2003年04月23日(水) |
Death in Venice- ベニスに死す |
大学の特別上映でビスコンティの「ベニスに死す」を見た。 マーラーのテーマが感傷を誘う美しい映画。しかし、後半は私にはグロテスクに感じた。
どうせ死ぬならベニスのような美しい場所で死にたいかも。 しかし、この映画を見てあらためて「美」というものの強さを思い知らされた。 頭のいい人、肉体的に強い人、美しい人。。。この中で一番生きていく上で 有利なのはどれでしょう? という質問に、どれでもどれだけとびぬけているかが 問題なので、なんともいえないなと思っていたけれど、この映画を見るとやはり美は強し!と思った。
14歳くらいの少年・少女というのは人生で一番美しいのかもしれない。 性的に成熟しておらず中性的かつ、子供の面影をたたえながらも顔つきは大人のもつ知性を伺わせる。大人でも子供でもなく、男でも女でもない彼の顔はまさに天使か悪魔か。
私も13歳の時に撮った自分の写真をみて、自分の歴史の中ではこの頃が一番可愛かったかもと思った。150cmで40kgぐらいしかなかったやせぽっちの私は手も足も細く、お尻もちっちゃかった。15歳になるころには肉がつきはじめ、あっというまに体重も増えてしまったけど。
言ってもせんないが、この映画を観て、どうして自分はもっと美形にうまれなかったんだろう・・・と思った。 私の父も母も二重でけっこうくっきりとした顔立ちなのに、私は一重で地味な顔だし。まあ、この顔でも私を愛してくれた友人達、過去の恋人達のおかげで、(家族は私がどんな顔でも愛してくれたと思うので)今の私がいるのだから、いいのだけれど。 しかし、この映画に出てくる美少年のように美しかったら人生は変わるだろう。 彼はこの映画で世界的に有名になったにかかわらず、音楽学校での勉強をつづけたいとあまたの出演以来をことわり、一切の芸能活動をしていない。 無垢なる美しさはショウビズにその美しさをさらしてお金をかせぐ必要などないのね。
年をとると顔に人格が出るというので、私はその面でがんばろう。。。
2003年04月20日(日) |
I am fascineted by silence. -静寂の魅力 |
ポルトガルから無事に帰ってきました。 最初の3日は嵐で、天気も悪くて部屋でごろごろTVを見たり、晴れ間をぬって近所を散歩したりしかできなかったけれど、残りの4日は友達のパートナーの実家に遊びに行ったり、バーに行ったり、ロカ岬に行ったり、いろいろ行動的に過ごしてあっという間の一週間でした。
友人とは2年ぶりに会ったので、最初の夜は私も、そしてたぶん彼女もちょっと気を使っていたけれど、あとは本当にリラックスして楽しく過ごすことができて、心の通う友達といろいろと話せること、思いを分かち合えることの喜びをひしひしと感じた。
一週間あればたっぷりいろいろと話せると思っていたけれど、過ぎてみるととても短く感じる。でも、彼女とそのパートナーと話すことでいろいろなことに対して、理解が深まったり、確信したり、無心になってみたりすることができて、とても良い休暇になった。。。
丘にぽつんと建つ一軒やである彼らの家は本当に静かで、夜も朝も耳をすませば鳥のさえずりが聞こえた。私はそこで、静かな環境の魅力を改めて感じた。 なぜ、私がこんなにも慌しく、忙しいのに、駆り立てられるように一ヶ月で二度も旅行に行ったのか?
