沢の螢

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両吟恋々
2004年08月12日(木)

高原で過ごした日々も、いったん中断して、明日は東京に帰らねばならない。
今日あたりは、34度もあったそうだから、しばらく酷暑の中で過ごすことになる。
ある人から、両吟をしませんかというメールが来た。
連句は、一座した時は、普通4,5人くらいで巻くが、インターネットなどの文音では、3人(3吟という)とか、多くて7,8人ということもある。
二人でやる時は、両吟という。
最近、暑いとか、不在だとかで、出掛けるのをサボりがちなので、じゃ、ネットでと誘いがあったのである。
ちょうど4人で、私のネット連句が一巻終わった所だった。
折角だから、両吟で一巻付け合いをと、心が動いたのだが、少し考えて辞退した。
連句のいいところは、虚構の世界を、愉しめること。
舞台の役者になったつもりで、実生活とは別の空間で、もはや縁のなくなってしまった恋も、たっぷりと演じることが出来る。
虚構の世界ではあるが、やはり嫌いな人とは出来ない。
4,5人ならどんな人が一緒でも、グループのメカニズムがうまく働いて、そこそこ愉しめるが、両吟は誰でも良いというわけにはいかない。
まず、二人の連句の実力が、ほぼ拮抗していることが大事である。
力の差があまりありすぎると、片方が先生になってしまい、教室のようで、あまり愉しくない。
それ以上に、必要なのは、感性の合うこと。
打てば響くようなものが感じられないと、世界が広がっていかない。
ある時、私は、両吟で、これ以上得られないのではないかと思うような、充足感を味わった事がある。
自分で意識していないものが、体の奥底から引き出されたような、一種のエクスタシーに近いものを感じた。
面白いように、句がどんどん出てきた。
私にとって、最高の付け合いであった。
相手は、私より少し年上で、文芸に造詣の深い男の人であった。
連句を巻きながら、私はほとんどその人に恋をしていた。
そして、虚構の舞台を降りると、素知らぬ顔で、お互いの生活に戻っていったのであった。
どちらも、何も言わないが、暗黙の約束事である。
これはひとつの巡り逢いだが、滅多にあることではない。
巻いているときは、お互いに対して、熱くなり、ある程度のリズムと、集中力が必要である。
その状態を、終わりまで持続させるのは、それほど簡単ではない。
途中で、熱が冷めてしまうと、倦怠期の夫婦のように、中身の薄いものになってしまう。
この9年間に、わたしの両吟経験は、数えるくらい。
今年になって、一巻、付き合ったが、時間ばかりかかって、お互い、あまり燃えなかったような気がする。
両吟で、感動と迫力に満ちた一巻が出来たら、その相手に、少しばかり悪いところがあっても、許せそうな気がする。
今回、折角誘われたのに、気が乗らなかったのは、その人の人格とは別の、相性の問題であった。
羽目を外したり、破調を好む私と、折り目正しく、ルールを重視したい相手とでは、多分、空中分解しそうな予感がしたからである。
いつか、また、ホットな両吟の機会に恵まれたいものだと思う。


蝉のいのち
2004年08月11日(水)



高原の夏はさわやかだ。
都会の人工的な暑さを逃れて、森にはいると、ホッとする。
先週1週間、森で過ごし、所用で3日ほど東京に帰っていた。
ひと頃の猛暑からは幾分、暑さは和らいでいたものの、日中の暑さはやはりこたえる。
そのまま森に滞在中の夫に連絡、昨日の午後またこちらに来た。
14日には、合唱の練習があるので、前日には二人で東京に帰らねばならないが、また来るつもりである。
涼しいと云うことは幸せなことだと、つくづく思う。
東京の生活をもっとシンプルにし、出掛けやすいように予定も減らし、夏の間はずっとこちらで過ごせるようにしたいと、思いながら、趣味の集まりがあったり、誘いがあると、つい予定を入れてしまう。
この6,7の二日は江ノ島で、泊まりがけの連句の会があった。
来週はまた連句関係の行事が3つ続いている。
一つは熱海に二泊三日である。
いずれも私の趣味に関する行事なので、話があった時、積極的に参加の意を表明した。
高原の静かな明け暮れ、都会での人間くさい交流、そのどちらも、今の私には、欠かせないことである。
動と静、いかに旨くバランスを取って、人世を充実していくかが、もう若いとは言えないこれからの私の過ごし方であろう。

