NHKドラマ「義経」が終盤に近付いている。 前回は「しづやしづ」、昨日は、安宅の関、勧進帳のくだりであった。 いずれも、昔から、歌舞伎や、映画でも欠かせない有名な場面である。 私は、もう10年以上も前になるが、歌舞伎座で、松本幸四郎演ずるところの、「勧進帳」弁慶を見て、魅せられてしまったことがある。 この役は、難しいが、大変やり甲斐があると見えて、いろいろな役者、映画俳優達が演じている。 静の役も、若い美人の新人女優の、出世役になっているようだ。 NHK大河でも、古くは、藤純子(現 富司純子)が19歳で演じ、その相手役、義経の菊之助(現 菊五郎)とは、後に結婚と言うおまけが付いた。 今回の静役は石原さとみ。 きれいなだけで、大根だと思っていたら、20日の「義経」では、素晴らしい演技を見せた。 頼朝の前に引き出された静が、弟である義経を討つのはなぜかと頼朝にただす場面、義経の子を産み、頼朝方に取り上げられたことを知って、半狂乱で政子に迫るところ、頼朝勢の居並ぶ中での、義経を思って舞う場面、いずれも、素晴らしい迫力だった。 ひたすらに、義経に心を寄せる女の一途さを表現して、見事だった。 ドラマに描かれた政子の強さと、静の勁さの違い。 女だてらに、国を左右するほどの影響力を持った政子は、表に出た文字通りの強さ、今の日本で、強い女と思われている大半はこのタイプ。 だが、静のそれは、内に秘めた耐えるつよさである。 決して大声も出さず、自己主張はしないようでいて、実は表に出ない、したたかで、生半可なことではくじけない意志を持つ。 大切なもののためには、イザとなれば命を賭ける強さ。 私の知っている人にも、ほんの少数であるが、存在する。 こういう人には、かなわないなあ、と文句なく脱帽する。 そして、皆、ふつうの主婦たちである。 「本当に強い人は、人にやさしくなれるんだよ」と、いつか息子が言ったことがある。 小学生から中学生の頃まで、私は、息子を叱ってばかりいた。 そんな母親の私に、どういういきさつからだったか、息子が私に向かって言ったのである。 その言葉は、ずしんと響いて、今も私の心の中にある。 耐えるつよさ。 人にやさしくなれる強さ。 「義経」に描かれた静のそれを見て、勁い女の美しさに、感動してしまった。
庭師が来て、手入れが済むと、庭はきれいになるが、その分、寒々としてくる。 色のなくなった庭に、今、石蕗があちこちに花を咲かせている。 日が暮れても、石蕗の黄色い花は、はっきり浮き立って見え、とても美しい。 日の暮れてそこだけ明かし石蕗の花 素馨 庭手入れ終えて寒さの広がれり 素馨 私の尊敬する俳諧上の先輩で、おのれの詩的精神に殉ずるため、最近、自分の属する環境の、ある部分を切り捨て、個に徹する道を選んだ人がいる。 たった1人になり、俳諧の道を究めるという。 俗の世界に付き合うことで、これ以上自分の文芸精神が凌辱されることに、限界を感じていたであろうことは、窺い知ることが出来る。 黄色は、強い意思を表す色。 その人の心意気に、捧げたい。 冬菊のまとふはおのがひかりのみ 水原秋桜子
ヨーロッパ合唱公演から帰ってきて、団員用のサイトでは、それぞれが非公式に写したスナップ写真を投稿している。 現地での練習風景、半日観光で廻ったシェーンブルン宮殿や、モーツアルトの墓の写真、演奏後の打ち上げパーティ、空港風景など、さまざまだが、絵はがきにあるような、ただの物理的な写真よりも、そこに、人物が入っている方が、親近感があるし、参加者の興味を惹く。 特に、指揮者やソリストなどと一緒に写した写真は、人気があるようである。 演奏後のパーティだからカメラを持っていなかった人も多く、人が撮した、思いがけぬ自分の姿を見て、驚いたり、反応はさまざま。 DVDやCDを作るために、プロのカメラマンも同行したので、いずれ、集合写真などは、プロの手で焼き増しされて、有料で買うことになるだろうが、シロウトが、撮したものは、できあがりがまずくても、人間的で、記念になる場合が多い。 これらシロウトカメラマンの撮ったスナップ写真を眺めていると、面白いことに気づく。 有名人の傍に必ずいて、どの写真にも、必ず入っている人が、何人かいることである。 合唱団員ではないが、家族として同行した人、120人の団員数なので、顔と名前の一致しない人もいるが、なぜか、誰のカメラであろうと、写っている人。 「私の写ったのなんて全然無いわ」と言ったら、夫が、「目立つ人の傍にいなけりゃ、ダメだよ。