もちろん、彼女や、アルベルトに現地で会いたかったせいもある。ポルトガルやイタリアといった太陽の光溢れる場所に行きたかったせいもある。。。 そういう理由のために、私は旅にでたと思っていたが、イタリアでもポルトガルでも、私が意識していなかった理由、旅先での誰にも邪魔されない静かな夜というものを私がいかに必要としていたか、求めていたか?ということに気付かされた。
昨日の夜、ポルトガルから帰ってきて、私は自分が大学の寮でいかに、騒音に苦しんでいたかということに気がついた。私の部屋は不幸にもダイニングルームの隣で、インド人のフラットメイト達が友達も呼んで、頻繁に深夜まで映画を見たり、飲んで語りあったりしている。私のベッドはそのダイニングルームのちょうど壁をはさんだ側にあり、大音量で見る映画の音、話し声などで眠りを妨げられることが何度もあったのだ。
私はそれを同じ寮の違う棟に住む日本人の友達に話したら、それは我慢しないですぐにでも彼らに強く言うべきだと言われた。私は前に一度言って、その後少し静かにはなったのだが、やはり時にはうるさくイライラさせられることがある。
今日、勇気を振り絞って、インド人のフラットメイトの男性二人に私が騒音に苦しんでいることを言ってみた。かなり我慢ならないので、他の人(彼らの仲間の女の子)と部屋を交換したいと思っていることも。彼らの反応は、うるさいと思ったら、その場で言ってくれないとダメだよ。後から言われても、仕方ないし。というものだった。 それに、基本的に、彼らがうるさいから私がこの寮を出て行きたいというのは良くないし、勉強の妨げになるようだったら、僕らにパーティーや、映画を止めてくれ って言うべきだよ。 というものだった。彼らの言い分はもっともで、私がウジウジ悩んでいるのがいけないのだと思う。でも180cm級の声の大きいインド人の男が4-5人集まっているところに、入っていって、うるさいから静かにしてくれって言うのは私にはとても難しい。 それに、インド人たちは話し声が大きいので、彼らが普通に話しているだけでも、私にはうるさく感じることも多々ある。それを彼らにわかってもらうことも難しいし、私が言ったところで、彼らが変わるとも思えないのだ。 私が騒音を訴えたあと、彼らの態度はとてもよそよそしくなり、二人とも挨拶もせずにダイニングルームを出て行ってしまった。私は1人部屋に戻ってこれで良かったのだと思おうとしたが、彼らの冷たい態度に弱気になって、1人で机に座って泣いてしまった。外国で1人で生きているのだから、強くならなくては生きていけない。 これくらいでくよくよしてはいけない。彼らの騒々しさが生まれつきなら、神経質だと言われようが、私が音にうるさいのも生まれ持った傾向なのだ。 私には私の生活傾向を主張する権利があると思う。
私は時々、深夜1人で散歩をする。うるさい自室を離れて、真夜中の大学のキャンパスにある原っぱに1人立ってみる。通り過ぎる車の音以外ほとんど何も聞こえない。私はほっとする。心からやすらぐ。1人、静寂に包まれていることに。
I am fascinated by silence. "Soft Shell Man"というカナダ映画の中で、主人公のカメラマンが聾唖のジャーナリストの女性に出会い、何度も彼女に紙にそのメッセージを書いてみせるというシーンがあった。
そう、私も静寂に魅了されている。
私にとって、精神の平安を得るためには静かな環境がとても大切だということ。 それに気付かされた春でした。
明日から19日までポルトガルに行ってきます。リスボン近郊に住む、10年来の友達の家に泊めてもらいます。彼女と会うのは約2年ぶりなのでとても嬉しい。
でも3日にイタリアから帰ってきてこの一週間の早かったこと!!イタリア熱に浮かされてうっとりしてる間に一週間が経ってしまって、正味勉強できたのはこの3日間くらい。。。
今抱えてるレポートの締め切りは5月初旬なのですが、早く終わらせて修士論文の準備に取り掛かりたい。。。明日、いや今は午前4時なので今日の昼に出発だというのに、まだレポートを書いている私は、荷造りは大丈夫なのか?
もう、目がしょぼしょぼしてきたのでちょっと寝ます。
ではアディオス!
