沢の螢

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傍目八目
2004年09月23日(木)

何なんだろう、プロ野球をめぐる、この妙な動きは!
私は、つい昨日までは、プロ野球の行方について、純粋に憂いていたし、選手会が、ストライキをするに至った経緯を、仕方ないと思い、応援してきた。
ライブドアが仙台に新球団を作ることを早くから表明し、動きだしていることについても、あの社長は個人的には好きになれないが、新しい風が、プロ野球界に吹くことで、全体が活性化されれば、歓迎していいのではないかと思った。
そのうち、楽天がプロ野球参入の考えを表明し、それも、まあ悪くないかと思った。
はじめから、仙台とはっきり表明して、そこに絞って動いているライブドアと違い、楽天の方は、大阪といったり、長野といったり、場所もはっきりしないし、どこまで本気なのか、ちょっと首をひねるような所もあった。
ウチの亭主は「泥縄だよ」と、疑わしげであったが、私は、「女は金に付いてくるなんて言ってる人より、ちゃんと背広を着てるだけ、こっちの方がいいわよ」などと、無責任なことを言っていた。
でも、プロ野球が今までよりよくなって欲しいし、選手達には、何よりも、いい試合をしてファンを愉しませて貰うことが、最大の願いなのだから、その為には、とりあえず、お金を持っていて、野球チームを運営する意志と力のあるところなら、どこが経営してもいいのである。
どちらも、今までの企業の中では新しい分野、若い人たちが多数を占める野球ファンにとっても、前向きな競争は、よいことだからである。
しかし、今朝ーいやもっと前から報じられていたかも知れないが、私が知ったのは、今朝のことでー楽天が、こともあろうに、宮城は仙台に新球団設立を考えているというニュースを聞いて、ちょっと待てよ、これは、何なのよ、と思った。
楽天社長は、「早い者勝ちということではない」といっているが、私の常識では、頷けない。
候補地を転々として、先にライブドアが名乗り挙げた仙台に、わざわざ持ってきた理由は何?
「ナベツネと同じ発想さ」と、亭主は言うが、直感的に、これはおかしい。
プロ野球の行方なんて、本当はどうでもよくて、同種の企業に負けたくないとか、自分の野心を満足させるほうが先じゃないの、などと、勘ぐってしまったのは、間違いだろうか。
ブログで、選手達のストに発して、議論が盛り上がるにつれ、ちょっと距離を置きたくなっていた私だが、楽天の動きに関してのニュースを聞いて、もう、この話には、これ以上、参加したくないと思った。
野球を本当に愛し、こころざしある人達の手で、プロ野球が、よい方向に向かうことを願っている。
ボランティア事業ではないのだから、地域の活性化とか、経済原理が働くのは、当然だが、間違っても、一握りの人たちの野心や、政争の道具にだけは、して貰いたくない。
野球を天職とし、ファンの夢に応えようと必死に努力している選手達、よい試合を見ることを愉しみに、せっせと球場に通うファン達、野球は、そうした人たちが支えている。
「野球は、僕たちの夢」と書いた少年の気持ちを、踏みにじらないで欲しい。


秋彼岸
2004年09月22日(水)

午前中墓参に行く。
東京郊外にあって、家から車で、一時間半ほど。
明日は道が混むであろうと、平日にしたが、逆に営業用のトラックなどが沢山走っていて、込んでおり、余計に時間が掛かった。
しかし、霊園内は、すいていて、ゆっくりと墓参りをすることが出来た。
夫と、墓の周りの植木を切ったり、墓石を洗ったりしていたら、少し離れたところで、ひとりで、墓所を掃除している女性がいた。
知らない同士でも、ちょっと目礼を交わす。
いずれは、あの世で一緒になるかも知れないからという気持ちが、お互いにあるような気がする。
公園墓地なので、広く明るく、余り墓場という感じではない。
春の彼岸の時などは、天気がいいと、ピクニック気分で来る人も多く、家族で賑やかに、墓参りをし、藤棚の下で、持ってきたお弁当を食べたりする光景も見られる。
我が家の墓には、夫の両親、生まれて直ぐに死んだ夫の弟が眠っている。
最近は、夫の墓には入りたくないと言う女の人たちも、増えているらしい。
時々、私も冗談半分に、そんなことを言ってみることがある。
「人は死んだら、生まれた家の墓にはいるのが自然じゃないの」と・・。
「じゃ、子どもはどうするんだ。親が、別々の墓に入ったら、両方に墓参りしなくちゃならないじゃないか」と夫は言う。
私たちの場合、冗談で収まっているが、墓の問題は、案外と深いものを含んでいて、時代が変わるに連れ、今までのような、男中心、家系第一の思想と墓とは、どこかで噛み合わないことになってくることも考えられる。
「生きている間は仕方ないから一緒にいるけど、死んでまで、あの人と一緒になんか居たくないわ」と、公言する女性も、少なくない。
それが、割合、年配の人であることを思うと、旧時代の価値観の中に組み込まれて、自分の意志を通すことなく過ごしてきた女性たちの、怨念のようなものを感じて、何も言えなくなってしまう。
墓に線香を手向け、死者の霊に手を合わせながら、そんなことを思った。
霊園内のレストランで、遅い昼食を済ませ、帰途につく。
途中、激しい雨に遭い、車に当たる音があまりに強いので、見たら大粒の雹だった。
局地的なものだったらしく、半時間ほどで抜けた。
蒸し暑い一日だった。


