一日ほんの数分であろうが、日が長くなっているような気がする。 大寒に近づき、さすがに、朝晩は寒いが、日中は、晴れていれば暖かい。 今朝、朝食のあとで、庭にメジロのつがいが来ているのを見つけた。 今、家の周りは、暮れからの道路工事で、大きな音がするので、鳥の鳴き声は聞こえないが、枝から枝にメジロが飛び渡っている。 2階にある夫の書斎に内線を掛ける。 「珍しくメジロが来てるわ」というと、「アレ、いつも来てるよ」という。 私が気づかずにいたらしい。 夫は、デジカメで、始終庭を観察して、芽吹きや生き物の様子を見る習慣になっている。 「アラ、言ってくれればよかったのに」というと、「気が付いてると思ったんだ」という。 今までは毎年、冬近くになると、庭の真ん中に、餌台をしつらえ、野鳥のために食べ物を置いていたが、鳥インフルエンザが話題になってからは、それを止めている。 家には、さまざまな野鳥が来るので、万一、近くに発症例が出たとき、家の野鳥たちが、犯人にされてはかわいそうだからである。 餌台を置かなくなったせいか、庭から鳥の声が消えた。 木々の芽吹きが始まり、虫が付くようになると、自然の恵みをもとめる鳥たちが、帰ってくるが、真冬は、えさが不足するのである。 私は、鳥に限らず、人が飼っている生き物は嫌いだが、自然の生き物や、野鳥は好きである。 鳥の、生きる力をそこなわないように、えさをやるのは、冬に限っている。 しかし、昨年から止めてしまったので、野鳥たちは、他の場所に移ったのであろう。 正月に息子夫婦が来たとき、息子の妻が「鳥が来ないんですね」と言った。 生き物は嫌いだという彼女だが、野鳥のことは、覚えているらしい。 わけを話すと「そうですか。いつもここへ来ると、鳥の鳴き声がするんで、どうしたのかと思いました」と言った。 今まで、鳥の話なんか、出したこともなく、無関心でいると思った息子の妻が、そんなことを心に留めていたのかと、意外であり、嬉しかった。 先日、暮れに買った蜜柑を、一袋、忘れたまま、腐らしてしまった。 鳥にやるには、充分なので、庭のあちこちに、置いておいた。 多分、それを食べに、メジロが来たのであろう。 メジロは、甘い物が好きなのである。 庭の紅梅が蕾を付けるのも、間近。 その頃には、野鳥たちが、花の蜜を吸いに帰ってくる。 昨日は、夕方から風が吹いて寒かった。 都心の某大学の神学講座に行く。 昨年4月から行き始めた夜間の神学講座。 「パウロ書簡」「マタイ福音書」「マルコ福音書」と、3つの講座を受講し、今4つ目の「諸宗教の神学」を受講中。 あと3回で終わる。 この神学講座を、週3回2科目ずつ受ければ、3年で、神学の全体が学べるようなカリキュラムが出来ているが、私には週に一度行くのがやっと。 多分10年掛かるであろう。 西洋の文学、美術、音楽に触れていくと、どうしても、聖書を理解したい気持ちになり、思い立った。 受講する人は、ベールを被った神学校の女性たちや、宗教科の教員免許状を採るための単位受講者のほか、私と同じく、キリスト教徒以外の人たちも多い。 数えたことはないが、大きな教室に、70人くらいはいそうである。 今まで無縁に過ぎてきた分野。 とても刺激的で面白い。 夕方5時半からの授業が終わるのは7時。 寄り道せずに帰ると、8時近く。 夕べは、夫が、鍋を作ってあった。 この頃覚えて、気に入っている「常夜鍋」。 豚の薄切りと、ほうれん草を鍋にして、大根おろしとポン酢で食べる。 冷えた体に、とても美味しかった。
暮れからバタバタしているウチに、もう今月も10日経ってしまった。 この三連休の一日は、義弟の家に集まった。 昨年11月に、義弟の娘が結婚し、新しく親戚となった姪の連れ合いを交えて、ゆっくり団欒した。 私たち夫婦と息子夫婦、義弟夫婦と、その息子夫婦、娘夫婦と、全部で10人。 まだ孫はいないので、おとなだけの集まりである。 数年前までは、正月は、いつも私のところで集まる習慣だったが、昨年あたりから、義弟の方に移っている。 こうして集まるのも、年に一度がやっと。 働き盛りの息子の世代は、忙しく、親との付き合いは、こんな形でしかないが、それでいいと思っている。 30,40になってからも、親子の付き合いを最優先するようでは、仕方がない。 親子の縁は、黙っていても、切れるわけではないのだから。 集まれば、世代を超えて、いろいろな話題に花が咲く。 愉しい一日となった。 寒に入ったからか、やはり寒い。 今朝は、さすがの私も、暖房をフル回転させた。 1時間くらいで、暖まるので、朝食が済むと切る。 