沢の螢

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「女の園」
2006年01月04日(水)

最近、テレビをあまり見なくなってしまったが、懐かしい映画などをやっていると、見る。
新聞の購読も、昨年4月から止めてしまったので、テレビ番組のために、300円ほどのテレビ雑誌を買っている。
今日は、午後からいつも見る番組にチャンネルを合わせたら、緊張感のないつまらない画面が流れてきたので、あちこち回していたら、BSで、木下恵介監督作品「女の園」という、昭和20年代後半の映画をやっていたので、途中からだったが、終わりまで見てしまった。
規則の厳しい女学校の寄宿舎で起こった、女生徒と学校側との対立を縦軸に、女生徒たちの友情と恋愛を横軸に織りなした映画である。
高峰三枝子の女舎監、岸恵子、高峯秀子、久我美子らの女生徒、それに田村高広。
みな若く美しい。
このころの映画作りは、シナリオも、ロケも、演技も、大変丁寧に時間をかけて作っていったと見えて、ロングで回した場面が多い。
恋人同士が歩きながら、深刻な話をするところなど、そのままカメラが移動する形で撮っている。
同時代の小津安二郎、成瀬三樹男なども、同じ手法をとっている。
黒澤明は、ちょっと違うようだが、いずれにしても、日本映画が黄金時代といわれた、昭和20年代から30年代終わりにかけての映画は、見ごたえのある作品が多い。
映画監督になりたいという夢を持ちながら、許されずに役人になってしまった私の父は、暇があると、私を映画館に連れて行ってくれた。
本当は父が見たかったのだが、私の下に、まだ小さい妹たちを抱え、映画など行くべくもなかった母に遠慮して、父は、私をダシに使ったのである。
時には、私の友達も、一緒に連れて行くことがあった。
おかげで、私は小学校高学年の頃から父のお供で、大人の映画をたくさん見ることが出来た。
その代わり、家に帰ると、必ず感想文を書いて、父に見せることになっていた。
父は、「子供の情操教育」と称して、母への言い訳にしたのである。
母にも、映画の話をしたくて、たまらなかったが、我慢した。
母も、本当は、映画が好きだったのである。
その代わり、年に2,3回、弟妹たちの面倒を父と見ながら、母の映画館行きに協力した。
留守番の父は、夕飯を作って、母の帰りを待った。
父に手伝って作ったカレーライスの記憶も、懐かしい。
母が、顔を上気させて帰ってきて、やや興奮状態で話した「赤い靴」という映画は、イギリスのバレエ映画。
その後私も見たが、モイラ・シアラーというバレリーナ主演の、アンデルセンの童話を下敷きにした映画は、カラーで美しく、バレエの場面がすばらしかった。
このころの映画は、そうした記憶と深く結びついている。
イタリアンリアリズムの映画も、アメリカの音楽映画も、フランスの恋愛物も、中学生までは、父と一緒に見た。
映画は、少女時代の私にとって、文学作品と並んで、人生の教師であり、心を豊かにするものであった。
私の描いた映画の感想文、父はどんな風に読んだであろうか。
中学も終わりくらいになると、私は友達と映画館に行くようになり、感想文を父に見せることも、あまりなくなってしまったが、父は、自分の見た映画と同じ映画を、娘がどう見たかということを、いつも知りたがっていた。
だが、私の方は、もう思春期になっていて、そんな話をいつまでも父親と話すことが、煩わしくなり始めていた。
そんな態度を見て、父は、もう娘が自分の手の届かない世界を持ち始めたことを、悟ったようだった。
映画の感想文の最後は、高校3年に見た「居酒屋」というフランス映画。
マリア・シェル主演の、ゾラの小説の映画化。
「いつの間にかずいぶん大人っぽいことを書くようになったね」と父が言った言葉を覚えている。
どんなことを書いたのか、私自身は、忘れてしまった。


いささかホッと正月2日目
2006年01月02日(月)