プロ野球をめぐって
2004年09月17日(金)

春になり、野球シーズンにはいると、茶の間のテレビは、亭主に占領される。
大河ドラマや、BS映画が見られなくなるので、野球中継なんか、いい加減にして欲しいと思ったこともあるプロ野球。
夫唱婦随で、一応ジャイアンツのファンとして、他球団にどんな選手がいるかさえ、余り関心もなかったが、この2ヶ月ほどの、パリーグ球団合併問題に始まった、選手会と経営者側の交渉の行方には、無関心ではいられない。
中でも、日々の試合をこなし、得点に繋がるヒットも飛ばしながら、試合後には、選手会会長として、経営者側との交渉に臨んだ古田選手に、エールを送りたい気持ちだ。
話し合いは、決裂して、明日、あさっての試合はストライキという結果になった。
記者会見で、球団経営者側の、文書による味も素っ気もない報告には、血の通ったものが感じられなかった。
それに比べ、「ファンの皆さんには、申し訳ありません」と、土日の試合を楽しみにしていたであろうファン達に向けて、何度も謝っていた古田選手。
決して弁の立つ人ではないが、ストライキという苦渋の選択をする結果になった経緯を語る彼の、とつとつとした言葉に感動した。
野球を愛し、野球人として、身を捨てて、今回の問題に立ち向かっている。
そのあとのテレビで、彼は、キャスターの質問などに答えながら、時に、目に涙を滲ませていた。
朝から10時間という長い間、実りのない話し合いに臨まねばならなかった、彼の悔しさ、無念さがよくわかった。
経営者達は、野球に対して、こころざしというものがあるのだろうか。
赤字経営で、苦しいのはわかるが、この2ヶ月、彼らのとった態度は、プロ野球をこれまで育ててきた、先達や、古くからのファンの気持ちを考えず、選手達を、見下したものではなかったか。
野球選手達は、グランド以外では、不器用な人が多い。
会社の労働組合のような手慣れたことは出来ない。
老獪なレトリックに惑わされたこともあるだろう。
シーズンの終わり近くになって、ストライキという非常手段を打ち出さねばならなかったつらさも、想像できる。
でも、多くのファンは、選手会の決断を支持している。
選手会が、一致団結しているのは立派だ。
屈強な体力を持っていても、さすがに疲労の色を隠せない古田選手。
でも、「希望を持って、これからも闘っていきます」と語っていた。
古田選手よ、負けるな。
日本の野球が、ひとつの転換期に立っている今。
週末は、ゆっくり休んで、また来週から、野球のあるべき道に向かって、新たな闘志を燃やして欲しい。


オペラシーズン開幕
2004年09月15日(水)

