沢の螢

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初雪や
2006年01月22日(日)

初雪や太郎次郎の起きる声

先月、都心の小グループで巻いた連句は、私のこの発句で始まった。
これは、有名な三好達治の詩の一節、

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ

から発想したものである。
この冬の寒さは格別で、今にも雪が降りそうな日が続いたが、東京ではまだ雪を見なかった。
しかし、北の国では、毎日のように、大雪が降り、その模様が伝えられていた。
雪掻きの作業中、あるいは、雪道での転倒などで、高齢者が亡くなったり、けがをしたりする事故が、続くようになった。
私たちが想像するような、生半可な雪ではないのである。
三好達治の詩は、しんしんと降った雪の静けさが伝わるが、今年の雪の降り方は、毎年慣れている雪国の人たちにとっても、今までにないような現象であるらしい。
雪に、心情的なロマンチシズムを感じたりするのは、そう言うところで暮らしたことのない都会人の、勝手な思いこみだと、昨日連句で一緒になった、雪国出身の人たちが話してくれた。
昨日はじめて降った雪。
電車のダイヤが乱れ、行くのに、時間がかかったが、その連句会では、今年はじめての集まりなので、おいしいお寿司と、お酒で、盛況だった。
いつもなら、二次会に行くところだが、帰りのことを考え、まっすぐ帰ってきた。
さすがに二次会の参加者は、少なかったようである。
今朝、気温が大分低いらしく、雪が半分固まっている。
なまじ、雪掻きなどして、積んでおくと、なかなか解けないので、人が歩ける程度に道をあけるに留めた。
連句サイトの表紙を、雪の写真に変えた。


時を超えるもの
2006年01月18日(水)

昨日、20数年ぶりに懐かしい人と会う機会があり、すばらしい時間を過ごした。
その人は、南米のある国に住んでいるが、日本人である。
17歳の時、父親の転勤で、両親と兄とともに、日本と反対側にある国の、首都にわたった。
私は、ちょうど同じ頃に、夫の駐在に伴い、息子とともに、そこに住んで、2年近く経っていた。
たまたま、私の通っていた語学学校に、その兄弟が入ってきて、知り合ったというわけだった。
日本にいれば、年も、環境も違う者同士が、ふれあう機会はあまりないし、道で歩いていても、お互い風景の中の一部でしかなかったろう。
しかし、外国で、出会った日本人同士というのは、時に、日本では考えられないほど、大変密接に結びつくことがある。
特に、見知らぬところで、耳慣れぬことばばかりが聞こえてくる異国では、すれ違っただけであっても、日本人の顔を見ると、ホッとし、駆け寄りたくなるほど懐かしくなる。
日本にいれば、日本人を懐かしいなどと、少しも思わないのに・・・。
若い兄弟と私は、すぐに友達になり、教室が終わると、その兄の運転する車で、家まで送ってもらったりした。
ちょっとエキセントリックでシャイな兄、人なつこくて、笑顔のすてきな弟。
外国の駐在員で、ハイティーンの子供を連れてくるケースは、当時、その国では少なかった。
小中学校は、日本人学校があるが、高校は現地の学校、またはアメリカンスクールに行くことになるので、日本の学歴を子供に付けたい親たちは、子供が高校受験期になると、母親だけが付いて帰国し、日本の高校を目指すケースが多かった。
だから、高校、大学に通う年頃になって、親の転勤で現地に来た兄弟は、大変珍しかった。
親たちの方針もあったのだろう。
同世代の、日本人の友達のいない地で、彼らは、いつも寄り添って、お互いをかばいながら、行動していた。
そんな二人が、とても、いじらしく思え、彼らの母親ほどではないが、年長の友達として、話し相手くらいにはなってあげたいという気持ちになった。
まず言葉をマスターしなければ何も出来ないと言うので、語学学校に通う傍ら、家でも、個人レッスンを受け、早くその国に馴染もうと、努力していた。
語学学校の休み時間や、帰宅の車の中で、話すくらいしか、機会はなかったが、日本での学校生活のことや、将来の夢など、いろいろと聞くことが出来た。
そのうちに私の方が、日本に帰国することになった。
私は、家にある日本語の本や、歌のテープなどを、少し残し、日本から手紙を書くことを約束した。
空港に送りに来てくれた彼らの、ちょっとさびしげな笑顔を、よく覚えている。

