朝8時ごろ起きて、8時半からホテルの朝食。何気ないパンとチーズが美味しくうれしい。 ホテルのインテリアも豪華ではないもののセンスが良く、イタリアにいる心地よさを感じる。 朝食後部屋にもどって、今日の予定をMと検討。明日のフィレンツェ行きの列車のチケットを買いに、サンタ・ルチア駅へと向かう。無事にチケットを買い、ウフィツィ美術館の見学予約も電話でしたあと、見つけたインターネットカフェでメールのチェック。日本語は使えないので、英語で一通返信。あとは、フィールドトリップの責任者のマギーからの連絡をメモる。 その後、グランドカナルを味わおうと、サンタ・ルチア駅からサン・マルコまでヴァポレットに乗る。Mはちょっと興奮、パラッツォのファサードを見ては、**様式かな、などと語り合う。 サンマルコに着くと、ベリーニを見ようとサン・ザッカ―リアを見に行く事に。お昼前のたった20分だったがベリーニの祭壇画をたんのうする。その後、パスタとピザでランチを済ませ、フラーリへ。フラーリは私は三度目だったが、やはりすごい教会。外観の地味さに似合わず、内部は荘厳。ティシャンやベリーニの祭壇画、カノーバのお墓など、見所満載。Mの解説に耳をかたむけながらも、ペザーロ家の祭壇画の美少年に二人とも目を奪われる。フラーリの案内書を買ったMによると、彼はその絵の注文主ペザーロ家の当主アンソニーの息子レオナルドだった。Mはレオナルドの顔のアップのポスターまで買い、もう彼に夢中の様子。まあ、500年前の美少年を好きになっても所詮かなわぬ恋か。 私はフラーリをほどほどに、三時過ぎにミラーコリに向かい三時半すぎに着く。 ミラコーリは人気もなくひっそり、私以外は夫婦や家族連れの観光客がちらりほらりと来る程度。再来週、ミラーコリについてのプレゼンをやるので、その資料があるかと期待したのだが、そこの入り口にある英語版の教会建築についての本は売れ切れで、しかも解説のパンフレットや本はまったくなく、私はプラスチックコーティングされた使いまわし用の案内の解説を必死に自分のノートに書き写す。 受付の女の子に、それ以外に教会の資料はないのかと聞くと、首をふる。この近くで、資料が手に入りそうな本屋はないかと聞くと、サンマルコの裏に、STUDIOという本屋があるというので、そこへ行くことにする。 Mとは7時にサン・マルコ広場で落ち合うことにして、6時ぐらいにSTUDIOへ。 これは使えると思うような、詳しい資料はイタリア語版しかなかったりして、結局いい本は見つからなかった。が、イラストがキレイな英語のベニスのガイド、ベネツィアの教会建築一般についての本、あと、ビニールで出来た、ベネツィア全体の地図。の三つを買い、30ユーロも使ってしまう。 そのあと、Mとばったり、本屋を出てうろうろしているとMとばったり文房具屋のビブロスで会う。ガラスペンや、ノートなどを見た後、現金が尽きているのに気づき、銀行へ。 その後、ストラダ・ノーボの私のお気に入りのレストラン、(前回の滞在の時に二度も行った)へMと行き、晩御飯を食べる。温野菜の前菜に、ペスカトーレ(これは本当に潮の香りがして美味しかった)、イカのイカ墨煮のポレンタ添えの三種類の料理を楽しむ。 本当に美味しいね、イギリスとは大違いだね。と二人で、イギリス料理の悪口で盛り上がる。 ゆっくりディナーを食べて、カプチーノを飲んだら、もう10時。レストランに入って2時間半以上も経っている。明日は朝5時起き、ホテルに戻るとすぐにシャワーを浴びて眠る。
2002年04月03日(水) |
