昨年4月から衛星放送で、韓国ドラマ「冬のソナタ」が始まったとき、私は第1回目から見て、2,3回経つうちに、すっかりこのドラマの虜になってしまった。 日本のラジオドラマから映画化されて一世を風靡した「君の名は」、ロナルド・コールマンとグリア・ガースンのアメリカ映画「心の旅路」、それにケーリー・グラントとデボラ・カーの「めぐり逢い」、いずれも古い映画ばかりで申し訳ないが、この三つを足して3で割ったら、まさにこういうドラマが出来上がるだろうと思うような、メロドラマの王道を行く作りであった。 美男美女、すれ違い、愛し合う二人の前に立ちはだかるいくつもの枷、恋敵、なぜかひとりの女に二人の男が絡む設定になっている。 いまの日本では、枷と言われるような外的な障害はほとんど無くなって、安易に結びついては、また安易に別れるという状況が殖えているようだが、韓国は、まだまだ、親の反対とか、男女関係に古風なモラルが生きていたりするところが、ドラマの背景にあるのだろう。 「心の旅路」は、記憶喪失と、その快復がテーマであった。 「めぐり逢い」は、約束の待ち合わせ場所に急ぐ女性が、交通事故に遭い、ふたたび巡り会うまでの話が山になっていた。 「君の名は」は、愛し合う二人が、いくつもの山を越えて、結ばれるまでに、10年ほどの年月が掛かっている。 「冬のソナタ」は、脚本家が、それらを参考にしたかどうかは知らないが、二人がやっと、結ばれるまでの、いくつものエピソードの中に、これら古典的メロドラマの要素が、すべて入っている。 それに、美しく哀調を帯びた音楽、美男美女とくれば、ヒットする条件はかなっているのだが、やはり、女性が多く見るこの種のドラマの鍵は、ヒロインを愛する男役に、負うとことが大きい。 ペ・ヨンジュンは、これ以上ないと思うほど、この役にはまっていた。 初回に高校生で登場するところから、インパクトがある。 肩幅の広いがっちりした体つきながら、整った顔。 ややニヒルな高校生で、あまり笑わないが、何か、人の心を引きつける魅力がある。 高校生役の時には、眼鏡を掛けていず、少し目元がきつく見えるが、この顔も、なかなかいい。 私は、1,2回で、すっかりファンになってしまった。 この段階では、まだドラマの視聴率は、それ程高くなかったと思う。 私の友人達も、ほとんど知らなかった。 だんだん評判になってきたのは、NHKの派手な宣伝のせいもあるが、昨年末に地上波で再放映されだしてからであろう。 「ヨン様」なんて、おばさま達が騒ぐ頃には、私は、「ペ・ヨンジュン巻き」のマフラーを、とうにマスターして、街を闊歩していたのだった。 そういえば、「君の名は」でも、岸恵子が巻いたマフラーが、「真知子巻き」なんて言われて流行ったりした。 友人達も、そのころになって、やっと認識しはじめたようだった。 彼女たちに差を付けたいので、私は、空港に押しかける「ヨン様」ファンとは一線を画し、「ヨン様」なんて呼ばないし、テレビの実像もあまり話題にしないことにしている。 彼の実像も、笑顔は素晴らしいし、ファンサービスもきめ細かく、そのホスピタリティは素晴らしいが、私が好きなのは、あくまでも、ドラマ「冬のソナタであり、「冬のソナタ」のチュンサンである。 さて、「冬のソナタ」が大ヒットしたからか、韓国ドラマが、次々と放映されている。 昨年秋、「冬のソナタ」のあとに始まった「美しい日々」は、最初の1,2回のドラマの筋立てと、作りが、あまりにも、「冬のソナタ」とかけ離れていたので、見る気はせずに、ほっておいた。 この10月から、また再放映されていて、何となく見ているうちに、「冬のソナタ」とは違う意味で、悪くないなと思い始めている。 ヒロインのチェ・ジウは、似たような印象だが、相手役の、イ・ビョンホンは、どちらかというと硬派、強引で冷たいが、本当は愛に飢えている役どころ。 屈折のある難しい役を、よく演じていて、だんだんドラマの行方が面白くなってきた。 最近は、欠かさず見るようになり、土曜日の夜を心待ちにしている。
