沢の螢

akiko【MAIL

My追加

名の木散る
2004年11月03日(水)

天災、人災合わせて、つらい悲しい出来事が続いた。
世の中には、幸せなこと、愉しいことも、沢山あったに違いないが、ともすると、暗いニュースの方が、クローズアップされ勝ちであるし、人間の心の中には、その方が印象として残りやすいのかも知れない。
折りしも晩秋である。
歳時記では、あと数日すれば冬になるが、昨日あたりから、暖かくなり、まだまだ秋の風情である。
おとといから昨日にかけて、やっと庭師が来て、夏の間に茂った葉っぱや、雑草を片づけて、さっぱりした。
今年は雨が多かったため、仕事がおせおせになったらしい。
例年だと、金木犀が咲き終わった10月半ばには来るが、天候の事情で、遅れたと言っていた。
朝10時のお茶、午後3時のお茶と、彼らのいる日は、何だか落ち着かない。
夫と私と、幸い外出の予定がずれていたため、留守をせずに済んだ。
2日間で、何とか終わった。
庭がさっぱりすると、少し寒々しい風景になり、冬の来るのが近く感じられる。

昨日は、プロ野球新規参入のニュース。
家では、夫がライブドア派、私は楽天派である。
・・・といっても、私はそれ程関心があるわけではない。
本当は、どっちでもいいのだが、私は、公式の場にきちんとした服装をしない男性は嫌いなので、その点で楽天と言っているだけの単純な理由である。
あまりパリーグは知らないので、本当は巨人がもっとしっかりして、いい試合をしてくれればそれでいいのである。
若くして巨万の富を持つ。
それは悪いことではないかも知れないが、実った穂が、垂れ下がるように、物質的に恵まれた人は、その分人間的に謙虚になってほしいと思うだけである。

金持ちの金持ち
金持ちの貧乏人
貧乏人の金持ち
貧乏人の貧乏人

ある一面から見た人間の分類である。
今の日本には、とてつもないスケールの金持ちはいそうもない。
戦後、税制が変わったからかも知れないが、日本では、スケールの大きい金持ちは、存在できないような仕組みになっているのであろう。
ヨーロッパの歴史には、若い芸術家を育てた貴族の婦人などがいたことが知られている。
この人達の存在があって、音楽も、美術も栄えたのであった。
芸術家は、すべからく貧乏である。
見返りを求めず、ひたすら芸術を愛した金持ちや王侯貴族がいなかったら、今あるそれらの芸術作品や、素晴らしい建築物は、残っていなかったかも知れない。

日本に多いのは、金持ちの貧乏人という部類であろうか。
バブル期に、分不相応なお金を持ってしまった人たちは、ろくなことをしていない。
教養も、知恵もないような人が、お金を持っても、文化の発展には貢献しない。
そんな人たちは、子どもを育てるときも、物差しはお金しかないから、同じような金持ちの貧乏人が育つ。
人としてのあるべき倫理よりも、企業の倫理を優先させるのは、この部類の人たちである。
不祥事が起こるのは、当たり前である。
私は、育った環境も、今の生活も、貧乏人の部類だが、せめて、貧乏人の金持ちでありたいと思っている。
グルメではないし、毛皮も宝石も要らない。
でも、美しい物に触れ、数は多くなくていいから、心の広い、やさしい人と付き合いたい。
人の悲しみに、思いを寄せられるようでありたい。
それで、穏やかに生きて行けたら、幸せである。
秋の日射しの柔らかさ。
庭に佇って、広くなった空を見上げながら、そんなことを思った。


ネットのこわさ
2004年11月01日(月)

ブログが、爆発的に拡がり、私も6月から開設した。
ホームページと、ブログと、どう使い分けるか、まだ試行錯誤している。
ホームページは、私が、検索されない設定にしてあるためもあって、訪れる人は少ない。
せっせと書いている日記なども、ほとんど見る人はいないから、自己満足で終わってしまう。
そこで、最近は、ニュース性のある内容は、まずブログに書き、そのうちから選んで、ホームページに転載している。
そのままでなく、編集したり、修正したりする。
ブログは、設定上、コメントや、トラックバックされた物は、あとから直したりはしない。
またどんどん流れていくので、古い物を載せておく意味は、あまり無い。
しかし、ホームページは、もっと自由である。
推敲し、より満足のいく内容にして、載せる。
内容によって、複数のブログを持ち、ホームページを閉鎖することも考えたが、サーバーとの契約が来年2月まであるので、しばらく2本立てのままにしておく。