新しい年が巡ってきたが、暮れから元旦にかけて、何もしないようでも、主婦は気持ちがせわしい。
この10年あまりは、大晦日から正月にかけて、息子夫婦がやってきて、2泊ほどするのが、習慣になっている。
息子の妻は働く女性だが、いまどきの人には珍しく、家事も、自分でやるタイプ。
「共働きなんだから、奥さん任せはだめよ」と息子に言うが、「いえ、私がやった方がうまくいきますから」と、彼女の方は気にしない。
確かに、何事も手早いし、子供の頃から母親にしっかりしつけられたらしく、家事を苦にしないようだ。
わずかな正月休みだというのに、せっせとおせち料理など作り、車にどっさり積んでくる。
家に来ると、そのままエプロンなど掛けて、台所に直行し、料理の仕上げに取りかかる。
「そんなに動かないで、少しのんびりなさい」と言うが、婚家でそんな気にならないことは、経験上、私もよくわかる。
今年は、年末年始の休みが四日しかないので、泊まるのは一泊だけになると、息子から電話があり、「同じ東京にいるのだから、日帰りでちょっと来ればいいわよ」と言ったが、息子の妻にしてみれば、実家には泊まりに行くのに、亭主の家には日帰りというのでは、悪いと思うらしい。
「普段、なかなか行けないので正月くらいは・・・」と息子がいい、結局、大晦日から元日にかけて我が家、そのあと彼女の家に一泊、最後の一日だけ、自宅で、ゆっくり過ごすと言うことに落ち着いたようだった。
四日からは、もう仕事だという。
「料理も大変だから、いいわよ」と言ったのだが、やはり、大晦日、彼女の定番となっている和洋折衷の正月料理を、たくさんタッパーウエアに入れて持ってきた。
試食もかねて、それらを並べ、私が作ったのは、サラダとつまみ少々くらいで、ほとんどは彼女の作った料理で、夕食となった。
今年は誰も、紅白を見ないというので、ウイーン演奏旅行のDVDをかけ、モーツァルトの「レクイエム」の演奏本番を見てもらった。
旅行の話も含め、話が弾み、いつの間にか年が明け、シャンパンで乾杯した。
正月は、みな、10時頃まで寝ていた。
それから新年の食卓を囲み、年賀状を見たり、息子夫婦と団らんしながら夕方まで過ごした。
夕方6時過ぎ、息子たちは、彼女の家に行くと言って、出て行った。
向こうでも、親たちが待ちかねていたことであろう。

そして今日は、今にも雪が降りそうな寒さ。
夫婦二人で、また静かな平常の生活に、早くも戻っている。
特別でないこんな平凡なことを、長々と書いてしまうのは、年をとったと言うことかもしれない。
平凡で平和に暮らせることのありがたさを、このごろつとに感じている。
今年、私は年賀状を、昨年より減らしたが、ほとんどつきあいもない義理の賀状を、いっさい止めたからである。
出せば、受け取った方は、返してくる。
出さなければ、来年は向こうから来ないだろう。
数の多さを誇る気もないのだから、実質的なつきあいの範囲に留めることにした。
それで、今年は60枚くらいで済んだ。
今年貰った年賀状を見て、来年は、また差し出し先が変わるかもしれない。
自分の身の始末を、少しずつ付ける年になってきている。


新たな年の初めに
2006年01月01日(日)

大分前に頃柳徹子がテレビで言っていた。
「若い頃は一日が長かったけれど、五十,六十になると、10年が束になって飛んでいく感じ・・」。
私自身もまさにそれは実感である。
過ぎた日々を思い出すとき、若いときも、決して一日が長かったとは思わないし、いや、むしろ楽しいことは、アッという間に過ぎていくような経験の方が多かったと思うのだが、年を重ねてのそれと違うのは、まだまだ先に時間があると思えたことだろう。