とうとう師走に入ってしまった。 夏は冷房、冬は暖房で、家の中にいる限りは、あまり温度差が無く、また季節に応じた風習や行事も、だんだん廃れてしまったが、それでも、年末の気ぜわしさというのは、感じる。 一歩外に出ると、もう、正月の飾り物が店に並んでいるし、年賀葉書用のソフトも、賑やかに売られている。 クリスマスは、キリスト教徒の少ない、おおかたの日本人にとっては、ただプレゼント交換を、商業ベースに乗せられてやるくらいだが、クリスチャンの人には、聖なる日。 教会のミサに出たり、家族で静かに過ごす場合が多いと思う。 思い出すのは、ロンドンにいたとき。 イギリス人の女性に、私の英語の家庭教師をして貰った。 日本に住んだことがあるという彼女は、日本語は出来るようだったし、それをレッスンの中で使いたいらしかったが、私は、彼女から日本語を習う必要はないので、私のレッスンには、日本語を一切使わないことを条件にして貰った。 彼女は週に一度、私の家に通ってきて、会話のレッスンをしてくれた。 しかし、少し経つうち、私は、彼女が、外国人に英語を教えるための専門的ノウハウを、持っていないことがわかり、スクールに通いたいからという理由で、レッスンを打ち切った。 私は、日本で、「外国人のための日本語教師」として、5年ほど仕事をしたので、母国語が出来るからと言うことだけで、外国人に、言葉を教えることは出来ないことを、知っていたからである。 しかし、語学教師としてはともかく、彼女は、話し相手としては、大変いい人であった。 レッスン料を払うと言うことがなければ、いつまでも、付き合いたかったと思う。 私は、あまり実りのないレッスンの代わりに、毎回、テーマをこちらで決めて、それについて、質問し、ディスカッションして、英語表現の問題点などを、指摘して貰うことにした。 日本とイギリスの習慣の違い、ある物事についての、感じ方の差、家族のあり方や、イギリスの教育の問題点など、今では、詳細は忘れてしまったが、発見したり、はじめて知ったことが、少なくなかったし、彼女が体験した日本での生活のことが、話題になったこともあった。 ちょうどクリスマスが近くなって、街が賑やかになった頃。 「クリスマスには、どう過ごすのですか」ときいた。 すると彼女は、肩をすくめて、フンという仕種をした。 いぶかっている私に、「私はキリスト教徒ではないから、クリスマスは、関係ありません」と、少し昂揚した調子で言った。 彼女が、ユダヤ人であり、敬虔なユダヤ教徒だと言うことが、そこではじめてわかった。 政治や宗教のことは、話さないのが礼儀である。 「ごめんなさい」というと、「いえ、イギリスにも、いろいろな人がいます」と言って、笑顔を見せた。 個人的なことも、向こうから話さない限り、触れるのはマナーに反する。 ただ、英語のレッスンの形で、お互いの家族や、日常生活の話題に、多少触れることはある。 当時は、サッチャー政権だったが、彼女が、サッチャーさんに批判的なことも、だんだんわかってきた。 緑色の車を運転して、通ってきた彼女。 何故か、いつも、黒に近い色の服ばかり着ていた。 「色のあるのは、好きじゃないから」と言っていた。 半年足らずの縁だったが、まだ独身だった彼女が、今どうしているだろうと、時々思う。 「そのうち、また日本に行きます」と言っていた彼女。 何故、日本に住んでいたのか、何をしていたのか、とうとう訊かずじまいだった。
