昨日今日の暖かさで、今まで咲き渋っていた桜が、ほころびはじめた。 今日から新学期が始まる都心の大学の、夜間講座に行くために、家を出たが、郵便局に行く用事があるので、いつもより1時間早く出た。 窓口が混んでいると、間に合わなくなるからである。 ところが今日はすいていて、すぐに順番が来たので、用事が済んでも、大分時間が余ってしまった。 そこで、バスのルートを遠回りして、駅より一つ前で降りた。 そこから駅までは、大きな公園に面していて、花見時は、格好の場所になる。 駅まで、歩いて10分ほどだが、そこでも、遠回りして、公園の中を歩いていくことにした。 バス通りから、坂を下っていくと、公園の中に入る。 平日だが、子ども連れの人たちや、買い物がてら花見に来た感じの女性達などで、結構人がいる。 公園の中程には大きな池があり、そこには、桜が大きく枝を伸ばして、満開の時は見事な風情だが、今日はまだ、3分咲きと言うところ。 しかし、池を取り巻く桜の木は、全体がピンク色にふくらんで、開花に向けて、準備が整った風情である。 カメラを向けている人もいる。 多分、満開と思われる今週の土日は、花見の客で、立錐の余地もないほど、賑わうことだろう。 飲み物を買い、時々口に含ませながら、半時間ほど散策し、駅に向かった。 電車に乗り、都心の大学に行く。 大通りを渡り、大学正門に向かって歩くと、右手は、桜の土手である。 ここは五分咲き。 土手の上に植わった桜は、その下の鋪道をアーケードのように被って、ここも、満開の時は見事な眺めである。 土手の上の方から賑やかな声が聞こえるのは、学生達が、早めの花見を愉しんでいるのだろう。 夕方五時。 講座開始には30分早いが、学内にはいる。 教室は正門脇の建物の4階である。 ベランダからちょうど見えるところに、先程の土手があり、見下ろすと、土手に若い人たちが沢山集まって、花の宴を張っているのだった。 下から見るとさほどに見えなかった花が、上から見ると結構な咲き方であるのがわかった。 遠目に、私も、ベランダから、花見の相伴をさせて貰い、教室に入った。 暖かい一日だった。
「暑さ寒さも彼岸まで」と言うが、春のお彼岸もとっくに終わったのに、まだ朝晩の寒さがあり、暖房が必要なことがある。 世知辛い話で恐縮だが、我が家は15年前の建て替えの時、東京ガスのTESを採用した。 火災の心配のない、給湯式の温熱暖房に切り替えたので、灯油を買ったり、ガスの消し忘れに神経を使うということがなく、快適に過ごせることになった。 当時すでに高齢者の仲間入りをしていた私の親たちが、冬場のストーブの管理に、結構ストレスを感じていたのを、聞いていたので、私たちも、いずれは老年期にはいるし、家は度々建て替えるわけにいかないから、この際将来を見越してと、最先端のやり方を取り入れたのである。 床暖房と、天井からの冷暖房機とで、ストーブのような瞬間的暖かさはないが、直火が出ないので、安全だし、燃料の補給が要らない。 しかし、一つの問題点は、暖房費がかかることで、それは覚悟の上だったが、実際に使い始めて、そのあまりの高さにビックリした。 1月2月の厳寒期は、ガス代だけで月に何万円にもなる。 これではたまらないので、いろいろ工夫して、少し抑えたが、冬は電気代も高いので、合わせると結構な額になり、寒さが続くと、家計に及ぼす暖房費が、気になるところだ。 私は寒さには耐えられる方だが、長年サラリーマン生活をしてきた夫の方は、オフイスの全館暖房に慣れているので、家の中は、寒いと感じるらしい。 暖房を入れるか入れないかで、時々ケンカになる。 しかし、寒さを我慢して風邪を引いても困るので、夫の書斎は暖房フル回転もやむなし、私のいるところはけちけち使うというやり方で、凌いでいる。 家の近くに最近、園芸の店が出来、鉢花などをきれいに並べている。 私は花を眺めるのは好きだが、自分で土いじりをするのが苦手である。 