沢の螢

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蜂の巣その後
2005年08月11日(木)

山荘の軒下に、蜂が巣を作ってしまったことは前に書いた。
管理事務所に相談したら、表には見えない屋根の中に巣があるため、駆除するには、手間とお金がかかる。
そこで、そのままにして、秋に巣立つのを待つことにした。
幼虫が巣立ってしまえば、あとは空の巣が残り、蝋になるだけで、同じ場所には、巣が作られることはないと言う。
先週来たとき、蜂の巣のある場所を確かめ、そこにはなるべく近づかないようにし、家から出るときは、白い長袖シャツと白い帽子をかぶり、洗濯物は、離れたところに干した。
いったん東京に帰り、九日からまた来ている。
ところが、もう一つ、玄関下の近くの高床の下に、また一つ、蜂の巣が出来ているのを夫が見つけた。
今年はなぜか、蜂の巣が多いらしい。
みると、新しい巣は握り拳くらいの大きさである。
気を付けてみなければ見えない位置ではあるが、剥き出しである。
「これなら、退治できないことはないなあ、殺虫剤を買ってきて、暗くなったらやってみるか」と夫が言ったが、「刺されたら大変じゃないの。管理事務所に相談したほうがいいんじゃない?」と言うことになって、今朝夫が電話を掛けた。

やがて、管理事務所から、Sさんがやってきた。
山荘の水抜きやら、下草を刈ったり、雪折れの樹の始末など、何かと頼んでいる。
最近の大きな仕事は、雪で倒れかかった樹木の伐採で、家の屋根に倒れかかってきた数本の樹木を伐って貰った。
蜂の様子を見たSさんは、「まだ出来たてだから、すぐやっつけましょう。これはスズメバチだから危ないですよ」と言って、殺虫剤と、木の棒で、退治してくれた。
頭からすっぽりビニールのコートを被っての作業である。
巣は一日一日大きくなるので、見つけたら、早く処理した方がいいらしい。
「女王蜂を退治したから、もう大丈夫ですよ」と言う。
「仮面ライダーって知ってるでしょう。アレとそっくりの顔ですよ」と言いながら、なおも、殺虫剤をふりかけ、「暫く戻り蜂が来るけど、女王がいなけりゃ、そのうちに来なくなりますから」と言った。
「奥さん、今日一日は、近くに寄らないようにして下さいよ」と、家の中からこわごわ覗いている私に声を掛けた。
今年は蜂が多く、Sさんは、作業中に一度刺され、あとが大変だったらしい。
毒が体に残るので、2度、3度と重なるといけないという。
そんな中での作業なのに、「今日の分は、サービスだから良いですよ」と笑顔で、帰っていった。

たった一匹の女王蜂を中心に独特の社会を形成している蜂の世界。
「研究したいから、駆除しないでくれ」というひともいるらしい。
インターネットで調べてみた。

女王蜂と働き蜂の違い
これはミツバチの生態について書かれているが、スズメバチその他も、基本の社会構造は同じであろう。
「女王蜂は成虫となった2週間前後で多数の雄と交尾飛行を行った後、雄蜂から受けた精子を体内に蓄えておき、巣からほとんど出ることもなく産卵を続けます。
1日に約2500個を生むことができるのです。」と言うところは、なかなか興味深い。


蜂の巣
2005年08月03日(水)