昨日、横浜に行った。 相鉄本多劇場の芝居を見に行ったのであるが、渋谷からの東横線が、大分変わったと聞いてから、はじめて乗るのである。 今まで、桜木町終点だったのが、みなとみらい線に繋がり、中華街や、大桟橋まで行くようになった。 大桟橋と言うところには、神奈川県民ホールがあり、友達が歌の発表会に出たりするので、年に一度くらいは行っていた。 それが、この一年の間に、全くアクセスが変わったという。 特急で横浜まで30分足らず。 降りたのはいいが、目的の場所に行くのに、何度も人に聞いて、15分もかかった。 日曜日ということのせいか、横浜へのアクセスが変わった為かわからぬが、大変な人出である。 どこをどう行けば、どこに出るのか、全くもってわからない。 お上りさんもいいところである。 東京の人間は、案外と近県には弱いのだ。 二つの交番で訊いて、やっと目的の劇場に着いた。 女優5人のセリフ劇。 2時過ぎに始まって、1時間15分くらいで終わった。 知った人が出ているので、見に行ったが、あまり面白くなかった。 本多劇場は、東京世田谷の下北沢が本拠地。 そこでやってくれれば、私のホームグランドの範囲なのにと恨めしい。 終わると、ちょうどお茶の時間でもあり、何か食べようかと思ったが、土地勘のないところで、適当な店を見つけるのは難しい。 それに、歩いているのがほとんど、アベックやグループの、若い連中である。 肩と肩が触れ合うような混雑ぶりである。 落ち着いて、お茶など飲める雰囲気でもないなと見切りを付け、高島屋で、ちょっとウインドウショッピングをして、帰りの電車に乗った。 横浜在住の友人に訊くと、知る人ぞ知るのいいところが沢山あるらしいが、不意に行ったのでは無理である。 同じ人混みなら、やはり東京のほうがいい。 人に道を訊かれて、わからないときに、英語では、"Sorry, I'm a stranger here."というが、そんな気持ちの半日であった。
子どもの頃から理数科、特に数学がダメで、この世に何故数学なんて物があるのかと恨めしかった。 買い物に行って、おつりを間違えないとか、ワリカンでソンしないとか、実用的な数字には、強いが、抽象的になると、からきしダメである。 数学で、60点以上を取った経験はほとんど無い。 得意な国語と、幾らかマシな英語で、それらをカバーして、何とか落第せずに済んでいたのである。 ついでに、体育もダメだったが、これは、音楽でカバーした。 私の受験期は、国立大学は、文科系でも、数学2,理科2を含む8科目で、試験を受けなければならなかったので、数学の先生から、「君は数学がダメだから、受験科目にそれのないところにしなさい」と、早々と宣告されてしまった。 当時は、数学のない国立大学は外語大くらいだった。 それならいっそ、受験などせず、本でも読んで過ごした方がいいと、そのまま、ところてん式に上に進んでしまった。 後年になって、やはり、受験くらいはしておけばよかったとか、もう少しマシな学校に行っておけばよかったとか思ったこともあるが、学歴の善し悪しが物を言うような世界とは、あまり付き合わずに来て、現在に至っている。 今の趣味の世界でも、芸術的センスと、オリジナルな感覚だけを武器にして、勝負するので、学歴は勿論のこと、社会的地位も、出自も関係ない。 ある時、実社会で、トップを極めた人が入ってきたが、その辺の感覚がわからず、肩書き丸出しの態度で、どこでも名刺を出すので、陰で「社長」なんて、あだ名を付けられて、揶揄されていた。 そのうちに、そんなものがこの世界では、一文の値打ちもないことがわかり、だんだん態度が変わって、それから作品の質も上がってきた。 文学的創作には、垂直思考は向かない。 特に共同作品を作る場では、エライ人というのは、邪魔である。 話が逸れたが、本当は天文学の話をしたかったのである。 今月から私の住む市では、市民向けの天文学講座をはじめた。 すばる望遠鏡で見た宇宙の話というので、申し込んだ。 夫と一緒である。 「君には向かないぞ」と言われたが、宇宙の話なら、文学的な共通性がありそうである。 星座はわからないが、「冬のソナタ」のキイワードになったポラリスもあるし、なにやらロマンチックな感じがする。 