鉢花を見るとほしくなって、買ってきたりするが、面倒見が良くないので、そのうちに枯れてしまう。 そんな空の鉢が庭にごろごろしている。 その園芸の店の前を通るたびに、鉢植えの花を買ってきて、植えようかと思うが、ためらっていた。 先日、その店の若いおかみさんが、店のコーナーに、小さな花壇を作っているところに通りかかった。 色とりどりのパンジーやビオラを、うまく配置して植えている。 つい話し掛けたくなり、「家も、こんな風にしたいんだけど、土いじりがダメで、、、」というと「アラ、植えてあげますよ」という。 材料を決めてくれれば、サービスで植えますという。 1週間ほど考えて、先週頼みに行った。 とにかく家の鉢の状態を見に、来て貰った。 花を植えたい場所を示し、空いたままの鉢を8個ほど集めた。 「わかりました。任せて下さい」と言って、帰っていった。 そして、おとといの土曜日、店の主人が、車に鉢花の苗を積んでやって来た。 その日の午後、おかみさんが来て、鉢にアレンジして植えてくれた。 昨日も、夕方近くにやってきて、今度は庭の2カ所に、花苗を配してくれた。 土をほぐしたり、肥料を混ぜたり、大分手間が掛かったようである。 全部で80個くらいの花苗を植えたらしい。 「最初の約束だから」と手間賃は請求しなかったが、気持ちだけ加えて支払い、南米で買ってきて残っていた銅製のコースターを、一枚プレゼントした。 大きな木ばかりで、彩りのなかった庭と玄関先が、すっかり綺麗になった。 おまかせで、一切手も口も出さなかったので、若いおかみさんも、この家の女主人は、余程こうしたことがダメらしいと、内心あきれたことだろう。 今日は風が強く、やはり少し寒かった。 花冷えである。 プロ野球のシーズンが始まった。
今日は万愚節、四月バカとも言う。 エイプリルフールといった方が、いいかも知れない。 昨年、贔屓にしているあるサイトが、面白いトリックで、みんなを騙した。 トップページをクリックしたら、「ページが見当たりません」という警告文。 ハテ、削除したのかと思ったが、どうもおかしい。 一見、真っ白なページによく見る警告文ではあるが、どことなく文調が違う。 そのサイトの管理者が、そういうページを作って、その日だけトップに据え、まんまと訪問者を煙に巻いたのだとわかった。 よく読めば、いかにも、ユーモラスに書かれてあって、通常の無味乾燥な警告文ではないから、わかることなのだが、最初はビックリした。 半日ほどして、もとの画面に戻り、掲示板で「ビックリさせてごめんなさい」とあったので、それで一件落着。 質の良いサイトで、訪問者もユーモアを解するレベルの高い人たちだから、シャレで済んだ。 来年は私も、そんなことをしてみたいと、その時は思ったが、私の場合は、ユーモアになりそうにないから、真似するのは止めた。 今の殺伐とした時代、そんなことが、ユーモアにならない可能性もある。 でも、参考のために、あのページのソースをコピーしておけば良かったと悔やまれる。 案外と難しそうで、ちょっと再現できそうにない。 今年も、そのサイトに、何か仕掛けがあるのかと覗いてみたが、二番煎じはやらない考えらしく、いつもの画面のままである。 上官を殴打する夢四月馬鹿 沢木欣一 万愚節は季語にはなっているが、あまり良い句がない。 その中で、光っているのが沢木のこの俳句。 太平洋戦争で、悲惨な軍隊経験のある沢木の心に、深く影を落としたものを読みとることが出来る。 平和日本では、戦争による大量死はないし、兵役もない。 その代わり、人を簡単に裏切ったり、騙したり、身近な人を殺したりする事件が多くなり、人の痛みを自分の痛みとして感じることが、少なくなったような気がする。 こんな時代には、万愚節の出番はないのである。