昨年11月はじめ、ウイーンの大聖堂で、モーツァルトの「レクイエム」を歌うという、劇的な体験をしたが、日本から講演旅行に参加した120人のメンバーは、20歳の大学生から75歳のシニアまでの、多世代にわたる構成だった。
歌や練習については、年齢による差は、あまり感じなかった。
一時間直立したままのステージ練習では、基礎体力の劣っているはずの、私たち中高年よりも、若い人の方が、耐久力がないように思えたし、ソプラノとテナーの高音は、若い連中の方が勝っていたが、音楽の理解や表現、声のコントロールなどは、年齢差よりも個人差だと感じた。
旅行中、荷物を持ったり歩いたりの場面でも、年齢の高い方が若い人たちに、一方的に助けを借りたり、面倒をかけると言うことも、ほとんどなかった。
瞬発力や、スピードは叶わなくても、判断力や、想像力は、若さよりも、人生経験が上回る。
だから、いろいろな年齢の人たちが集まった団体旅行は、それなりに、得るところも、広がりも多く、プラスに働いたのである。
それよりも、一番世代の差を感じたのは、公演旅行が終わり、12月に入って、打ち上げパーティで再会したときだった。
「すばらしい体験に恵まれて、感動しています」という趣旨はほぼ共通。
高齢メンバーの多くが、「こんなことは、もう、これからの人生には、ないと思います」という感想が多かったのに比べ、若い人たちが、「今年こんないい経験をしたので、来年はもっといいことがあるのではないかと思います」と述べたことである。
当たり前といえば当たり前だが、残り時間の少ない私たちと、まだまだあと半世紀は生きる可能性のある人たちとの、決定的な違いを見たように思った。
来年に楽しみを求められる若さを、うらやましく思い、そして、いつ生を終えてもおかしくない年齢に達しつつある私たちの、残された時間を思った。
過ぎた日々は、あとから振り返ることが出来る。
青春も、恋も、権力との闘いも、私たちにはあった。
20代から50代にかけて、男の人たちの多くは、自分と家族のため、そして、それを取り巻く社会と国の経済を向上させるために働き、女性たちの多くは、それを陰で支え、また自分も参加して、人生を過ごしてきた。
でも、若い人たちにとって、行く手にあるものを想像することは難しいだろう。
これからの人生に何が待っていて、その中でどう生きていくのか、どうやって、自分の道を見つけるのか、すべては、未知の世界である。
期待と不安をない交ぜにした気持ち。
たぶん、笑顔で来年への夢を語りながらも、心の奥底には、それらの感情は隠されているだろう。
でも、過ぎてきた時間より、これからの時間の方が、ずっと多いのだという事実は、何にも代え難い。
10年が束になってと言える10年が、これから先残っているかどうかさえ予測できない世代にとっては、一日一日が大切なのだ。
昨日から泊まりに来た息子夫婦が帰っていき、また夫と二人になった静かな夜に、こんなことを書いておきたくなった。


再開のエチュード
2005年12月09日(金)

「再会の・・」という題ならロマンチックな恋物語になるが、あに図らんや、色気のない話題。
2,3日前から、ピアノの練習を始めた。
若い頃、出産を控えて、当時勤めていた会社を辞めた。
その退職金で念願のピアノを買ったが、子供が生まれ、育児に追いまくられて、ピアノどころではなくなり、ちゃんとレッスンに通うでもなく、子どもの頃習った教則本を見て、ポロンポロンやっていたが、いつの間にかうち捨てられてしまったピアノである。
楽器は、やはり、先生に付かないとダメである。