ベニスの日々の始まり |
いよいよベニスへ出発。 前日、深夜になって準備をやっと始め、徹夜で持っていく勉強道具や資料をそろえたり、旅の用意をしたりする。 朝8時半に同じゼミのMと待ち合わせて空港に行く約束をしていたが、その前に大学の図書館に返しておかなければならない本があるのに気づき、図書館へ行って返却。 その前に、冷蔵庫に残っていた野菜を消化すべく、朝の7時から焼きそばを作って食べた。
疲れと寝不足で、体調がよくなく、しかも飛行機がゆれたのでかなり気分は悪かったが、どうにか4時ごろにベニスに到着。 空港からのバスと、バポレットの揺れにぐったりしながらも、ホテルにチェックインすると、今夜のコンサートポスターが貼ってあったので、ホテルのフロントに頼んで席をとってもらう。曲目は、ビバルディの四季とアルビノーニのアダージョ。コンサートが夜9時からだったので、お腹がペコペコだった私たちは、外に食べに出かけた。オープンエアのカフェでピザとペスカのアイスティーを頼み。やっと、ほっと一息つく。やっと、ベネツィアにいることを実感し喜びをしみじみと感じる。 スーパーでミネラルウォーターを買い、お菓子屋さんでティラミスを買ってホテルへ戻って食べた。寝不足であまりに眠かった私は、ここで少し仮眠。一時間弱眠るともう、8時過ぎ。コンサートへ向かう。 しかし、演奏者たちは、皆モーツァルトのようなコスチュームを着ている。あまりにも、ツアーリスティックで、上滑りな演奏。少しがっかりする。 ホテルに帰ってシャワーを浴びて就寝。
明日から17日間ベニスに行ってきます。19日の夜イギリスに戻ります。
なんか、本当に慌しい、ポルトガルから戻って二週間たたないうちにベニスだもの。でも、一年の間にこんなに多く移動したのは私の人生において初めての経験。 面白いかも。
というわけで、メールを頻繁にチェックできなくなってしまうので、 画像ファイルなどの大きなファイルをこの間は私宛に送らないよう お願いします。メールサーバがいっぱいになってしまう可能性がありますので。
ところで、この数日、フラットメイトのイタリア人女性のもとへイタリアから彼氏が来ている。彼の名はミルコ(?)、マルコにマをミに変えたような発音だというのだけれど、これで正しいのかな?
最近、彼女の機嫌がいいと思っていたら、彼の来る前触れだったのか。 彼はとてもハンサムで、なかなかのお洒落、最初は弟かな?と思ったくらい、彼女より若く見える。彼は、彼女に会いにきただけではなく、イギリスに職探しに来ていて、将来彼女と一緒にイギリスかアメリカで暮らせたらいいなと言っていた。僕たちは、僕たちの人生を一緒にしたいと思っているけど、彼女は勉強をしたいし、なかなか難しいね。と。
人の生き方や生活の場所が多様化すると、カップルのあり方も嫌がおうでも多様化せざる得ない。私は自分の好きな男の人とは一緒に暮らしたいってシンプルに思うけど、自分の勉強やキャリア、相手の状況を考えるとそれはなかなか難しい。 ただ、お互いの状況に応じて、多少離れることはあっても、ずっと信じあって、励ましあっていける相手がいれば、それだけで、人生はだいぶ楽になるのではと思う。
おしゃべりなイタリア人の彼の話に圧倒されながれも、この二人もいつか、一緒にくらせるといいね、と微笑ましく思った。
2002年04月01日(月) |
Cherry Blossoms -花見考 |
東京の桜は今年は例年になく早く、もう散ってしまったそうですが、 皆様、お花見をたのしまれたでしょうか?