必ずみんなが撮ることを意識して、そういう人は、最初から、そこにいるんだよ」という。 なるほど、と感心した。 シュテファン演奏後のパーティには、大司教、向こうのオケのメンバー、ソリストや合唱団の人も、来ていたが、私は、遠くからそれを見つつ、周りにいる人たちとの、交歓に余念無かったのである。 カメラのことなど、全く意識になかった。 自分のパートであるアルトのソリストには、ちょっと話がしたいと思って、近付こうとしたが、周りに人がいっぱいで、出来なかったのである。 取り巻きがいたんだ、代わる代わる写真を写していたんだと、今にして初めてわかった。 「この人、歌ってもいないのに、何でいつも、真ん中に写ってるの」というと、「心構えが違うんだよ。いかにも、写真に撮られるポーズになってるだろ」と夫が言う。 そういえば、ほかの人が、カメラのあることに気づかず、横を向いたりしてるのに、その人は、いつも、カメラ目線に向いている。 「日本での練習には、存在感なかった人が、よく写ってるわ」というと「人それぞれ、いろんな能力があるからさ。写真にくまなく写る才能というのも、あるんだよ」と夫が笑った。 たかだかシロウトのスナップ写真。 でも、一枚の写真の何と饒舌なことか。 次々とアップされる写真から、今度は、どんな物語が見えるだろうと、楽しみである。
11月はじめ、外国行きの前から、家の中は、かなり悲惨な状況になっていた。 夏の暑さが長く続き、ちょっと秋らしい爽やかな季節になったと思ったら、また暑さがぶり返すといった具合で、このところの季節の移り変わりは一体どうなっているのか、冷暖房の普及で、昔の四季の感覚は、もう無くなってしまったのかと、嘆きつつ、衣替えの時期も見定めがたく、逡巡している間に、家の中は、夏と冬の衣類が入れ混じって、あちこちに散乱するような有様となっていた。 家に出入りするクリーニング屋さんの話によると、いまは、季節の変わり目だから、まとめて、衣類を出すと言うことはほとんど無く、若い人は年中Tシャツにジーンズ、スニーカーという出で立ちで、せいぜいそれが半袖か長袖かと言うくらいの区別しかなく、冬、外に出るときは、その上に、ダウンコートなどを羽織れば、それでいいのだそうだ。 衣類の整理と入れ替えが、家事の中では、結構な仕事になっている私の世代のやり方は、もう古いのだそうである。 一年中同じ衣類をロッカーに吊しておくので、酷暑の時期を除き、春秋冬は、あらたまって、衣類の出し入れなどしないらしい。 なるほどそう言うものかと思いながら、長年の習慣は改めがたく、夏と冬の衣類を出したり入れたりするうちに、収拾がつかなくなってしまった。 そのまま、ヨーロッパに出かけてしまい、帰ってきて、途方に暮れているのである。 急に寒くなり、もう、合い着もいらないだろうと、先日クリーニング屋さんを呼んで、旅行で着た衣類と、まだ残っていた夏物などもまとめて、持っていって貰った。 それに加えて、この数年の私の生活は、パソコンが導入されて以来、ネットに割く時間が多くなり、その分家事が犠牲になっているのである。 食事を作ることと、洗濯は、欠かせないが、掃除や、家の中の整理整頓が、そのしわ寄せを食ってしまったのである。 今日、久しぶりに、玄関の掃除をしたら、履かないまま、埃を被った靴やサンダルが、靴箱の下に何足も隠れているし、三和土の隅には、泥がこびりついて、たわしで擦らねば落ちない状態になっている。 家の中から見たのではわからないが、外から入ったとき、いかに家の玄関が汚いかを知って、唖然とした。 これは氷山の一角で、台所や食器戸棚、ガスレンジや冷蔵庫の中、食品貯蔵庫に至っては、更に悲惨な現実がある。 親戚きょうだい、友人がみな東京住まい、だだっ広い東京では、互いの家を行ったり来たりは時間が掛かるので、外で会うことはあっても、自宅にまで、来ることはない。 子どもの小さい頃は、子ども同士の遊びに付き合って、近隣の人たちで、寄り合うようなこともあったが、もう、そんなことも、久しくない。 正月に息子夫婦が泊まりに来るときだけ、見苦しくない程度に掃除するくらいである。 家に第三者の目が入ると言うことが、滅多にないのである。 夫が現役の頃は、朝6時前に起きて食事を作り、送り出すのが習慣だった。 リタイアした今では、時には9時頃まで寝ていることがある。 だらしないこと、この上ない。 そして、インターネットに掛ける時間は、長くなる一方である。 