ホームページを作成するには、ソフトを入れるなり、自分でhtmlを駆使して、しなければならないが、いずれにしても、サーバースペースを借りたり、ページの設定を考えたり、多少の知識と技術がいる。
しかし、ブログは、出来合いのテンプレートに書き込むだけなので、手軽に開設できる。
そんなところから、この1年の間に、新規開設者がぐんぐん増えているようだ。
私が開設した6月には、300万件といわれたが、今は、どのくらいのブログ数があるのだろう。
シロウトが、世の中に起こっているいろいろな現象について、さまざまな考えを持ち、それを手軽に発信できるようになったことは、いいことかも知れない。
しかし、反面、私は一種のコワさも感じる。
インターネットの拡がりは、新聞、雑誌などの活字媒体よりは、遙かに速く、受け手の数も多い。
活字は、原稿を書いてから発信されるまでに、ある時間が掛かり、その間、推敲したり、間違いを直したりという、「間」がある。
読者投稿欄にしても、書いて送り、それが載るのに、新聞でも数日はかかるし、送った物が必ずしも採用されるわけではない。
ところが、電波は、この「間」の時間が短い。
入ってきたニュースを、あまり咀嚼しないで流し、順次追っていくという形を取る。
まず速いと言うことが、電波の特徴だからだ。
その後の状況に従って、修正されたり、付け加えられたりする。
それでも、テレビ番組などは、複数の目が入っているから、局全体が大きな過ちを犯さない限り、いろいろな番組を比べてみることで、ある程度の情報を把握することが、可能である。
テレビで新聞の投稿欄に相当するのは、電話やファックスによるアンケートであろうか。
いくつかの質問事項を用意して、それに応えたり、電話番号を決めて、イエス、ノーをポイントで決めるというやり方がある。
時には、ファックス、最近はメールでの意見を募って、番組内で紹介するという形を取っている。
これも、採用されるかどうかは、相手任せである。

そこにいくとブログは、自分の書いたエントリーを、公開するもしないも自分の判断、動機と時間とエネルギーさえあれば、誰でも、インターネット上に、公開できる。
シロウトの場合、インターネット上の名前を設定して、その名前の元に発信するわけだが、手軽に発信できると言うことが、両刃の剣となる。
誰かの実名を挙げて、中傷記事を書く。
それが、著名人で、すでに知れ渡った事実に基づいたことならともかく、たまたま事件に巻き込まれたり、被害にあった人について、事件とは、何も関係ない、その人の周辺事情や個人的履歴まで、あげつらって、ネット上で話題にする。
その例が、4月に起こったイラクでの日本人人質事件であった。
大手の掲示板に書き込まれた内容のひどさは、心が寒くなるものであった。
被害者は、イラクでの恐怖の体験に加えて、同胞達の、非難中傷の目にも、耐えねばならなかった。
もしかしたら、こちらの方が、受けた傷は深かったのではあるまいか。
今回、イラクに渡って、テロリストの犠牲になった香田さんの場合、死に至る行動についての批判記事の中に、死者の人格を貶めるような表現をしている物を見かける。
詳細は、何もわかっていない段階から、それは始まった。
家族に対しても、匿名での非難電話などが、少なくないと言う。
これは、恥ずべきことである。
言論の自由というのは、人に罵詈雑言を浴びせてもいいということではない。

