沢の螢

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命に向き合った人たち
2005年05月09日(月)

今日の昼のテレビで知ったが、JR西日本の運転士や乗務員に対する、暴行や嫌がらせが、出て来ているらしい。
駅員や運転士に暴言を吐いたり、突き飛ばしたりの例があるという。
そんなことをする人たちは、事故の前は、電車が数秒遅れても、暴言を吐いていたのではないだろうか。
事故後、いろいろな、いわゆる「不祥事」が報道され、JRの体質が云々される中、直にお客に接する現場の職員達は、今は、何を言われても、何をされてもジッと我慢の子で、そうした暴言や暴力にも、耐えているのだろう。
さらには、線路に石や、自転車を置いておくなどの、運転妨害行為もあるらしい。
事故に乗じて、JR西日本には、何をしてもいいんだというようなことを考える人がいたとしたら、それは間違いである。
バカなヤカラの仕業であろうが、事件や事故のあとに、必ず生じるこうした理不尽な行為は、遠慮なく取り締まってほしいし、JRの社員、職員達が、それを我慢する理由はない。
そのことで、精神的なストレスが溜まれば、それこそ安全な運行にも、悪影響がある。
無理かも知れないが、現場の人たちには、むしろ早く冷静な気持ちに戻って、業務に当たるように、環境を整えるのが、大事なのではないだろうか。

一方で、事故直後、救急車などが到着する前から、近くの工場で働く人たちや、近隣の人たちが、被害者の救出に力を尽くしたという話も、報道されている。
こういう話を聞くと、ホッとする。
「助けて貰ったお礼を、言いたくて・・」と、事故後、始めて現場に行き、近くの工場を訪れた女性の姿を写していた。
人間は、目の前の人が命の危険にさらされた時、本能的に助けようとする気持ちを、もともと持っているのだという。
あの日、仕事を中断して被害者を助けに向かった人たちは、そう言う人たちだった。
その人達がいなかったら、あるいは、死者の数は、もっと増えていたかも知れない。
誰が誰を助けたかなどと言うことは、お互いにわからない。
みな、必死に、目の前の命に向き合っていたのである。


列車事故報道に思う
2005年05月07日(土)