東京の暑さから逃れて、月曜日、標高1100メートルの高原にやってきた。
出発は午後になってしまったが、昼食や休憩をとっても、高速はすいていたし、途中で高原野菜も仕入れて、午後4時ごろ到着。
私には1年ぶりの高原である。
先週、夫が来ていたので、生活上のものは、置いてある。
ユーティリティも問題なし。
冷蔵庫の温度を少し下げる。
うちからノートパソコンを持ってきたので、インターネットに繋ぐ。
こんなもの、やらずにゆっくりすればいいようなものだが、もはや、ネットに毒されてしまった私たちには、必需品になってしまった。
びっくりしたのは、ノートパソコンの画面設定が横1900くらいになっているので、ホームページやブログが、字も画像もものすごく小さく見えること。
いつも使ってる私のパソコンは横1024。
新しいパソコンは、みな画面が大きいので、こんな感じで見ている人もいたのかと、改めて驚く。
私は、所属する文芸結社で、ホームページ作成担当になってしまったので、秋には、サイトをリニューアルするべく、準備中だが、自分のパソコンだけを普通だと思っていてはいけないのだと痛感。
でも、多くの人を対象とするには、まだまだ98を使ったりしている人も少なくないのだから、ホームページの画面は中央寄せにし、幅770くらいで作るのがいいともいわれる。
現在ビルダーで、トップページのサンプルを作っている。

高原に来て、一つわかったのは、うちの軒先に、蜂が3カ所ほど巣を作っていること。
駆除するのに10万円もかかるというので、刺激せず、秋に自然に蜂が巣立って、空になるのに任せることにした。
スズメバチの巣もあるらしく、気をつけねばならない。
外に出るときは、なるべく白いものを身につけるように言われた。
黒は攻撃の対象になるらしい。
窓もあまり開け放しにはできないのが残念だが、仕方がない。
心配は、その蜂が通りがかりの人を刺したりしないかということであるが、この辺は、蜂のみならず、いろいろな虫もいるところ。
都会のように家が建て込んでいるわけではないので、このまま何とか無事に夏が終わってほしいものだ。


ウイーンまで
2005年07月24日(日)

昨日は神奈川県内で、午後から夕方まで、合唱の練習があった。
ウイーンの聖堂で、モーツァルトのレクイエムを歌うというプロジェクトに参加している。
11月はじめの公演にむけて、練習にも、一段と熱が入ってきた。
参加者120名、現地の聖堂のホームページには、発表もされているので、あと3ヶ月あまりは、気が抜けない。
月に3回の練習は、毎回3時間半、練習会場が主として指揮者在住の神奈川県内なので、東京西部地区に住む私どもには、片道2時間かかる道のりである。
練習は、午前中、午後、夜間と、一定していない。
100人を超す人間が、合唱の練習をする場所は、限られるし、楽器のあるところでないと出来ないので、会場探しのスタッフは、苦労していた。
しかし、ともかく、練習計画は、すべて決まり、演奏旅行のスケジュールも、大体詰まってきたので、あとは、指揮者と演奏者が一体になって、音楽を完成していくだけである。
休憩時間には、めいめいお腹を満たしたり、練習風景を撮ったビデオをスクリーンで見たりする。

昨日は、舞台の中央の大スクリーンで、ビデオを見ているとき、大きな揺れを感じた。
私は最前列にいたが、かなりの揺れで、地震だと解った。
少しザワザワしたが、舞台の横にいた指揮者と、私の前で、バイオリンを弾いていた人たちは、電車の通る振動だと思ったそうだ。
そのうちに、埼玉県辺りで震度5という知らせが入った。
家にケータイを掛けるために、会場を出た人もいた。
夫のケータイには、息子から、親たちの行方を心配して、問い合わせのメールが入っていたらしい。
こう言うときは、ケータイは便利である。
5時半に練習が終わった。
夫は、合唱団の相談役兼会計という役割を担っているので、指揮者ほかスタッフと、打ち合わせがあるという。
私は、同じ方面に帰る人達と一緒に駅に向かったが、幸い、利用する電車が全部動いていたので、帰宅することが出来た。
ただし、1時間程余計に掛かった。
震度5以上になると止まることになっているガスもそのままだったし、物が落ちたりした様子もない。
ニュースによると、震度4とのことであった。

今朝は、かなり涼しい。
この1週間の暑さが一段落したのだろうか。
棚上げにしていた懸案事項も、片付けねば・・。


星になった人
2005年07月16日(土)