私がイギリスにいたときのこと、新聞は”TIMES”をとっていた。
その読者投稿欄は、いくつかの決まりがあって、「王室に関する批判はしない」というのがあった。
その理由は、「王室は反論しないから」というのである。
反論しないのか、反論しないことになっているのか、その辺は定かでないが、ともかく一方的な批判記事は、載せないと言うことである。
昔から、死者を鞭打つのはいけないと言うのは、亡くなった人は、反論できないからである。
人が死んだあと、その人の生前の生き方や行動が検証されて、一定の評価がされるのは、時間が掛かる。
それは、歴史上に残る人物の評伝を見ても、見方がこれほど違うのかと思うほどである。
ましてや、名もない一般人が、不慮の死に遭遇し、家族が深い悲しみの中にいるとき、それに鞭打つ権利が、誰にあるだろう。
国のあり方や、為政者の言うことと、違う見方があってもいいはずだ。
現実に、誰も、その人の命を救えなかった。
その無力さとむなしさ。
私たちに出来るのは、黙ってその死を悼むことだけではないだろうか。


一掬の涙を!
2004年10月31日(日)

昨日外出のおり、沿線駅で、号外を配っていた。
かなりの雨の中を出てきたので、傘とバッグ、行き先への土産物などで、手がふさがっていたが、人が手にしたものをチラと見ると「遺体発見」という大きな文字が見える。
急いで一枚貰った。号外は瞬く間になくなった。
正午少し前のこと。
電車の中で、開いた。読売新聞10月30日の号外。
「香田さんか遺体発見」という大きな見出しの下に、「バグダッド北方バラドで」「後頭部に銃弾のあと」などの活字がある。
30日未明にアメリカから日本政府に入った連絡という。
確認されたわけではないが、午前4時に、外務省が記者会見し、香田さんの家族にも、伝えられていたという。
香田さんが人質になり、映像で流されたのが26日。
アルカイダ組織と見られるテロリスト集団は、日本政府が48時間以内にイラク駐留の自衛隊を撤退しなければ、香田さんを殺害すると警告していた。
48時間というのが、どの時点を指すのか、よくわからないが、すでに、予告時間は過ぎているように思われ、号外を見た私は、何とも沈鬱な気持ちになった。
外出先は、連句の先輩の家である。
五週目の土曜日のある月に集まることになっている。
女性4人、男性一人が集まり、持ち寄りの食べ物やワインを愉しみながら、二十韻を巻いた。
その席では、号外のことには触れなかった。
ほかの人も、知ってか知らずか、その話題は出さなかったので、連句は、つつがなく終わった。
ただ、私の心の中には、苦い澱のような物が溜まっていた。

三日前に、やはり連句の集まりがあり、私の居た席で、人質事件の話が出た。
「あの若い人、かわいそうに」と私が言うと、同席の人たちから集中砲火を浴びた。
「危険なところに行くのが悪い」
「ちっともかわいそうじゃない」というのである。
「動機や状況はともあれ、命を奪われるのは、やっぱりかわいそうじゃないの」と私は言ったが、そこにいた人たちは、同調しなかった。
「命を粗末にするからこんなことになる」
「人騒がせだ」と、四月の日本人拘束事件で、インターネットに吹き荒れていた、どこかの掲示板のようなことを言う。
この人達は、インターネットに縁のない人たちだが、あのときも、共通の意見を持っていた。
非難する相手は、被害者じゃなくて、犯人でしょうと私は言ったが、あまり聞いてもらえなかったようである。
議論しても無駄だからと、「でも、自分の息子だったらと思うとねえ」とひとこといって、私は黙ってしまったが、みんなも黙ってしまい、ひやりとした空気が流れた。
厳しいことを言った人たちも、単純に被害者を非難しているのではない。
被害者と同世代の子どもや、あるいは、もう少し若い孫を持った人たちである。
子どもの時、あるいは、思春期に、戦中戦後を経験している。
だから、歯がゆいのである。
何でむざむざそんな危険なところに行くのか、と腹立たしく、そして、何もしてやれない非力さに、苛立っているのである。