2003年04月03日(木) |
Bellissimo Italia! ドラマティック・イタリ- |
今朝ジェノヴァを出発してイタリアから帰ってきました。 行く前は勉強も進まなくてノイローゼのようになっていて、イタリアに行ってる場合じゃないよ。それに初めてのイタリア1人旅だし、寝不足でぼけっとしてるし、もしかしたら、なんかひどい目にあって無事に帰ってこれないんじゃないか?くらいにネガティブな予測一杯の旅行だったのだけれど。。。。
世にも素晴らしい旅行だった。今回の旅はたった5日間だったけれど、初めて姉と一緒にベニスに行ったとき、またはそれ以上に私の精神に影響を与えると思う。 海・太陽・空・食べもの・そして旅で出会った人々。案内してくれたアルベルト。 何もかもが本当に印象深かった。
イタリアの空気は私に活力を与える。イタリアにいると人生が美しいことを思い知らされる。そして、そこには深い翳りがあることも。イタリアの空気は生きることの限りない喜びと、失われたもの、失われつつあるものの悲哀をいつも湛えている。
私が帰るという昨日の夕方、私とアルベルトは初めて2人だけでバーで飲んだ。私はアルベルトに言った。 「イタリアで見るあなたはとても生き生きしていてるね」 「そりゃそうだよ。ここは僕の生きてきた場所だもの。僕はこの街が大好きだしね。」 「いいね。そういうふうに思えるって」 「ふうこは自分の(生まれ育った)場所を離れることができると思う? 僕にはできない。僕はイタリアを愛しすぎてる。ここから長い間離れてずっと暮らすことは想像できないよ」 私はすぐには答えられなかった。私はイギリスにいても彼のように、ああイタリアに早く帰りたい−と思うほど、日本の生活を恋しがることはないように思った。 でも、私は私なりに日本を愛している。日本文化は私のバックボーンになっている。でも、私には彼がエスプレッソ一杯でもイタリアでなくては絶対ダメと思えるような、執着を日本に対して持っていない気がした。それに気付くと少し悲しくなった。私が執着を持つとしたら、それは日本には私の家族や友人といった一番大事な人たちが住んでいるということだけかもしれないと思った。いや、個人的なつながりはもちろん、私は日本人の性質が持つ何かをとても愛し、必要とし求めている。それは例えば、繊細や優しさや、穏やかさや、生真面目さ、美意識といった目には見えない、形にはなかなかならないもの。
イタリアの美は目に見えやすい。。。でも、日本の美は自然であり、人々の感性であり、穏やかな気候であり、形にはしにくくとも、長い間日本という国の中で培われてきたもの。私は、アルベルトがエスプレッソを愛するように、それらの日本の美質を愛し、いつも求め続けている。そしてそれを、自分の中に発見したいと思っていることに気がついた。
港を歩いているとアルベルトが一層のボートを指差した。 「あのアズ−リ色のボート、あれとまったく同じようなボートを父が持ってたんだ」 「素敵! お父さんは釣りでもする人だったの?」 「いや、ただ家族で楽しむためのボートだった。小さなキッチンとトイレとベッドもついててね。よく妹と甲板で寝転がったよ。」 「私は小さな頃、船で旅する話を絵本を読んで、夢に見てたなあ。あなたは本当に幸せな子供時代を送ったのね」 「子供時代はね。。。僕の10代は本当に辛い時期だったけど」 アルベルトのお父さんが今はいない。。。ということにはうすうす感じていたけど、離婚したのか、別居したのか、亡くなっているのかはまったく聞いたことがなかった。 私たちは雨が降り出した人気のない港のカフェの軒先で雨宿りがてら、離れて座って港を見ていた。アルベルトは渋い顔をしていた。アルベルトがお父さんの話をしてくれたのは初めてだった。
「僕の父は文房具屋を経営してたんだ・・・」 彼が10代の半ば、そのお父さんは事故にあって、その後遺症から 肝臓と脳をやられてしまって、10年近く間ずっと寝たきりになってしまっていたという。病院通いと自宅での介護、豊かな生活から店を失い、家も失い、もちろんボートも失った。お母さんの稼ぎでどうにか生活していくことはできたが、彼らは 小さな家に引越しをし、生活のすべて変わらざるを得なかった。 そして、数年前にお父さんは亡くなった。
「本当に大変だった。僕は自分の勉強に専念することはできなかった。バーとかカフェとかアルバイトもいっぱいしたよ。父のことから逃げ出すように、僕はアルバイトしてお金を貯めては山登りの装備を買い揃え、山に行った。父が死んで、僕が大学を卒業したとき、僕はもう25歳になっていた」