帰国後、私は折りに触れ、日本の生活の様子や、流行っている歌のことや、映画の話など、書き送った。
向こうでは日本語の本が手に入りにくいので、時には、話題になっている本を送ったりした。
兄の方からは、全く返事が来なかったが、弟の方は、必ず返事をくれ、今、何をしているか、どんなことを考えているか、学校での友達のことなど、向こうの様子を知らせてくれた。
もう、その国で暮らすことに決めていて、親たちは、彼らを残して、数年後に帰国した。
その母親とは、年賀状のやりとりをするようになり、兄弟の様子も知ることが出来た。
やがて彼は、大学に入り、就職し、現地の女性と結婚した。
時々現地を訪れる彼の母からは、「ことづかりました」と言って、コーヒーや、Tシャツなどが送られてくることもあった。
そうやって、いつの間にか、27年の歳月が流れた。
同じ時間の経過でも、私と彼とでは違う。
少年が成長し、大人になり、仕事をし、家族を持ち、今は、3人の男の子の父であり、仕事もある成果を収めて、日本に出張に来る立場である。
私の方は、子供の成長は同じくあるが、家庭人としての生活は、基本的には変わらない。
だが、彼が、短い滞在期間の間に、私に会う時間を作ってくれたことに、私は感動した。
21歳の時に、日本に一時帰国し、ちょっと会う機会があっただけだから、それを入れても、24年ぶりである。
その間、彼は、アメリカに留学したり、何度か仕事が変わり、一時、交信が途絶えたこともあった。
私の方も、10年後に、別の国に、数年暮らし、互いの様子も知ることなく過ぎた時期があった。
しかし、いつも、頭の隅には、今、どうしているだろうという思いは、あったような気がする。
そして、その細い糸を繋いでいてくれたのが、彼の母親だったと言うことになる。

私たちは、再会を喜び合い、ワインで乾杯し、お互いの過ぎた年月の話に、時を忘れた。
もう立派な社会人である彼だが、少年の頃の、人なつこい笑顔は、そのままであった。
そして、今は、もう、大人と子供ではなく、同じ人間同士で、話が出来るのが、何より嬉しかった。
明日は地方に行く予定があるという彼と、いつの日か、再会を約束して別れたが、帰りの車中で、暖かい涙が、私の胸を濡らした。
思ったのは、時間の経つすばらしさである。
海を隔てて、ほとんど顔を見ることもなく、長い年月が流れたが、昨日会った人のように、会話を続けることが出来た。
たぶん、心の中で、時間の経過を埋めるものが、しっかりあったと言うことだろう。


ケータイを持つということ
2006年01月16日(月)

