沢の螢

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梅一輪
2005年02月08日(火)

夕べ寝るのが遅かったので、今朝はだいぶ寝坊してしまった。
先に起きた夫が「梅が咲いたよ」という。
柔らかな雨が降っていて、音もしないので、気づかずにいたが、しっとりと濡れた庭の真ん中にある紅梅が、一輪だけほころびているという。
「だから暖かいんだね」と夫が言う。
ずっと空気が乾いていて、寒さが続いているが、ホンのお湿りくらいの雨でも、空気が和んでいるようだ。
うちの紅梅の木は、かなり大きくなっていて、この10年ばかりは、実の方が大きくなっていて、その分花が小さくなっているような気がする。
庭師が毎年、詰めてくれたりするが、難しいようである。
実はならなくていいから、花が賑やかであってほしいのだが、以前は、空が見えないくらい花が咲いた。
どういう加減かわからない。
ともかく、梅が咲くと、春の来たのを感じる。
立春が過ぎたのだから、歳時記も初春になっているが、今朝は、梅一輪のお陰で、心が暖かくなった。

いつもサークルで一緒に遊んでいる人が、くも膜下出血を起こして、昨日手術した。
つい10日前に元気な姿を見たばかりである。
手術の結果は訊いていないが、早く元気になってほしい。


変異型ヤコブ病
2005年02月04日(金)

日本で初の、上記患者と思われるケースが発症したというニュースである。
新聞社系のネットニュースにもほとんど出ているが、病気の詳細については、厚生労働省のサイトの「このページ」に詳しい。
50代の男性と見られるその人は、すでに死亡しているが、1989年に1年未満、英国に滞在したという。
私が、夫共々英国に住んでいたのは、1987年から1989年にかけての2年間。
時期が重なっている。
この関連の病気が取り上げられるようになったときから、時々我が家の話題に上るが、
今回の変異型は、日本人だというので、ちょっとしたパニックになっている。
厚生労働省によると、2004年6月現在、変異型ヤコブ病の患者は、世界で157人報告されており、
このうち英国が147人を占めている。
英国以外にはフランスやアイルランド、イタリア、米国、カナダで発症例があり、フランスとイタリアの6人を除き、
英国滞在歴があるという。
英国人患者が圧倒的に多いのは、原因になった肉牛が、英国産だからである。
私たちは、在住中に、牛肉もずいぶん食べたが、その中に汚染された牛が混じっていたかどうかはわからないし、
食べたとすれば、当時英国に滞在していたすべての人と同じく、発病する可能性があるが、100万人に1人という確率だから、
余程の運の悪さと言うことになる。
件の人は、その肉を食べてから12年後に発病、3年後に死亡した。
「私たちもそろそろ危ないね」といいながらも、「でも、もうトシだから、そうなったら潔くあきらめて、
残りの人生を清く正しく生きようね」と話している。
食べ物に絡んだ話は、表に出るのが遅い。
英国在住中、いわゆる狂牛病が話題になり、現地のテレビでも、取り上げられてはいたらしいが、私の記憶には、あまりない。
牛の病気と人との関係を、それ程危機感を持ってみていなかったのかも知れないし、なんと言っても、情報不足だったのだろう。
むしろ覚えているのは、当時、サルモネラ菌に汚染された卵のことが、イギリスで話題になり、ナマでは食べないようにと言うキャンペーンがあったことである。
スーパーに行っても、プリンや、カスタードクリームの入ったケーキを、避けたりした記憶がある。
熱い御飯に生卵を掛け、醤油を垂らして食べるおいしさは、我が家の朝食メニューの定番だったが、それ以後、ナマで食べる習慣が無くなった。
鶏インフルエンザが話題になってからは、日本でもナマでは食べない。
帰国して15年経った。
これから、そのヤコブ病を発症する可能性があるのかどうかわからないが、もう一度、英国で暮らしてみたい。
変化の激しい日本と違い、多分、街の風景は、余り変わってはいないのではないだろうか。


インフルエンザ
2005年01月30日(日)