これは友人が経験したことである。 日本のある地方の、ある投稿サイトで、最近起こった出来事。 たまたま耳にした話なので、この種のことは、他にも沢山あるかも知れない。 仮に、その投稿サイト名を「ハーレム」としておこう。 その管理者が誰かと言うことは、サイトの表紙には、明記してないし、連絡先も書いてないので、よくわからないが、もしかしたら、特定のグループ内の交流サイトなのかも知れない。 しかし、その分野のサイトを集めた別サイトのリンク欄に、昨年末からURLと主催者名が掲載されているので、公開していることになる。 それが「ハーレム」の主宰者兼管理者なのであろう。 友人はそれで、URLを知った。 それは訪問者の投稿を目的としているサイトで、「政治」「経済」「音楽」「健康」「旅行」「文芸」などと、いくつかのカテゴリーに分かれ、それぞれに投稿欄と、閲覧のページがある。 訪問者は、自分の投稿したいカテゴリーのページを開けて、記入欄に書き、送信して投稿が表示される仕組みである。 記入欄には、タイトルと投稿者名を書くようになっているだけで、メールアドレスや記入日時の表示はなく、きわめてシンプルな作りである。 表示された記事が、リアルタイムでないことは、書き込まれた日時が、1,2年前の物だったりすることでわかる。 管理者に、何か考えがあって、リアルタイムで表示することは、敢えて避けているのかも知れない。 私もいくつかの掲示板を持っているが、実生活と、インターネットは別と考え、投稿者がたまたま顔見知りであっても、現実の場では、話題にしないことを原則にしている。 たとえ、実生活で、あまり良い関係でない人が、ネット上の名前で投稿したとしても、サイトの趣旨に合っていれば、それはその時点での投稿者として、公平に対応したい。 それがインターネットというものだと、私は思っている。 もし、特定の人たちだけで、ネットの交流を愉しみたいのなら、パスワード付きの掲示板を使うとか、予め、会員制にして、メールアドレスを届けておくとか、いろいろなやり方がある。 ヤフーには、グループを作って、その中で愉しむ方法も設けている。 公開しながら、参加者を制限するというのは、純然たる訪問者から見ると、感じの悪いものである。 私の場合は、数人で連作を愉しむ掲示板を持っているが、サイトの中にリンクしていて、同好の士は歓迎する姿勢を見せているが、マイナーな分野であるためか、今のところ、常連ばかりになっている。 「ハーレム」の趣旨も、基本は同じだと見ていた。 投稿サイトというのは、読者の投稿で成り立っているので、ネットのルールを守って、投稿してくるものについては、おおらかにしておかないと、閑古鳥が啼くだけになってしまう。 それに、ネットは、管理者と投稿者の間だけでなく、黙ってみている読者の存在が、それ以上に重要である。 書き込む人、それに応える人の遣り取りを見ていて、冷静に判断し、観察している、その何十倍、何百倍ものウオッチャーの存在を忘れてはならない。 読者というのは、火中の栗を拾いはしないが、案外と公平に見ているものである。 顔の見えないインターネットであっても、短い文章の中に、書き手の人格は現れるし、それに対応する管理者の言葉や態度で、その人が、管理者として、どれだけ誠実に、運営に臨んでいるかと言うことも、わかる。 前置きが長くなったが、私が書きたいのは、「ハーレム」に投稿した友人が、良くわからぬ理由で、記事を削除され、管理者から納得のいく説明もないまま、葬られたという、話についての、聞き書きである。
昨日に続き、もう一人の美しい顔を取り上げる。 今度は女性、昭和56年、55歳で亡くなった越路吹雪である。 今日は2・26事件の日。 それにちなんだ番組をやっていないかと、点けたテレビで、偶然、コーちゃんこと越路吹雪の在りし日のすがたを、忍ぶことが出来た。 宝塚の男役から、歌手の道に進み、シャンソン、ミュージカル、日本民謡まで、幅広い歌を歌い、晩年は、民芸の芝居にも出ている。 内藤法美という、またとない伴侶を得て、音楽の域を広めた。 マネージャーを勤めた作詞家の岩谷時子のサポートもあって、大輪の花を咲かせ、大きなステージを、沢山こなした。 