沢の螢

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台風来たる
2004年09月07日(火)

台風が次々と訪れてきて、テレビは、そのニュースを優先的に放送している。
立ち木が大きく揺れている姿、傘がおちょこになって、立ち往生している女性、ひっくり返った自転車の列や、吹き飛ばされた看板等々・・。
いつも不思議に思うのは、そんなひどい雨と風の中でも、レインコートを着たり、長靴を履いたりしている人が、あまりいないことである。
特に女性は、こんな嵐の中でも、傘はさすがに差しているが、レインコートは着ないし、雨靴もほとんど履いていない。
若い女性など、ミュールとか言う、踵の付いていないような剥き出しのサンダルで歩いている場合さえある。
足元は当然濡れるし、歩いている間に、服だって、びしょぬれになるのではないだろうか。
ニュース画面でなく実際に外出する度に、いつも感じる。
小雨ならともかく、余程の雨でも、最近は、雨具という物を身につけなくなった。

私は、踝まであるオレンジ色の、たっぷりしたレインコートを持っていて、強い雨の時は、ためらわずそれを着る。
そしてゴムの長靴を履く。
歩道を歩いていて、乱暴な車に、雨のしぶきを掛けられても、平気だ。
ゴムの長靴は、足元を流れる雨水から、守ってくれるので、天気の良い時と同じ速さで歩ける。
ショルダーバッグを掛けた上からでも、羽織れるレインコートは、真夏は暑くてつらいが、屋根のあるところに入ったら、すぐに脱いで、ポリ袋に入れればいい。
なかの服は乾いているので、濡れた服を着たままにしている不快さもない。
何故、みんな雨具を付けなくなったのだろうか。
その分荷物が増えるとか、長靴は、電車の中で格好が悪いとか、雨具を付けたくない理由がいろいろあるのだろうか。
服一丁も、大事に着ていた昔と違い、今は、安い服が何着もあるし、濡れてぐしょぐしょになった靴は、惜しげもなく捨ててしまうのだろう。
交通機関が発達して、雨の中を長時間歩くと言うこともないから、思ったほど濡れることもないのかも知れない。
レインコートに雨靴という出で立ちで、街中に出るのは、本当に少数派になった。


男女8人秋ものがたり
2004年09月06日(月)