そんなことがあったので、私は、昨日の席では、こちらから話題にしたくなかったのである。
家に帰ったのは、夜10時過ぎていたが、テレビを見ていたらしい夫が、「「発見された遺体は、別人だったらしいよ」と言った。
「じゃ、香田さんはまだ生きてるのね」と私は言った。
今までにも、アルカイダに民間人が人質になって、殺害されるケースが起きているが、日本人としては、はじめてである。
この事件は、日本が、自力での正確な情報が得られず、政府にも、メディアにも、事態はよくわからないようであった。
号外に書いてあった「遺体」というのは、調べた結果、別人のもので、その後、別の遺体が発見され、それはどうも香田さんの可能性が高いという報道が、その後出た。
そして、今朝、2度目に発見された遺体が、香田さん本人であると、確認された。
政府は、最初の段階で「自衛隊は撤退しない」と言っていたし、交渉の手立てがないらしかったところから、無事救出するのは、かなり難しいのではないかと思われた。
でも、何とかして助かってほしい。
誰でも、理不尽に命を奪われるなどということがあってはいけない。
被害者の人間性や、行動の善し悪しや、家族の状況や、そんなことは命あってからのことである。
まずは、助かってほしい。
そう願っていたが、残念な結果になった。
四月のイラク日本人拘束事件の際、さんざん取り沙汰された「自己責任」と言うことば、その後に起こった日本人ジャーナリスト狙撃事件、そして今回の事件、政府を表立って非難する意見は出なくなり、いつの間にか、仕方がないという風潮を作ってしまった。
香田さんの取った行動は、充分批判されることだったかも知れないが、もし生きていたら、その後の人生で、取り返すことも出来たはずである。
ひとつの若い命が、理不尽に奪われたという事実。
いまわの際で、彼は何を思ったであろうか。
私に繋がる同胞の一人。
助けてあげられなくて、ごめんなさいといいたい。
そして、せめて一掬の涙を、彼のために流したい。


神の手
2004年10月29日(金)

新潟地震で土砂に埋まった車の中から、二歳の男の子が、98時間ぶりに救い出されたことは、悲惨な罹災状況の中で、一筋の光りのように、感動的なことだった。
いろいろな偶然が重なって、それがうまく幸いして、命に関わる大きな怪我もなく、助かった。
強い余震のある中、身の危険を覚悟して、夜を徹して救出に携わった、レスキュー隊や関係者の人たちの連係プレイが素晴らしい。
特に、せまい空間に閉じこめられていた子どもを抱え上げ、それを受け取って、しっかり抱きしめた隊員、足場の悪い中で、次々と、小さな子どもの体を、宝物のように、手渡しながら、安全な場所まで運んだ人たち、私には、その人達の手が、神様の手に見える。
見守っていた子どもの父親も、きっと、祈る思いで見つめていたに違いない。
そして何よりも、2歳の男の子の、生命力の素晴らしさ!
一緒に車に乗っていた、母親とお姉ちゃんは、残念ながら、助からなかった。
でも、男の子を助け上げた、沢山の神の手の中に、その二人の手も、添えられていたと、私は思う。
この子はきっと、たくましく成長する。
そう信じている。


逝く秋
2004年10月28日(木)