秋と共に、新国立劇場のオペラシーズンが始まった。
毎年、4演目か5演目を年間予約して、夫婦で見に行く。
ちょっとした海外旅行ぐらいのお金がかかってしまうが、ささやかな楽しみである。
今日は、最初のプログラム、「カヴァレリア・ルスチカーナ」と「道化師」をセットで見た。
いずれも、イタリアオペラ、違った作品を、同じ舞台装置を使って、うまく構成してある。
両方とも、はじめて見たが、なかなか面白かった。
特に、「道化師」は、64歳の名歌手、ジュセッペ・ジャコミーニの主演。
道化師役の熱唱が素晴らしかった。
いずれも、中心人物達が死んでしまう悲劇。
オペラの主題は愛と恋であり、人間のこころである。
今回の演出は、どちらも、現代に近い時代背景にしてあって、衣装も、それに合わせていた。
女性は、引きずるような長いスカートを付けていないのである。
2年ほど前に見た「トーランドット」も、ヒロインが、スニーカーなんか履いていた。
最近は、こうした演出の仕方も多い。
今日は2本立てで、どちらも素晴らしかったので、大変得をした気分である。
この劇場は、オペラ用に作られただけあって、音響がいいし、ロビーも広々として、幕間のワインなど楽しめて、おとな向きである。
たいてい誰か知った人に会うが、今日は珍しく、誰にも会わなかった。
昨年まで、一階のS席で見ていたが、今年は節約して、席のランクを下げたので、三階席の前の方だった。
しかし、声はちゃんと届き、舞台の奥までよく見えて、また別の発見をした。
余韻を愉しみながら帰ってきた。
2004/09/15 21:27
秋と共に、新国立劇場のオペラシーズンが始まった。
毎年、4演目か5演目を年間予約して、夫婦で見に行く。
全部で、ちょっとした海外旅行ぐらいのお金がかかってしまうが、ささやかな楽しみである。
今日は、最初のプログラム、「カヴァレリア・ルスチカーナ」と「道化師」をセットで見た。
いずれも、イタリアオペラ、違った作品を、同じ舞台装置を使って、うまく構成してある。
両方とも、はじめて見たが、なかなか面白かった。
特に、「道化師」は、64歳の名歌手、ジュセッペ・ジャコミーニの主演。
道化師役の熱唱が素晴らしかった。
いずれも、中心人物達が死んでしまう悲劇。
オペラの主題は愛と恋であり、人間のこころである。
今回の演出は、どちらも、現代に近い時代背景にしてあって、衣装も、それに合わせていた。
女性は、引きずるような長いスカートを付けていないのである。
2年ほど前に見た「トーランドット」も、ヒロインが、スニーカーなんか履いていた。
最近は、こうした演出の仕方も多い。
今日は2本立てで、どちらも素晴らしかったので、大変得をした気分である。
この劇場は、オペラ用に作られただけあって、音響がいいし、ロビーも広々として、幕間のワインなど楽しめて、おとな向きである。
たいてい誰か知った人に会うが、今日は珍しく、誰にも会わなかった。
昨年まで、一階のS席で見ていたが、今年は節約して、席のランクを下げたので、三階席の前の方だった。
しかし、声はちゃんと届き、舞台の奥までよく見えて、また別の発見をした。
余韻を愉しみながら帰ってきた。
2004/09/15 21:27
秋と共に、新国立劇場のオペラシーズンが始まった。
毎年、4演目か5演目を年間予約して、夫婦で見に行く。
全部で、ちょっとした海外旅行ぐらいのお金がかかってしまうが、ささやかな楽しみである。
今日は、最初のプログラム、「カヴァレリア・ルスチカーナ」と「道化師」をセットで見た。
いずれも、イタリアオペラ、違った作品を、同じ舞台装置を使って、うまく構成してある。
両方とも、はじめて見たが、なかなか面白かった。
特に、「道化師」は、64歳の名歌手、ジュセッペ・ジャコミーニの主演。
道化師役の熱唱が素晴らしかった。
いずれも、中心人物達が死んでしまう悲劇。
オペラの主題は愛と恋であり、人間のこころである。
今回の演出は、どちらも、現代に近い時代背景にしてあって、衣装も、それに合わせていた。
女性は、引きずるような長いスカートを付けていないのである。
2年ほど前に見た「トーランドット」も、ヒロインが、スニーカーなんか履いていた。
最近は、こうした演出の仕方も多い。
今日は2本立てで、どちらも素晴らしかったので、大変得をした気分である。
この劇場は、オペラ用に作られただけあって、音響がいいし、ロビーも広々として、幕間のワインなど楽しめて、おとな向きである。
たいてい誰か知った人に会うが、今日は珍しく、誰にも会わなかった。
昨年まで、一階のS席で見ていたが、今年は節約して、席のランクを下げたので、三階席の前の方だった。
しかし、声はちゃんと届き、舞台の奥までよく見えて、また別の発見をした。
余韻を愉しみながら帰ってきた。 2004/09/15 21:27