JR西日本福知山線の列車転覆脱線事故から12日経った。
私は4月から新聞購読を止めてしまったので、事故のニュースは、テレビとインターネットで得る情報しかないのだが、このところのテレビ報道から窺い知る、マスコミ関係者の報道の仕方は、何かおかしい。
この事故で亡くなった人は107人、多数の怪我人も出て、まだ退院できずにいる人もいる。
被害者と、その遺族の方々の悲しみ、憤りは、想像にあまりある。
それを癒す言葉も見つからない。
それをふまえて、敢えて、言いたい。
最初の頃、事故現場に立ってのテレビ記者達の報告は、まざまざと映し出される映像と共に、時間の経過と共に刻々と明らかになる事故の状況を伝えて、テレビならではの利点を痛感した。
事故の原因が究明される中で、運転士の運行状況、その背景にあるJRの管理体制や、無理なダイヤの組み方なども、浮き彫りにされた。
レールや車両などの物理的な問題もあるかも知れないので、詳しいことは、いずれ精密な調査を経て、明らかになるだろう。
多くの犠牲者を出した鉄道事故。
特に、大事な家族や友人を亡くした方々が、悲しみと怒りで、冷静になれないのは、当然である。
しかし、マスメディアが、そこに一体化して、感情的な報道をするのが、果たして事故再発防止に、有益なのだろうか。
亡くなった人の、葬儀の現場に行き、予め想定した答を引き出すような、インタビューの仕方。
故人の人柄や、家族の周辺や、周囲の人たちの反応を取材して、ドラマ仕立てにするような持っていき方。
BGM入りのナレーション付きで、視聴者の感情に訴えるような構成の仕方。
コメンテーターも、その流れに乗って、想定の域を出ないコメントをしている。
ほとんどは、自信で取材したわけでもない、マスメディアからの情報に添ってのものだから、視点を変えての、独自の意見など、持ちようがないのである。
更に、事故車に乗っていたJR社員が、救出活動をせずに出勤したとか、事故後に予定していたボーリング大会に参加していたとか、さまざまな、いわゆる「不祥事」が出てきた。
JRの体質が、たるんでいると言われても仕方のない一種の「鈍感さ」を内包していて、それは充分批判されるものだとしても、まだ、詳細が良くわからない段階から、連日の記者会見で、社長以下、幹部社員をマイクの前で、罵声ともいえる言葉遣いで、つるし上げ的に非難し、カメラの前で、何度も頭を下げさせることが、本当にマスコミの、あるべき姿なのだろうか。
どこか、思い上がっていないか。
頭を下げる相手は、被害者であり、そこにいるマスコミ報道関係者ではない。
カメラの前で、頭を下げるというやり方が、いつの頃からか、事故や不祥事を起こした企業のトップの、記者会見の時の儀式のようになっているが、私は、いつも違和感を感じる。
「あれは、記者達にでなく、マイクの向こうにいる世間に対して頭を下げてるんだよ」と夫は言う。
記者達は、世間の代表だから、被害者遺族を含めた世間に代わって、関係者を断罪しているというのだろうか。
私は、ああいう場面を見たくない。
テレビは、視聴率を上げるためかもしれないが、演出たっぷりのやらせ的な、被害者遺族の取り上げ方をしないでほしい。
たとえその人達の同意を得てのことだとしても、スイッチを切りたくなる。
事故後に明らかになったJR西日本社員達の「不祥事」(とばかりは思えないが)に関する報道は、最初から思いこみで、世間を味方にした感情をバックにするのでなく、冷静かつ公平に取材し、今後の事故をなくすための前向きな視点から、報道してほしい。
それが、事故で大事な人生を奪われた人たちへの、マスメディアの使命だと考える。
そして、プロのテレビ報道よりも、シロウトブログの方が、この問題に、余程冷静に向かい、公平に分析した記事を発信をしていることを、あちこちで見て知った。
記事の書き方は、プロの記者のように、理路整然としていなくても、市井に生きる生活者ならではのスタンスで、生の声が出ている。
どこにも利害関係のないシロウトだから出来ることだと、一介のブロガーとして、共感を持てるものが少なくなかった。


効率と人の命(2)
2005年04月30日(土)

前のエントリーに触れたあざらしサラダさんの記事に関して、
<こうした事故を結果的に起こさせたのは我々ユーザだったのでは?
と言うコメントがあった。
私も、同感である。
バスや電車を待っている時の、時間通りに来ないイライラ感は、正直、私の中にもある。
特に、約束の時間があって出かけた時、しかも、出かけるのが、ぎりぎりだったりすると、そんな自分の余裕の無さを棚に上げて、バスや電車を責めたくなるのである。
でも、交通機関を利用するのが、いつも元気で、敏速な人ばかりではない。
足の弱い高齢者、車椅子の利用者、怪我や病気を抱えている人、赤ちゃんを抱いた母親。
その対応のために、遅れることもあるので、5分や10分、待ってもいいという気持ちにならないと、やさしい社会とは言えない。
電車に飛び乗ろうとして、階段を駆け下りてきた人に、突き飛ばされた妊婦が階段を転げ落ち、胎児共々、亡くなった例が過去にあった。
これは、まさしく暴力である。
私も、階段を昇り降りする時は、なるべく端に寄って、手すりにつかまる態勢で歩くが、時に、コワイ思いをすることがある。
また、朝の通勤時間帯に、電車に乗ることがあって、コンコースを歩いていたとき、走ってきた若い女性が、盲人にぶつかり、白い杖を飛ばしたのを、目撃したことがある。
彼女は、ちょっと振り返ったが、急ぐ気持ちが先に立ったのか、そのまま行ってしまった。
幸い、すぐ近くの人が杖を拾ってあげたので、よかったが、これも、時間に縛られたゆとりの無さが生んだ、ひとつの暴力であろう。

私が利用する駅には、道路から駅に通じる階段の脇に、狭い昇り用のエスカレーターが付いている。
広いエスカレーターなら、右側を急ぐ人のために空けておくが、そのエスカレーターは、一人分のスペースしかない。
そこを駆け上ったりすると、前に立つ人は、イヤでも歩かねばならなくなる。
最近、エスカレーター内を歩くのは、禁止になった。
本来、足の弱い人、年配者などが多く利用するエスカレーターで、後ろから急かされると、無理して歩くことになるし、危険も伴うからと言うことであろう。
当然の処置である。
元気な人、急ぐ必要がある人は、広い階段を使えばいいのである。

