沢の螢

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合唱と連句
2005年10月22日(土)

今、連句の次に、イヤ、最近では、むしろ連句よりも多くの時間を割いているのが合唱。
昨年、ほぼ40年ぶりに、学生時代に入っていた合唱団の定期演奏会に、OBとして参加、モーツァルトのハ短調ミサを歌った。
指揮者は、その合唱団のOB、在学中に学生指揮者であったが、卒業後、芸大に入り直し、音楽の道に進んだ人。
今は、某国立大学教授で、モーツァルトの研究家でもある。
昨年、合唱団の創立50周年記念に、OBOGが、ワンステージを現役学生と合同で歌うことになって、昨年暮れの定期演奏会出演となったわけである。
それの延長線上に、今年は、海外でのモーツァルト「レクイエム」を、ウイーンの聖堂でうたうという話が持ち上がり、そのまま、参加することになった。
昨年のメンバーと、指揮者が持っている音楽研究会の関係者からなる混声合唱団。
20歳前後の学生から、70を超えるシニアまで、総勢120人ほどで、年明け早々から練習に入り、月に3回、毎回3時間ほどの練習に励んできた。
明日は、プロローグとして、まず東京での演奏会、それが終わると、11月始め、ウイーンに飛ぶことになる。
100人を超える人数が、集まったのは、モーツァルトの音楽の素晴らしさが第一にあるが、それ以上に、指揮者の魅力が大きい。
私たちは、歌というものに籠められたモーツァルトのメッセージ、生と死を通して訴える神への祈りの意味を、どう表現するかを、学んできた。
ラテン語のレクイエムの歌詞は、キリスト教徒でない日本人には、理解の難しいところがある。
しかし、音楽というもので見ると、どうしてここは、フォルテでなければならないか、なぜ、このことばは、ピアニシモなのか、それが一つ一つ、モーツァルトの深い考えと、感受性に基づいていることが、ことばの意味と共に、だんだんわかってくる。
そのようなことを、毎回の練習で、私たちに、辛抱強く語り、訴え、体現しようとつとめている指揮者の姿勢に、皆、感動しながら、惹きつけられて来たのであった。
合唱は、1人では表現できない多くの音と、ハーモニーで成り立つ。
1人1人は小さな存在であるが、複数の人たちと、同じ空間を共有することによって、より深い音と、ヴァリエーションが得られ、豊かな音楽として、表現されるのである。
私は、合唱をやっていて、連句と共通する部分があると思った。
1人では得られないハーモニーが、思わぬ世界を作り出すこと、多くの人と同じ空間を共有することの楽しさ、それ故に、時には、自分を捨てて、人に合わせる努力、それらは、連句の付け合いにも、言えることである。
片方は、文芸の世界、もう一方は、音楽であるが、よく似たところがあると、つくづく感じている。
歌も、文芸も、1人でなければならない分野もある。
表現という点では同じであるが、孤独を極めて成り立つものと、決して人と一緒でなければ出来ないものとの違い。
深く、面白いテーマであると思う。


ピラカンサ
2005年10月14日(金)



 10月始め、信州に行きました。
 高速に入る途中の農道で
 真っ赤な実を付けた木が立ち並び
 その見事さに、車を止めて
 しばし見とれてしまいました。
 ピラカンサ。
 街路樹にはあまり見ません。
 どこからか移植したのでしょうが
 珍しい風景でした。



ウオームビズだって?
2005年10月11日(火)

小泉首相が、夏のあいだ、積極的に提唱したとかで、夏のノーネクタイが定着した感のあるクールビズ。
日本の夏の暑さは、格別なものがあるので、最近はことに、気温が上昇したこともあり、あの暑さの中で、いくら冷房があっても、ビジネスマンのスーツにネクタイは、さぞかし、つらいであろうと、以前から同情していた。
戦後の一時期、会社に通う男の人たちは、半ズボンにガーター付きの膝下ソックス、カンカン帽というスタイルで、私の父親なども、出勤していた記憶があるが、冷暖房が完備するにつれ、真夏も、男の人は、英国式に、スーツにネクタイというのが、当たり前になってしまっていた。
日本の風土には、元もと合わないのである。
その分、冷房がきつくなり、私などは、冷房を避けるために、夏は、外出を控えるくらいである。
機械に頼らず、ほどほどの暑さも、少し我慢して、その分、服装を軽快にする方が健康的ではないかと思っていたので、クールビズだか何だか知らないが、首相が率先してノーネクタイにシャツ姿になれば、体制順応型の男性達も、これに倣うわけだから、まあ、いいことではないかと思った。