ひと頃までは、若い人だけの持ち物のように思われていた携帯電話。
中高年の間にも広がりはじめ、ここ1,2年の間に高齢者向きの、操作の易しいケータイまで登場した。
居所がわからなくなったり、事故に遭う確率の高い年寄りには、いざというとき、手元の機械で、簡単にS0Sを発することが出来れば、どんなにか心強いだろう。
私の仲間は、中高年が大半だが、今や、ケータイを持つのは、特別なことではなくなった。
高齢の人の中には、自分が持つと言うより、家族によって、持たされているという人もいる。
出先で、突然心筋梗塞でも起こしたようなとき、連絡出来ないと困るからと言うのである。
「娘がウルサイから持ってるのよ」と言いながらも、ケータイなら、孫からも気軽に掛けてもらえるので、まんざらでもなさそうである。
私も、まだ個人用のケータイがそれほど普及していなかった頃から、持っている。
自分では、全く必要性を感じなかったが、息子が、たまたま正月の福袋で、ケータイの機器を当てたからといって、私にくれたのである。
タダなら頂戴と言って、黒い不細工な器械を貰ったが、よく考えてみると、機器よりも、ケータイ会社の電話料の方が、ずっと高いものであることを、認識していなかった。
そのころのケータイは、文字通りの携帯用電話機であり、カメラも、メール機能も付いていなかった。
しかし、アッという間に利用者が増え、付属する機能も向上し、さらには、カメラも付き、メールはもとより、データベースとしての用途にも、使えるらしい。
ブログは、ケータイ対応になっている場合が多く、パソコンを持たない人でも、電車の中から、ケータイでブログに発信している人もいるようで、その点だけは、うらやましい。
私も、最初の黒電話的機器から、シルバーピンクのスマートな機器に、そして、また、二つ折りの機器にと、見かけだけは向上したが、パソコンと違って、指先で、操作する小さな器械は、どうも使いにくいし、分厚な説明書も読む気にならず、未だに、使いこなせない。
ごく必要な最小限の電話番号を、亭主に入力して貰い、順番に押しているうちに、掛けたい番号が出てくるというような、アナログ的操作の域を抜けていないのである。
「パソコンを使って、ホームページだの、ブログだのやっている人が、おかしいわね」と、友人たちはあきれている。
私のケータイに掛けても、大体が通じないと言うので、よく文句を言われる。
電源を切ってあることが多いからだ。
「私のは、110番と救急車と、あとは亭主に連絡するだけでいいの」と強がりを言っているが、せっかくなら、メールもインターネットも、パソコンと同じく使いこなせるようになりたいと思っていた。

昨日、青山で、私の所属する会の、新年の行事があった。
ケータイを持って出るのを忘れたが、あまり気にしなかった。
会が終わり、20人ばかりで、飲み屋に繰り出すことになった。
いつも仲良くしている人が、別のところで待っている人を誘ってくるから、というので、私は、ほかの人たちと飲み屋に先に行くことになった。
「今日ケータイ忘れてきたわ」というと「じゃ、何かあったら他の人に掛けるから」と彼女はいい、そこでいったん別行動になった。
私はみんなと一緒に飲み屋に行った。
店に着き、みんな店の人に案内されて、階下にあるらしい部屋に降りていったが、私は、彼女がすぐに来るだろうと思い、入り口のそばの、客待ち用のいすに座って、彼女を待つことにした。
「あと一人二人来ると思うので、来たら下に行きますから」と店の人に言うと、お茶を持ってきてくれた。
次々と、いろいろなお客が入って下に消えていった。
ところが彼女はなかなか現れない。
「どうしたの」と様子を見に来た人に「・・・さんから電話があるかも知れないから、あったら知らせて」と頼んだ。
わざわざケータイの番号を、彼女は他の人に訊いたりしたのだから、来るにしろ、来ないにしろ、遅くなれば、連絡があるはずだと思ったのである。
どのくらい待っただろうか。
ずいぶん時間が経ったような気がする。
場所がわからないのではないかと、外に出てみたりした。
店の人も、気にしている。
もしかしたら、誘った相手が来ないと言うので、そちらと一緒に別のところに行ったかのではないか・・。
私は、こんなところで、むなしく待ったことを後悔しながら、ともかく下に降りてみることにした。
「ちょっと狭くて、申し訳ないですが・・」と店の人に案内されていって見ると、確かに、狭い部屋に、びっしりみんなが座っており、もうすでに、乾杯もしたらしく、出来上がった雰囲気である。
そう言うところに、すんなりと馴染んで行けないのが、私の変に気の弱いところである。
「・・・さんから何か言ってきた?」と訊くと、「何も来ないわよ。番号がわかればこっちから掛けるけど」というので、手帳を見ると、なんと、今年用の新しい手帳には、肝心の情報が何も転記されていない。
そんなやりとりも、すでに賑やかにおしゃべりに興じている人たちには、聞こえない。
私は、雰囲気に出遅れたことと、詰まらぬ判断をしてしまったことで、だんだん憂鬱になり、そのまま、帰る気持ちになってしまった。
たぶん、彼女は、気が変わって、来ないのだろうと思った。
もやもやした気分のまま、家に帰った。
夫は夕食の最中である。
考えてみると、私は、新年会の昼食のまま、何も食べていなかった。
残りの物で、私も夕食をすませた。