私が桜を好きなのは、すぐに散ってしまうから。それは人の生そのものであり、そして、恋そのものであるように感じる。
「今、あなたとこうして初めての桜を見てる。来年も、その先もずっとあなたと桜を見れたらいいな」
と思ったことがる。桜を何度一緒に見れるかは、私にとってその人との過ごす時間の経過を感じさせるもの。
桜が圧倒的なのは、あまりにも短く、惜しげなく咲き、散っていくからだと思う。 それがあまりにも刹那的で潔いので、それに心打たれるのだ。
人の人生は短いと思う、しかし、現代において人の一生は、一花咲かせてあとは散ってもいいではないか、と思って生きれるほど、短くはない。 桜には花が咲いたあとの季節がある。その最高潮の時間が永遠に続くことはありえない。だからこそ、その一瞬がかけがいのないものに感じられるのだろう。
そして、その一瞬の幸福な記憶は何かの形でそれぞれの人々の中に残っていく。 それを胸に抱きながら、花が散ったあとの長い期間をどれだけ大事に生きていけるか、それを学びたいと思う。
栄華を極めたベネツィアがその衰退の過程でアルビノーニのアダージョを生んだように、いかに美しく老いていくかは、難しいが、人生の美学の重要なところだと思う。
今日は今年の復活祭=イースターでした。 といっても、私はパーティーをすることもなく、友達と会っておしゃべりして何も特別なことをせずに過ごしたのだけれど・・・
でも、イースターエッグ(チョコレート出来た卵のなかにおもちゃが入っている) は買ってあるので、お楽しみに開けてみようかしら?
先日、アフガニスタンの映画「カンダハール」を観たあと、もんもんとしていたときに、フラットメイトのパキスタン人とムスリムにおける女性の地位について話す機会があり、また、さらに考えさせられた。
彼によると、一夫多妻制は戦争によって、男女の比率が崩れた社会において、必要な制度であったこと。これがなかったら、多くの女性が夫・子供を持てなくなってしまうとのこと。一夫多妻制は女性に対する、救済措置でもある。 さらに、カンダハールで描かれている女性像は(常にベールを被り、夫以外の男性には顔をみせることも、口を利くこともままならない)極端なものであり、タリバン政権を批判するためのキャンペーンとして、彼女たちのイメージが使われているという。実際は、イスラム圏でも、ベールを被らないで済む地域は数多くあり、進歩的な女性たちはかなり自由に振舞っているという。
しかし、一方で、イスラム法によると夫の許可が無ければ、妻は国外に出ることはできない、妻からは離婚を請求できないというような情報もあり、実際の状況は、多様性はあるものの、女性の地位が欧米より低いというのは、(彼がいかに女性は我々の社会で尊重されていると主張しても)確実に言えることなのだと思う。
しかし、現在、私の友達の日本人女性の1人はムスリムの男性と恋をし、結婚を考え初めている。しかも、そのきっかけは、私が彼女に彼のことを紹介したことらしいのだ。私は彼女の行く手にある困難な状況を考えると、応援したいのはやまやまだが、複雑な心境。愛しあっていることは素晴らしいと思うが、それですべてが収まるほど世の中は甘くはないことを私は知っている。
しかしながら、恋愛において外野がなにか干渉するほど、無粋なこともなく、彼女が本気で選んだ道ならば、私にはその恋がうまくいことを願うしかないのだ。と思う。
ああ、季節は春です。 私の愛する人たちがよい季節をもてますように!!