ところが、やはり無機質な科学のことが中心で、私には難しい。 初回は、地球温暖化の話から、宮沢賢治の銀河鉄道の話になり、大変面白かった。 賢治は、現在の地球の状況をすでに予感してあの話を書いたことがわかる。 感動した。 しかし、聴きに来ている人の中には、かなりの天文マニアがいて、なにやら難しい質問をする。 私にはチンプンカンプンである。 おとといの話は、「星の進化と元素の合成」なるタイトル。 その中で、原子というのは、直径10センチの林檎を半分に割る作業を、約90回繰り返して残った大きさだという話があった。 数学的に言うと、1億分の1センチメートルというのだが、勿論、これは理屈の上の喩えである。 でも私は、実際に林檎を2等分する作業を90回出来るのかなあと、そればかり考えて、その後の科学的な話を忘れてしまった。 「君、半分くらい寝ていたぞ」と夫が言う。 その日は、本当は天体望遠鏡を覗くはずだったのに、雨で、流れたのである。 講座は、画像をスクリーンに映して、進められた。 若くハンサムな、眉目秀麗の学者のタマゴが話す宇宙のドラマを聞いていると、人間の歴史はホンの一瞬の塵にもならない出来事。 地球がいずれ爆発して、消え去るとしても、60億光年単位の話だから、人間の一生の単位ではない。 愚かな人間が、さんざん汚して傷め付けた地球が、悲鳴を上げているのは、想像できる。 生命が誕生するのに、60億光年掛かったというのに、やがて人間は、みずからの手で、他の生命もろとも、宇宙の藻くずと消えるのであろう。 「愚者の行進」という本が、20年ほど前にアメリカで出版され、原書を買ったものの、読めないでいる。 ベトナム戦争までのことが書いてあったようだが、いずれ、イラクやパレスチナの一章が加わることであろう。 個人の力で、どうにもならないことが、多すぎる。 宇宙の星のどこかに、別の生命体が住んでいるとしたら、地球上で繰り広げられている、人間のドラマを、どう見ているだろうか。
昨日午後から降り始めた雨が、そのまま続いて、今日も雨である。 昨日は、父母のところへ。 熊本で買ったかるかんを持っていく。 昼寝していた父が、しばらくして起きあがってくると、私の顔を見て、「おお、夢に見た顔と同じだ。xx子だね」と言った。 父は時々、こんな風にはっきりしているときがある。 顔は、何となくわかるが、何という名前だったかが思い出せないことが多い。 向こうから、ちゃんと名前が出てくるのは珍しい。 たまたま夢のなかに私が出てきたのか。 「そうよ、お父さん、xx子よ」というと、父も、笑顔になった。 先週私は、文芸の行事に参加するため、九州に行ったが、せっかく遠方に行くのだからと、前後に、3日ほど、個人的な旅程を挟んだ。 その一番の目的は、昭和19年から終戦の翌年に掛けて3年間住んだ、福岡県の父の実家のあったところに行くことだった。 60年近くも前のことになる。 戦争が激しくなり、父が出征したあと、母は、私を頭に幼い3人の子を連れて、東京から父の実家に移った。 小倉から日豊線に乗り、新田原という駅で降りる。 祖父母と、父のきょうだい達が住むところに、母と5歳の私、3歳の弟、生まれて半年くらいの妹が、身を寄せたのであった。 30歳の若い母にとって、婚家の大家族の中での生活は、さぞかし苦労の多いことだったろう。 次の年、私はその村の国民学校に入り、夏休みに終戦になった。 さらに次の年、父が戦地から帰ってきた。 ガリガリに痩せ、戦闘帽を被り、ゲートルを蒔いた姿で、遠くから一本道を歩いてきた父の姿を、私は今でも忘れない。 その時、父は35歳。 母は32歳だった。 やがて、父は東京に復職し、家族の住まいをしつらえるため、田舎の小駅を発った。 母と私たちは、その父を、駅のプラットフォームで見送った。 寒い冬の朝だった。 