私が子どもの頃は、ピアノは、余程金持ちの家でないと、個人が持つのは、一般的ではなかった。
学校の音楽室にあるピアノが、身近で見る唯一の物だった。
小学校6年の時、どうしてもピアノが習いたかった。
そこで父が、当時通っていた小学校の、音楽の先生のところに、私と、2,3人のクラスメートを伴って、何とかピアノを教えてもらえないかと、頼みに行った。
家で、紙の鍵盤の上で指を動かしている娘を、かわいそうに思ったのだろう。
先生は、はじめは断ったが、何度か頼んでいるうちに、とうとう、教えてくれることになった。
今なら、他の親たちから文句が出るところだが、当時は、親世代が、ピアノなんてものに関心がなかったし、子ども達は、外で走り回って遊ぶのに忙しかった。
学校で、先生に教わった歌を、合唱するくらいが、せいぜいだった。
だから私たちにピアノを教えてくれることになった先生は、全くのボランティア、月謝はいりませんから、ピアノの調律代だけみんなで負担して下さいと言うことだった。
毎週日曜日、私たちは、電車に乗って、先生の自宅に通い始めた。
皆、家にピアノがないので、レッスン日の他に、週に一度、先生宅のピアノで、練習させてくれることになった。
まる3年通った。
その間、月謝は、親たちが、毎年少しずつ増やしてくれた。
先生の方から、要求はなかったが、本当は調律代にも足りなかったかも知れない。
中学に入り、学校が変わり、友達関係に変化があり、1人1人減り始め、中学3年の時に、私もやめてしまった。
バイエル、ソナチネ、ソナタと進むうちに、先生のところに練習に通うだけでは、レッスンが捗らなくなってきたのである。
いつまでも、同じ曲の繰り返しで、詰まらなくなり、あれほど好きだったピアノを、続ける意欲がなくなったのである。
先生の方も、小学校から大学付属の学校に変わり、忙しくなっていた。
でも、自宅にピアノがあったら、やめずにいたかも知れない。
「高校に入って、また弾きたくなったらいらっしゃい」と言ってくれたが、そのままになってしまった。
自分で働くようになったら、いつかピアノを買おうと思った。
私がピアノを買った頃は、もう、個人で、ピアノを買うことが、それ程大変ではない時代になっていた。
子どもの時に、ピアノが持てなかった私の世代は、その仕返しのように、ピアノを買い始め、子供が生まれると、レッスンに通わせるようになった。
「本当は、私も習いたかったのよ」と、クラス会で昔の友達から言われたこともある。
私は、自分が弾きたかったから買ったのであるが、いざ、手に入れると、タイミングの悪さもあって、あれほど欲しかったピアノを、あまり使わずに過ぎてしまった。
今頃になって、急にまた弾く気になったのは、最近、指の力が衰えているような気がして、試しにピアノに触れてみたところ、音階を流すくらいのことも、うまく行かないことがわかったからである。
16分音符が、均一の長さで、流れない。
ピアノは、子どもの頃に覚えた曲は、いつまでも覚えているものだが、意識が先行して、指が、思うように動かないのである。
愕然とした。
パソコンのキイを叩く要領とは、まるで違う神経を使っているのだということが、良くわかった。
そこで、毎日、30分ほど、ピアノをいじることにしたのである。
子どもの頃に習ったピアノの楽譜は、ぼろぼろになりながら捨てずに、何度もの引っ越しに耐えて、手元にある。
先生が赤や青で書いた注意事項も、半世紀を経て、そのままである。
今日は、モーツァルトのソナタ、ポール.モーリアのピアノアレンジを弾いてみた。
いずれも、初歩的な曲。
流れは悪いが、何度か繰りかえすうちに、だんだん蘇るような気がする。
しばらく、この練習を続けるつもりである。
楽しみと、指の訓練のため。
当分、先生に付いたりしない。
ストレスになるからだ。
やさしく、楽しめる曲を選んで、気ままに弾く。
気が乗らないときは、無理に弾かない。
家事が終わり、ホッとしたお昼前の30分が、一番良いと言うことも、わかった。
ちょうど区切りがつく。
そして、テレビを見ながら、夫と昼食を食べるのである。


日記/手帳あれこれ
2005年12月07日(水)