>ある男が、私に暴言を吐いた。

昨年11月始め、こういう書き出しで、日記に書いた。
その3ヶ月程前の夏に起こった出来事だった。
長い文章だが、少し引用する。

>その人は、兼ねてから、相手が男と言わず女と言わず、暴言めいたことを言うクセがあった。
悪意のないことはわかるが、歯に衣着せぬと言うのか、相手をグサリと傷つけるような、ものの言い方をする。
マスコミ関係で長く働いていて、それが、習慣のようになっていたという噂もあり、そんないい方が許される環境で、今まで過ぎていたのかも知れない。
キャラクターはなかなか面白いし、ありきたりでない意見も持っているので、私も、好感は持っていたし、呑み仲間として付き合ってきた。
時にバトルになることがあっても、ここまでという一線は守って、今までは、修復できる範囲のことだった。
しかし、そのときは、その一線を越えていたのである。
親しさの中にも、礼儀というものがあるが、彼のはいた暴言は、表現者としての私を侮辱するものであり、私の人格に関わるものだった。
勿論周りの人にも、聞こえている。
ひどいことを言う、と思った人は少なくないと思う。
でも、誰も、たしなめなかったのは、日ごろ私がその種の発言には、黙っていないことを、みな、知っているからである。
第三者に為された暴言にも、聞き流さず、咎めたことのある私である。
だから、きっと、私が直ぐに反応して、バトルになることを、多分、予想したに違いない。
余計な口は挟まない方が、と思ったのだろう。
しかし、私は、反論しなかった。
というより、何か言うと、ワッと嗚咽が漏れそうな、胸にこみ上げるものがあったのである。
相手は、多分、自分の言葉が、それ程、私を傷つけたとは思っていないようだった。
また追い打ちを掛けるようなことを言った。
いつものように、直ぐに言い返されると思った言葉がないので、戸惑ったと言うこともあったかも知れない。
そのあたり不器用な人なのである。
私は、しばらく我慢したが、耐えきれなくなって、席を立ち、廊下に出た。
途端に涙が溢れてきた。
そのまま廊下の隅にあるソファに腰掛けて、ジッとしていた。

>どのくらいの時間だったのか、わからないが、どうやら、気持ちが落ち着いたので、元の席に戻った。
「何処に行ったかと思って探してたんだよ」と、暴言の主が言う。
そんな茶化した言い方で、収まると思ったらしい。
何を言ってる、探してなんかいやしないのに、と思い、無視した。

>その後、最近まで、私は暴言の主とは、顔を合わす機会がなかった。
避けていたわけでなく、偶然のことである。
趣味の会ではあるが、グループがいつも一緒というわけではない。
ただ、ほかの人から「彼、大分反省して、気にしてるよ」という話は聞いていた。
しかし、第三者から聞いても、本人が直接私に何も言ってこない以上、そのままの状態は続いた。
10月終わり、顔を合わせる機会があった。
向こうから近づいてきて、あのときは、自分はそんなつもりで言ったのではない、あなたが誤解したのだ、と言うようなことを、しきりに説明する。 
ゴメンね、とは言ったが、本当に謝っているのでないことは、自分を正当化しようとする言い訳めいた言葉でわかる。
第一、悪いと思っていたら、もっと前に何とか言ってくるはずである。
周りの人から、いろいろ云われて、しぶしぶ来たのである。
顔を合わせる機会は、時々あるし、周りの人も、間に入って困るだろうし、などと、彼なりに考えたのだろう。
私が受けた傷の深さを、認識していない。
そんなことくらいで怒る方が悪いとでも、言いたげであった。
18,9の小娘じゃあるまいし、大の男から、満座の中で言われたことである。
簡単に片づけないでほしい。
「みんなの前で、私を侮辱しました。それは、ほかの人も聞いていることです。私の人格に関わることだから、誤魔化さないでください。当分、お付き合いしたくありません」と私は言った。
「そう、じゃ、仕方がないね」と言って、彼は離れていった。
人をバカにして、今頃何よ、と私の胸には、新たな怒りがこみ上げてきた。(後略)

