジネスマネージメント専攻の上海人で、なかなかのナイスガイ。お互い40分待たなくてはいけないのは同じで、天気もいいので、一緒に散歩でもしようということになった。
コインランドリーのそばには湖があり、そのほとりを歩く。私はこんなに寒くなる前は、1人でよくこのあたりを散歩していた。彼は初めてだという。
−どうして、気持ちいいのに。もったいない。 −だって、1人で歩くのは淋しいもの。僕は1人になるのは嫌い。
湖にはいっぱい水鳥がいて、それを眺めるのが私は好きだ。
−ほら、こんなにいっぱい鳥がいるから、淋しくないわよ。 −鳥が友達なんて・・・
−上海に残してきたGFが恋しいんでしょ?
と聞くと、
−なんでわかるんだよー
と照れる。彼の左手の薬指には銀の指輪が光っている。
−僕はもう、イギリスに来て、半年になるけれど、まだ1人でいることに全然慣れない。他の友達がなんで、部屋で1人で過ごしたがるのか、僕には理解できないよ。明日は中国のお正月だっていうのに、僕は両親やGFを恋しく思いながら過ごすんだよ。
−淋しいだろうけど、独立心を養ういいチャンスだよ。
と答える私は孤独に慣れたのだろうか? 独立心は昔より養われたのだろうか? 彼のように、人恋しくてたまらない夜もある。やり場のない、孤独感にさいなまれることもある。 孤独に慣れることは必要なのだろうか? ただ、私がイギリスに来て思ったのは、誰といても、どこにいても、私は孤独からは逃れられないのだということ。 孤独であることは時に、かなり辛い。しかし、基本的に私たちはこどくな存在である。 孤独感をどうあつかっていくかということは、その人の生き方が現れるところのように思う。
デューラーの版画「メランコリア」は私の大好きな版画の一つ。
この絵を見ていると、憂鬱−メランコリア−はどんな賢人でも、才人でも、人間ならば逃れることのできない、普遍的な感情なのだな、と思う。
今週の半ばから、私は憂鬱の波にどっぷりと浸かってしまっている。 これをどう説明したらいいのだろうか? 他人に説明する気にすらならず、しかも、理由もはっきりしない。
「こんがらがるのは誰のせい?私のせい? 考えこむのはいつもの悪い癖」
と歌っているのはクラムボン。 そうなのだ、思考がこんがらがっている。 前に進まず、何をしているわけでもないのに、やけに疲弊している。
現実に走り出さなくてはいけないのに、課題は山積みなのに・・・
もう、建設的なことをするのは諦めて、 ビョ−クを聞きながら、ベッドに横たわる。好きな小説を読む。 たまには、自分を思いっきり甘やかすことを許しましょう。
ベッドスタンドの明かりだけの私の小さな部屋は、薄暗く、温かく、 まるで Hidden Place。 今だけは、ラベンダーカラーのベッドカバーを 私のCcoonにして、安らかにまるまっていたい。
月曜日にはどうせ、繭からでていかなければいけないのだから。
2002年02月06日(水) |
ヨガクラブ − Unconditional Love |
この大学にはさまざまなサークルがあり、私は隠れて学内最大のサークルであるヨガクラブに入っている。
クラブといっても、カルチャーセンターのように、週に一度(私の場合は水曜日の夜、曜日時間別に現在10クラスぐらいある)ヨガのクラスに参加するだけで、別に他になんの活動をするわけでもない。
しかし・・・、私はここイギリスでヨガに目覚めてしまった。 友達の誕生日パーティーをしたせいで、一週間抜けてしまったら、体がなにかつらい。そして、二週間ぶりにヨガをやったときのあの気持ち良さ。
ヨガは簡単に語れるようなものではないと思うので、詳細は書かないが、私が一番好きなのは、レッスンの最後にある、メディテーションあるいはリラクゼーションの時間。
目を閉じて、先生の声に導かれ、深呼吸を何度かしているうちに、体のなかが静かになっていく。気持ちが落ち着かないときは、自分の仲にある泉に波がたっているように感じるが、だんだん落ち着いていく過程で、その水面がしずかになっていくのを感じる。
体の中の水分が静まりかえると、寝ているような状態なのに、自分の精神の存在を逆に強くはっきり感じる。意識だけが覚醒している状態。
「宇宙のエネルギーがあなたの体に流れ込んできます。あなたは白い明るい光に、温かくあなたを守る、絶対的な愛に包まれています。」 と先生がそっと導く。
ここが私にとっても、ヨガ教室のクライマックスで、毎週先生が Unconditional Love と口にするのを心待ちにしている自分に気がついた。
このとき、目を閉じて、宇宙の中で、自分はなんて心もとない存在なんだろうと漂うように感じながら、ただ、その覚醒した意識のなかで、自分の存在を確認できるような気がする。
それは、自分がここにいる、いきて存在するということを確認する行為であり、先生がUnconditional Love と口にするとき、存在するということ自体が絶対的な愛の力ような気がして、私はなんだかほっとするのだ。 私も愛されている存在なんだというように思えるから。
2002年02月05日(火) |
ショーシャンクの空に を観たことありますか |
私は、いわゆるハリウッド映画はあまり興味ないのだけれど、この映画はすごく好き。
今日も大学内の上映会で、これを観てきたんだけど、やっぱり感動してしまった。
こんなに気分のスカッとする映画はないね。 それに、いろいろなことを見るたびに教えてくれる。思い出させてくれる。
記憶は支配されないということを書いたけれど、この映画では、心に希望を抱くことは誰にも止められないし、それを強い意志で持ち続け、実行していくことがいかに大事かということを教わった気がする。
人生において、大事なこと。
絶望的な状況下でも、希望をもち続けること。 信頼できる友をもつこと。 学ぶことがいかに人の喜びであるかということ。 芸術がいかに人に潤いを与えるかということ。
ものごとの良い面をできるだけ見つけるようにして、良い方向をもって行こうと努力しつづけるしかないんだ。
時に、恐れたり、もう、嫌になっって投げ出したくなることもあるけど、自分の人生だから、あきらめてしまったら、空しくなるのも自分。
まあ、この映画のように、現実はうまく運ばないってわかってるけど、あきらめが肝心なときもあるけど、でも、やっぱり、希望はだれでもが心に多少は持っているもの。それを大事にしていって悪いことはないと思う。 期待は危険なときもあるけど、自分の人生に希望をもつということは不可欠だと思う。
|