庭に猫が入ってきたので、落とし物をされないうちにと、追い払ったが、思わぬランニングをしてしまった。 昨日は成人式だったが、今年はあまり混乱はなかったようだ。 式典で、祝辞など、聞かずに騒いだり、式の間中、携帯電話で、遣り取りしたり、行儀の悪いのは多少あったらしいが、警察沙汰にまではならなかったらしい。 今の若い人は、なんて言うつもりはないが、一定時間ジッとしていることさえも、我慢できないようでは、おとなとは言えない。 寿命が延びて、トシヨリがいつまでも、頑張っているから、若い人の出番が無くなり、いつまでも、子どもでいられるようになってしまったことも、悪いんだろうけどね。 もっと、役割を与えたらいいのだ。 私は息子が15歳の時、近所の葬式に、親の代わりに参列させた。 ちょうど、私たち夫婦が、はずせない予定があったためだが、息子は、香典を持って、斎場に赴き、近所の人たちのやり方を見て、無事にこなしたらしい。 15歳というのは、昔で言えば元服の年。 親の代わりを果たせる年である。 ましてや20歳ともなれば、親がいなくたって、一人で生きていけるはずである。 大学まで行かせてもらっているのに、いつまでも子どもではしょうがないではないか。 パラサイトで、居心地がよすぎるから、成人式での、実の処し方もわからない。 あの世代の親たちは、一体、家でどんな教育をしているのだろうか。 私の周囲の、少し上の世代は、もう成人を迎える孫がいたりするが、孫達にとっては、祖父母というのは、金蔓でしかないような話を聞く。 そんなことで、目尻を下げているおとなも悪いのである。 だからって、トシヨリは早く死ねなんて言わせない。 今の便利な時代が、当たり前のように与えられていると、思わないでほしい。 つい半世紀前の日本は、こんなじゃなかったんだから。 古いものから学ぼうとしない態度は、どこかでしっぺ返しされる。
このところ、天気の良い日が続く。 割合に暖かい。 暖房は、日中はほとんど要らない。 我が家は、暖房機という物を置かず、天井と床から温風で暖めるやり方なので、安全性は抜群だが、じかに当たるガスストーブのような暖かさにはちょっと欠ける。 厳寒の時は、フルに稼働させないと効かないので、寒い冬は、暖房費が月に3万円くらいになることもある。 私は寒さ、暑さも自然の生業だと思っているので、冬でも、暖房をケチる方だが、長くビジネスマンをしてきた夫は、すぐに機械に頼る。 せっかく暖房が付いてるのに、使わない方が勿体ないという。 正月に来た息子達は、もっとひ弱である。 「ここへ来ると風邪を引くんだよね「などと言って、寝るときも、暖房を点けっぱなしである。 昔は、炬燵にくるまって、寒さを凌いだものだなどと言っても、始まらないので、文句は言わないが、彼らが老人になる頃は、平均寿命は確実に短くなっているだろう。 瞬発的な体力は、彼らのほうがあるかも知れないが、持久力は、私の世代のほうが強いのではあるまいか。 でも、確かに、自分のいるところが、ホワッと、柔らかな暖かさに包まれていると、幸せな気持ちになるし、人にも優しくなれる。 ちなみに、私の書斎は、冷暖房は付いていない。 昨日も今日も、冬晴れ。 昨日は久しぶりに図書館に行き、数冊の本を借りた。 日本では、こんなに暖かく、平和な風景にいるが、インド洋津波の被害は、予想を超えた大きさで、死者の数は、10万を超える。 悲惨な状況を、メディアを通してしか、知ることは出来ないが、心が痛む。 両親と弟を失って、一人生き残った少年の涙はいたましい。 そんな例が、数え切れないほどあるらしい。 わずかな金額を寄付するくらいしかできないが、被災した人たちが、心と体に受けた傷が、早く癒されるように、願っている。
年賀状というのは、昔から、1月1日に着くように出すのが、一般的だったのだろうか。 郵便局に行くと、もう12月中旬から年賀状用の箱が据え付けてあり、まとめて投函できるようになっている。 夫は、何でも早くやる方なので、12月になると、年賀状の用意に取りかかる。 デザインを考え始め、いくつかのひな形を自分で作り、文面を考え、24,5日頃には、いつでも投函できる態勢になる。 しかし最近は、周辺に、年末に亡くなる人があったり、不祝儀の報を聞くことも、少なくないので、あまり早く投函しないようにしているが、それでも、28日までには、送ってしまうらしい。 そうすれば、元旦初日に確実に配達されるようである。 私は、何でも人より遅いので、28日までに年賀状を投函できるなんてことは滅多にない。 大晦日の夕方になったり、年が明けてから、受け取った年賀状を見て、その相手に出すという事態になることが多い。 