ゆとりの無さは、交通機関だけでなく、日本社会全体を覆っているようである。
39才になる息子が、家に来た時、いつも言うのは、経済効率を上げ、経費を減らすために、ぎりぎりの人数で、目一杯働いているという、職場の環境である。
実情を訴えても、上層部は、理解がなく、それこそ精神論を振りかざして、説教するだけだという。
「全く、どうしようもないよ」と、時に無力感に襲われるが、そうも言っていられないので、自分の中で、つじつまを合わせて、仕事をこなしているが、まともな時間に帰れるのは、週のうち、1日か二日、時には、土日も、出なければならないという。
あまりのことに、ストライキのつもりで、10日程休み、出勤した日に、直属上司を飛び越して、社長に訴えた。
その結果一人人員を増やしてくれたが、適性を配慮しない配置だったために、「あまり役に立たなくてねえ」と、嘆いていた。
聞いている私たちは、息子が、健康を害さず、何とか気持ちよく、仕事が出来るようになってほしいと願うだけで、何も、手伝ってやれない。
「体だけは大事にしなさい」といいながら、そんな言葉が、何の役にも立たないことを知っている。
この連休、息子夫婦は、休暇を調整して、1週間のハワイ旅行に出かけていった。
成田から電話を掛けてきた息子の声は、明るかった。
久しぶりに得られた、束の間の自由時間。
存分に愉しんで、無事に帰国してくれることを祈りたい。


効率と人の命(1)
2005年04月29日(金)

先日、JP西日本福知山線で起きた列車転覆脱線事故。
亡くなった人たちは106人と言われ、予想以上の大きな惨事となった。
この事故の原因については、車両やレールなどの物理的問題、スピードの出し過ぎとブレーキのかけ方などの人為的問題など、いろいろなことが考えられるが、その究明には、多くの専門家が携わって、結果が出るのは、時間が掛かることであろう。
また、テレビやインターネットなどの関連記事を読むと、日が経つにつれ、事故に伴ったいろいろなことが、明らかになってくる。
事故の詳細については、ここでは、あらためて、繰り返すことはしない。
ブログでも、いくつか取り上げられて、中には大変しっかりした記事、たとえば、あざらしサラダさんの関連記事を参照されたい。

このところ浮上してきたのが、経営的立場から、効率を第一に考える会社の論理と、過密ダイヤの中で極度の緊張とプレッシャーを抱えながら、日々、運転席に立っている、現場の運転士や車掌達の、勤務状況である。
JR西日本では、ダイヤを正確に運行することが、最優先されていて、列車の遅れは、秒単位で、報告しなければならないとか、遅れを取り戻すために、120キロぐらいのスピードで列車を走らせ、ブレーキのかけ方も、神業に近いやり方でするのが、日常的になっていたとか言う話を、覆面で語る現役運転士達の言葉を聞くと、この事故の誘因のひとつには、そうした現場を取り巻く「安全よりもダイヤ重視」という、雰囲気と環境にもあったのではないかと思えてくる。
過去に、列車運行が50秒遅れたために、「日勤教育」なるものを受け、自殺した運転士。
管理職が見張る中で、一時間毎に反省文を課され、その遣り取りの中で、追いつめられていく課程が、日誌に残されている。
今回の、23才の運転士も、一年足らずの勤務の中で、オーバーランなどを起こして、日勤教育を何度か、受けていたらしい。
25日は、40メートルというオーバーランを起こし、遅れた1分30秒を取り戻すために、かなりのスピードを出していたようだ。
1分30秒という時間は、命を賭けるほど重要だったのか。
マンションに激突するまでの、数秒の間に、物理的な原因が生じたのか。
運転士の技術的未熟さだけだったのか。
本人が亡くなってしまったいま、その瞬間の状況は、わからない。
ただ言えるのは、「いつ事故が起こってもおかしくない」と、現役運転士の妻が話していた状況が、長いこと続いており、その中で、運転士達は、綱渡り的な勤務状況をしているという現実である。
もし、今回の事故の原因が、運転士の人為的ミスにあったとしても、運転士一人を責めて済む問題だろうか。
オーバーランを起こしてしまったのは、確かに、ミスであろう。
しかし、1分30秒遅れても、安全な運行の方が大事だという思想が会社の中にあれば、この運転士も、無理な運行はしなかったかも知れない。
経済効率と安全は、両立しがたい面があるようである。
日本の鉄道の、正確なことは、世界に類を見ない。
それは誇ってもいいことであろう。
だが、それが、現場に働く人間の、危険と隣り合わせの操作と判断に委ねられてのことだったとしたら、手放しで誇れるだろうか。
南米で暮らしていた時、電車はおろか、テレビの放映時間も、約束事も、時間通り、予定通りに行かないことが普通になっていたので、日本ではこんなことはないと、よく嘆いたものだった。
子どもが楽しみにしているアニメが、なかなか放映されないので、「なぜ、ここのテレビは、時間通りに始まらないの」というと、「でも、そのうちに始まるんですよね」と言う答が来て、唖然とした経験がある。
しかし、慣れてくると、時間に管理されている社会というのは、ひどく人間的でないと思うようになった。
日本に帰ってきて、厳しい社会だなあと、感じることのひとつは、時間で動いているという感覚である。
その一つの例を、以前ブログに書いたので、リンクしておく。
「待つ」
106人という命、一瞬のうちに奪われた人生と、遺された家族の涙。
「効率よりも安全」と言うことを、社会全体で、考え直さねばならないと思う。