更に円熟した舞台を見せてくれるはずだったが、病で倒れた。 今、残っている映像を見ると、本当に素晴らしい。 まず歌い顔が美しい。 クラシックの歌手ではないが、ちゃんと、口がタテに開いている。 そして、歌のドラマの主人公になりきって、豊かな表情を見せる。 ごく自然に歌っているように見えるが、それは、生半可なものではない。 繊細に張りつめた全身の神経の、指の先まで緊張感に包まれているのが、よくわかる。 そして彼女の歌に、寄り添って、同じリズムと呼吸で流れる、内藤法美のピアノの何という素晴らしさ。 「一寸お訊きします」という歌。 はじめて聞いたが、目の奥がじんとしてくるような歌だった。 私は中学生の時、友達のお姉さんに、越路のショーに連れて行って貰ったことがある。 日劇だったと思う。 まだ、本当の歌の良さがわからない年だったので、歌の合間に繰り広げられるレビューの方が、面白かったのだが・・。 後年、彼女のロングリサイタルというものに、一度行ってみたいと思いつつ、果たせなかった。 彼女が逝って数年後、夫の内藤法美が、この世を去った。 二人の間に子どもはいない。 しかし二人が生み出した歌と演奏は、いつまでも残るだろう。
男の人を、美しいなと思うことが、ホンのたまにある。 残念ながら、そう思うことが、だんだん少なくなっていくのは、時代が、あまりに索漠としていて、行き交う人が、 険しく、卑しく、疑い深い顔をして、すれ違うようになったことかも知れない。 それは、男の人が街中で女性を見たときも、同じように感じるのではないだろうか。 「最近の女性は、みな、コワイ顔をしてるね」と、連れ合いが言ったことがある。 今日はテレビで、ほれぼれとするほど、美しい顔をした人を見た。 無言館館主窪島誠一郎氏。 戦没学生の残した絵を集めて、信濃で、「無言館」という美術館を作り、公開している。 今、その展示会が、東京ステーションギャラリーで 開かれているので、NHK昼の番組で、紹介していた。 戦地に赴く直前に描かれ、そのまま帰らぬ人となった若い人たちの残した絵である。 氏はあるとき、それらの作品に触れて感動し、ぜひ一般の人たちに見てほしいと思ったようである。 年月を掛けて、遺族のもとを尋ね歩き、絵を集めた。 戦場に赴く直前、あるいは、その日の朝に掛けて、短い間に描かれたものが大半である。 子どもの頃から育ったふるさとの風景、可愛がってくれた祖母、秘かに恋心を抱いていた女性の姿。 「こういう絵を、反戦や平和の象徴のようにとらえる見方がありますが、この人達は、そんな絵は一枚も描いていません。 みな、死を目前にして、自分が心の中で、一番愛していたものを、心を込めて描いたのです。 それをぜひ、見てほしいのです」と語る窪島氏の表情は、キラキラとして、絵の作者の心を体現しているかのように、 澄み切って美しかった。 魂のこもった、生きた顔の美しさとは、こういうものではないかと、見とれてしまった。 美しいものに触れていると、人は磨かれていくのだろうか。 こうした感じを持ったのは、4半世紀前にもある。 映画監督小栗康平。 「泥の川」という始めての映画を製作し、話題になったとき、やはり、この人がテレビで語るのを見た。 30代半ばの若さだったと思う。 見ていて、美しいな、こんな人と一緒に暮らしてみたいな、と思ったくらい、惚れてしまった。 「泥の河」に流れる、人間を見る視線の暖かさと非情さ。 忘れられない映画の一つだ。 男の顔に惚れるという経験は、何十年に一回くらいのことである。 今日は、図らずも、久しぶりにその感じを味わった。