今年は秋らしい天気が少なかったので、例年なら10月中頃に行くはずの蓼科の小屋に、とうとう行かなかった。
冬の間は閉めておくので、いらないものを整理したり、水抜きを頼んだり、不要な衣類を東京に持ち帰ったりの始末をしながら、高原の秋に別れを告げるのである。
標高1100メートルの高原では、10月に入ると、紅葉が始まっているし、湖の色も深みを増す。
朝晩はストーブを焚くくらいの寒さにもなるが、晴れた空の美しさは、都会と違う。
夏の喧噪もなく、わずかに虫の声と、葉擦れの音が聞こえるばかり。
人のみならず、生き物も、冬眠に入るのである。
夕焼けを眺め、次の年の春までの、小屋との別れをして、帰ってくる。
9月になってから、1週間ほどの滞在のつもりで考えていたら、幾たびとない台風の襲来で、時機を逸してしまった。
そのうちに小屋の周りの樹木が、台風の影響でかなり倒れたり折れたりしたらしく、、管理事務所から連絡があった。
よその敷地内に倒れ込んだりしたものもあるので、片づけを依頼し、いったん済んだところに、また次の台風が来た。
電柱に掛かった木は、電力会社が片づけてくれたが、この分では、まだ被害が出る可能性があるので、今月に入ってから、小屋を閉めがてら、一度いって見なければと話していた。
夏の終わりにいったん帰ってきてから、またどうせ行くからと、そのままになっているのである。
ところが、夫と私のスケジュールが合わず、気候不順が続いたせいもあって、気になりながら、延び延びになっていたところへ、台風云々の連絡だった。
ふたりで行くことはあきらめ、夫だけ、2泊くらいの慌ただしさだが、出かけていった。
そして、小屋の周りの木のうち、老木を10数本、切り倒して貰う手はずをした。
クレーン車で、何人がかりかでやる作業なので、一本あたり2,3万掛かるという。
先日作業が完了したとの知らせが来て、まだ請求書が届いていないが、オソロシイ。
例年の台風は、うまくそれてくれて、今までには、そういう被害はあまり無かった。
今年は台風が、まともに来たらしい。
「家の周りは木が減ってすっきりしたけど、ちょっと景色が変わったよ」と、帰ってきた夫が言う。
デジカメを持っていったのに、チップを入れ忘れたので、せっかくの美しい紅葉がとれずに帰ってきた。
上の写真は、昨年のもの。
近くにある漆の木である。
触れるとかぶれるので、家の周りの漆は除去したが、紅葉すると綺麗である。
今頃は、遊歩道も、落ち葉で埋まっていることだろう。

東京もこのところ、真冬の寒さである。
11月に、九州旅行をするので、今日は、航空券などを買いに行った。
出るときはさほどでなかったが、あちこち寄り道をして遅くなり、バスに乗る頃には、かなり冷え込んでいた。


秋雨前線
2004年10月26日(火)

10月というのは、本当は一番良い季候の筈だが、秋晴れの日は、あまり無い。
台風が立て続けにやってきて、それに秋雨前線も活発化して、雨の日が例年になく多いようである。
昨日はちょっと晴れ間が見えたが、今日は一日雨であった。
新潟に大きな地震があって、広域に渡っているので、これから豪雪に見舞われる地域でもあり、特に高齢者や、病人にとっては、つらい冬となりそうである。
台風の被害についても、まだ、復旧していないし、つくづく日本は、自然災害の大きな国であることを痛感する。
それにつけても、いつも感動するのは、そうした被害にあった人たちが、割合に冷静に自然災害を受け止めていることである。
関西大震災の時も、死者5000人以上という大惨事でありながら、被災地に、たとえば掠奪のような、無法な現象はなかった。
多少の混乱はあったであろうが、市民生活のルールは、よく守られていたと聞いている。
今回も、罹災した人は、テレビの無遠慮な質問にも、よく対応して、ジッと、つらさに耐えているのが、かえっていたましい。

晴れていれば、暖房も冷房も要らない快適な気温の筈だが、このところ、かなり冷えている。
家の中でも、一階と二階では、温度差があるようだ。
2,3度の違いがあるのではないかと思う。
昨年の今頃、北海道の見知らぬ人から夫にメールが入った。
夫のホームページに載せてあったジャガイモの花の写真を、使わせて欲しいという趣旨だった。
農家の人で、ジャガイモを出荷している先のホテルのロビーに、宣伝用のジャガイモの花の写真を飾りたいと思い、いろいろ探して、夫の写真が目についたのだという。
ちゃんと礼を尽くして言ってきたので、承諾し、あらためて写真を送ってあげたら、その御礼にと、収穫したジャガイモを一箱、送ってきたのだった。
美味しいじゃがいもで、身内の者に配ったので、直ぐ無くなってしまった。
今年は、その農協に注文して、送ってもらうことにした。
「毎年送ってくれるんじゃないの」と私はさもしいことを言ったが、「写真一枚で、そうはいかないよ」と夫は言った。
今でも、その写真がホテルに飾ってあるかどうかは、定かではない。


自転車とケータイ
2004年10月23日(土)