私はなんと言っていいのかわからなかった。 「でも、今はあなたも、お母さんも妹も元気にそれぞれやってるんだし、あなたの家族はがんばって一番大変なときを乗り越えたんじゃないのかな。それはすごいことだよ」 「うん。母も妹も今は元気だし、僕だって。でもね、母と今回、イタリアに戻ってから話し合ったんだ。僕たち家族はいまだに父の病気とその死で喪われたものから回復していないねって。」
イタリアでは天気がいきなり変化し、雨に降られることさえ美しい。 最後の夜、再度降り始めた突然のの激しい雨に私が軒下に留まって鞄から傘を出して広げて歩き始めると、襟を立ててさっさと先に歩いていたアルベルトが、私を振り返り 「ふうこはイタリアのAqua(水)を楽しまないんだね」と言った。 「Aqua? ミネラルウォーターのこと?」と言ったら 「僕が言ってるのはこの雨のことだよ。。。見てみなよ。あの雲、なんて言ったらいいのかな。。。」 そこにはあっという間に私たちの頭上に追いついた、こんもりともりあがった濃い灰色の雲があった。まるで、ジョルジョーネのテンペストの絵さながら。。。のドラマテックな雲だった。 「ドラマティック?」と私は言葉に詰まった彼の代わりに続けた。 「そう、ドラマティックなんだ。イタリアだと、何もかもがね。あんな雲イギリスでは見れないよ。」
そう、この街ではすべてがドラマチックに映る。足元の石畳さえ意味を持つ。
うすいグレーの石畳は雨に濡れ、濃い灰色になり黒く光沢を帯びる。私は早足で歩き続けるアルベルトの背中を前方に時々確認しながら、でこぼこの地面に足をすべらせないよう石畳を見つめながら歩く。疲れと足の痛みを感じながらも、足の下に感じるこの旧市街の不ぞろいな、かつ堅牢な石畳は私に歩くことの基本的な喜びを与えてくれる。このしっかりとした足応え、盛り上がってくるような抵抗感、一歩一歩しっかりしてかからないと前には進ませないような頑固さをもって人に挑んでくるこのイタリアの旧市街独特の石畳の坂道は、私に生きていること、自分が自分の足で歩いていることを実感させる。
私はこの石畳を歩いている夢をみた。目が覚めたときにはがっかりしたほど、現実に自分がジェノヴァに戻ってあるいているような感じの夢だった。 湿った港の風、スニーカーを通して足裏に感じる凹凸、あの時のイタリアの空気を思い出すと、目を閉じるだけで自分の周りにイタリアの情景が立ち上がってきて 私をつつむような気がする。私はたった3日歩いただけのあの濡れた石畳をとても懐かしく思う。
私はジェノバのブリニョッレ駅から空港に向かう途中のバスの中、流れる景色を見ながら涙を止めることができなかった。私が、アルベルトが、イタリアが、日本が喪ってきたもののことを思った。そして、いまだにあり続けるものたち、これから生まれるであろうものたちのことを。イタリアだけが私をこんなにも感化することができると思う。
2003年03月28日(金) |
ニューヨークタイムズの課金制度 |
30日から4月3日まで4泊5日でイタリアに行ってきます。 中3日はアルベルトと現地で合流し、一緒に(と言っても、彼は自宅や叔母さんの家に泊まるので、私だけB&Bに泊まる)に旅行することになっている。
イタリアに行くのは楽しみなのだが、ニュースに関するエッセイが遅々としてすすんでおらず、部屋に一日こもって多岐にわたる資料と奮闘していたら、もう頭痛が痛いのってなんの(って言いたくなるくらい混乱している)。
しかもニューヨーク・タイムズの記事を使おうとしたら、ウェブでは要約とタイトルしか見れず、本文を読みたいなら記事一つにつき2.95ドル払えと来たもんだ。 なんだかしゃくに障ったので、図書館に行き同じ会社が編集してるヘラルド・トリビューンの過去の記事から手と目で探して、お目当ての時事に関する記事を手に入れたら、腹の虫も治まった。うちの大学も、ル・モンドとか置くなら、国際的研究に秀でた大学だって広告打つくらいなら、ニューヨーク・タイムズくらい図書館に置いておけ!!と思った。
まあ、記事一本テキスト配るだけで、3ドルとは、さすが天下のニューヨーク・タイムズいい商売してまんなあ。でも、読めないというと読みたくなるというのが人間。気になる本について、ニューヨーク・タイムズに面白そうな書評があったので、やはりお金を払ってでも読むべきかどうかいまだに悩んでいる。
2003年03月27日(木) |
フィンランドはまだ雪の中 |