図書館に借りて返して年果つる こんな俳句を年末に作ったのだが、これはまさに実感である。 インターネットなどに足を突っ込むまでは、私はちょくちょく図書館に行くのが習慣だった。 開架式の本を見て歩き、10冊近くの本を借りる。 全部熟読することはなくても、ためつすがめつ、手に取り、3週間の期間、愉しむならいだった。 今は、インターネットにかなり時間を使うので、その分、新聞、テレビ、そして読書の時間が減った。 新聞も読まずにそのままになっていることが多く、広告の紙で、ゴミが増えるので、夫が「もう新聞止めようよ」と言いだし、 今月を以て、購読を止めることにした。 子どもの頃から慣れ親しんだ朝日新聞。 夫が現役のビジネスマン時代には、日経と両方読んでいたこともある。 海外在住中も、現地のクオリティペーパーと、日本語新聞を取っていた。 つまり、我が家に新聞のない生活というのは、生まれて以来なかったことになる。 新聞の購読を止めるについては、今までにも、夫から何度か提案があった。 「どうせ読みもしないんだから」というのが理由である。 ニュースはテレビでも良いし、今は、インターネットで、必要な情報は得ることが出来る。 その方が早いというのだが、電波と活字媒体は役割が違う。 私はやはり、目で読む新聞の方がいい。 そう言って、抵抗してきたのだが、ここ数年のインターネット生活で、現実に新聞を読まないことが増えると、勿体ないと思うし、 そのままゴミにするには忍びない。 後でまとめて読もうと取っておく新聞が、幾つも、ひもで縛って置いてあり、結局は読まずに、ちり紙に変わる。 罪悪感にとらわれ、ストレスにもなる。 迷った挙げ句、新聞は止めましょうという決断に至った。 1月の集金の時、そのことを販売店に伝えた。 夫は、せいせいした顔である。 しかし、私のほうは、新聞に対して、まだ未練がある。 新聞はニュースのためだけではない。 読書欄、家庭欄、評論やエッセイ、小説と、電波にない、厚みがある。 テレビ番組だって、プログラムの一覧や、それに伴う解説は、読むと楽しい。 それに、繰り返して読むことの出来る新聞の良さは、テレビやインターネットにはない。 「じゃ、インターネットなんか止めて、元の生活に戻ればいい」と夫は言う。 5年前に時間を戻せば、私には、静かで、じっくりと本や活字と付き合う時間が出来る理屈である。 だが、時を戻すことは出来ないし、今やパソコンを捨てることも出来ない。 誘惑と闘いつつ、前に進んでいくしかないのである。 若くない私でさえ、これだけインターネットが入り込んでいるのだから、青少年の間に、爆発的な勢いで、 ITが入り込むのは当然であろう。 昨日、集まりがあって、神田神保町に行った。 早めに行って、水道橋から神保町交叉点までを歩いた。 ところが、よく知っているはずの街が、まるで別の顔をしていた。 駅からずらっと軒を並べていた、古本屋街の風景が、そこにはなかった。 学生時代、この界隈は、私にとって、実に刺激的で、魅力に富んだ場所だった。 軒並み居並ぶ本屋を、一軒一軒覗き、それで、半日過ごした。 乏しい財布と相談しつつ、一冊の本を吟味する。 どの店にどんなものが置いてあるか、だんだん覚え、その知識の広い人は、みなから尊敬された。 しかし、久しぶりに行った神田の街からは、見事なほどに、面影は消え去り、飲食店やゲームセンターの中に、 ぽつんと、数えるほどの本屋が店を開けているだけだった。 すずらん通りも、様変わりしていたが、専門的な本屋が、数軒残っていたのは嬉しかった。 本を漁る学生の姿は、あまり見かけず、もうそうした風景は、大学の街からも、なくなりつつあるのだろう。 冨山房の地下にある喫茶店に入り、数人で連句を巻いた。 昼食時から夕方近くまで。 本を持って、一服しに入ってくる客の姿もあった。 たっぷりと美味しいコーヒー。 軽食も、ケーキも、安めで、店の雰囲気も良かった。 終わって、折角だから本屋を覗いていくという友人と別れた。 東京にいながら、神田とは縁が薄くなってしまっているが、懐かしい気分を味わい、少しホッとした。 薄暮になりつつある道を、今度は御茶ノ水駅に向かって歩いた。
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