大分経ってから、彼女から電話がかかってきた。
帰宅途中の駅からケータイである。
「どうして帰っちゃったの」と言っている。
誘いに行った相手が、行きたくないと言うので、じゃ、さよならというわけにも行かず、喫茶店でお茶だけつきあって別れ、それから飲み屋に行ったのだという。
私が店を出て、入れ違いくらいだったようだ。
私が入り口で待っていたことを聞き、悪かったと謝っている。
「電話してくれたら良かったのに」というと、「あなたのケータイだったらそうしたんだけど、遅くなっても行くのだから、向こうで会えるし、わざわざ他の人に連絡しなくてもいいと思ったの」という。
「絶対来てよ」と私がいい、「・・・さんに電話するから」といった彼女。
それは、もし、状況が変わったら、連絡するという意味だったらしいのだが、私は、来るにしろ、来ないにしろ、電話を掛けて来ると思いこんでしまった。
話してみれば、どちらも悪意のない、ちょっとした行き違いなのである。
彼女は、まさか、私が、さんざん待った挙げ句、帰ってしまったとは、思わなかったらしい。
「そう言う行き違いはあるよ。そんなときは、お互いを責めずに、悔やめばいいんだよ」と夫は言う。
確かにそうだ。
みんなと一緒に下に降りていれば良かったのに、勝手に、待っていた私の思いこみ。
そんなこととは、知らず、私がいると思って来た彼女。
その結果、謝らなくてもいいことに、謝る羽目になってしまった。
しかし、根本的な信頼感があるから、時間が経てば、解消するだろう。
「あなたがケータイを持っていたらねえ」と彼女は言った。
そうだろうか。
ケータイで、連絡出来ると言うことが、当たり前になるまでの人付き合いは、もっとお互いを気遣い、起こる可能性のあることをあれこれ想像し、会えなかった場合の手だてを考え、緊張感を持っていたのではなかったか。
ケータイがあることに頼ってしまうと、いつの間にか、そうした気配りも、思いやりも、忘れてしまう。
ケータイを持っていないのが、悪いという理屈になってしまう。
「君の名は」のすれ違いは起こらなくて済むが、何か、大事なことも、失っていくような気がしてならない。
昨年参加した合唱公演。
150人近くの団員の連絡手段は、メーリングリストだった。
費用もかからず、時間差もなく、大変便利だった。
中高年が多いので、高齢の団員の主として女性たちの中には、メールも、インターネットもだめという人が、少しいた。
その人たちへの連絡は、ファックスや、郵便を使った。
「済みませんねえ」と、毎回、お礼を言われた。
考えてみると、私たちは、それが普通の時代に育っているのである。
だから、自分が、出来るようになったからと言って、出来ない人たちを疎んじてはいけないのである。
メールやインターネットが普及して、昔とはちがい、格段に便利になった現在。
私はやはり、ケータイは、今の程度の使い方でいいことにする。
利便性に慣れて、他者への想像力が減退することを畏れるからである。
幸い、パソコンは、何とか使える。
これ以上便利でなくていい。
ケータイの使い方に習熟するよりも、その分、人の気持ちに敏感でありたい。
ケータイがなければ、つきあえないと言う人とは、つきあわなくていい。
そんなことを思った。


俳諧曼陀羅
2006年01月14日(土)