暮れは気分が慌ただしく、「おめでとうございます」なんて、書く気にならないというのは言い訳で、要するに、手順が悪いのである。 正月に受け取る人の気持ちになって出すのが、年賀状の趣旨なのであろう。 年が明けて、やっと、そういう気分になって出した年賀状は、早くても1月4日、場合によっては7日、8日になってやっと相手方の郵便受けにはいる。 タイミングを外して届いた年賀状は、気の抜けたビールみたいで、あまり嬉しくないかも知れない。 それを承知していながら、今回も私は、年内には賀状を出せず、夕べ夜中まで掛かって、年賀状を仕上げた。 おせち料理を食べ、家族で正月を祝い、息子夫婦が引き払ったあとの作業である。 昨年の年賀状の写真を取り替え、文面も新しくし、一枚一枚手書きで宛先を書き、今日、出先のポストに投函した。
家族で祝う静かな正月です。 大晦日は結構な雪でしたが、息子夫婦は、予定通り、夕方やって来ました。 「雪で滑ると危ないから、無理しないで」と、息子に電話を掛けておきましたが、幸い夕方には道路の雪も、ほとんど解けて、運転に支障はなかったようです。 彼らが到着したので、おせちの味見を兼ねて、一緒に夕食を取りました。 息子の妻は料理が得意です。 いつも、おせち料理を車にいっぱい積んで、持ってきます。 30日の午前中まで仕事があったというのに、会社の帰りに、買い物をし、沢山の料理を拵えて、大晦日に持ってくるのが、習慣になっています。 私がするのは、かまぼこ、伊達巻き、酢締めの魚など、出来合を買ってくるだけ。 きんとんだけは、作ることになっているので、栗の甘露煮と、大きな金時芋を買いました。 みんなで紅白を見ながら、話が弾みました。 寝たのは、夜中の3時近くでした。 ですから、今朝は、10時くらいまで寝坊です。 日が差していて、昨日の雪も、だいぶ溶けています。 年賀状が来ました。 私は、年内に年賀状を出すことが出来ませんでした。 明日、息子夫婦が帰ったら、一枚一枚手書きで、返事を出そうと思います。 重箱に、料理を詰め合わせ、4人で、新年の膳を囲みました。 社会の一線で働いていて、いつも忙しく、滅多に顔も見せない息子夫婦と、人生の秋にいる私たち夫婦。 健康で、つつがなく暮らしていることが、何よりの喜びです。 ひとしきり箸が通い、お雑煮を食べると、もう昼の時間になっていました。 いつもは、みんなでお墓参りに行くのですが、今日は、まだ雪が残っているかも知れないので、取りやめました。 代わりに、居間にある仏壇に、お線香を上げました。 午後から息子夫婦はどこかへ出かけ、夜戻ってきました。 道路はすいていたようです。 こうして、平成17年の最初の一日が終わりました。
都心から郊外に向かう始発駅のプラットフォームは、やや込んでいた。 私は3人ずつ並ぶ列の、一番前にいた。 となりは私より年配の婦人。 「込んでますね」と話し掛ける。 席に座れるかどうかを、心配しているのだった。 「まだ通勤客が帰る時間帯だから、座れないかも知れませんね」と私は応え、滑り込んでくる電車の方角に目を向けた。 並んでいる列の少し離れたところに、小学校高学年くらいの男の子が立っていた。 乗るつもりなら、どうしてちゃんと並ばないの、と私たちは思った。 東京の主要駅の、乗客が電車を待つルールというのは、かなり定着していて、ことに朝の通勤時間帯のそれは、見事なものである。 数分おきに到着する電車。 乗る人は列を作って待ち、1台発車すると、次の列がさっと隣に移動して、電車を待つ。 私はたまたま、この時間に乗り合わせて、そのルールを知らず、面食らったことがある。 最初は、駅が主導して、はじめたことなのだろうが、やがて、誰も何も言わなくても、その時間帯は、乗客が、自然にそのやり方で、整然と電車に乗り込み、発車する。 一台逃しても、直ぐ次が来ることがわかっているし、先を争って乗るよりも、この方が、早く、なめらかに行くことを、みなが知っているからだろう。 日本人の知恵。 世界に誇りたいくらいだ。 ただし、通勤時間帯とその乗客に限った話で、それ以外の場合は、時に、暗黙のルールを破る人も、少なくない。 さて、電車がフォームに滑り込んで、列がドアに向かって近づいたとき、最前列に並んでいた私たちのそばから、いきなり前に割り込んできた人間がいた。 離れて立っていた少年だった。 私ととなりの老婦人は、顔を見合わせた。 「ずるいわね」と二人とも思った。 並ばないで、割り込むつもりねと、暗黙のうちに、共同戦線を張り、黙って、その少年の行く手を阻むように、前に出て、開いたドアから乗り込んだ。 幸い、二人とも坐ることが出来た。 