愛妻無罪
2005年04月21日(木)

今日はウン十ウン年目の結婚記念日。
夫が現役の頃は、洒落たレストランで、フランス料理とか、それなりの過ごし方をしたものだが、最近は、家で、ワインで乾杯する程度。
時に、ふたりとも忘れていることがある。
「どこか、食事に行く?」と相談したが、どちらも、あまり積極的ではない。
夫は花粉症で、加えて先週風邪をひき、私も、貰い風邪で、同じ医者におなじ薬を貰って、今朝まで飲んでいた。
そんなことで、出かけるのも億劫ねえと、家で通常に過ごすことになったのである。
夫は、数日前に新しいノートパソコンを買い、それを使いこなすのに夢中で、部屋に籠もっている。
「パソコンは、買ってきた時点では、メーカーが造ったものだけど、自分の手が入った時から、自分のものにしていくんだ」と、可愛くてたまらない様子。
私は、通常の家事をし、最近、気が向いて可愛がっている、鉢植の花に水をやり、食事を作り、午後大学の講座に行った。
帰りに、また、綺麗な鉢花を見つけて、3個ほど買ってきてしまった。
私のは、一つ120円くらいだから、パソコンとは桁違いだが、これも可愛いのよ、あなた。
夫はリタイアして、毎日が日曜日。
「蕎麦を食べながら有意義な話をする会」だの、「シニアが若手を説教する会」だの、「痛飲せず天下国家を論じる会」だの、いろいろな名目を付けて、出かけていく。
「オレの関係は、女がいないから安心しろ」と言う。
そんなこと、わかるもんか。
私は、目下、趣味の連句に掛ける時間が一番多いが、平均週に一度の会合の外に、ネット連句も二つばかり。
連句で出かけていくと、終わってからの2次会にも進んで出るので、そちらの付き合いも、多い。
「オトコも混じってるのよ」というと、「まあ、よく面倒見てもらいなさい」と夫は気にしない。
夫婦で、別々の楽しみと、交友関係を持っているので、お互いのことには、干渉しないようになっている。
「ウン十年もよく続いたわね」というと、「俺は、そんなに長かったような気はしないよ」と夫。
「そうね、昨日結婚したばかりの気分だわね」と返すと、「それはいくら何でも、ないだろう」と夫。
そんなバカ話をしながら、ステーキを食べ、巨人戦を見て、結婚記念日の晩餐は終わった。