まだ、スペイン旅行の雰囲気が抜けなくて、のんびりだらだらすごしてしまったこの三日間。毎日オレンジジュースが飲みたくて仕方ないという、スペイン病にかかってしまっている。
トイレは無事翌日の午後に修理の人が来て直してくれました。 でも、それまではいつ直るのか不安だった。寮の管理をしているところに、翌朝一番でトイレが壊れた旨の書類を申請しに行ったが、修理の人を頼んでみるが、いつくるかわからないというので、出かけることもできず、ハラハラした。
トイレが壊れると、こういう文化的生活に普段いかに慣れているかということが良く分かる。開発学をやってる友達には、インドでは手で水を汲んで流してるんだから、なんか自分でバケツに水汲んで来て流せばいいじゃん。と言われたけど・・・私は、この部屋にバケツすら持っていないのだった。
今日は、シネマシティーで石井總互監督の「五条霊戦記」とアフガニスタンの映画「カンダハール」の二本をぶっつづけで観てきた。
「カンダハール」は見ていて辛かった。見た後もずーんと重く心にのしかかってきた。学ぶことを許されない少女たち、医者にも顔や体をさらすことができない女性たち。銃を握る少年や男たち。
一対一の恋愛や婚姻関係に慣れている私にとっては、「私の第4夫人は・・・」と男性が語る一夫多妻制にすごく違和感を覚えた。その地域にはそこにふさわしい制度や慣習があり、それを欧米的近代的視野から見て判断するのは危険だということはわかっていても、この映画の中で見られる、女性のありかたに私は腹立ち、苛立ちを覚え、なんともいえない嫌な気持ちになった。
まあ、戦国時代はもちろん、明治維新以前まで一夫多妻制に近い状態が許されていたのだから、もちろん中近東だけの話ではないのだが・・・。
しかし、イスラム圏での宗教的しばりのきつさ、特に子供と女性に対する扱いのきつさ、を目にするとなんともいえない複雑な思いがした。
2002年03月21日(木) |
スペイン・ポルトガル旅行 |
すいません。しばらく日記更新してませんでした。というのも この一週間、イースター休暇がはじまるや否や、翌朝6時の飛行機で バルセロナに飛び、一週間のホリデーを満喫していたのです。
バルセロナでは、ガウディのサグラダ・ファミリアを見物。 その後日本から来たKと合流し、ピカソ美術館へ。
スペインはかなり治安が悪いと聞いていましたが、なんのトラブルもなく 無事に過ごせました。しかし、マドリッドの夜の駅はちっと怖かった。 なんか、バルセロナと違って、マドリッドは場所によって、NYチックに 街が荒れていて、ああ、いかにも犯罪が起こりそうという街角を目にしました。 地下鉄に乗ると、人々はかなり騒々しく、大都市でも、ロンドンとはおお違い みんなが大声でおしゃべりしているので、それをかき消すかのような、アナウンスも自然と音量が大きかったよう。 しかし、プラド美術館は良かった・・・、今、日本でプラド美術館展が開催中で いくつか、東京にいっているので、展示されていない作品もあったけど、それでも、ありあまる、ゴヤとベラスケスの傑作の数々。
ソフィア王妃芸術センターのピカソのゲルニカが見れたのも嬉しかった。 私は中学生のとき、開校10周年のゲルニカ制作委員会というのをやっていて、巨大な模作を制作したので、この作品には思いいれがある。 実際の作品は想像以上に大きく、迫力。同じ部屋に泣く女の連作の展示もあり、なかなかぐっと来た。戦争で、夫や子どもを失しなった女たちの悲痛な叫びが、聞こえてくるようだった。
三日も滞在したリスボンではのんびーり。 魚介類が豊富でレストランも安くておいしくかった。イギリスの食事に比べると日本人好みの味付けだった。 あと、日本で数年前から人気になったエッグタルトの発祥地。スナック−バーに行くと、魚のてんぷらや、カスタードプリン、エッグタルト、などのお菓子やスナックが2ユーロくらいで何種類も食べられる。
リスボンは坂の町、市電やケーブルカーに乗って、テージェ河を見渡す城壁や教会 をめぐった。 国立美術館に南蛮屏風の傑作があったのにはびっくり。 ポルトガル人は日本人が初めて出遭った西洋人だったのね。ポルトガル人が当時使っていたという地図に、長崎の地名が記してあった。
ああ、しかし、今は楽しみにしていたホリデーが終わって しまったことが悲しい・・・・
帰るなり、やらねばいけないことが山積み。
しかも、今日の夜、部屋のトイレが壊れてしまった。とほほ・・・
まあ、人生楽ありゃ苦もあるさ ね。
2002年03月14日(木) |
Finish of Spring Term |
この数日、毎日3時間ぐらいしか寝ないで、今日の夕方仕上げたエッセイを提出してきました。 今回は今までの中で一番、時間がかかったけど、結果はどうでるかしら?