先日、フィンランドに帰ってしまった友人にメールを書いたら、すぐに返事がきていてとても嬉しかった。彼女は半年ぶりに故郷に帰ったばかりで、1人暮らしの家ですぐにインターネットができないかも、と言っていたので、あまり返事は期待していなかったのだ。
今日は、多くの友人から連絡やお誘いがあり嬉しかった。 日本人と韓国人の女友達からは別々にディナーのお誘い。 他、イギリス人の友達からもランチに誘われ、イタリアのアルベルトからも電話をもらった。 でも、一番嬉しかったのは、「フィンランドではまだ雪が積もっています。」 という彼女のメールだった。
彼女は交換留学生だったので、私たちより一足先にコースを終え、フィンランドに戻った。そして、フィンランドの自分の属している大学で比較文学の修士課程を続ける。 彼女はうちの学部の学生の中では、特異な経歴の持ち主で、医学部卒業後緊急医療の医者としてフィンランドの病院に勤めた後、国境なき医師団に参加し、エルサルバドルに2年間いたという。英語とスペイン語とスウェーデン語ともちろんフィンランド語を話し、山を歩くのが趣味という人である。 彼女と最初に話した時の印象は強烈だった。正直、頑固で変わった人だと思った。 クラスでグループディスカッションをしたときに、あなたが英語でよく読むものはなんですか?、それを読む目的はなんですか?という一般的な質問にたいして、新聞とか教科書とか他の人が答える中で、彼女は最新の情報を得るためにサイエンスの専門雑誌を読むと言った。それ以外の雑誌はあまり読まないと。 くだらない雑誌を色々読む私はそれを、珍しく感じたので、それは珍しいね。と言ったら、どこが?私にとっては当たりまえです。と彼女に言われ、ちょっと趣味に偏りのある人なのかなと思った。 今から思えば、私の了見は狭かったと思う。文系の学部だが、サイエンスに興味を持つ人がいてもおかしくはない。
だが、その後、彼女がアルベルトのフラットに引っ越してから、顔を合わせることも増え、親近感を感じるようになった。アルベルトから彼女が実は緊急医であることを聞くと、彼女に対する謎が解けた気がした。 ある日、2人で話しているとき、彼女は私に自分が医者であることを自分から私に話してくれた。私はアルベルトからは聞いていたが、知らないふりをしていたので、彼女からそのことを話してくれて嬉しかった。医者だというと何で今さら文学や翻訳を勉強するの?と言われるけど、緊急医はとても辛い仕事で、長い間働いてきて、他の事を勉強してみたくなったのよ。と彼女は静かに言った。彼女はSF小説が好きで、将来SF小説を訳せたらいいなと思っているとも言った。私は、思わず、すごくいいね。と今は医療ネタのSF小説も増えているし、医者から小説家になる人もいるしね。と強く頷いた。 私は彼女の考え方がとても好きだと思ったし、本当に彼女が将来SF小説の翻訳家になったらなんて素敵だろうと思った。
彼女へのメールの最後に、「アルベルトはあなたがいなくて淋しいとうるさいくらい騒いでいます。もちろん私も同じ気持ちです。夏には休みをとって、ぜひイギリスへ戻ってきてください。皆で待ってますから。」と書いた。 彼女は「そう言ってくれてありがとう。仕事(医者の)しだいだけど、夏にはぜひ休みをとってイギリスに行きたいと思っています。」と書いていた。
来週はスキーに行くそうだ。
2003年03月26日(水) |
侵すこと、侵されること |
イギリスも、もう暖かくなって、先日の日曜は友人と一緒に外でランチをしました。サクラも満開で。。。暗くて長い冬と比べ、こちらは春になると一気に、日照時間ものび、日々は明るい光に包まれはじめました。
太陽の光、緑、鳥たち、咲き誇る花。戦争のことで憂鬱な気持ちになっていてもたってもいられなくて、1人で歩き回っていたら、自然の中に安らぎと包容力を見出したみたい。人間はなんてちっぽけなのかな?と嬉しくなる。でも、なんて破壊的な動物なんだろう?と悲しくなる。
一つの生命として、この世界の一部であることは、それ自体とても祝福されたものであり、同時に、自分がこの世界の一部であることを忘れてしまって、目の前の利益やプライドのために、その世界にダメージを与えてしまうのは愚行としか思えない。
私は戦争に反対する。キレイごとだろうといわれようが、反対する。 私は、戦闘機を見て興奮しない。うんざりする。 他人の生活、そして自分自身の生活を暴力で破壊しえる戦争に関する装備すべてを 心から嫌悪する。恐ろしいものだと受け止める。