土日、奥多摩に「カンタンをきく会」という催しを兼ねて、一泊旅行をした。
夫の友人四人がそれぞれカップルで、八人。
本当はもう一組いるが、たまたまほかの予定が重なって、今回は来なかった。
邯鄲は今頃の季節に、周囲の条件が整っていると、いい声で鳴くらしい。
らしいというのは、聞いたことがあるかも知れないが、認識していないのかも知れないと言うことである。
歳時記には、コオロギ科の虫で、美しい声で鳴くとあり、俳句にもよく詠まれる。
学名はカタカナでカンタンと書く。
たまたまグループの一人が、青梅市で毎年邯鄲を聴く会をやっていることを知っていて、参加したことがあるというので、今年はグループで一緒に行くことになった。
風雅の道を愛する人たちでもある。
新宿駅で昼過ぎに集合、青梅線に乗る。御嶽駅で下車。バスでケーブル下へ。
少し歩いて、滝本駅からケーブルに乗り、御岳山に着く。
「カンタンをきく会受付」という所で、今回の幹事役が申し込みの確認をして、宿舎として割り当てられた宿に向かった。
歩いて15分くらいだったろうか。坂道が続き、かなりきつかった。
日ごろの運動不足を痛感した。
今回の参加者は、90人くらいとのこと。
台風の予想があったので、雨が降ると虫は鳴かないからと、キャンセルした人もあったらしいが、毎年来るファンが多いようである。
小さな宿坊が沢山あり、参加者は、主催者によって、泊まる場所を割り当てられるが、私たちは、会場から遠い分、素晴らしい宿舎に当たって、ラッキーだった。
趣のあるたたずまいの宿は、一度台風で壊れたが、100年以上前から、あったという。
汗びっしょりになった体を風呂に沈め、早めの夕食となった。
「全部うちの庭で栽培した野菜です」といって出された料理は、山菜を中心に鮎の塩焼きが付き、なかなかの味だった。
食後、カンタンを聴く会の講演会場に向かう。
雨模様なので、傘を持っていく。
会場には今回の参加者が集まっている。
元多摩動物公園園長だった矢島氏が、「カンタンの生活とその環境」という題で話をする。
話の途中から、雨がだんだんひどくなる。
「今日は、外でカンタンを聞くのは無理ですね」というわけで、講演の後、テープでカンタンの声を聞かせてくれた。
天気が良ければ、みんなで外に出て、虫の声を聞きながら歩く筈であった。
矢島氏は、現在群馬の昆虫の森で、自然環境の中で、子ども達に、虫を知って貰うべく、準備中だそうである。
「どこからか採ってきて、籠に入っている姿しか見てないんです。どんな環境があれば、虫が生息できるのか知って欲しいし、直に障って、見て欲しいのです」と氏は言った。
話が終わって、けんちん汁と酒が振る舞われた。
雨が一向に止みそうもないので、足元に気をとられながら、宿に向かった。
グループの一部屋に集まり、お酒と会話を2時間ほど愉しんで就寝。
翌日は、御岳山神社の神楽を見て、ケーブルで下山。
そこから先の奥多摩に行き、「もえぎの湯」に入った。
温泉ではないようだが、最近は、あちこちに、銭湯のような浴場が出来ていて、ドライブの人たちにも人気があるらしい。
スポーツクラブの風呂場のような作りになっている。
余り広くはないが、野天風呂もあった。
そのあとで、遅い昼食を摂り、奥多摩駅から直行の新宿行きに乗り、帰路についた。
奥多摩は11月になると、紅葉で山が真っ赤に染まる。
それを求めて、沢山の人が訪れる。
春は春、夏は夏で、四季を通じて、いろいろな表情を見せる奥多摩。
今回は、カンタンを聞く催しに、一泊の宿と2食付きで、一人8000円。
いい週末であった。

夫の高校時代の友人がある時から、旧交を温めるために、集まるようになり、そのうち連れあい達も加わって、10人というのが自然にグループになった。
毎年、年一回の小旅行、日帰りのハイキングや観劇、花見、最近は温泉廻りも入って、14,5年経つ。
「体が動いて、カップルで動ける間に、せいぜい愉しもうね」が合い言葉である。
そして、いつの日か、グループの誰かが、欠けることがあっても、残った伴侶を、みんなで支えていこうねという暗黙の約束も出来ている。


ご近所あれこれ(2)
2004年09月04日(土)

2004/09/04 21:22
前回の続きを書く。
それから何十年も経ち、意気軒昂だったその世代の人たちが、次々と老化してきている。
連れあいを亡くしたり、病気で介護の対象になったりしている。
私が、イジメ三婆と、ひそかに名付けていたグループも、一人は癌で、7年前に故人となった。
70歳近くになって遺されたその連れ合いは、妻亡き後、しばらく意気消沈していたが、このところ、にわかに生き生きしてきた。
カラオケに夢中になり、市内のカラオケクラブで、長をやっているらしい。
私の夫も誘われたが、「私はコーラスの方で・・」と言ったら、それ以上誘わない。
「市内の人とは、余り付き合いたくないよ」というのは、私と同意見である。
最近になり、男1人暮らしのその家に、60歳過ぎの女性が引っ越してきた。
夫が道を掃いていたら、向こうから挨拶されたらしい。
カラオケの先生をしていて、生徒の一人であるその家の2階に、間借りすることになったというのである。
多分、同じく連れあいを亡くした人なのであろう。
「大丈夫かなあ、家ごと乗っ取られるんじゃないかなあ」と、夫は要らぬ心配をしている。
ときどき、その家からデュエットの歌声が聞こえてくる。
近所では、老いらくの恋などと噂してるらしいが、本当は羨ましいのであろう。
時代が変わったと思う。
夫婦でもない、いい年の男女がひとつ屋根の下に住んでも、昔ほど驚かなくなった。
近所のうわさ話で空しい老後を送る入り、どれだけいいかわからない。
「あなたも、私が先に死んだら、あんな風にする?」と夫に訊いたら、「死んだ後のことまで考えずに、安らかに逝きなさい」という答が帰ってきた。