本日にて、イースター休暇前の授業および、課題はすべて終了。 一ヶ月の春休みが始まります。私は4月3日からイタリアアートのゼミ旅行でイタリアに行くので、正味は三週間。
ああ、でも、ほっとすると同時に、疲労と頭痛に見舞われている。
とりあえず、しばらくはゆっくりします。
ああ、ほぼ、今日だけでエッセイのドラフトを書き上げた。昨日の段階でアウトラインからやり直し、日曜の午前中に、友達と話した話が刺激となって、クロノロジカル=時代順でかきはじめたら、すんなりいった。でも、自分が好きな作品の解説や意味のところばかりが、長くなり、非常にバランスが悪い。 でも、気になる作品じゃないと、かたる気も失せる。
もう、今は読み返すのも嫌な気分。とにかく、どうにか、文字数は突破したし、一応、序論と結論はあるので、小論文となっていることを祈る・・・
ガーっと、書きあげて、こういうときこそ、一気呵成って使うのでは?と頭をよぎり、広辞苑で調べてみると、まさに
一息に文章などを作りあげること。また、物事を一気になしとげること。
とある。これって、いい意味なのかしら? ああ、ともかく、今回も提出前に、ライティングハイが一度でも来て良かった。。。書けない時は一日中かかっても、200ワードくらしか書けないのに。 なので、毎回、ライティングハイが来てくれるかすごく心配なのよね・・・・
まあ、今はもう、夜中の3時、エッセイが進んだのはいいけど、明日のプレゼンの準備を全くしていない。
ああ、エッセイで書いた知識を使いまわしします・・・それで、大丈夫なのか?
とりあえず、今は寝るべきか、胃が痛いのは気のせいではない。
今日も、昨日もエッセイにために缶詰状態のはずが、朝起きてすぐに、同じゼミの日本人と問題点を話すために出かけた。昼に帰ってきて、キチンでお昼を食べていると、フラットメイトと会って、また楽しい話題でもりあがる。
2時からやっと、勉強に戻ったけど、4時ごろに飽きて、ビョ−クを大きな音でかけながら、ストレッチ。 5時過ぎに、BGMをバッハに変えてもうひと頑張り。
さらに、エッセイで疲れ果てた夜8時すぎ、元気づけのために、ご飯でも炊くかと思ってお米を持ってキッチンに行ったら、私の疲れた様子を見かねた香港人の友達が、ご飯が食べたいなら、私のを半分あげる、と言って、まだまだホカホカの中華風炊き込み御飯をわけてくれた。
これには、干し貝柱と、海老と椎茸と、きんかハムみたいなハムが入っていて、美味しいったらなんの・・・
昨日の夜は、彼女の海老と白菜と春雨の煮物(これも、すごく美味しかった)を分けてもらったのに、毎日こんないいものを食べさせてもらって、いいのだろうか?
しかし、おいしい中華料理をながらく食べていない私にとっては、最高のプレゼント。テスト終わったら、今度は私がつくるねーと思いつつ、彼女の料理のほうが断然おいしいので、どうお礼をしていいのか、と悩む。
私が、彼女にしてあげたことといえば、日本製の家電や食品の説明書きを英語で解説してあげたことくらい。
この場を借りて、Cに。いつもありがとう。。。食べ物の恩は忘れません。いつか必ずお礼をします。。。
私を泣かせるのも人だし、私を幸せにするのも人だなあとつくづく思う。テンパってるけど、なんだか幸せな気分の一日でした。
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