きょうだいのなかで、私だけが、かろうじて覚えているその場所を、いちど訪ねたかったのである。 かすかな記憶と、昔の地名だけで探すのだから、頼りない話であったが、何とかなると思った。 小倉のステーションホテルに泊まり、翌朝、日豊線に乗った。 40分ほどで、新田原に着いた。 子どものときの記憶では、駅まで歩いたように思う。 歩き始めて、道行く人に、片っ端から昔の地名を言ってみたが、よくわからない。 戻って、駅前のタクシーの停まっているところに行った。 何人かの運転手が寄ってきて、あれこれ言っているうち、幾らか心当たりがある人がいて、連れて行って貰った。 「多分此処じゃないでしょうかね」と行った場所は、昔あった家の跡が幾らか残っていて、前庭のあったところに、別の新しい家が建っており、前方に田や畑が少し残っていた。 家から、遠くの通りまで、細い道が通っていて、先の方に目印の一本松があったのだが、松はなくなっていた。 「奥さん、ここかね」と運転手が訊く。 「多分、そうだと思うけど、周りがもっと広かったように思うんだけど」というと「子どもの時は、物が大きく見えるんだよ。きっと此処だよ」と運転手も、一生懸命である。 「この近くに学校がある筈なんだけど」というと、「あれじゃないの」と運転手が指したのは、裏庭から遠くに見える学校だった。 間違いない。私の通った学校だ。 タクシーで、また、そこまで、行ってもらった。 学校に行く途中に橋があるのは、覚えていた。 父の末弟が飛行機で太平洋に沈み、村ではじめての戦死者として、大きな葬儀が営まれた。私たち親族の列を、橋の両側に参列した村の人たちが、頭を下げて見送ってくれた記憶がある。 子どもの目には、長い橋に見えたものが、今回行ってみると、ごく小さな短い橋だったことがわかった。 木造の校舎は勿論、今ないが、場所はそのままであり、学校名も、変わっていなかった。 平日なので、授業中の気配がした。 「どうします?寄ってみますか」と運転手が言う。 学校の周りを一回りして貰い、そのまま駅まで帰った。 「奥さん、想い出探しの旅なんだね」と運転手が言う。 「まあ、そんなものだわね」と応えながら、涙が出そうになった。 小倉駅まで引き返す電車の時間までに、少しあった。 もう一度、駅から徒歩で、少し行ってみた。 駅舎は、勿論当時のままではないだろうが、村の小さな駅であることに変わりはない。 当時の友達の名も、忘れてしまい、村の人たちも、多分、残っていない。 戦争中から戦後に掛けて、私が過ごした場所。 疎開者だからと、いじめられたこと、運動会でリレーの選手になって一番を取ったこと、川で遊んでいておぼれたこと、祖母が戦死した叔父のことを思い出しては泣いていたこと。 若い母が、婚家の大家族の間で、子どもを抱えて、必死に働いたこと、母の代わりに、近所の農家へ田植えの手伝いに行ったこと、いろいろなことが思い出される。 こんな記憶は、妹や弟には残っていない。 カメラを持っていかなかったので、写真に撮ることは出来なかったが、いずれ、もっとよく調べて、再訪するつもりである。 昨日、母に、九州の話をした。 懐かしげであった。 忘れていたことも、思い出したらしく、話が弾んだ。 父に、駅の名前を言ってみたが、覚えていないようだった。 冬の朝、列車に乗った父を、プラットフォームで見送った、58年前のあの駅。 東京までは、三日三晩ほどかかったはずである。 今は、新幹線でも、飛行機でも、その日のうちに行ける。 何故、今まで行ってみようとしなかったのか。 多分、記憶をそのままにしておきたかったのかも知れない。