ご近所あれこれ
2004年09月02日(木)

ご近所というと、私の場合、ご挨拶程度で、ほとんど付き合いはない。
ゴミを出したり、家の周りの道路を掃いたりしている時に、顔を合わせれば、「暑いですね」と言うくらいである。
子どもの小さい時は、子どもの遊び仲間のお母さん達と、多少の行き来はあったが、高校生になり、電車通学をし始めると、近所で一緒に何かをするという必然性もなくなる。
お互い、干渉し合わず、平和に暮らしましょうという感じになってくる。
ご近所というのは、仲良く付き合っている間はいいが、いったん拗れると、ややこしい。
遠くにいる人なら、そのまま会わなければいいが、近所は、イヤだから引っ越しますというわけには行かないのである。
それがわかっているので、みな礼儀正しく距離を置き、つかず離れずで過ごすのである。

私が引っ越してきた頃、まだ30代のはじめだったが、ホットな付き合いを好む一世代上の人たちに、ずいぶんいじめられた。
味噌や醤油まで借りる付き合い方をしてきた人たちにとっては、半径500メートルくらいが全世界なので、その中で、自分たちと違うスタンスで付き合う人の存在は、許し難かったのである。
人がどんな暮らし方をしているかが、最大関心事であり、すべてをさらけ出さないと、仲間に入れてやらないと言うところがあった。
人が来れば、それはどこの誰かと訊きたがり、外出の途中で会えば、行き先を確かめないと気が済まない。
留守中に、物を預かって貰ったりするとあとが大変である。
つまらぬ噂のタネにする。
こちらが若いのだからと、何事も低姿勢にしてきたが、ある時、そういう態度は、むしろマイナスであると気づいた。
子どものイジメにもあるが、いつも苛められ役になっていると、相手は、図に乗って、イジメがエスカレートするのである。
そして、子どもにまで及ぶ。
子どもというのは敏感だから、親同士の力関係を察知して、同じことを子ども同士の関係に応用する。
ある時、息子が、近所の悪ガキに苛められて、泣いて帰ってきた。
そこで私はキレたのである。
その頃集団登校していて、私の息子は、一番下級生で、上の学年の子達の、苛められ役になっていた。
子どもの世界のことだから、余り口を出すまいと思っていた。
しかし度重なることに、これは、親の出番だと判断した。
相手の子を呼びつけ、怒鳴りつけた。
その勢いがあまりにすさまじかったらしく、ほかの子ども達も集まってきた。
あとには引けない。
私は、何故、いつも、一番小さい私の息子が苛められなければならないのかを、いじめっ子に、問いつめ、「文句があったらお母さんを呼んでらっしゃい」と言った。
その子は、すぐに呼びに行った。
その母親は、日ごろ私に何かと、イヤな仕打ちをしてきた人である。
もし来たら、今までのことも含め、ぶちまけるつもりだった。
息子は、涙のにじんだ泥だらけの顔で、成り行きを見ている。
子どもの為である。
村八分になっても構わないと思った。
そのときの私は、おそらく般若のような顔つきをしていたであろう。
自分が子どもの頃、いじめられた記憶も蘇っていた。
門前で、両足を開いて立ち、腕組みをして、相手の来るのを待った。
ところが、いじめっ子も、その母親も現れなかったのである。
成り行きを遠くから見ていて、ご注進に及んだ母親もいたはずだが、何故か、問題の親子は出てこなかった。
私は、集まっていた子ども達に「今度こんなことがあったら、誰でも、許さないからね。私が相手になるから、いつでもいらっしゃい」と言って、帰した。
その件については、瞬く間に知れ渡り、噂すずめたちの、格好の話題になったはずだが、私の耳には入ってこなかった。
多分、私が、ものすごい顔で、いじめっ子を睨んでいたことは、充分尾ひれを付けて、伝わったであろう。
集団登校は続いたが、息子は、前のようにいじめられることは、なくなったらしかった。
ある時、いじめっ子の母親に道でバッタリ会った。
先に会釈したのは、向こうだった。
私も何事もなかったように、挨拶を返した。(むらさきの風)