今、家では、面白い言葉が流行っている。
昨年のことだが、夫が、私の大事にしていたものを壊した。
勿論、過ちだから、責めることではない。
しかし、「こんなところに置いておく方が悪い」と夫が言ったことに、私はカチンと来た。
「自分の不注意は棚に上げて、それはないんじゃない」と言ったが、夫は、黙って、部屋に行ってしまった。
ずいぶんな人と思い、壊れたものを片付けながら、私は涙をこぼした。
そのまま、気持ちのどこかに、そのことが引っかかっていた。
そこで、今日その話をした。
「あのとき、あなたは私のせいにしたけど、ワザとじゃなくても、まず、ゴメンねくらい言ってもよかったんじゃない」と私は言った。
すると夫は、「謝る先に、君が咎めたから、ああなったのさ」と言いながら、にやりと笑い、「愛妻無罪」と言った。
中国で、反日デモがあり、日本関係の建物や商店が、破壊されたと言うことは、テレビで見た。
おびただしい、石や、瓶や、ペットボトルが投げ込まれ、日本大使館の庭は、すさまじい状況になっている。
見ていると、よくこんなコトできるわねえと、腹が立つ。
当分あのまま、片付けずに、むしろ、全世界に映像を流したらいいのだ。
デモの群衆が、いろいろなスローガンや主張を書いたプラカードや、横断幕を掲げて行進する中に、「愛国無罪」と書かれたプラカードがあった。
「国を愛するが故の行為は無罪である」という意味らしい。
夫は、それに引っかけたのである。
じゃ、あなたはワザと壊したの?
ちょっと、意味が違うんじゃない?
第一に、「反日」に相当する理由がないじゃない?
ヘンな言葉を便宜的に使わないでよ。
あなたは中国人じゃないでしょう?
日本人は、人の物を壊したら、とりあえず謝るのが文化でしょう?
いいながら、内心、おかしかった。
「愛妻無罪」。
やっぱり、この場合の使い方は間違っている。


「北」に帰った日本人妻
2005年04月20日(水)

昨日、いささか胸の傷むニュースがあった。
北朝鮮から脱出、一旦は日本に帰国しながら、2年後に北朝鮮に戻った日本人妻のことである。
彼女は、1959年、在日朝鮮人の夫と共に、北朝鮮に渡った。
21歳、帰還事業で「北」に渡った人たちの中で、いちばん若かったという。
昭和34年という年は、日本に在住する朝鮮人、韓国人にとっては、親の世代から続いて、まだまだ苦労の多かった時代である。
朝鮮籍、韓国籍の人と、日本人との結婚には、困難が伴った。
私の知人にも、そう言う人がいる。
今では、考えられないことだが、明治以後の歴史がもたらした事実である。
それに関して、細かく触れるのは省くが、ともかく、彼女にとっては、日本で暮らすより、北朝鮮での夫との新生活に、希望を抱いたであろうことは、充分想像できる。
どういう風に聞いていたのか知らないが、彼女の話によると、3ヶ月後に里帰りが出来るということだったらしい。
しかし、それは叶わず、ふたりの子供も生まれ、北で暮らすうち、10年後に、夫が政治犯としてつかまり、亡くなった。
幼い息子と娘を抱え、女手一つで生活していくのは、さぞかし大変だったと思われる。
子ども達が成長し、孫にも恵まれて、時が過ぎた2002年冬、彼女は北朝鮮を脱出、中国に渡った。
「日本に一度帰りたかった、日本のきょうだいにも会いたかった」と語っていたという。
そして、どういう経路で、どういう人たちに助けてもらったのか分からないが、2003年1月、44年ぶりの、日本への帰国を果たした。
それから2年あまり、国や支援者の助けを得ながら、生活していたが、突然、北京から、北朝鮮に帰るという話になった。
北朝鮮の当局と思われる人が主催したらしいその会見では、彼女は日本語を使わず、朝鮮語で、「悪い人たちに騙されて、連れて来られた日本から、将軍様の胸に帰るのはうれしい」といいながら、涙をこぼし、最後に「万歳」と言った。
北朝鮮に置いてきた息子は、40何歳という若さで、昨年病死している。
娘や孫と一緒に暮らしたいという気持ちは、本当だろうが、「北」に帰るのは、本当に彼女の意志なのだろうか。
聞けば、中国で、北朝鮮の家族に会わせると言われて、一人で赴いたという。
その結果、何があったのか、北京では期待した家族との再会はならず、「北」に帰ることになってしまった。
曾我ひとみさんのケースを思い出す。
勿論、彼女は、拉致されて「北」に行ったのではない。
しかし、拉致家族の話からもわかるように、あの国で、夢に描いていたような生活が出来なかったであろうことは、充分想像できる。
それは物質的なことではなく、人間の心の自由の問題である。
日本にいる家族との行き来も出来ず、おまけに夫は、良くわからない状況で死亡している。
子どもや孫を残して一人、北朝鮮を出たのは、余程の決意だったと思われるが、それは単なる望郷の思いからだけだろうか。
ともかく「北」を出たい、そして自分の生まれ故郷である日本に帰り、いずれは、子どもや孫達も、日本で一緒に暮らしたいと願っていたのではあるまいか。
中国から、北朝鮮の関係者にしっかりと両手を捕まれて、空港内を去っていく彼女に、何とも言えない複雑な感情を抱いてしまった。
彼女が2年間暮らしたというアパートの部屋は、きちんと整頓され、5,6人が使えそうな数の食器があり、冷蔵庫には、トマトなどが入っていた。
家族に会えると言われて、北京に行った彼女が、間もなくアパートに帰るつもりで出ていったことは、想像できる。
もし、はじめから、北朝鮮に帰るつもりだったら、冷蔵庫のものは処分していくだろう。
部屋には、息子の位牌があり、遺影の写真だけが無くなっていた。
彼女を支援していた人たちには、何も知らされていなかったらしい。
日本での、安全で自由ではあるが、孤独な生活。
置いてきた家族のことが、日夜胸を痛めたであろう。
「覚悟を決めたんだよ。向こうで、自分の家族と一緒に暮らす道を選んだんだよ」と夫は言う。
でも、選ぶと言うことが許されない国で、いわば、家族を人質に取られ、息子の命も犠牲にして、やむを得ず、採らざるを得なかった選択ではなかったか。
むごい話である。
北朝鮮にいる日本人妻は、少なくない。
みな、老境期を迎えている。
その人たちが、どんな状況で暮らしているのか、とても気になった。