こんな生活態度では、精神が堕落する、不健康になると、どこかで警告する声が聞こえつつ、耳をふさいできたのであった。 それ程に、パソコンを持つと、もう後戻りできないものにとりつかれてしまう。 今日、ゴルフから帰った夫が、「オヤ、玄関が見違えるようだね」と言ったのを聞いて、そうか、あちらもやはり、感じていたのか、だけど、自分もリタイアした身、妻にだけ家事を押しつけるわけに行かないから、目をつぶっていたのだとわかった。 帰りなんいざ、我が家庭に。 パソコンを使い出した4年前の生活に、少しずつ戻そう。 夜は12時までには寝る。 朝は、なるべく7時には起きる。 パソコンに向かう時間を減らし、その分、ゆったりと、読書や音楽を聴いて過ごす。 複数あるブログもホームページも、少しずつ閉鎖する。 ネットの向こうに、もっと良い世界があるのではないかという幻想は捨てる。 不義理を重ねている現実の人間関係を、もっと大事にする。 読む時間がなくて、止めていた新聞を、もう一度取る。 趣味の連句は、連衆と顔を合わせての座を中心にし、今主催しているネット連句は、自分の持っている掲示板だけに絞り、人のネット連句には、極力参加しないようにする。 ・・・などと書きつつ、すでに寝る時間が迫った。 どのくらい実現できるかわからないが、今日、こんなことを考えたという証拠に、記しておく。
10日間ほど、国外の旅をした。 まずウイーンのシュテファン寺院聖堂での合唱公演。 このために、今年1月終わりから練習を重ねてきたのである。 ウイーン公演のための合唱団が、昨年末から結成され、指揮者と合唱団員120名が30回以上もの練習を経てきた。 公演は、日本からの私たちと、ウイーンのソリストとオーケストラ、それに現地の合唱団員30人が加わっての演奏となった。 当日同時間帯に、国立オペラ劇場では、小澤征爾指揮で、ガラコンサートがぶつかり、ウイーンの政財界、在住日本人の主だった人たちは、そちらに招かれて行ったようだが、私たちは、全く無名の合唱団。 どのくらいの人たちが聴いてくれるのかわからないが、ここまで来たら、モーツァルトに魂を込めて、歌うだけである。 それまでの、練習の結果を、最大に生かすべく、みんなの気持ちが一つになり、10ヶ月がかりで暗譜した「レクイエム」を、精一杯歌った。 暗い聖堂の中では、よく見えなかったが、入場者は、1450人の人たちで満員札止めとなり、日本人は、私たち合唱団の同行者くらいで、ほとんどが、ウイーンの一般の人たちだと聞いて、嬉しかった。 義理でも、コネでもなく、ちゃんとチケットを買って入ってくれたお客さんばかりと言うことになる。 私はアルトの最前列。 最初に舞台に上がり、最後に退場する。 演奏が終わると、盛大な拍手が長く続き、指揮者、ソリスト、オーケストラ、そして合唱団員が次々退場し、私が最後に聖堂を出るまで、通路の両側のお客さんから、暖かい拍手を貰った。 こんな感激は、これからの人生にも、二度とないかも知れない。 その後ドイツのクレフェルトに移動して、現地の人たちとの親睦を兼ねた教会でのコンサート。 こちらも500人くらいの入場者で、小さな教会がいっぱいになり、良い演奏が出来た。 ここまでがいわば公式行事。 シュテファンの演奏後に日本に帰った人が、40人。 ドイツまで共に行った人が80人。 そこから、帰国する人、ウイーンに戻って、観光をやり直す人、私たちのように、プラハや他の処に移動する人、ラインクルーズに行く人、さまざまに分かれた。 私は、まだ行ったことのないプラハを希望し、夫と個人旅行となった。 2泊だけの滞在だったが、地下鉄で、スリ集団に囲まれて、未遂ではあったものの、コワイ思いもしたし、国立オペラ劇場で「セビリアの理髪師」を見たり、どこの店でも、クレジットカードも、ユーロも使えず、チェコのお金しか受け入れてくれないことがわかって、腹立たしい経験もした。 リルケやカフカの軌跡を辿ろうという、私の期待は果たせなかったが、自由化して久しいはずのプラハの、現在の一面に触れることは出来た。 元共産圏の国への旅は、4年前、ロシアで経験しているが、社会システムと、習慣というのは、ちょっとやそっとでは、なかなか変わらないものだと言うことを、あらためて感じさせる。 しかし、実際に接したホテルのスタッフや、タクシーの運転手は親切で、正直だったし、こちらが訊くことには、ちゃんと答えてくれた。 