この記事は「女の敵は女?」という題で書いた。
その一件について、私の親しくしている女性達から、「男が謝っているのに、許さないのはあなたが悪い」と責められたことについて、書いたものである。
その場にいたわけでもなく、よく事情も知らずに、そんなことを言うのか、と私は思い、日ごろ進んだことをいいながら、やっぱり男の側に立った見方をするのかと、裏切られた思いを抱いた。
女の敵は女だというのは、こういうことだと、つくづく感じ、その勢いで、書いた記事だった。
ちょっと感情的になっていた面もあり、あまりに個人的事実に基づいているので、その部分は引用しない。

その後、暮れ近くになって、件の人とは、偶然同席する機会があった。
会合の後で、男ばかり5人が飲みに行くことになり、帰りかけた私が誘われた。
その人も一緒である。
一度は断ったが、考え直し、付いて行った。
女は私一人である。
小さな飲み屋で、6人がテーブルを囲んだ。
彼が私の真向かいに坐り、「ここに坐っていい?」と言った。
「どうぞ」と私は応えた。
いつものように、気の置けない同士の世間話をしながら、ほどほどに飲み、料理をつまんだ。
みんな私と彼との、一件は知っている。
しかし、私たちも含め、誰も、そのことには、ひとことも触れず、和やかに飲んで、店を出た。
帰りの電車の中で、自然に涙が出てきた。
一緒にいた男の人たちの、さりげないやさしさが胸に来て、その人を廻る男の友情は素晴らしいと思った。
私の他に、誰か、女性が混じっていたら、こういう風にはならなかったろう。
その後、私は、他のことで忙しくなり、余りその会に出なかった。
周りの人たちは、彼と私が、まだ戦闘状態にいると思っていたらしい。
私が出ていかないので、「彼、まだ気にしてるよ」と教えてくれた人もいた。
私は笑いながらも、飲み屋での、素晴らしい時間のことは、誰にも話さなかった。

その人が、突然脳出血で倒れたのは、今年5月終わりである。
40日間、ついに意識を戻すことなく、先週亡くなった。
通夜の席には、私たち趣味の会の仲間も出席した。
太く熱い人生を駆け抜けた人であったことが、古くからの友人達のスピーチから伺えた。
私たちの知る彼の人柄と、重なるところが多かった。
「もし、そういうことがあったら、賑やかに飲んで食べて送ってほしい」と家族にいつも言っていたというので、私たちも、大勢の弔問客に混じって、ビールで献杯の後、思い出話に花を咲かせた。
彼は、私にとって、ケンカ相手であり、本音で話が出来る人だった。
独特の感覚と、少年のような無邪気さも持った、得難い個性だった。
5月初め頃、神奈川県で、連句の会があり、その時顔を合わせたのが最後である。

碁敵の憎さも憎し懐かしく


送り梅雨
2005年07月10日(日)

昨日は、日本列島がどっぷりと雨に浸かった一日だったようだ。
合唱の練習があり、午後4時頃家を出たが、すでに雨が降り出していたので、折りたたみを止め、大きい傘にした。
練習は夕方6時半から9時半までの予定。
早めに行って、会場内のロビーで食べるために、途中でお弁当を買った。
100人を超す人数なので、練習会場は、大きなホールのあるところに限られる。
係の人たちが苦労して場所を確保するが、横浜と東京地区で、一定していない。
いずれにしても、家からは、1時間半、2時間のところが多い。
月3回の練習。
11月はじめの、ウイーン公演に向かって、指揮者始め、みんなの目の色も、真剣度が増してきた。
30分前に着き、ロビーでお弁当を食べ、練習会場にはいる。
今日は、人数を4つに分けて、お互いに聴き合うというアンサンブル練習。
100人で歌っていると解らない個人の欠点が良くわかる。
いい練習法だと思う。
欠席の多い人、暗譜していない人には、刺激になったと思う。
終わって、会場を出ると凄い雨。
駅までは1分くらいの距離だが、傘がしたたる程だった。
神奈川から東京を跨いで、駅に着き、もうバスはないので、タクシーに乗る。
家の前で止め、門の鍵を開けて、家に入るまでのわずかな間にも、雨水が、靴の中まで入った。
こんな日が何度かあって、やがて梅雨明けとなるのだろう。