ある男が、私に暴言を吐いた。 8月始めのことだから、もう3ヶ月も前になる。 毎年夏、江の島に一泊どまりで行う趣味の会の、行事でのことだった。 朝10時に集合し、いくつかの席に分かれて、共同作品を作る遊びに興じていた。 私は、10人ほどのグループの席にいた。 その人は、兼ねてから、相手が男と言わず女と言わず、暴言めいたことを言うクセがあった。 悪意のないことはわかるが、歯に衣着せぬと言うのか、相手をグサリと傷つけるような、ものの言い方をする。 テレビ関係で長く働いていて、それが、習慣のようになっていたという噂もあり、そんないい方が許される環境で、今まで過ぎていたのかも知れない。 家では奥さんに頭が上がらないから、その分、外で、発散しているという話もあった。 キャラクターはなかなか面白いし、ありきたりでない意見も持っているので、私も、好感は持っていたし、呑み仲間として付き合ってきた。 時にバトルになることがあっても、ここまでという一線は守って、今までは、修復できる範囲のことだった。 しかし、そのときは、その一線を越えていたのである。 親しさの中にも、礼儀というものがあるが、彼のはいた暴言は、表現者としての私を侮辱するものであり、私の人格に関わるものだった。 勿論周りの人にも、聞こえている。 ひどいことを言う、と思った人は少なくないと思う。 でも、誰も、たしなめなかったのは、日ごろ私がその種の発言には、黙っていないことを、みな、知っているからである。 第三者に為された暴言にも、聞き流さず、咎めたことのある私である。 だから、きっと、私が直ぐに反応して、バトルになることを、多分、予想したに違いない。 余計な口は挟まない方が、と思ったのだろう。 しかし、私は、反論しなかった。 というより、何か言うと、ワッと嗚咽が漏れそうな、胸にこみ上げるものがあったのである。 相手は、多分、自分の言葉が、それ程、私を傷つけたとは思っていないようだった。 また追い打ちを掛けるようなことを言った。 いつものように、直ぐに言い返されると思った言葉がないので、戸惑ったと言うこともあったかも知れない。 そのあたり不器用な人なのである。 自分で、自分の後始末が下手なタイプなので、振り上げた刀の納めどころを知らないのである。 私は、しばらく我慢したが、耐えきれなくなって、席を立ち、廊下に出た。 途端に涙が溢れてきた。 そのまま廊下の隅にあるソファに腰掛けて、ジッとしていた。 ハンカチを持っていたことが幸いだった。 しばらくすると、私の席ではないが、日ごろ仲良くしている人が、やって来た。 「どうしたの」と言う。 他の席から、私が出ていったのを気づいていて、なかなか帰ってこないので、体の具合が悪いのかと、心配して見に来たのだった。 わけを話し、「ここに少しいるから、心配しないで。気分が直ったから戻るから」と言った。 その間に、同じ席の女性が、様子を見に来たが、私が大丈夫だからというジェスチャーをしたので、そのまま戻っていった。 どのくらいの時間だったのか、わからないが、どうやら、気持ちが落ち着いたので、元の席に戻った。 「何処に行ったかと思って探してたんだよ」と、暴言の主が言う。 そんな茶化した言い方で、収まると思ったらしい。 何を言ってる、探してなんかいやしないのに、と思い、無視した。 それからの共同作業に私は、全く参加しなかった。 私の不在の間、その席で話題に出たかどうか知らないが、終わってから、幹事の男性が「私の配慮が足りなくて、イヤな思いをさせて済みません」と言いに来た。 席を仕切っていたのがその人だったので、その時に、適切な対応が出来なかったことを、済まないと思っているのである。 その人のせいではなく、暴言を吐いた人物固有の問題だから、それ以後、私は、その席から外して貰った。 夕食時も、その後の団欒も、私は件の男から距離を置いて、その人の言動に一切反応も、関心も示さないという態度をとった。 さすがに、彼も、私がかなり怒っていることは、わかったらしい。 翌日、昼過ぎに行事は終わったが、いつもなら彼の主導で、近くの酒場で魚料理を食べるのに、彼は、「お先に」と言って、帰ってしまった。 