ご近所の噂
2004年09月01日(水)

9月になった。
暑さがぶり返して、30度を超えている。
今日は防災の日だとか。
町内会で、防災訓練をやるから参加してくださいという回覧板が回ってきた。
毎年のことだが、私は参加したことがない。
こういう訓練が始まった頃は、消火器の使い方や、担架で怪我人を運ぶ訓練など、物珍しさもあって、参加者が結構あったようだが、最近は、行事だから仕方なくといった感じで、主催者も、熱心ではないし、参加者も多くないらしい。
町会の当番の時も、私はパスさせて貰った。
「何かあった時、助けて貰えませんよ」とイヤミを言われたが、「結構です。そんなときは、あきらめますから、どうぞお構いなく」と言った。
神戸の地震のような規模で、東京に震災があった場合、町内会レベルの防災訓練がどのくらい役に立つかわからないが、多分、多くの死者、罹災者が出るだろう。
そんな場合のことを、いろいろ備えている人もいるが、私はこういう点にかけては、人智の及ぶところではないと考えている。
そんなときは、すぐ近くの市役所広場に行くという話だけは、家族の間でしているが、それ以上のことは、運を天に任せる。
「あの人は防災訓練に出なかったから、助けるのは後回し」と言われたら、それも運命だと思ってあきらめる。
でも、私自身は、イザという時、自分の力で助けられる人が傍にいたら、日ごろ付き合いのない人でも、助けたいと思う。

ところで、ご近所というと、私の場合、ご挨拶程度で、ほとんど付き合いはない。
ゴミを出したり、家の周りの道路を掃いたりしている時に、顔を合わせれば、「暑いですね」と言うくらいである。
子どもの小さい時は、子どもの遊び仲間のお母さん達と、多少の行き来はあったが、高校生になり、電車通学をし始めると、近所で一緒に何かをするという必然性もなくなる。
お互い、干渉し合わず、平和に暮らしましょうという感じになってくる。
ご近所というのは、仲良く付き合っている間はいいが、いったん拗れると、ややこしい。
遠くにいる人なら、そのまま会わなければいいが、近所は、イヤだから引っ越しますというわけには行かないのである。
それがわかっているので、みな礼儀正しく距離を置き、つかず離れずで過ごすのである。