少年は、私たちに、先を邪魔されたために、一瞬遅く乗り込んだので、もう席はなくなっていた。 私と老婦人は、顔を見合わせて微笑んだ。 「坐れてよかったですね」という気持ち。 それから言葉には出さないが、列に並ばずに、横から割り込んだルール破りの少年を、阻んだという、共通の意識もあった。 老婦人は、ホッとしたように、目を閉じ、やがて、電車は走り出した。 しかし、私は見てしまったのである。 あの少年はどうしただろうと、そちらへ目を向けると、彼は、離れたブロックのドアの付近に立っていた、母親らしい女性に近づき、「ゴメンね」という仕種をした。 そして、その母親は、お腹が大きかったのである。 彼があんな風に、我先に電車に乗り込もうとしたのには、わけがあった。 身重の母親のために、席を確保しようとしたのだ。 母親は、彼に向かって「いいのよ」という風に、やさしく微笑んだ。 老婦人は、そんなことに気づかない。 そうだったのか。 直ぐに席を譲ってあげたかったが、それと知らず、少年の行動を阻んでしまった私は、直ぐに立てなかった。 わかっていたら、並んでいるときに、少年に言い含めて、自分が席を確保した上で、譲ってあげたのに。 かわいそうなことをしたという気持ちが、私の心をいっぱいにした。 人が理解できない行動を取るときは、何か理由がある。 そのことに、思い至らなかった自分を責めた。 身重な母親を庇って、周りの白い目に堪えながら、ルール破りをして、電車に乗り込んだ少年。 いけないことだということは、わかっている。 でも、彼には、身重の母親を気遣う気持ちの方が大事だった。 やがて、譲る人があって、母親は次の駅に電車が着く前に、坐ることが出来た。 少年は、その前に立ち、ホッとした表情をした。 やがて生まれてくる弟か妹。 少年は、いいお兄ちゃんになるだろう。 母親が何か話し掛け、それに笑顔で応えている少年の横顔をそれとなく見ているうちに、しばらく忘れていた大事な物を、見つけた思いがした。
今月23日の公演を控えて、合唱の練習も、4日のオーケストラとの合わせで、一応終わり、あとは、19日のゲネプロ、23日の本番を残すこととなった。 今年2月に、キックオフミーティングしてから、参加者が月に一度都心に集まって練習、秋からは現役学生との合同練習も加わり、回数も月に2回、3回になって、どうやら本公演まで来た。 学生時代の合唱団が、昨年創立50年を迎え、その記念に、OB、OGとの合同演奏の話が持ち上がった。 準備もあるので、実行は1年遅れの今年、51回目の定期演奏会に、それが果たされることになり、演奏会最後のプログラムに、若い現役生に混じって、OBたちが歌うわけである。 演目はモーツァルトのハ短調ミサ。 振るのは、私より12年若いOBの、モーツァルト専門家。 国立大学教授でもある。 彼は、学生時代、合唱団の指揮者を経験したことがこうじて、いったん文学部の美学芸術学科を卒業してから、あらためて芸大の大学院に進み、音楽研究家の道に進んだ人。 モーツァルト研究を専門として、著書も沢山ある。 その人の指揮で、今回のステージが実現されることになった。 通り一遍でないモーツァルトの話を聞きながらの、練習は、なかなか充実していた。 中高年の多いOB、OGだから、昔のような声は出ないし、健康状態や家族の事情で、途中でギブアップした人もいるが、それでも、100人近く残り、現役生と合わせ200人がステージに上がる。 どんな演奏になるやら、楽しみであり、不安でもある。 「OBと現役が、なるべく混ざって、並んでください」という指示が出ていたが、実際には、最前列に場所を占めた私たちソプラノOGの間に、若いスマートな現役生が、体を縮めるように入っていて、何だか気の毒だった。 男声は紺のスーツに赤いネクタイ、女性は白いブラウスに黒のロングスカート。 現役生は、入部すると直ぐ、衣装をあつらえるそうである。 貧乏な学生時代を送った私たちは、演奏会でも、男声は詰め襟の学生服、女声は、白いブラウスと黒のスカートだったが、ロングではないし、形も様々だった。 男声の詰め襟が、ジャケットに替わった頃から、世の中が、だんだん豊かになってきたのかも知れない。 今回の公演が済むと、来年は秋に、ウイーンに演奏旅行に行く計画が、今の指揮者の元で進められている。 聖堂の中で、モーツァルトのレクイエムを歌う。 年明けに、練習開始となる。 しばらくヨーロッパにも行っていないので、いい機会である。 観光を兼ねて、参加することにした。
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