昨日は、ここへ来るために、午前中大働きし、たっぷり汗をかいて出てきたので、疲れた。
夜は速く寝付き、今朝、六時に眼が覚めた。
牛乳だけ飲み、夫と朝の散歩に行く。
10分ほど歩くと、売店がある。
今週は、そのまわりで、朝市をやっている。
茄子とトウモロコシ、ジャガイモを買い、パン屋で焼きたてのパンを買う。
郵便ポストの前を通りかかると、蝉がひっくり返ってばたばたしている。
「もう寿命だね。土から出て7日の命だ」と夫が言い、蝉をつまんで、茂みの奥に置いた。
別荘地の管理事務所で新聞を買い、戻る。
往復1.5キロくらいだろうか。
ゆっくりと買い物もしながら、30分ほどの散歩だった。
朝ご飯が美味しかった。
日が上がり、周囲の蝉の声が一段と高くなった。


息子というもの
2004年08月10日(火)

息子というのは、普段何もないときは、音沙汰なく済ませているが、いざというときは、やはり真っ先に心配してくれる。
優しいのだなあと思う。
もう18年も前のことだが、私が3ヶ月ほど入院したことがあった。
連れ合いは、一番仕事の忙しいときで、息子は浪人中だった。
受験勉強をしながら、時々母親を見舞い、留守中の家のことまで、さぞや大変だったに違いないが、息子は、私に一度もグチめいたことを言ったことがなかった。
真夏から秋にかけての時期だった。
ゴミの処理が適切でなくて、ウジがわいてしまったり、ちょうど町会の当番に当たっていて、心ない人から、回覧板の回し方が悪いと、文句を言われたこともあったらしい。
「最近、少し料理がうまくなったよ」と、枕もとで話してくれたことがあった。
「何を作ってるの」と聞くと、「とにかく何でもマーガリンで炒めちゃうんだよ」と笑っていた。
「お父さんが早く帰ったときは、御飯を作るのはお父さん、僕が後片づけ」と言った。
「勉強のこともあるのに、大変ね」というと、「イヤ、大丈夫だよ。それより早く元気になってよ」と言って、息子は帰っていくのである。
一度、しばらく姿を見せないので、心配していたら、秋口で寝冷えをしたらしく、熱を出していたという。
私は、病室から電話を掛け、「冷房掛けすぎないで」と言った。
そんなことがいくつかあり、父子の共同生活も、限界に思えたので、近所に住む友人に訳を話して、週に2度、洗濯や掃除を手伝ってもらうことにした。
ただ好意に甘えるのはイヤなので、1日幾らと金額を決め、それで引き受けてもらった。
彼女は、私が退院するまで、留守中の男二人の、洗濯掃除、そのほかのこまかなことまで、面倒を見てくれた。
息子は、その人に結構甘えていたらしい。
彼女の娘と、同学年だったこともあって、にわか息子になっていたようだ。
「あのときは、留守中、ホントは大変だったんだよ」というのは、後から聞いた話である。

息子が大学に入った年、夫の転勤でイギリスに行くことになり、初めて親子離ればなれの生活をすることになった。
それまでは、海外転勤の際も、親子3人はいつも一緒だった。
息子は、小学一年の終わりに南米の日本人学校に入り、3年生になって日本に帰ってきた。
5年生の時にまた南米に行き、そこの日本人学校で小学校を卒業した。
そのまま中学に入り、1年の終わりに日本に帰ってきた。
それからは、ずっと日本で過ごしたが、また海外に行くことになり、息子の意志を問うと、「このままこちらに残って、学校生活を続けたい」と言ったので、私たち夫婦は、息子の意思を尊重することにした。
息子は、夫が日本を離れると、さっさと大学の近くに自分でアパートを借りて引っ越してしまった。
親の居なくなった家に一人で残るのは、いろいろと面倒だからと言う理由である。
家の管理は私の親たちに頼み、夫より3ヶ月遅れて、私もイギリスに向けて飛び立った。
この時、息子はどうしていたのか、全く記憶にないところを見ると、多分、空港にも見送りに来なかったのであろう。
そして、これが、親子としての、事実上の別れとなった。
私たちがロンドンにいる2年間に、息子は夏や春の休みを利用して、訪れてきたが、学校が始まると、また日本に帰っていった。
日本にいる間、たった一人でどう過ごしていたのか、詳しくは聴いていないが、その2年間にかなり成長したようである。
就職の時期が来て、その苦労もあったらしい。
やがて私たちが日本に帰国した時、息子は就職先が決まっていたが、そのままアパートで過ごした。
親子3人の生活が戻ったのは、息子が卒業するまでのわずか3ヶ月である。
会社にはいると、新入社員教育が始まり、やがて息子は配属先の寮に入ってしまった。
その間に、家を建て替え、息子の部屋も広く取ったが、その部屋に息子として暮らすことは一度もなかった。
それから二年後、息子は職場結婚をして、文字通り、旅立ってしまった。
すでに10年経つ。
息子は、家に来る時は、必ず妻と一緒である。
ひとりで来たことは一度もない。
もう自分は、息子と言うより、妻を持った男だからと言う意識なのかも知れない。
しかし、私が体調を崩したりすると、どこからか電話をかけてきて、気遣ってくれる。
男の子というのは、そういうものなのかもしれない。