戦争が起きると人間の心理は大きく二つに分かれる。 侵されることを想像する人間、侵すことを想像する人間。 私は、イギリスや、アメリカが好戦的なのは、かれらはいつも「侵す側」にたってきたからだと思う。 私の中での戦争のイメージは、祖母が経験した東京大空襲で逃げまわり、追いつめられて、黒焦げになった人々であり、生き延びても放射能汚染による持病に苦しみつづけた広島・長崎の人々の手記であり、中国人に刀を振り下ろした日本人兵士の写真が語るものである。
そこには、国と国との争いの中で、なすすべもなく、命とその生活を脅かされた人々がいる。
私には今、日本にいる人たちが北朝鮮に対してどれくらい脅威を感じているのか、正直わからない。北朝鮮に対する脅威が日本のアメリカ支持の大きな理由なのだろうか、しかし、アメリカを支持することは、北朝鮮の暴走を食い止めることに繋がるのだろうか。 イラク侵攻の当事国であるこの国にいると、イラク関連のニュースばかり入ってくるので、それに対して何かを感じずにはいられない。
私は戦争に反対である。
2003年03月25日(火) |
食べることは生きること |
うーん、最近、イースター休暇に入り、授業がなくなって暇になるはずか、忙しい。 3月だけで2回、日本料理を教えてと頼まれ、まあ要するに教えながら、何か作って欲しいということなんだけど、それぞれ10人分近い料理を作った。 材料も頼んできた友達が全部私に聞いて、前もって用意していたので、私は道具とレシピのメモしか準備しなくていいのだが、10人分の料理を3品くらい作るというのはそれなりに、時間がかかる。
まあ、作るのはいいのだが、教えるのは大変で、ある南米出身の男性はまったく料理をしたことがないので、鍋に塩をふってるだけで、塩はどれくらい入れるの?って聞くならいいのだけど、それは何を入れてるの?と聞いてくる始末。 そういう感じで、ずっと質問が続く。いちいち教えるなら、自分でやったほうが楽なのよ。。。と言っていた母の言葉を思い出す。
エリートの中にはメイドのいる生活に慣れているせいか、または家事は完全に母親に頼っていたせいか、洗濯や料理がまったくできない人が結構いる。これは見ていて一個人として情けなく感じる。私は、家事はまったくいい加減だけど、洗濯機の使い方や、簡単な料理などは、環境が変わっても、(と言っても、日本、アメリカ、イタリア、イギリスだけだが)どうに自分でできる。最低限自分の身の回りのことはできるようにならないと、それは勉強以前に大事と言っていた、うちの両親は正しかったと今になって思う。 洗濯とか最低限の料理を男女かかわらず教える、日本の学校教育における家庭科の授業は無駄ではないいとつくづく思う。
料理については、私の育った家が特殊なのかもしれないけど、最低限なぜ自分で、できないのかと不思議になる。 私の友達は、料理にかんして、私はうるさいからと一緒に料理はしたくないと言っていたけど、そうかもしれない。学校生活の中で唯一、家庭科の調理実習だけは仕切っていた気がする。
でも、安くて、簡単に、そこそこ美味しいものを自分で作ることができるというふうになることは、人生を楽にする気がする。
美味しくても準備に何時間もかかったり、材料が高かったり、するのは日常食にはなりえない。服と同じで、パーティーのときしか役立たない。 日常食なら、30分くらいで、ありあわせのもので、とりあえず、ほどほどに美味しいものを作れるというのが望ましい。
私にとって、食べることは生きることそのもの。だから妥協できないのだと思う。 何を作り、食べるかは、料理教室で習うレシピではなく、自分のコンディションに合わせてアレンジしたい。
2003年03月22日(土) |
インターネット・リソースによる客観性の確立 |
相変わらず、「ニュース翻訳における客観性の分析」というテーマに取り組んでいるのだが、ちっともはかどっていない。 ニュース分析と翻訳理論を結びつけることに難しさを感じている。
ただ、当たり前のようなことなのだが、先進国ではインターネットが当たり前のように人々の生活に入り込んでいる今、人は情報源をマスメディアに頼らなくても様々な情報にアクセスし、戦争や、政治問題、環境問題などに関しての客観的な見方を持つことが容易になった、ということをしみじみと感じる。
ニュースの客観性といったとき、私は政府による検閲や、マスコミと政治や経済の癒着関係をまず思い浮かべたし、メディア学のニュース分析の基本的前提は「偏りのないニュースなどない」という一文に凝縮される。
しかし、哲学的にいえば、個人が何かについて判断したり、意見を持ったりするとき、それはすべて主観なのであり、人の判断や思考回路は客観的になろうとすることは可能だが、まったくの純粋な客観ということ自体がありえないのだ。