私も、飲む気分ではないので、女4人で、そのまま、帰途についた。 他の連中は、きっと、魚料理を愉しんだことだろう。 その後、最近まで、私は暴言の主とは、顔を合わす機会がなかった。 避けていたわけでなく、偶然のことである。 趣味の会ではあるが、グループがいつも一緒というわけではない。 ただ、ほかの人から「彼、大分反省して、気にしてるよ」という話は聞いていた。 しかし、第三者から聞いても、本人が直接私に何も言ってこない以上、そのままの状態は続いた。 10月終わり、顔を合わせる機会があった。 向こうから近づいてきて、あのときは、自分はそんなつもりで言ったのではない、あなたが誤解したのだ、と言うようなことを、しきりに説明する。 ゴメンね、とは言ったが、本当に謝っているのでないことは、自分を正当化しようとする言い訳めいた言葉でわかる。 第一、悪いと思っていたら、もっと前に何とか言ってくるはずである。 周りの人から、いろいろ云われて、しぶしぶ来たのである。 顔を合わせる機会は、時々あるし、周りの人も、どういう態度をとっていいかわからないし、とかナントか、彼なりに考えたのだろう。 私が受けた傷の深さを、認識していない。 そんなことくらいで怒る方が悪いとでも、言いたげであった。 18,9の小娘じゃあるまいし、大の男から、満座の中で言われたことである。 簡単に片づけないでほしい。 「みんなの前で、私を侮辱しました。それは、ほかの人も聞いていることです。私の人格に関わることだから、誤魔化さないでください。当分、お付き合いしたくありません」と私は言った。 「そう、じゃ、仕方がないね」と言って、彼は離れていった。 人をバカにして、今頃何よ、と私の胸には、新たな怒りがこみ上げてきた。 それから、2週間ほどして、いつも飲んだりしゃべったりしている仲間の女性二人が、その件について、私を責めるようなことを言った。 男が謝るというのは、余程のことだから、それを許さないのは、狭量だというのである。 その場にいたわけではなく、相手側からの聞きかじりで、私を一方的に責めるのである。 友達甲斐がないこと、甚だしい。 「私はひどい暴言にあったのよ。私の口から直接聞いてないのに、どうして、そんなこと言えるの」と言い返すと、二人とも黙ってしまった。 彼女たちが、私を思って言っているのではなく、暴言主の側に立っていることはわかる。 どっちに味方した方が得かという、計算も働いている。 「これは、私の気持ちの問題だから、余計なお節介しないで」と言った。 当事者にしかわからない感情を、他人が修復できると思うのは、傲慢であり、逆効果である。 女の敵は女だと、つくづく思うのは、こう言うときである。 亭主に、この一件を話して、意見を聞いてみた。 「あなたは、私が狭量だと思う?男が謝ったら、女は、理由はともあれ、赦さなきゃ、いけないの?」 亭主は、私にとって、世間の目である。 また、男の代表でもある。 少なくとも、私にとって、最大の味方である。 まあ、内心は、よそのオトコとケンカして、発散してくれれば、自分へのあたりが柔らかくなると、思っているのかも知れないが・・。 すると亭主は言った。 「残り少ない人生、自分の気持ちを大事にした方がいいよ。人がどう思うかでなく、自分がどう感じたかで決めなさい。無理することはない」と。 それを聞いて、私の気持ちは決まった。 当分、私のほうから、暴言男には、近づかない。 その件について、第三者から興味本位のコメントをされても、絶対反応しない。 返り血を浴びる覚悟もなくて、安易に、人を斬るような人は、私の付き合う相手ではないから、今後、無視する。 こういう仕打ちをした男は、これで二人目である。 いずれも私より少し上の世代、男尊女卑の思想が、根っこにある。 鼻声を出して靡いてくる女には、必要以上にやさしくするくせに、互角に競争相手になりそうな女には、イジの悪いことをするのも、共通している。 自分の非を認めず、相手のせいにする。 そして、いつも必ず、それに同調する女が現れるのである。