昭和20年夏
2004年08月08日(日)

いつも8月6日の午前8時15分には、黙祷をすることにしている。
広島で、母方の叔母が原爆で死んでいるからである。
おとといがその日だったのだが、私はその時間、特急列車に乗っていて、失念してしまった。

母の実家は、広島市の中島本町にあり、食堂をやっていた。
そのあたりは、原子爆弾で、すべて灰になり、いまは、平和公園になっている。
昭和20年8月6日、母の親兄弟は、前もって別のところに疎開しており、たまたま店の様子を見に戻っていた母の妹が、従業員4人とともに、原爆の犠牲となった。
一人だけ、まだ未婚で残っていた末妹である。
爆心地からすぐの距離、その辺で生き残った人はいない。
骨を拾いに行ったが、どれが誰の骨とも分からないほどだったという。
間もなく戦争が終わったその年の秋、母は、疎開先の父の実家から、私を伴って、遅れた叔母の葬式の為に、広島まで行った。
真っ黒に焼けただれた裸木、一面瓦礫の山となった駅前の風景、今でもよく覚えている。
爆心地には、まだ、放射能が、残っていたかもしれないが、そんなことは、母も分からなかったであろう。

5年前、母を連れて広島に行った際、平和公園を訪れた。
母の実家のあった場所は、少女の像の近くである。
そばにある、大きな土饅頭は、名もなく亡くなった、多くの人たちの骨が埋まっていると聞いた。
「日本人は戦争を伝えていない」と、野坂氏は書いている。
世代交代が進み、やがて戦争の生き証人は、いなくなってしまうだろう。
どんな些細な断片でもいい。書き残し、語り継いでいくべきではないだろうか。
無念の死を遂げた人たちのために。


海も見ないで・・
2004年08月07日(土)

昨日早朝、夫の車で駅まで送ってもらい、特急「あずさ」に乗り込んだ。
すいていて、自由席で座れた。
松本発だから、この時間乗っているのは、東京に向かう通勤客だろうか。
八王子で降り、横浜線町田、小田急に乗り換え、相模大野へ。
ここまでは、インターネットで調べてあった時間通りに、待ち合わせも順調に来た。
ところが、相模大野で、乗るつもりだった江の島行きロマンスカーが満杯。
結局20分近く待って、急行に乗ったが、到着が、予定より、かなり遅くなってしまった。
江の島に着き、歩いて15分の会場に行く。
今日明日にかけて、連句を巻くためである。
ここ数年の夏の行事になっていて、会場も、江の島のそこに、定着している。
連句開始は10時半。
30分遅れてしまったが、まだ始まったばかりで、あまり支障はなかった。
折角海のそばに来ていながら、海を見ることも、泳ぐこともなく、会議室に籠もって、連句に興じる。
ほかから見たら、かなりの変人の集まりであろう。
今年の参加者は25人。
13対12で、男女ほぼ半々。
2人ほどは日帰りである。
連句は、4,5人がグループになって巻くが、今回は、百韻をやるグループだけ、9人ほどが連衆になった。
私は、最初百韻グループにいたが、あまり面白くないので、途中から抜け、夕食後は女性6人で、別の連句を愉しんで、寝たのは深夜の2時であった。
今日は朝から昼過ぎまで、また別のグループに参加した。
終わってから、会場を出る。
近くの飲み屋で、魚料理と酒を愉しんで帰るのが習いだが、私は気が進まず、一緒に帰る女性4人で、蕎麦屋に行き、そのまま東京の自宅に帰ってきた。

1週間留守にしていた家も、幸い何事もなかった。
信州の夫に電話すると、今日は雷で、停電騒ぎがあり、インターネットも繋がらなくなっていて、大変だったとのこと。
「いま修復中だから」と慌ただしく切ってしまった。
さあ、今夜は、アジアカップ決勝戦を見なければ・・。


歩く
2004年08月04日(水)