男女7人花物語
2005年04月11日(月)

昨日は新宿御苑に花見に行きました。
前日、コイズミさんが園遊会を開いたところです。
急に気温が高くなって、桜が一斉に開花した週末です。
同世代の夫婦5組で、「男女10人××物語」みたいな会を作って、時々いろいろなことにかこつけて、一緒に遊んでいますが、昨日のお花見は、先月から日にちが決まっていました。
春は行事の多い時。
それでも、午後2時、6人が御苑の新宿門に集合して、花見と相成りました。
花見のあとは、近くでいっぱいやりましょうと言うことで、この時間になったのです。
日曜日とあって、家族連れや、若いカップル、グループなど、ものすごい人です。
入場券売り場で並び、やっと入ると、あちこち、シートが広げられています。
まず、温室の熱帯植物を見、それから広い芝生に出て、場所を探しました。
大きな桜の木の下は、すでにいっぱいです。
真ん中の比較的ゆったりしたところに陣取りましたが、昨日は風がものすごく、遮る物のないその場所は、風がもろに吹いてきて、乾杯のビールも、巻きずしも、吹き上げられた芝の葉で、塗された様になってしまいました。
これも風流の内と、みな、芝の葉の入ったビールを飲み、つまみものを食べて、ひとしきり花吹雪を浴びました。
それから広い園内を散策。
行きずりの人たちと、写真を撮ったり、撮られたり。
午後5時、スピーカーが閉門を告げると、花見客達は、シートを片付け、出口に向かいます。
テレビで見たどこかの公園の、夜の風景の様に、酔って狼藉を働くヤカラも居ず、ゴミもポリ袋に入れて、ちゃんと所定の場所まで持っていき、あれだけの人の波なのに、平和で行儀の良い、都心の公園風景でした。
そこから歩いて、予約してあった庶民的なレストランの個室に移りました。
そこに、一人駆けつけて7人。
ほどほどに食べ、ほどほどに飲み、いい機嫌で帰ってきました。
もう更に2次会というトシではありません。
帰宅したのが8時過ぎ。
シャワーで、頭から被った芝生の埃を落とし、さっぱりしたら眠くなり、そのまま夢の中に入りました。
今日は雨。
花はもう半分くらい散ってしまったかも知れません。



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