昨日外出の折り、電車の隣の席に坐った若い男が、ひどく咳をしていた。
明らかに風邪の咳なので、次の駅に着く前に、降りる振りをして席を立ち、次の車両に移った。
座れなかったが、風邪をもらうよりはいい。
帰宅後は、うがいをし、手を洗い、ついでに耳の穴も、拭っておく。
水分が不足すると、風邪を引きやすくなるので、気を付けている。
外でお酒を呑んで、体が火照り、そのまま冷たい空気に当たるのが一番いけないらしいので、飲んだときは速やかに帰宅する。
今年になってからまだ風邪を引いていないが、油断は出来ない。
昔、ある声楽家の奥さんが、イタリア留学中の夫に付いて、彼の地で暮らしたとき、一番気を使ったのは、夫に風邪を引かせないようにすることだったと言う。
声楽家にとって、声が命だから、言うまでもないが、食事や睡眠はもとより、自分が外出先で風邪を引かないことにも、神経を使ったらしい。
ウイルスを持って帰れば、夫にも移るからである。
そこで、電車に乗ったときは、席に座らず、ドアのそばに立つことにしていたそうだ。
電車が停まるたびに、ドアが開き、自然に換気するので、電車内のよどんだ空気から、幾らか解放されるからと言うのである。
なるほどと思った。
それから私も、そのように実行している。
すいているときは、やはり坐りたいが、混んでいるときは、ドアの傍に張り付く。
日本の場合、ドアが開くと、ドドドッと人が乗り込んでくるので、換気の効果がどのくらいあるかわからないが、少なくとも、車内中央で、人と人の間に挟まれて、咳やクシャミを浴びるよりは、マシだと思う。
昨日は、集まりがあって、出かけたが、いつも来る人が欠席だった。
さんざんサカナにして愉しんだが、今朝電話があり、風邪で熱を出していたらしい。
「8度の熱でねえ」と言っている。
声は割合元気だが、心細そうだった。
愉しい集まりが続いて、せっせと出ているうちに、とうとう引き込んだらしい。
「しばらくのんびりして、お大事に」と電話を切った。
このところ、自然災害や、大きな事件が続いて、風邪のことは、あまり話題にならないが、インフルエンザは、じわじわと広がっているようである。
今が一番寒いとき。
気を付けねば・・。


ロミオとジュリエット
2005年01月25日(火)

シェイクスピアの表題の悲劇は、あまりにも有名な話で、あらためて、ストーリイを綴る必要もない。
仮死状態になったジュリエットの姿を見て、悲観したロミオが、毒を仰いで死ぬ。
そのあとに目覚めたジュリエットは、後を追うように、死を選ぶ。
もうすこし早くジュリエットが目覚めていたら・・と思う。
あるいは、ロミオが、毒を仰ぐのが、もうすこし遅かったら、と思う。
ところが、まさにこの話とそっくりの出来事がイタリアのパドゥヴァで起きた。
ロミオとジュリエットと違うのは、老年期の夫婦だったこと。
67歳の妻が突然倒れ、昏睡状態になった。
70歳の夫は、妻に付き添い、懸命の看病を続けた。
しかし4ヶ月経っても、妻の意識は、戻る様子はない。
呼びかけにも応えない妻の状態を見て、悲しみのあまり絶望した夫は、ガス自殺を遂げた。
ところが、なんと、その12時間後に、妻の意識が回復した。
傍にいるはずの夫の姿を探したが、すでに、死んだあとだった。
妻の意識快復が、もう半日早かったら、夫婦は、元の幸せな日常を取り戻せたであろうに。
今日のテレビで報じた実話である。
4ヶ月経って、意識が戻るというのは、滅多にあることではなく、ほとんど奇跡と言えることだそうである。
イタリアのその地は、ロミオとジュリエットの悲劇の舞台ヴェローナと、60キロくらいしか離れていない町。
偶然と言っても、似すぎた悲劇。
残された妻の心を思って、涙が出てしまった。
つらい話である。
神様は、時々、こんな残酷なことをなさる。