きのう、夫と共に、一時間ほど散歩した。 道の両側のはなみづきが、すっかり紅葉して、真っ赤な葉が傾きはじめた西日にひかっている。 やがてそれが、落ち葉となって降りしきる。 道を埋め尽くすのも、間近いだろう。 アメリカ大統領選挙が終わった。 この手の話題は、どうせ誰もがするだろうから、選挙の経緯だとか、それが日本の将来に関わる影響だとかに関する難しい問題には、コメントしない。 ケリーも善戦したが、結果はブッシュが再選されて、時期アメリカ大統領は、ブッシュで行くことになった。 アメリカという国は、いったん決まったら、過去に遡ってごちゃごちゃ言わず、次のことを考えていくところが凄い。 過半数の票というわけでなくとも、ケリーが敗戦を認め、そこで決着が付いたら、もう終わりである。 プロ野球新規参入問題は、楽天に決まって、ケリが付いた。 ライブドアだったらこうだとか、楽天は、こんな問題があるとか、もうそんなことをいつまでも言わずに、応援したらいい。 知事は、最初ライブドアが名乗りを上げたとき、いち早く、歓迎の意を表しながら、あとから参入を表明した楽天にも、受け入れる態度を示して、結果的には、ライブドアに、ちょっと不義理をすることになった。 ライブドアでは、機構側の賛意が得られないと見たのだろうが、仙台市民が多くライブドアを支持していたのだから、それを汲んで、初志を貫いたら、よかったのかも知れない。 たとえ失敗に終わっても、人間として信頼を得たであろう。 二兎を追い、一兎は得たものの、ちょっとミソを付けてしまった。 ライブドアは、この件で破れはしたものの、インターネット業界でしか知られていなかったライブドアという名前を売り込むことになったし、赤字経営を背負い込まなくて済んだし、同情も加わって、もう一度チャレンジするときは、支持者も増えるだろうから、それ程悪い結果ではなかった。 本当のところ、楽天の方がこれから大変である。 もう、決まったことである。 これからは、ライブドアを支持していた人たちも、気持ちを切り替えて、東北楽天チームを応援したらいい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ イラクでテロリストに殺害された香田さんの遺体が、昨日、家族の元に帰ってきた。 物言わぬ息子を出迎えた両親の憔悴しきった姿に、胸が詰まる。 「ご迷惑掛けました」「感謝しています」などというメッセージを、出さねばならなかった家族の気持ち。 あなた方は、そんなに立派でなくていいのです。 何も悪いことはしていません。 人に迷惑を掛けながら、人間は生きていくのですから。 かけがえのない命を失った息子さんの死を、充分、悼んでください。 誰に、遠慮も要りません。 私たちは、彼を見殺しにした。 どう正当化しても、それは、紛れもない事実。 人の死をなぶりものにしてはいけない。 これ以後、犠牲者が出ないことを、祈るのみである。 曾我ひとみさんの夫、ジェンキンスさんは、司法取引を含め、一ヶ月の禁固刑と、不名誉除隊という判決が出た。 24歳で、軍隊を脱走(とされている)してから、40年近くに及ぶ歳月の、ひとつの終焉を見た。 ひとみさんの、妻としての証言もよかったかも知れない。 よくわからないが、まあ、妥当な判決であろうか。 アメリカ国内での裁判だったら、あるいは、もっと厳しい結果になったかも知れない。 これから日本で暮らす分には、それ程影響のある判決ではなさそうである。 ここにも、ひとつの複雑な背景を持った、家族の姿がある。 アメリカにいる母親、親族にも、早く会わせてあげたい。
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