そこで問題は、コミュニケーションの過程よって、どのようにして、人は客観的な視点を確立していくことができるか、そして、どうそれを表現するのか?または、逆に事実と言われる証拠のある状況が、その表現の過程において、どのようにねじ曲げられ、客観性を失っていくのか?ということになる。
客観性を持つために一番有効なことは、その事象に対して、様々視点があるということを知ることだ。自分の見方と違う視点を知ることで、対象を立体的にみることができる。円錐が上からみれば、円形だが、横から見れば三角形に見えるように、物事を立体的にとらえることができれば、違った見方が自然と見えてくる。 そして、様々な人の視点に触れることができるという点で、インターネットは個人が世界を客観的にみることを、今までにはなかったどんなメディアより可能にしたと思う。
面白いのは、インターネットが、膨大な個人的な情報、つまり極めて多くの主観を提供していることだ。社会的公平と客観性を売りにしていたはずのマスコミが、主観的に物事語ることをゆるされていないように見えながら、実際にはコントロールされた情報と共に、極めて主観的な視点しか提供していないということは衆知のものであり、逆に基本的に極めて主観的で、公平さを売りにしていないネット上の個別の情報の方が、よっぽど客観的に物事をみる視点を与えてくれる。客観性を演じながらも主観的なマスコミと、複数の主観から客観を確立することを可能にするネット、そこには主観に徹することでしか、客観に到達する道はないというパラドックスが見える。
客観的視点を持ちたいと思ったら、まず自分の視点を定めること。インターネットの上の膨大な上は、私にそのことを教えてくれた。
インターネットがなかった時代、人々がアクセスできる情報は今よりもずっと限られたものだったので、マスメディアで報道されるニュースの客観性を疑うことに意義をみつけることは簡単だったろう。 だが、インターネットというメディアを得て、相対的に、情報が増えて大新聞やTV局といったマスメディアへの依存度が下がりつつある今、メディアを研究することは、またさらに違った人間の活動形態を暴くものでないと面白くないような気がする。
2003年03月19日(水) |
世界の終わりは君と一緒に・・・ |
ついに、戦争が始まる。 ブッシュのフセインへの亡命勧告が48時間たって時間切れになった、本日のイギリス時間深夜1時。私は落ち着かない気持ちで、寮のキッチンのTVの前に行き、ニュースを見始めた。
戦争が始まったといったからといって、すぐに私の住む街が攻撃されるわけでもなく、悲痛な気持ちとは裏腹に明日の朝も、私はいつもと変わらない朝食を食べるのだろう。今日、食料の買出しに行って帰って来たら、ギリシャ人の女の子のフラットメイトに、「ふうこは戦争が始まるから食料買いだめしたの?」とからかわれた。ああ、戦争がある国ではそういうこともありえるんだな、と思った。
アイルランド人の女性にに晩御飯を招待されていたので、夕方は彼女のフラットに出かけたのだが、日本はアメリカをサポートするって宣言したんでしょ? どうしてだと思う?と質問されてうまく答えられなかった。経済的、軍事的理由で、日本はアメリカには反対できないわよね。とイギリス人の女性に言われて、そうだね。と頷くしかなかった。
イラクの国民はいまどんな気持ちで時間を過ごしているのだろう。 数時間後、数日後に自分の住む街が戦場になるという可能性の中で、何を思い、誰と話をし、食事を共にしているのだろう。
バグダッド市内に住むイラクの男性のインタビューを見た。 「私の家も、仕事もここにあるし、家族もいる。仕事を捨ててどこに行けっていうんだ。そうしたら、家族はどうやって生活していくんだ。ここにいるしかないんだ。」というようなことを彼は言っていた。
私はいろんな人に頼ったり、助けられたり、して生きているけれど、明日私が死ぬかもしれないという時になって、この人のために自分は死ぬわけにはいかないと思えるような相手がいないかも。。。と思った。 私にとって死んで欲しくない相手は何人もいる。私は彼らを必要としているけれど、反対に私を必要としている人はいるのだろうか?
世界の終わりは君と一緒に、と思えるような相手、最後に、ありがとう、愛していると伝えたい恋人がいないのはつまらないな。。。と思った。
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