モーツァルトのレクイエム
2005年01月23日(日)

ウイーンの聖堂で、モーツァルトのレクイエムを歌うというプロジェクトに参加することになった。
実現は11月はじめだが、今日から練習が始まる。
今日の練習会場は、横浜のさる小ホール。
朝9時半集合なので、1時間半前に家を出た。
東横線の最寄り駅から、坂道を7分ほど歩き、10分前に会場に着いた。
まだつぼみはないが、梅林のある会館である。
エントリーした参加希望者は110人ほどいるらしい。
初日とあって、休む人もほとんど無く、100人近くが、出席し、椅子が足りないくらいであった。
厳寒の日であるが、熱気溢れる会場で、まず事務方の人たちの連絡事項、ウイーンに参加者を連れて行く旅行社の人の説明があり、休憩を挟んで、練習が始まった。
参加者の平均年齢は若くないが、なかなかよくハモっている。
指揮者は、昨年の暮れ、ハ短調ミサを振ったモーツァルト専門家。
今年は、ウイーンでの演奏ということで、力が入っているのがわかる。
言葉の解釈、ウイーン式ラテン語の発音も含め、丁寧な練習の仕方である。
私は学生時代に一度、40代に入ってから地域の合唱公演で一度、レクイエムを歌っている。
今回は3回目になる。
前2回はアルトで歌ったが、今回はソプラノでエントリーした。
ハ短調ミサも、ソプラノで歌った。
今日は、事務的な打ち合わせで多くの時間が取られたので、曲の練習は、1時間ほどだったが、まずは順調な滑り出し。
今後、11月の本番まで、月に3回の練習が予定されている。
少々きついが、滅多にない機会なので、嬉しい。
終わってから、何人かで食事をし、帰宅。
さすがに疲れた。
今年は、この合唱公演を中心に過ぎていきそうである。


大寒
2005年01月21日(金)

昨日は大寒だった。
夕方から出かけたが、それ程の寒さではない。
今日も、風はなく、よく晴れている。
今年は花粉が、例年の20倍とか、30倍とかいわれている。
夏が暑かった翌年は、花粉の量が多いとのこと。
花粉症の人には、つらい季節がやってくる。
花粉症になる人は、もともと日本の島にいた大和民族だという説があるが、本当だろうか。
杉は外来種なので、そのDNAの人が、アレルギー反応をおこすというのだが・・。
花粉症にならない私は、渡来人の子孫かも知れない。
ともあれ、花粉症の家人のためには、その時期、洗濯物も、布団も、外には干さないようにしなければならない。
今日は、まだ大丈夫だというので、外に洗濯物を干した。
風が出てきたら、いち早く取り込むようにしている。
朝起きたとき、1時間ほど窓を開けて、空気を入れ換え、あとは閉めておく。
外出から帰ったときは、うちに入る前に、服や持ち物をよくはたいてから入る。
もうじき、そんな季節がやってくる。
2月はじめから4月終わりくらいまで。
その時期、外国のどこかに行っていればいいのだろうが、簡単ではない。
数年前、家人は、花粉から逃れたいと行って、半月ほど、インドに旅行した。
花粉だけが理由ではなく、インドにはまだ行ったことがなかったので、ひとつの夢だったのである。
しっかりしたツァーに入っての一人旅は、なかなかよかったらしい。
帰ってきた頃には、日本の花粉も収まっていた。
私にとって、怪我の功名だったのは、「じゃ、私も一人でどこかに行くからね」という約束を取り付け、その夏、シベリア横断の旅に行けたことである。
だが、今の世界情勢では、何処に行くのも、危険と隣り合わせ。
それは前からあったに違いないが、予測できないことが、増えたということと、日本人がお金以外の目的で、ターゲットにされる事態になってきたと言うことでもあろう。
いやはや・・。


昭和80年
2005年01月19日(水)