そして季節が変わったら、今度はウオームビズだそうである。
今朝も、テレビで、ウオームビズを当て込んだデパートの商品開発や、売り上げを増すための戦略などを紹介していたが、こちらは、はっきり言って、ちょっと頷けない。
冬のデパートの不快さ。
客のほうは、冬の様相をし、コートを着て店に入ってくるのに、売り場の人たちは、ブラウス一枚の軽装である。
暖房をがんがんかけ、店の中は、あたたかいと言うより、熱いくらい。
従業員は、ブラウス一枚で、快適かも知れないが、お客は、外を歩いて入ってくるので、コートを着た体は、ほどよく温まっている。
デパートに入って、十分もすると、汗が出てくる。
寒さに対応した客と、春の暖かさにあった従業員の服装には、落差がある。
人が多ければ、暖かいを通り越して、むっとする暑さになり、とても、ゆっくり買い物をしようと言う気にならない。
いつか日本橋のデパートで、「なぜこんなに暖房を高くするのですか。客は、皆、汗をかくくらいで、コートを脱げば、荷物になるし、困っているんですよ」と言ったことがある。
すると若い女性従業員は、「私もそう思うんですけど、お客様から言っていただかないと、上の方は聞いてくれません」という返事であった。
ウオームビズなんて、言う前に、従業人は自ら、店内で、季節に合った暖かい服装をし、客の立場に立って、店内暖房を調節してほしい。
むっとするような暖房の中で、一刻も早く店を出たい気分で、誰が、マフラーやコートを買うだろう。
イヤ、オシャレに熱心な人は、そんなことに頓着なく、暖房の暑さに耐えて、品物を吟味するのだろうか。
そんなことを、テレビを見ながらぼやいたら、連れ合いが言った。
「ごらん。戦略のチーフは、みな若い人たちだろう。我々トシヨリなんて、ターゲットにしてないよ。」
そうかなあ。
私たち、快適なデパートなら、ゆっくりショッピングする気になるけどね。
ウオームビズなんて、ことばだけあったって、そうはいかないよ。
思いやりに欠けた商売なんて、成り立つわけ無いんだから。


十七文字の憂鬱
2005年10月09日(日)

昨日発句の会があり、久しぶりに参加した。
土曜日は、他のことと重なることが多く、昨年4月以来出席していなかった。
張り切って、向かったのに、バスの時間が掛かり、25分遅刻してしまった。
この会は、席題ですることになっている。
「蜻蛉」
「ハロウイーン」
「紅葉」
この題で五句。
他にも、遅れる人がいて、締め切り時間を伸ばして貰ったものの、なかなか句が出ず、満足いかないながら、ともかく五句を、ギリギリで提出した。
ところが、どういうわけか、5句の中で、一番、出来がよくないと思っていた句が、最高点を取ってしまった。

鬼やんまわが空色の旅鞄

名乗りを上げる前に、評がされることになっている。
作者がわからないうちは、皆、自由に発言できるのが、いいところである。
選を入れてくれた人は、その句をいいと思って、選ぶのであろうから、概ね、好意的というか、句のいいところを言ってくれたり、作者の思いを更に広げて、解釈してくれたり、また、ちょっぴり、辛い一言を言ってくれたり、大変参考になる。
その中で、ちょっと引っかかる評があった。
童謡の中に、「空色の旅鞄」ということばがあるらしく、それからの発想ではないかという意見が複数あり、その歌を知らない私には、思いがけない指摘だった。
それを言った人たちは、私より、年上だから、多分、子どもの頃に聞いて、記憶している歌なのであろう。
だから、私の句が、そこから来ているという風に、思ったのも、自然のことかも知れない。

発句(俳句)が、ちょっとイヤだなあと思うのは、こういう感想を言われたときである。
たった十七文字、ゴマンと詠まれている句の中には、ことばや言い回しが、どこかで見たと思うような場合が少なくない。
旅鞄の句は、たまたま、出かける前に、11月からのヨーロッパ旅行のために、夫が、屋根裏から出してきたスーツケースを、座敷に広げていて、「まだ、早いじゃないの」「イヤ、お前はグズだから、今から、少しずつ準備した方がいい」などと言う遣り取りがあったので、それを句にしただけのものである。
季語を何にするか、考え、蜻蛉の中で、一番元気の良さそうな鬼やんまを持ってきたのだった。
空色のスーツケースは、キャスターが壊れかかっているので、別の物にしようかと思っているが、そんな現実は、句にとって、どうでもいいことである。
やはり、秋空を思わせる空色のままがいい。
五句の中で、一番時間が掛からず、最初に出来た句であり、全く、私の生活日記そのままで、工夫も何もないのだが、どういうわけか、多くの人に拾ってもらったというわけだった。
そして、作者の発想とは違う解釈も、されたと言うことである。
俳句、発句を表に出したとき、こんな風に、意外な見方をされることはよくあり、誰かのどこかで見た句と似ていると言われることも、たまにはある。
短歌では、そんなことは、滅多にないのは、やはり、三十一文字という長さと、主観的な思いがテーマになることが多いからであろう。
客観的に詠む俳句。
季語は、共通である。
残った十二文字くらいで、どれだけオリジナリティを発揮できるか。
創作者の端くれとしては、自分の作った句が、思いがけず、どこかで見たとか、似ているとか言われることは、一番、憂鬱である。
最高得点をもらい、二次会の席で、おめでとうの乾杯を受けながら、どこかすっきりしなかった。
「この句を見て、昔こんな歌があったのを思い出しました」というのはいい。
しかし、「この句は、こう言うところから発想したのではないかと思います」と、勝手に決めつけるのは、避けた方がいい。