空港からホテルに行くときなど、「このタクシーは大丈夫だろうか」「料金を過大に要求したりしないだろうか」などと、つい、人を疑って掛かるクセが出るのは、若いときに暮らした南米での経験から来るものである。 どこの国でも、そこで暮らしている人たちは、概ね、善良なひとたちであるのに、ほんのわずかな不心得ものが、折角そこを訪れた旅人の印象を悪くしてしまうのだ。 お金が無く、働くところもなく、すさんだ人たちは、どこにでもいて、ヨーロッパなら、地続きであるため、流れ流れて、人の物をかすめ取ったり、無法な手段で生きていく人たちが出てくるのだろう。 華やかで、美しい町の裏側に潜む、暗く悲惨な現実。 そんな風景を垣間見て日本に帰ってくると、私の住むこの国は、なんて安全で、清潔で、きちんとしているのだろうと、あらためて思う。 よその国に行ってみて、自分の住む国の良さを知る。 これも、旅の魅力の一つなのだろう。 ウイーンとドイツの演奏会は、超満員の観客の拍手を受けて、予想以上の成功だった。 モーツァルトのレクイエム。 私の耳の中には、最後の音が、まだ鳴っている。
ことばが出てこない哀しさについて、以前からあちこちで書いているが、こういうことはこれから増える一方であろうから、「我がもの忘れの記」とでも題して、そのうち、自費出版しようかと思っている。 同病相憐れむではないが、案外とベストセラーになるかも知れぬ。 ・・と言う冗談はさておき、昨日から、どうしても出てこない人名があり、一日たって、ヒントになることを思い出した。 詩人、翻訳家、ポール・ギャリコの「雪のひとひら」を訳した女性。 この本は、私の愛する本のベストスリーに入る。 原作は勿論いいのだろうが、訳した人の日本語の文章が素晴らしい。 いつか、ミニスカートで足を組んで、まるで少女のような不思議な表情をしたセルフポートレートを、何かで見たことがある。 ここまでわかっているのに、人名が出てこない。 こういう場合、検索すれば簡単なことはわかっているが、何とか、自分で思い出そうとして、丸1日逡巡した。 でも、もう無理だと諦め、グーグルで「雪のひとひら」で検索した。 たちどころに見つかったその名は、矢川澄子。 渋沢龍彦と結婚していたこともある。 2002年、自宅で縊死。 セルフポートレートに写った美少女は、当時、36歳。 亡くなったときは71歳。 これ以上長く生きる人ではなかったのかも知れない。 彼女が亡くなったとき、私は少なからぬショックを受けて、当時、矢川澄子について、いろいろ調べたりしたのに、いつの間にか忘れていて、検索で、思い出した次第。 ところが、なぜ、矢川澄子の名を思い出そうとしたかの動機については、忘れてしまったのだから、どうしようもない。 自身の生活が、詩的情緒とはかけ離れた、リアリズムに満ちているせいか、こうした人のことも、記憶の底に沈んでしまう。 記憶と言えば、先日のモーツァルト「レクイエム」の公演は、全曲暗譜で臨んだ。 もう若くない私たちが、一時間近くもの曲を暗譜する方法はただ一つ。 繰り返し、反復練習するしかない。 考えなくても、口からメロディが出てくるまで、繰り返し、歌って覚えるのである。 学生時代に一度、40代で一度、この曲を練習し、ステージで歌っているが、いずれも、楽譜持ちだった。 楽譜を持っていても、ほとんど見ることはないのだが、持っているだけで、安心感がある。 しかし、今回は、楽譜は持たず、文字通りの暗譜である。 心配していたが、新しい曲と違って、過去に1,2度歌った経験は無駄ではなく、メロディは頭に入っているし、オーケストラが鳴り出せば、どこの何ページとわからなくても、自然に自分のパートが出てくるまでになった。 23日は幸い、いい天気。 私は最前列のアルト、隣はテナーである。 滅多に履かないヒールの靴で、休憩無しの演奏だったため、直立不動で、死ぬほど足が痛かったが、歌の方は、ほとんど脱落することなく、歌い切ることが出来た。 私が直接声をかけたうちの1人は、演奏終了後にロビーで会うことが出来、もう一人は、翌日、電話をくれた。 親類、夫の友人達も、メールで、感想をくれた。 あとの人は、来たのか来なかったのか、音沙汰無しである。 今回は、無料で、客の全員は招待という趣旨である。 申し込んで、来なかった場合もあるので、言い訳をしなくて済むよう、こちらからは話題にしないで置く。
紅葉は山の高いところ 気温の低いところから始まります。 岩肌に張り付いている紅葉の葉。 赤い色が鮮やかに映えて けなげな感じもしますね。
|