今年は昭和で数えると、80年である。
戦後60年たち、その頃子どもだった世代が、かろうじて覚えている戦争の記憶。
あと10年もすれば、戦争の記憶は、完全に日本人の脳裏から消えてしまう。
人はあまりつらい、悲しい体験をすると、それを忘れたいという気持ちが強く、意識的に避けようとする。
私の一世代上の人たち、あるいは、実際に戦地に行った人たちが、長く沈黙してきたのは、そのようなことだったかも知れない。
戦争体験をを語り継ぐと言うことは、次の世代が同じ愚かな過ちを繰り返さないための、最も大事なことだと信じているが、一方で、最近、私は、それがどのくらい、役に立つのかと言うことに、いささか、疑問を抱いている。
文明は進歩するが、文化は、むしろ、衰退しているのではあるまいか。
遠い異国で起こっていることが、茶の間のテレビで、リアルに伝えられる反面、それとテレビゲームとの違いが、わからなくなっている人たちが、確実に増えているのだから。
些細なことで、人の命を奪うという事件が、多すぎる。
そして、それが自分に繋がる人間のしていることだという自覚がない。
インターネットで垣間見る、人を傷付けて、それを快楽にしているとしか思えないような人たちの遣り取りを見ると、人間は元もと、残酷で、攻撃的な生き物だと思いたくなる。
アフリカに住む野生の動物たちは、自然の摂理に従って生きており、たとえばライオンは、自分より弱い生き物を捕らえて、食料にする。
生きるための本能である。
しかし、其処には、神の摂理が働いていて、決して、自分の胃袋を満たすため以上の殺戮はしない。
縞馬や鹿などが、たまに餌食になっても、群れ全体が大量に殺されると言うことはない。
そしてそれらの生き物も、生きるための手段として、別の生物の命を貰っているのである。
多分、人類誕生の初期の人間も、同じ摂理で、生きていたのであろう。
だが、現代を生きる人間は、そんな単純な構図ではないようである。
大国が小国を支配するという図式も、ギリシャローマの昔から変わらないが、そのやり方が、だんだん巧妙になっている。
大義名分のベールを被せて、小国の平和を守るという形で、乗り込んでいき、ちっとも、その国の人達から、歓迎されていないのに、自分流のやり方を押しつけて、うまく行くと思っている。
命令で現地に行き、命の危険をさらしながら、それが、その国のためになっていないとしたら、若い人たちの気持ちは、すさんで来るではないか。
25年前、私は日本在住の外国人に日本語を教えるという仕事をしていた。
最初の生徒は、アメリカ人の若い人で、日本の大学に留学していた。
彼は、ベトナム戦争の末期に従軍したことがあり、その時、立ち寄った日本に興味を持ち、仕事を辞めて、来日した人だった。
彼が言ったことで、印象深かったのは、「アメリカは、戦争に勝つことは出来ても、その国の人たちの心までは、支配できませんね」という言葉だった。
彼の兄は、同じくベトナム戦に行き、そこで知り合った現地の女性と結婚、子どもが3人いて、ベトナムに暮らしていた。
「私だって、こうして日本に来ています。出来れば日本で就職したい。だからアメリカは、人材を二人失いました。アメリカの負けです」と、半分冗談めかしていった。
国と国が理解し合うというのは、根本的には、人と人とが、お互いを理解しようという努力なのだろう。
「鬼畜米英」などと言って、国民を戦争に駆り立てることが出来たのは、身近に、西洋人など、見たことのない人たちがほとんどだった、当時の日本人だからこそ、為政者にとって、可能だったのである。
今の日本人にとっては、アメリカもヨーロッパも、それ程遠い国ではない。
情報は隠しても、どこからか、入ってくるし、為政者にとっては、遣りにくい時代である。
大国の偽りの正義も、暴かれてしまう。
また、有効な意見も持たずに、ただ反対だけしていればよかった反対勢力も、頭を使わねば、支持されなくなった。
そのなかで、高齢化する昭和の戦争体験者達が、次の世代に、戦争の悲惨さと空しさを、どれだけ伝えていけるか、難しいものを感じる。
しかし、そうしなければ・・。

寒さの一番厳しいこの日、息子は39歳の誕生日を迎えた。
「おめでとう」のメールを送った。



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