私も、人の句を評するときに、自戒しようと思った。


イ.ビョンホンの魅力
2005年09月30日(金)

韓国ドラマ、「オールイン」は面白い。

韓国ドラマのハシリ、「冬のソナタ」の、甘く美しくせつなく、と言うメロドラマの真髄を行くドラマに比べると、そのあとに登場した韓国ドラマ「美しい日々」は、かなり違和感があった
見るからに悪辣な顔をした悪役が沢山出てくるし、最初の場面で、あまりにも、暴力的なシーンがあったため、それきり見なくなった。
主役の男優イ.ビョンホンが、ぺ.ヨンジュンとはまるで違う硬派の役者だったし、冷たい感じが目について、乗れなかった。
そのあとに続いた「オールイン」も、同じ俳優とあって、興味がなかった。
しかし、「美しい日々」の再放送を何となく見ているうちに、イ.ビョンホンも悪くないなと、だんだん思い始め、最後まで見てしまった。
冷徹ながら、胸の内に熱い感情が息づき、人の愛情に飢えている現代青年の、屈折したキャラクターを、よく演じていると思った。
その前か後か「オールイン」も再放映されたが、こちらも、最初のうち、ヤクザばかりが出てきて、やはり暴力場面が多かったため、終わりの方しか見ていなかった。
私は、暴力的な場面がキライである。
特にテレビでは、あまり目にしたくないと思う。
昔の話でもないのに、韓国社会は、あんなに無法がまかり通っているのかと、ビックリする。
見るからに悪相の役者が沢山出てくるのは、ちょっと、単純過ぎると思うが、イ.ビョンホンは、「美しい日々」よりも、「オールイン」の方がいいと思った。
今年の春から、また再放送されているので、今度は最初から見ている。
イ.ビョンホンが登場する辺りから、だんだん見逃せなくなり、カジノの様子や、豪華なホテルなども、風景として興味があるので、次第に夢中になってしまった。
イ.ビョンホン。
ぺ.ヨンジュンのような甘さはないが、骨っぽく、男っぽく、演技もいいし、なかなかの魅力である。
悲惨な環境で育ち、辛酸をなめながら、仲間や弱い者にはやさしく、不当な暴力には、敢然と立ち向かって、決して卑屈にならない役柄に、ピタリとはまっている。
勿論「オールイン」は、国際的な舞台で展開されるストーリーが、よくできていて、波瀾万丈の運びが面白いからだが、主役の魅力が大きいと思う。
土曜日の深夜にかけての放映なので、寝るのが遅くなるが、欠かさず見ている。
今朝のNHKでは、このイ.ビョンホンの声を吹き替えている高橋和也が、出演していたが、こちらも、大変魅力的な人。
共通した良さがある。
声の出演というのは、一人で演ずるよりも、難しい面があるようだ。
イ.ビョンホンの近況を伝える最新映像をはさんで、ついつい、見てしまった。
「俳優は、他人の人生を生きるのが仕事」というイ.ビョンホンのことばが、印象的だった。
明日の夜は、「オールイン」の最終回である。


「小林一茶」
2005年09月29日(木)