2年ほど前に見たテレビで、大変感動した番組があった。
兵庫県のある公立病院で、車いすを使わない介護に取り組み、その結果、いままで歩けなかった人たちが、少しずつ歩けるようになったという話である。
脳梗塞などで倒れ、手足に麻痺が残ると、車いすになり、本人も周囲も、歩けないとあきらめてしまうのが、これまでの常識だった。
でも、ある女性医師が、車いすというものが、歩く能力を奪っていることに着目する。
そして、生活動作の中でリハビリを行うことを提唱し、病院あげて取り組んでいく現場の三ヶ月を追っていた。
歩くことに、具体的な目標を、それぞれの人の生活の中から見いだし、それに合わせた訓練をする。
ある女性は、三ヶ月あとに控えた孫娘の結婚式に出たいという。
またある男性は、入院するまで花壇を作っていた。
そこで、療法士は、病室の廊下に四角いコンテナと、鉢植えの花をしつらえ、その場所まで10メートルの距離を歩くべく、リハビリを持ちかける。
動かない足に特別の靴をセットし、残った体の力を使って、毎日訓練した結果、歩けるようになったのである。その姿は感動的だった。

歩くということがいかに大切か、私も経験がある。
15年ほど前、大病して3ヶ月入院した。
全身状態の悪かった入院直後のひと月は、検査や診療を受けに行くのに車いすだった。
だんだん回復して、終わりの半月ほどは、なるべく病院内を歩くようにしたが、それでも、体力がびっくりするほど落ちているのが自分でも解った。
階段を下りるのに、手すりにつかまらなければならず、立ったりしゃがんだりの動作が出来なくなっていた。
筋肉は、使わなければ、年に関係なくだめになるのだと、痛感した。
退院してしばらくは、常用していた自転車が、怖くて乗れなかった。
元の体力に戻るのに、一月かかった。
それでも、まだ若かったので、アウシュビッツの囚人のように痩せた足も、元の大根に戻った。
1キロ以上重いものは持てないくらい衰えていた腕の力も、見る見る回復した。
今ならとてもこうはいかない。
いったん落ちた体力は、容易なことには、元には戻らないのである。

昨年8月、私は 足の指を骨折し、ひと月近く、ギブスをはめた生活をした。
骨というのは、どんな小さな部分でも、新しい骨ができるのに、そのくらいの時間がかかるらしい。
それまで、年齢平均一割り増しの骨密度だと言われて、得意になっていたので、まさか、自分が骨を折ることなど、予想もしなかった。
飲み屋の三和土で、下駄に足をかけた時、おろした位置が悪くて、ふにゃりとなった。
そのときは、ただの捻挫だと思っていた。
痛みがひどく、腫れてきたので、整形外科に行き、レントゲンで、骨が折れていることがわかった。
生まれて初めてギブスなどというものを付け、家の中では、キャスター付きの椅子で移動し、家事は夫にやってもらい、その状態で、夏が過ぎ、秋になった。
10月に入って、初めて1人で外出した時、少し怖かった。
骨を折った部分より、まわりの筋肉が、堅くなっていて、歩くのに、片足を引きずるような感じだった。
また骨を折るのではという思いが消えず、すっかり違和感なく歩くのに、更に時間がかかった。
1年たった今も、足元に神経を使う。
骨折する前とでは、スピードも、歩く姿勢も、衰えていることがわかる。
暑い夏の間は、散歩もままならない。
高原にいる間に、少しでも足を鍛えようと、毎日、少しの時間、歩いている。


信州へ
2004年08月01日(日)

東京脱出 。
昨日から夫が先に立って、支度をはじめ、今日昼すぎ、家を出た。
中央自動車道は、すいていて、スイスイと走れた。
はじめは途中で、昼食に寄るつもりだったが、この分なら2時間で現地に行けそうだと言う。
そこで、持っていたあんパンとバナナ、お茶で、少し腹の虫を抑え、そのまま蓼科の家に直行した。
海抜1100メートル。森に入った途端にひんやりした空気に触れた。
まだ午後3時前。
雨戸を開け、風を入れ、家から持ってきた食料などを冷蔵庫にしまい、ホッとする。
涼しいと言うことは、なんて幸せなんだろうと、しみじみ思った。
「ホラ、だから早く来ようと言ったんだ」と夫。
出かける前に、ぐずぐずして、なかなか腰が上がらない私を、いつも歯がゆく思っているのである。
東京では、ゲンナリして何もする気がしなかったが、ここへ来ると、体が軽くなる。
夫が風呂を沸かし、私は、持ってきた材料でカレーを作る。
お風呂に入り、ナイターを見ながらカレーを食べ、高原の一日が終わった。
ここに於いてあるパソコンは、ウインドウズ98。
ルーターの設定に問題があるのか、プロバイダーが悪いのか、インターネットに繋がらない。
明日、サポートセンターに聴いてみることにし、メモ帳に今日の日記を書く。



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