私が引っ越してきた頃、まだ30代のはじめだったが、ホットな付き合いを好む一世代上の人たちに、ずいぶんいじめられた。
味噌や醤油まで借りる付き合い方をしてきた人たちにとっては、半径500メートルくらいが全世界なので、その中で、自分たちと違うスタンスで付き合う人の存在は、許し難かったのである。
人がどんな暮らし方をしているかが、最大関心事であり、すべてをさらけ出さないと、仲間に入れてやらないと言うところがあった。
人が来れば、それはどこの誰かと訊きたがり、外出の途中で会えば、行き先を確かめないと気が済まない。
留守中に、物を預かって貰ったりするとあとが大変である。
つまらぬ噂のタネにする。
こちらが若いのだからと、何事も低姿勢にしてきたが、ある時、そういう態度は、むしろマイナスであると気づいた。
子どものイジメにもあるが、いつも苛められ役になっていると、相手は、図に乗って、イジメがエスカレートするのである。
そして、子どもにまで及ぶ。
子どもというのは敏感だから、親同士の力関係を察知して、同じことを子ども同士の関係に応用する。
ある時、息子が、近所の悪ガキに苛められて、泣いて帰ってきた。
そこで私はキレたのである。
その頃集団登校していて、私の息子は、一番下級生で、上の学年の子達の、苛められ役になっていた。
子どもの世界のことだから、余り口を出すまいと思っていた。
しかし度重なることに、これは、親の出番だと判断した。
相手の子を呼びつけ、怒鳴りつけた。
その勢いがあまりにすさまじかったらしく、ほかの子ども達も集まってきた。
あとには引けない。
私は、何故、いつも、一番小さい息子が苛められなければならないのかを、いじめっ子に、問いつめ、「文句があったらお母さんを呼んでらっしゃい」と言った。
その子は、すぐに呼びに行った。
その母親は、日ごろ私に何かと、イヤな仕打ちをしてきた人である。
もし来たら、今までのことも含め、ぶちまけるつもりだった。
息子は、涙のにじんだ泥だらけの顔で、成り行きを見ている。
子どもの為である。
村八分になっても構わないと思った。
そのときの私は、般若のような顔つきをしていたであろう。
自分が子どもの頃、いじめられた記憶も蘇っていた。
門前で、両足を開いて立ち、腕組みをして、相手の来るのを待った。
ところが、いじめっ子も、その母親も現れなかったのである。
成り行きを遠くから見ていて、ご注進に及んだ母親もいたはずだが、何故か、問題の親子は出てこなかった。
私は、集まっていた子ども達に「今度こんなことがあったら、誰でも、許さないからね。私が相手になるから、いつでもいらっしゃい」と言って、帰した。
その件については、瞬く間に知れ渡り、噂すずめたちの、格好の話題になったはずだが、私の耳には入ってこなかった。
多分、私が、般若のようなものすごい顔で、いじめっ子を睨んでいたことは、充分尾ひれを付けて、伝わったであろう。
集団登校は続いたが、息子は、前のようにいじめられることは、なくなったらしかった。
ある時、いじめっ子の母親に道でバッタリ会った。
先に会釈したのは、向こうだった。
私も何事もなかったように、挨拶を返した。

それから何十年も経ち、意気軒昂だったその世代の人たちが、次々と老化してきている。
連れあいを亡くしたり、病気で介護の対象になったりしている。
私が、イジメ三婆と、ひそかに名付けていたグループも、一人は癌で、7年前に故人となった。
70歳近くになって遺されたその連れ合いは、妻亡き後、しばらく意気消沈していたが、このところ、にわかに生き生きしてきた。
カラオケに夢中になり、市内のカラオケクラブで、長をやっているらしい。
私の夫も誘われたが、「私はコーラスの方で・・」と言ったら、それ以上誘わない。
「市内の人とは、余り付き合いたくないよ」というのは、私と同意見である。
最近になり、男1人暮らしのその家に、60歳過ぎの女性が引っ越してきた。
夫が道を掃いていたら、向こうから挨拶されたらしい。
カラオケの先生をしていて、生徒の一人であるその家の2階に、間借りすることになったというのである。
多分、同じく連れあいを亡くした人なのであろう。
「大丈夫かなあ、家ごと乗っ取られるんじゃないかなあ」と、夫は要らぬ心配をしている。
ときどき、その家からデュエットの歌声が聞こえてくる。
近所では、老いらくの恋などと噂してるらしいが、本当は羨ましいのであろう。
時代が変わったと思う。
夫婦でもない、いい年の男女がひとつ屋根の下に住んでも、昔ほど驚かなくなった。
近所のうわさ話で空しい老後を送る入り、どれだけいいかわからない。
「あなたも、私が先に死んだら、あんな風にする?」と夫に訊いたら、「死んだ後のことまで考えずに、安らかに逝きなさい」という答が帰ってきた。


ブログ考
2004年08月31日(火)