井上ひさし「小林一茶」を見た。

ひさしの芝居は大体見ている。
「頭痛肩こり樋口一葉」「人間合格」「薮原検校」「国語元年」「太鼓たたいて笛吹いて」「夢の泪」エトセトラ。
この人の芝居は、入れ子型の仕立てが多く、セリフに含蓄があり、なかなか複雑な筋立てになっていたりするので、時には同じ物を、二度、三度と見る。
今回も、初日と「ラク」と二回見た。
新作ではないので、すでに文庫本にもなっているが、芝居は、初めて見たときの感動が大事だから、敢えて、予備知識を持たずに行く。
「やれ打つな蠅が手を擦る足を擦る」「痩せ蛙負けるな一茶ここにあり」など、庶民感覚の俳句を沢山作った人として、教科書にも載っている。
派手な生涯ではなかったらしい一茶。
それをひさしが、どんな芝居に仕立てているか、興味津々で劇場に赴く。
初日の楽しみは、「初日乾杯」があることで、知った人は、これをアテにして、舞台がはねた後、ロビーで屯している。
最初の頃、わからなかったが、それは、作者を交えての、乾杯のためだとわかった。
観客が概ね帰り、後に残っているのは、出演者や演出家、井上ひさしを待つ関係者やファン。
私は関係者ではないが、ひさしのスピーチと、出演者を間近で見たいので、お互い顔見知りばかりらしい人たちに混じって、待っているわけである。
ややあって、缶ビールやジュースが配られ、衣装を脱いだ素顔の役者達が、次々現れる。
主役の北村有起哉は、長身で痩せ形の好青年。
北村和夫の息子だとのこと。
相手役の高橋長英。
この芝居唯一の女優キムラ緑子。
声がよく通り、素顔も美しい。
ひさし芝居は、一人で複数の役を持つことが多いので、役者の数は多くないが、それぞれに個性があり、確かな演技をしている。
今回の初日は、セリフに堅さやトチリがあって、前半はあまり良い出来ではないようだった。
ひさしは現れたものの、いつものスピーチがなかったのは、ちょっと不満だったからか。
業俳と遊俳。
一茶の日記に、ホンの数行記されている一つの出来事を廻って、ひさしの芝居は、劇中劇の仕立てで進んでいく。
セリフには、私が現在身を置いている連句の世界にも通じる問題が含まれていて、なかなか興味深かった。
ひさし自身が、連句をたしなんでいることもあって、俳諧の真髄にまで迫る劇に仕立てられ、凄い芝居になっている。
25日に千秋楽を迎えたが、役者もすっかり、人物になりきって、結構遊びもあり、楽しめた。
芝居のパンフレット。
いつもはケチって買わないが、今回は、文庫本と両方、芝居が終わってから手に入れた。


国会議員杉村大蔵どの
2005年09月28日(水)

初めての選挙で、最年少の当選を果たした杉村さん、おめでとうございます。
投票用紙に、直接あなたの名前を書いた人が、一人もいないからと言って、ちゃんと公職選挙法に添って、自民党の公認を受け、比例で入ったのだから、そのこと自体は、何も問題ない。
堂々と胸を張って、議員バッジを付けていいのです。
26歳という若さも、被選挙権を行使した結果なのだから、過去にも、例は沢山あるし、誇っても良いのです。
若い人が政治に参加するのは、いいことです。
長年国会議員をやって、政治家としては手練れかも知れないが、その分、妙な権益の代表みたいになり、国民のことなど真剣に考えているとは思えないような、くだらない議員達もいる。
それに比べれば、全くの白紙状態で、政治の世界に飛び込んできたあなたは、垢にまみれていないだけ、期待が持てる。
当選直後の、やや浮わついた受け答えについても、もう、充分、いろいろな人からお叱りを受けたことだろうから、繰り返さない。
そんなあなたを公認した自民党の責任でもあるし、面白がって、見当違いのインタビューなどしたマスメディアも悪いのだから。
若いと言うことは、失敗も、愚かさも、付き物だから、これから、成長していけばいいのです。
思いがけなく国会議員になったと言っているけれど、応募したからには、何らかのこころざしがあるはず。
政治家は、信念とこころざしが一番大事だと私は思っているので、これから、あなたの活躍を期待しています。
ヘンに大人にならなくても良い。
不器用で結構。
ただし、他人に対して、自分の親を「お父さん、お母さん」というのだけはいただけない。
私の育った時代は、中学生になって、そんな言い方をしたら、大人達から注意されたものです。
今は、格好だけは一人前になっても、いい年した大人が、テレビで堂々とそんな言い方をするし、まわりの人も,教えてやらないから、まかり通っているけど、国民の代表になったあなたは、やっぱりそれだけは、止めた方がいいね。
これからも、いろいろな人に、よきにつけ、悪しきにつけ、注目されて、いろいろ言われると思う。
中には、反発を感じることもあるだろうけど、聞くべき耳は、持っている方が、得だし、心を解放して、前向きに、人の意見を吸収した方が、いいですよ。
大いに失敗し、恥を掻き、その中から学べることを見極め、政治家としてのこころざしを果たして行ってほしい。
昨日のテレビで、今までと打って変わって、神妙に記者会見に臨んでいる姿を見て、ちょっとエールを送りたくなりました。



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