数年前、私の家に、老父母が同居していた頃、まだ元気なトシヨリではあったが、二人が外出するとき、私の一番の心配は、車の事故に遭うのではないかと言うことだった。
ところが、親たちの意見は、意外にも、車より、自転車の方がコワイというのである。
道路を横切るとき、たしかに車には、とても神経は使うが、自動車は車道を走るからまだいい、歩道を無差別に走っている自転車の方が、余程危ないというのである。
せまい歩道を、我が物顔に、スピードを上げて走り、突然後ろから、ベルを鳴らす。
老人は、とっさに反応できないし、動作もゆっくりなので、どちらに避ければいいのかわからない。
ましてや、母は耳が遠いので、ベルが鳴っても聞こえないことがある。
まごまごしていると、体すれすれに横をすり抜けていく。
そういう横暴な自転車が結構多くて、それが一番イヤだといっていた。
杖を突いて歩いていた父が、後ろから自転車で走ってきた中学生くらいの少年に、「邪魔だ、どけ!」と怒鳴られたこともあったらしい。
歩道というのは、本来、人が安心して歩ける道の筈である。
それが日本では、自転車と人が、共存しているのである。
これは、高齢者だけでなく、ベビーカーを引いた若いお母さんにも、買い物袋を下げて普通に歩いている人間にとっても、実に危険と隣り合わせなのだ。
前を歩いている人を、当然のように、無言で、ベルひとつで、道の端に追いやるような野蛮な行為が、平然とまかり通っているのである。

しかし、その頃はまだ携帯電話が、それ程普及してなかったので、まだよかった。
今は、みんなが携帯電話を持つ時代である。
自転車を走らせながら、ケータイを使っている人も、ちょくちょく眼にする。
(私は機器としての電話、あるべき使い方としての携帯電話はちゃんと漢字で書く。そうでない場合はカタカナと、区別している)
片手でハンドルを握り、もう片方の手で、ケータイを持ち、話したり、メールをしたりしている。
器用なことをするなあと、感心はするが、これは、歩行者にとっては、刃物のようなものである。
如何に、ハンドル捌きがうまく、運動神経のすぐれている人であっても、もし、走行先に、歩行者がいて、とっさに避けられない場面に遭遇したとき、ぶつかる危険性は大きいだろうと思う。
そのとき、歩行者の方が避けるべきだと言うのが、多分ケータイ愛用者の考えなのであろう。
そもそも、歩行者に配慮する気持ちのある人なら、はじめから、自転車を走らせながら、ケータイを使うなんて発想は、出ないだろうから。
事故が起きたら裁判すればいいじゃないかという意見を、あるところで読んだ。
こういう意見がてらいもなく、堂々と出てくる所に、私は、今の日本の、自己中心主義の蔓延した、病的な風土を感じる。
私が住んだことのあるイギリスでは、自転車は車道を走ることになっていたので、危険を感じながら歩道を歩かねばならない状況はなかった。
先日も、私は、後ろからベルを鳴らして、近づいてきた自転車の小学生に、「ここは人が歩くところだから、いったん降りて、ちゃんと断ってね。ベルでは聞こえないこともあるし」と言った。
すると、しぶしぶ自転車から降りて、引きながら私の傍を通り抜けたが、再度乗って去り際に、私に向かって「バカ」と言った。
追いかけて、首根っこをつかんでやりたいところだったが、すでに逃げてしまっていた。
学校では、自転車の乗り方について、警察などが指導に行っているはずである。
でも、道路の渡り方や車との関係における自転車の安全性について教えるだけで、歩行者に対する配慮や、マナーについては、関知しないのであろう。
そんなことは、本来、親が、家庭で教えるべきことなのだが、今はそういう状況ではないようだ。
私も自転車を利用する。
生活必需品である。近場はとても便利である。
だから、正しい乗り方をしたいと思う。
携帯電話をめぐって、いろんな考え方があるのは、目にする。
電車の中でも、優先席に座って、平然とケータイを使っている若者も少なくない。
自転車に乗って、ケータイなんて、議論の余地無く、非常識なのに、そんなことを論じなければいけない状況が、おかしいのだ。



BACK   NEXT
目次ページ