逡巡を少し愉しみ日記買ふ

10月終わり頃になると、もう次の年の日記や手帳が出回りはじめる。
日記というと、1月からと言うのがふつうだったが、最近は、4月始まりの物もあるし、10月始まりというのも、出てきている。
そして、1月始まりであっても、前年11月ぐらいから書き込めるようになっているのも、嬉しい変化である。
日記帳は縦書きの分厚いもの、手帳は小型で薄いものという旧来のイメージも崩れ、日記帳とも、手帳とも、区別の付かない物が大半である。
そして、この業界の競争も激しいと見えて、年々、デザインが豊富になり、工夫を凝らして賑やかになっている。
日本人は、こんなに日記を書く人種なのかと、改めて思うが、旧来のイメージの日記でなく、記録、あるいは、日々の覚え書きと言った使い方のほうが多いのではないだろうか。
働く女性が多くなった今では、女性もビジネスに不可欠な小道具として、手帳を持つ。
主婦の私でも、毎日の生活に、手帳は必需品である。
IT化が進んでも、手書きの手帳は、バッグに入れておく物として残るであろう。
この数年、私は、月ごとの予定と、毎日の簡単なメモが書ける手帳の他に、日付以外は白紙の文庫版日記帳を買い、使い分けしていた。
バッグに持ち歩くのは手帳、予定や約束事、外出時の覚え書きはそれに書いておく。
文庫日記の方は、新聞で読んだ記事の感想や読書の記録、気に入った短歌や俳句などを記すことにした。
しかし、ネットでブログを書いたり、ホームページに掛ける時間が増えると、文庫日記のほうは、ほとんど白紙のままで置くことが多くなった。
そこで昨年は、文庫日記は買ったが、1000円もする手帳を買うのをやめ、スーパーに売っている400円くらいの安い手帳を買った。
予定を書く欄はあるが、あとは、横線が引いてあるだけのシンプルな物である。
その一冊で充分だと思ったのである。
ところが、どうも使い勝手が悪い。
日付で区切られていないので、必要なときだけ記入する点では便利なはずだが、逆に、必要なときに記録するのを忘れてしまう。
日付で区切られていれば、空白があるのが気になるのだが、その気持ちを持たずに済むのである。
やはり、記録のためには、毎日の日付が、最初から入っていた方がいい。
そこで今年は、まず、以前使っていた手帳と同じ仕様で、余分なページのない記録専用の手帳を買った。
文庫日記帳も買った。
今年も白紙ページが多いのだが、これがないと落ち着かない。

昨日、両親を訪ねた帰り、ロフトに寄った。
先日、たまたま知った糸井重里のサイトで、「ほぼ日手帳」のことが書いてあり、爆発的に売れているという。
売り出してすぐに完売、次の予定は12月はじめ、場所はどこそこで・・・などと書いてある。
そんなに人気の日記とはどんな物なのか。
売り出しの場所の一つが、帰りの駅の近くなので、見たくなったのである。
どうせ売り切れだろうと思っていくと、売り場に積んである。
小型システム手帳のような作り。
表紙が5色ほど。
手に取ってみたが、ページのデザインなどは、確かに、他にないような作りである。
使いこなせば、良いかも知れない。
気持ちが動いたが、3500円は、いかにも高い。
私の生活に必需品とも思えない。
それは止め、ついでに、ロフトで扱っている手帳、日記のたぐいを、隈無く見て歩いた。
あることあること。
本屋や文房具店にはないような、さまざまな種類がある。
若い女性が飛びつくようなキャラクター商品のマーク入りや、手帳とも日記とも判別しがたい物が多い。
これなら、持っているだけで愉しいだろうなと思う。
見ていると買いたくなり、2つばかりお目当ての物をマークして、今度は、日めくりのところに行った。
こちらは卓上に置いたり、壁に掛けて、毎日めくっていくもの。
以前は、教訓カレンダー的な物しかなかったが、昨日見た中には、「声に出して読む文学作品日めくり」とか、「豆知識日めくり」とか、凝ったものがある。
そのうち、折り紙の折り方が、365日入っている物があり、手帳日記を止めて、それを買った。
何とドイツ製である。
毎日、カレンダーをめくるたびに、新しい折り紙を一つずつ折っていったら、愉しいし、指の訓練になるではないか。
1470円。収穫だった。


ケアハウスで
2005年12月06日(火)