知人の訃報を知らせる留守電とメールが2件。
5月終わりに、脳幹出血で倒れ、意識が戻らぬままの死だった。
私の連句仲間であり、ケンカ友達であり、口の悪い兄のような存在だった。
独特の感覚と、少年のような無邪気さも持った、得難い個性だった。
5月初め頃、神奈川県で、連句の会があり、その時顔を合わせたのが最後である。
もう一度ケンカしたかった。
そう思ったら、涙が止まらなかった。


クールビズの旅
2005年06月28日(火)

連句を趣味としている人は、今、全国にどのくらいいるのか、正確なデータはないからわからないが、短歌、俳句に比べて問題にならない少数派だということは、承知している。
そんなマイナーな文芸なのに、人間の集まるところ、どこの社会でも見られるような現象は、あちこちに見られて、手法もさまざま、人の動きもそれぞれであるのが、興味深い。
大体は、真面目な勉強家で、俳諧の道に黙って精進する人がいると思えば、連句もさることながら、人を動かす方が好きな御仁も少なくないので、政治家顔負けの権謀術数の達人や、たいこもちもいれば、色で売り込む自称美女もいる。
最近はインターネットでの付け合いも盛んになってきたためか、連句愛好者は次第に全国に増えつつあるようである。
そして、地域活性化のひとつの手立てとして、連句をやり始めたところもある。
連句は、一人で愉しむものと違い、必ず、複数で行うものである故、人の集まりが必須条件なので、その意味でも、いいジャンルなのかも知れない。

26,27日の二日間、東北地方某県主催の連句会に行った。
連句を口実に、今まで余り行ったことのない地方に行く機会が得られるのは、嬉しい。
初日は、新幹線最寄り駅に集合、バスで会場に向かう。
宿舎も兼ねた、温泉ホテル内である。
関係者の挨拶、祝辞などがあり、連句実作に入った。
6人ずつのテーブルに分けられ、3時間半程。
日ごろ顔を合わせたことのない人たちとの実作は、充分面白く、時の経つのを忘れた。
4時半に終わり、ホテルの部屋に落ち着いた。
部屋は、ほとんどが、知っている同士の組み合わせになっていて、私のところは5人だった。
大浴場で、温泉に入り、一休みして、夕食会に集合。
8時半に散会。
カラオケに行くグループもあったが、私は、サロンでお茶を飲んでから、そこで、意気投合した6人(うち一人が男性)で、一部屋に集まって連句を巻くほうに参加。
24句の付け合いが終わったのが、夜中の1時を過ぎていた。
私はバタンキューで寝てしまったが、温泉に入り直した人もいたらしい。

翌朝、なぜか5時半に目が覚めてしまったので、一人で、温泉に入りに行った。
すでに先客もいた。
源泉に浸かり、頭も醒めたところで、部屋に戻ると、みな、まだ寝ていた。
その日の予定は、みな少しずつ違う。
身支度して、一足先に、7時からの朝食に行き、バイキング方式の朝食を摂った。
ツァーで来たらしい別の団体の一人と、お喋りしながら、ダイニングルームを出るときに、同じ部屋の人たちと入れ替わりになった。
この地方が梅雨入りになったらしく、朝から雨。
予定では、山の上の古刹を中心に歩くつもりだったが、かなりの降りだったので、足元を気にしながら、最短距離だけを歩くチームに加わり、ゆっくりと一時間半程、散策。
最後は、蕎麦の美味しい店に集合して、蕎麦懐石で〆。
天気は回復しそうもないので、そのまま駅に行き、東北新幹線に乗り継いで、東京に帰る。
東京は、雨はほとんど降らなかったとか。
たった1泊の旅だったのに、とても疲れた。
今週末には、北陸地方の連句行事に行くことになっている。