ホームページと別に、ブログというものを作って、ちょうど2ヶ月経った。
この辺で、ちょっと感想を述べてみたい。
私のホームページは、検索エンジン拒否の設定をしているため、訪問客は限られている。
私のほうからお気に入りのサイトを訪問して、そこの掲示板にでもURLを書き込まない限り、見に来る人はいない。
壁紙など借りた時は、礼儀として、そこのBBSに「ダウンロードさせていただきました」と書き、URLも入力し、自分のホームページにも、バナーなど入れる。
そこから見に来る人もいるが、大体一過性のお客さん達で、URLが入っていたから、ちょっと覗いてみたというくらいのことであろう。
月750円払って、100メガのスペースを持っているのに、そこのサーバーにアップしているのは、このホームページを含め、わずか10メガくらいで、全部表示しているわけではない。
movable typeに対応してるので、本当は、そこにmovable typeを入れて、自分だけのブログを作ればいいのだが、設定がかなり難しそうなので、既成の無料ブログを借りているわけである。
時間帯によって、なかなか表示されなかったり、エントリーした記事が、アダルトコンテンツと並んで、新着○○件に表示されるという、不本意なことはあるが、サーバーの中の、雑居ビルの住人のようなものだから、余り気にしないことにした。
それより、無料で、私のようなアナログ人間でも、余り苦労なく、自分の思うことや、訴えたいことを、発表出来ることに、感謝している。
それを認めつつ、もうひとつ別のことも感じている。

自分の書いた記事が活字になることは、ホンの10年、20年前には考えられないことだった。
高いお金を出して自費出版するか、雑誌などの懸賞小説や、新聞の投稿欄に載るくらい。
それも、採用になることは、難しかった。
子どもの頃から20歳過ぎまで、喋るのが下手な代わりに、文章で気持ちを表現する方が合っていたので、日記は、私の生活の中で、食べること、寝ることと同じくらい、常にあるものだった。
おとなになるにつれ、書くことより、直接言葉で表現する方が楽に感じられるようになったが、余り気心の知れない人と、顔を見て会話するのは、いまだに下手である。
手紙ならすぐ書けるのに、電話をかけるのは抵抗感があった。
運動神経とも関係あるのかも知れないし、頭の廻りが遅いのかも知れないが、電話で相手の言うことを正確に受け取り、それに正しく反応するのは、私には努力がいる。
手紙なら、よく考えて書けるし、書き直しも出来る。
ただし、一方通行だから、意思疎通に時間は掛かる。
それに、書いたものは残るので、慎重に書かねばならないと言う点はあるが・・。
メールというものが出来て、伝達手段は飛躍的に進歩した。
保存しておけるという手紙の機能と、時間や場所を選ばず、いつでも送受信できるという利便性を備えている。
更に、インターネットで、世界中の誰とでも更新し、情報交換できるようになって、台所の片隅から、アメリカにだって、発信することが可能になった。
あの9.11以後は、それまでプロのジャーナリストのものと思われていたブログが、一般の人にも、活用されるようになり、日本にも上陸して、現在に至っていることは、周知の事実である。
普通の主婦である私までが、ブログを作って、発信しているのだから。
今まで、ほとんど人目に触れていないエッセイや日記を書き直して、せっせとアップしてきた。
従来のホームページにはない「動いている」面白さを感じる。
しかし、同時に、戸惑いも感じている。
時事的な問題、政治、経済、現在世界の中で動いている現象について、考え、書くことは、ブログというものの利点を大いに生かしている。
見知らぬ多くの人とも、同じテーマについて、意見交換し、その遣り取りを通じて、世界が広がる。
ただ、私のように、文芸や、身辺雑記的な分野で書くことを主にしている人間にとっては、一方的な発信で留まってもいい場合がある。
趣味の範囲で愉しんでいることに対して、第三者は口を挟めない。
せいぜい「愉しそうですね」とか、「私も同じ趣味を持っています」と共感するくらいであって、中身について、意見を交換することが、時にナンセンスになる場合もある。
虚構に近い記事については、なおさら、第三者はコメントもしにくいであろう。
また、書く方も、独断と偏見、自己満足で結構という気持ちがある。
折角ブログを作ったのだから、私の苦手な時事問題も取り上げたいと、試みているが、どうも、私には、合っていないようである。
非常に現実的な世界と、虚構の世界とを、同じページで発信していることの混乱もある。
ホームページでは、私はネット上は別人格と割り切って、虚構の世界に徹していた。
それが、ブログでは、実の顔と、もうひとつの顔が、交叉するのである。
カテゴリー毎にブログを作って、リンクさせなければいいのかも知れないが、それなら、今持っているホームページを、有効に使った方がいいのではないかと気づいた。
ブログは、拡がりがある代わりに、「そっと置いておきたいもの」を載せるには向かない。
そこで、休止状態になっているホームページと重なる分野は、ブログから外し、今まで通り、非公開に近い形に戻し、ブログには、時事性の強いもの、私が背伸びしなくても書けそうな小さなニュースや話題を取り上げて、書いていった方が、いいのではないかと、考えはじめているところである。