このところ寒さが厳しい。
しばらく父母の顔を見ていないので、午後から行く。
都内のケアハウスにいる両親は、共に90歳を超えて、健在である。
父の方は先月、時々熱を出したりしていたので、心配したが、今日は、元気な顔を見せてくれた。
95歳、いつ何があっても、おかしくない年である。
まだ車椅子は使っていないが、かなり足は衰えていて、ハウスのヘルパーさんの手を借りないと、歩けない。
しかし、なるべく車椅子を使わない努力をしている。
私の顔を見ても、もう、名前を呼んではくれない。
会話の力は、とんと衰えてしまった。
ただ、こちらから言うことには、反応するので、少しはわかるのであろう。
好奇心が旺盛で、外に出るのが好きだった父。
いつも、本を読み、短歌をたしなみ、人と話をするのが好きだった父。
いろいろなことが、だんだんわからなくなっても、穏やかで、人に気を使い、礼儀正しい性格は、少しも変わらなかった。
父の姿を見ていると、人間の、子どもの頃から培われた人格は、一生を通じて、変わらないものだと言うことが、良くわかる。
沢山のきょうだいも、ほとんど亡くなり、親しくしていた友人、知人、同世代のほとんどは、この世にいない。
そうした寂しさを感じる力がなくなったことは、父にとって、神様の思し召しかも知れない。

一緒にいる母は92歳、耳が遠く、補聴器を付けていても、相当大きな声でないと届かない。
それでも、ハウスのスタッフや医者の言うことは、大体わかっているらしい。
会話は、母の一方的な話に、こちらが相づちを打ったりすることが多く、あまり細かなニュアンスは伝わらない。
頭はしっかりしていて、まだお金は自分で管理している。
週に二回、スーパーなどの買い物をスタッフに頼み、日用品や食料品などを買ってきてもらうらしい。
自室の電子調理器で、食堂では出ないような、好みのおかずなどを作っている。
私が行くことが、前もってわかっているときは、煮物などを作って、持たせてくれたりする。
今日は突然行ったので、「何も作ってなくて悪いわね」と、取り置きのカステラを切ってくれた。
60代半ばになっても、私は母にとって、いつまでも、娘なのである。
父のことも、最近まで、母があれこれ世話を焼いていたが、もう手に負えなくなって、今は、ほとんどハウスの介護に任せている。
「無理しないで、やって貰いなさい」と私も言う。
その為に入っているのだから。
きょう、ハウス内の喫茶室にコーヒーを飲みに行った父が、ヘルパーさんに連れられて、戻ってきたので、私が、椅子に座らせようとした。
ところが、なかなか巧くいかず、一苦労した。
後ろから父の脇の下に、私の腕を差し込み、両手で、持ち上げようとしても、思うように行かない。
何とか、椅子に座らせたが、若いスタッフでも、こういう世話はさぞ大変だろうと、良くわかった。
専門的知識がないと、骨折や打撲に繋がってしまう。
改めて、ハウスの介護に感謝する気になった。

夕方帰るとき、「お父さん、また来るからね」と言って、父の手を握ると、ビックリするほどの強さで、握り返した。
ハウスの中は、ほどよい気温が保たれている。
外に出ると、寒い風が吹いていた。
両親を見送るまでは、私も元気でいなくては・・。


冬の林檎
2005年12月04日(日)

真夜中の林檎は紅く凛としてそのけなげさに涙こぼるる(茉莉花)

秋から冬の間は、野菜も果物も、おいしい。
葉物の緑は濃く、蜜柑や林檎の色は、赤みを増し、甘く、良い味になっている。
私の家の居間の、キッチンとの境にあるカウンターには、ガラスの果物鉢が置いてあり、店から買ってくると、そこに盛り上げておく。
寒い夜にあっても、鉢の果物は美しい色で、居間の隅を飾ってくれる。
花もいいが、果物を飾っておくのも良い。
勿論、そのうちに、食べて無くなってしまうのだが、いっとき、赤やオレンジの色があるのが、気分を和らげてくれる。
いつも気にしているわけではないのだが、鉢が空になっていることに気が付くと、とりあえず、家にある果物を入れておく。

昨日は、朝から出かけてしまい、果物を盛っておくことをすっかり忘れてしまった。
夕べ遅く、明かりを消す前に、気が付くと、真っ赤な林檎が、たった一つ鉢にある。
寒さがしんしんと迫る真夜中。
誰も居ない、真っ暗になった部屋に、この林檎は、ひとり紅い色を放って鉢の中に坐っているのか。
そう思ったら、不意に涙が溢れた。
けなげな紅い林檎よ。
その揺るぎのない形。
私の祖先のイブは、お前からどんな知恵を授けられたのだろうね。



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