今回の旅でひとつ気づいたことがある。
行き帰りの新幹線も、宿泊先のホテルでも、冷房がかなり抑えられていたことである。
真夏の外出がいやな理由のひとつは、何処に行っても、風邪を引きそうな冷房の強さである。
涼しいのは有り難いが、体を冷やす程、温度を下げることはないじゃないのと、いつも思う。
夏の風邪は治りにくいし、体が冷えるのは、健康上良くないので、私は必ず厚めのジャケットや、大判のスカーフを持って歩くが、今回の旅では、ほとんど使わなかった。
政府主導のクールビズで、こんなところにも、通達が行って、最低温度が抑えられているのだろうか。
外気温34,5度という日だったので、蒸し暑く、さすがの私も、もうちょっと冷房を効かせてもいいのではないかと思ったくらいだった。
我が家では、暑い日は、湿度を調節するが、同じ気温でも、湿度を低くすることで、かなり涼しく感じる。
真夏の旅は、疲れやすい。
新幹線にも、単に温度を下げる冷房より、湿度を抑える工夫をしてもらえたらいいと思う。


輝かしいアメリカ映画
2005年06月18日(土)

気が付かずに、途中からになってしまったが、夕べ、BSで「アメリカ映画音楽ベスト100」という番組を見た。
音楽と言っても、歌の入ったものを取り上げていて、映像を流しながら、その中で演奏され、ヒットした曲を、100位から順に、紹介していく。
私が見始めたのは、すでに60位くらいまでが、終わったあとだったので、ちょっと残念。
というのは、この種のものは、上位にランクされたものより、下の方にあるものの方が、いいと言うことが少なくないからである。
2時間半くらいの番組の中で、往年のミュージカルスターや、作詞、作曲者達のインタビューを入れながら、100曲を流すのだから、フルコーラスとは行かず、みな、細切れであったのは、やむを得ないのかも知れない。
しかし、映画の黄金時代と言われた、1950年代前後の、輝かしいアメリカ映画が、ほんの一場面であっても、再現されたのは、嬉しく懐かしかった。
第2次世界大戦後、敗戦日本は、食べ物もろくにない貧しい時代。
戦後10年くらいは、私の成長期とぴったり重なる。
そして、続々と、アメリカやヨーロッパの映画も入ってきた。
リアリズムのイタリア映画、恋愛を描いたら負けないフランス映画、親たちはきっとこちらに夢中だっただろうが、私には、見て愉しく豪華なアメリカ映画が印象にある。
初めて見たアメリカ映画は、昭和25年の「子鹿物語」。
父親に連れて行って貰った。
グレゴリイ・ペックの何とステキだったこと!
それから「若草物語」。
ここに描かれたアメリカの家庭は、南北戦争を背景にしていて、決して裕福ではないのだが、初めて映像で見るアメリカの家の造りや調度、少女達の長いスカートは、その頃の私の生活の中にはない夢の世界があった。
同じ貧しさでも、こうも違うのかと、子供心に思った。
エリザベス・テイラーの美しさは、忘れられない。
次々と入ってきたアメリカ映画のうちでも、ダンスや音楽を中心にしたミュージカル映画は、夢という意味では、最たるものだった。
昨日の番組では、このころ見た映画の場面が沢山流れたが、フレッド・アステアとジーン・ケリーという、天才二大スターを中心に、歌とダンスの達人達が織りなす、銀幕の星達の競演だった。
昨日、ベストテンが出た段階で、アメリカ人の選ぶ眼は、ちょっと違うなと思うところもあったが、ビージーズは、中学生の息子の影響で、私もメロディを覚えているし、バーブラ・ストライサンドの、素晴らしい歌も、記憶に新しい。

番組で紹介されたベストスリーは
1.「オズの魔法使い」のジュディ.ガーランド歌う「虹の彼方に」
2.「カサブランカ」で流れる「時の過ぎゆくままに」
3.ジーン・ケリーが歌って踊る「雨に唄えば」
と言う順位だった。



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