そんな折り、夫が今までホームページに置いていた掲示板が閉鎖するという連絡が、掲示板のサーバーから来た。
夫は、政治経済、国際問題に関するサイトを私より早くから作っている。
堅くて面白くないので、私はほとんど見ないが、その分野に興味を持つ人は、少し見に来て、掲示板に書き込んでくれるらしい。
それに返信するくらいで、余り熱心ではないが、閉鎖されたのでは困るので、代わりを探すことになった。
掲示板に関しては私のほうが情報を持っているので、「どこがいいかなあ」と相談に来た。
そこで私はブログを勧めたのである。
新しく掲示板を作るくらいなら、この際、ブログにしてみたらと言った。
「ブログなんて、書くことないよ」と言っていたが、私と同じサーバーを有料で持っている。
movable type対応だと知って、その気になったらしい。
早速ダウンロードし、設定をはじめた。
サーバーと連絡を取りながら、今構築中である。
私に少し遅れて、夫もブロガーの一員になるわけだが、私のほうは、逆に、ちょっと引いている。


オリンピックが終わって
2004年08月30日(月)

オリンピック開会式の時、私は「紅白の小林幸子の衣装みたい」だと思った。
趣向を凝らし、お金をかけて、だんだん派手になってオリンピックは、スポーツというより、巨大なイベントという感じがしたからだ。
でも、2週間経って、幕を閉じた今、私は参加した選手、特に日本の選手達を、心から賞賛し、有り難うと言いたい気持ちである。
メダルの数が、今までより多かったとか、いい記録が出たとかいうことも、あるが、勝敗に拘わらず、真剣に、真摯に全力を尽くした彼らの、スポーツを愛するこころにである。
主将として参加しながら、思うように力を出せなかった柔道の井上選手が、最後まで、アテネで、主将としての役割を勤めていたこともそうだし、シンクロナイズドスイミングをはじめ、時に不公平と思われる判定があっても、選手達は、自分の持てる力を尽くした。
イザという時に弱いと言われたこともある日本選手が、今回の大会では、本番でふだん以上の力を出したケースも少なくなかった。
素直に喜びを表現し、潔く負けを認めて、相手を讃え、試合態度も抜群に良かった。
同じ日本人として、誇りに思う。
豊かな国になったというのは、こういう場合に使いたい。
スポーツを高めるのも、おとしめるのも、携わる人たちの心ひとつである。
今回のオリンピックで、日本選手達は、この点において、素晴らしかった。
私は、選手全員に金メダルを上げたい。
ライバルのドーピングという思いがけないことで、金メダルを貰うことになった室伏選手。
最後のハンマーは、彼自身が金と確信したに違いない出来だった。
当然貰うべき金だったのだ。
多国の選手の演技も、印象に残るものは沢山ある。
最後のマラソンで、アクシデントに見舞われながら、最終コーナーを、にこやかな笑顔で完走したブラジルのリマ選手も良かった。
ブラジルは私にとって、想い出のある国。
彼の銅メダルも、金にまさるものだったね。
素晴らしいスポーツマンシップ!ありがとう!
さあ、これで夜更かしから解放される。



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