秋日和
2004年09月12日(日)

日中はまだ暑さが残っているが、汗ばむほどではない。
夫と植物公園に行く。
運動不足だし、ちょうど昼時なので、歩いて公園に行き、近くの蕎麦屋に行こうという算段である。
散歩用の服に着替え、スニーカーを履いて出た。
植物公園には、普通に歩いて30分ほど。
木陰を選んで歩いて、間道をいくつか抜けると、公園の正門に出る。
時分どきではあったが、まず公園内を散策することにした。
入場券を買って入る。
花見や紅葉の頃は、土日となると沢山の人出だが、きょうはまだそんな季節ではないと見え、ほどほどの入りであった。
デジカメを持った夫が、所々立ち止まって、シャッターを押す。
花は余り無い。
コスモス畑も、半分くらいの咲きである。
10月になると、秋の花がかなり出揃うのだが、今は、ちょうど花にとっては、半端な時期のようだ。
木陰で、小休止したりで、およそ1時間ほど歩き、裏門から出た。
昼時を少し過ぎていたが、公園近くの蕎麦屋は結構混んでいた。
夫が、あちこち食べ比べて、ここが一番うまいという店にはいる。
もりを一枚ずつ注文、そば湯も飲んで店を出た。
違う道を歩いて、帰る。
歳時記では仲秋と言うことになっているが、やっと秋になったというのが実感である。
やがて月の美しい季節になる。
日も短くなった。
穏やかな良い日であった。

息子から、近況を尋ねる電話。
夏の間、私も夫も、ぜんそく性の風邪が抜けず、何度か来たいというのを、キャンセルしていたからである。
「もう元気よ」と、先週邯鄲を聴きに御岳に行ったことを話すと、安心して電話を切った。


かなし
2004年09月11日(土)

昨日、連句会でのこと。
6人ずつ2席にわかれて、付け合いが始まった。
捌き手は、この道20年になる達人、ほかの人も、みな連句歴10年以上のベテラン。
式目(連句のルール)など、今さら言わなくても、みな、頭に入っている。
私は、新米の部類だが、新陳代謝も必要と見えて、この2年ほど前から、時々誘って貰う。
声を掛けて貰った時は、ほかの座に優先していくことにしている。
厳しいが、そこでは、かなり鍛えられるので、充足感があるからである。
私のいた席では、歌仙9句目に入って、ちょうど恋句を出すところだった。
そこである人が「なで肩の人を抱いてやりたいが、それは人の妻である」という意味の句を出した。
著作権に触れるので、五七五の句形をそのままここで引用するのは、差し控えるが、句意は上に書いたとおりである。
次の付け句は短句である。即座に短冊が出される。
みな、付けるのが早い。
私も、一句出した。
出された短冊は、捌きが吟味して、これはと思う句があれば、すぐに採るし、なかなかいい句が出ない時は、しばらく待ったりする。
何句か出たところで、「この句を戴きます」と採られたのが、私の句だった。

愛しといふ字かなしともよむ

前句は人妻に横恋慕する句である。
だから、俗に堕さないように、ちょっと外したのである。
図らずも、その心がわかってもらえて、いい気分であった。
それに別の人が付けたのが、「自動ピアノがいつまでも鳴り止まない」という意味の句で、格調高くまとまった。
連句が面白いなあと思うのは、こんな時である。
一歩間違えれば、低俗になってしまうものが、複数の人の奏でるハーモニーによって、詩的空間を作り上げる。
予想せぬ世界が展開される醍醐味であろうか。
午前11時から始まり、お弁当を食べ、お酒やお菓子をつまみながら、歌仙36句が巻きあがったのは、4時前であった。
もうひとつの席も、大体同じようなペースで進行した。

ところで「かなし」という言葉は、愛しとも、悲しとも書く。
古語である。
切なさ、愛しさ、哀しさ、可愛さ、つらさ、こわさ・・・いろいろな意味を含んでいる。
短歌をやっている知人で、「かなし」という言葉が、死ぬほど好きと言った人がいた。
ほかの言葉では取って代われない、深い意味があるからと言うのである。
万葉集、古今、伊勢物語、源氏ほか、日本の古典文学には、この言葉が良く出てくる。
現代語では、ピッタリ来る言葉がない。
こういう言葉に接すると、日本語の持つエロキューションの豊かさに感動し、日本人が昔からもっていた、もののあわれを、思うのである。


美容院の料金
2004年09月09日(木)

私は女のくせに無精な方で、余り美容院に行くことに熱心ではない。
若い時は、女性の髪型は、美容院でなければ出来ないようなスタイルが普通だったので、ちょくちょく行った。
パーマを掛け、ロールで巻いてカールさせ、お釜型のドライヤーに入って固め、少々風が吹いても、崩れないようなキッチリした髪型だった。
その頃は、シャンプーも、週に一度くらいしかしなかったような記憶がある。
髪の量も、ずっと多かった。
今は、毎日のようにシャンプーするので、そのせいか、髪が全体に薄くなっているような気がする。
カーラーで巻くというスタイルは、ほとんど姿を消してしまった。
みなストレートヘアで、ハンドドライヤーで乾かすスタイルである。
女性が働くのが普通になり、いちいち美容院に行かなくても、自分で形を付けられる髪型が好まれるのであろう。

さて、伸びた髪を気にしながら、2ヶ月経って、いよいよ目に余るほどになったので、美容院に行った。
駅近くの銀行に行った帰りに入ったのは、昨年まで、行っていた店であった。
最近は男性美容師が増えた。
今日行った美容院も、スタッフの8割は男である。
はじめ、私は、男の人に髪をいじられることに、なかなか馴染めなかった。
美容院に行き、「ご指名はありますか」と訊かれた時は、「誰でもいいけど、女の人にして下さい」と注文した。
しかし、現在は、そんなことを言っていられないくらい、男の美容師が多くなった。
今では、私も、抵抗感はない。
慣れると、女性美容師と違った良さもある。
私の髪は、パーマを掛けず、カットだけでスタイルを決めねばならないが、思い切って、カッとしてくれるのは男性美容師である。
昨日の美容師は20代後半と思われる男性。
鶴のように痩せて、顔は三角に尖っている。
そして、この店の男性美容師は、何故か全員髭をたくわえていて、彼も、頬と、あごに、髭を付けている。
「どんな風にカットしますか」と訊くので、「あなたみたいにして頂戴」というと、ちょっと困った顔をした。
私の顔は両顎が張っていて、丸と言うより、四角に近い。
顔の形が違うのに、髪型を同じにしても、と思ったのか。
「じゃ、冬のソナタのペ・ヨンジュンみたいなスタイルにしてくれる?」と言うと、「済みません、ぼく見てないんですよ」と逃げた。
見てないわけはないのだが、断りにくかったのであろう。
「ま、そんな感じでお願いします」というと、やっとニコッとして、私の髪に挟みを入れはじめた。
2ヶ月ぶりの美容院だから、カットのし甲斐がある。
床にザクッザクッと髪が落とされていく。
見習いスタッフが、床ブラシで掃き集める。
美容院の床が綺麗なのは、人の髪の毛で、始終床を撫でているからだそうである。
髪の油分で、床にワックスを掛けているのと同じだという。
カッとしながら、いろいろ話し掛ける。
インターネットのこと、野球の合併問題に発したストのこと、看護師をしている母親のこと、受けて返しているうちにカットが終わり、別のスタッフが、ヘアマニキュアにとり掛かった。
この美容院のいいところは、店に入り、担当美容師が決まったところで、「料金はこれこれになりますがよろしいですか」と、最初に金額を示し、客の承認を得てから、仕事にかかることである。
通常、美容院というのは、この点が曖昧だった。
店の中に料金表は掲げてあるが、かなりアバウトである。
ヘアマニキュアいくらと書いてあっても、それはシャンプーが付くのか付かないのか、また、髪の長さによってどう違うのか、終わって、請求書を見せられるまで、よくわからない。
客の方も、スーパーの買い物には、一円の誤差にも目をつり上げるくせに、美容に関しては、あまり細かなことはいわないというような、一種の気取りもあって、言われた料金を黙って払うことが多いのである。
今日の店は、その点明朗である。
ビジネスライクに処理するので、店舗を次々増やすくらい繁盛するのは、この点もあるのではないかと思った。
これも、男性スタッフが多くなったための変化であろうか。
オシャレ産業に、男の経済論理を入れる。いいことである。
女は、気取っていても、本当は、納得いかないお金は払いたくないのである。



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