人間というのは、厄介なものだ。
政界でも、会社組織でも、近所付き合いでも、PTAの集まりでも、およそ人間が複数いれば、そこには、必ず、楽しいことばかりではない現象も起こる。
それは、そこに集まる人の、学歴とか、出自とか、品格に関わりないことの方が多い。
立派なお家柄の、お嬢さんの集まりだって、やはり、血の通った人たちであれば、表に出る形は、品の良いヴェールをまとっていても、嫉妬、競争意識、好き嫌い・・・そう言った感情に根ざした、目に見えない人間関係のずれは起こるであろう。
いや、むしろ、ヴェールに隠されているだけに、始末が悪いかもしれない。
町内会のえげつないおばさんの井戸端会議では、衒いなくさらけ出し合うような、人に関するうわさ話も、表に出さない代わりに、ひそひそと囁かれて、やがて、「ここだけの話」の筈が、富士のすそ野のように広がっていく。
話の発端になったこと、はじめに口を切った人は、必ずいるはずだが、みんなの耳に届く頃には、その出所はわからず、尾ひれだけが付いて、いつの間にか、とんでもない話になっていたりする。
そして、噂の標的にされやすい人と、蔭でよからぬことをしていても、何故か、あまり悪く言われない人といるのも、不思議なことである。

私はこの10年以上、俳諧の道を歩いているが、一人でたしなむ短歌や俳句と違い、一つの作品を複数で作り上げて行くので、その過程においては、人間くささの極みみたいな面がある。
どんなに気取って、取り繕っていても、いつの間にか、本性が現れてしまうのは、俳諧という文芸の特質でもあるのだろう。
この中には、森羅万象すべてが盛り込まれるので、花鳥風月だけで、成り立つわけではない。
恋もあれば、人間の持ついやらしさ、滑稽さ、優しさ、悪辣さも、句の対象になる。
また、複数で巻くと言うことは、ある種の切磋琢磨であり、競争意識も働く。
表面では、行儀良く一つの座にいても、心の中では、いい意味でも、悪い意味でも、たたかいに似た気持ちがあるのも事実である。
それなら楽しくないではないかというのは、外から見た見方で、野球でも、ダンスでも、自分の技を磨き、同時に人と競うことによって、向上するから、そこに喜びがあるのと同じである。
ただ、それが、志の高い次元であれば、お互いにとってもいいことなのだが、必ずしも、そうはいかない。
詩心、連句の技に優れた才能があっても、人の集まる社会では、生かされない場面もある。
性格も、好みもあるし、どんな世界にあってもそうだが、人の間を上手に渡り歩く才の長けた人には、時に、文芸性が負けてしまうことのあるのも、この世界の特徴である。
昨年、私の周りには、そうした現象がいくつかあり、連句など止めてしまおうかとさえ、思ったこともあった。
最初に書いたことだが、何か事があったとき、私は標的にされやすい方である。
つきあいが下手だとか、立ち回りが不器用だとか、いろいろ原因はあるであろう。
しかし、複数で、同じ事を一緒にしていて、それがうまくいかなかったとき、何故、私にいちばん原因があるという風になってしまうのだろう。
「その話題が出たとき、我関せずと言う顔していればいいのに、あなたは、律儀に説明しちゃうからよ」と、ある人がいった。
なるほどと思った。
日頃私の親しくしていた人たちの間に出た話だったので、こちらから言うことではないが、話が出たからには、当事者の一人として、ちゃんと説明しておこうと思ったのだ。
しかし、人の心はわからない。
私の意図と違った受け取り方をされても、仕方がない。
私は、自分が誠実であれば、人もそれに答えてくれると思う方だが、哀しいかな、そういうひとばかりではない。
一見、同調するような顔をしながら、後ろで、舌を出すような人もいると教えてくれた人がいた。
当事者の中でも、私とは違った見方をしている人がいれば、そちらからも、違う情報が伝わるであろう。
そして聞いた人は、自分が好意を持ってるか、あるいは、自分に都合のいい人間の見方を信じるのであろう。
魑魅魍魎。
自分に直接関係ないことでも、人のトラブルには、首を突っ込みたいものだし、話を面白くするための、尾ひれは、みなつけて回る。
真相を知るのは、関わった人たちのみ。
その間にさえ、とらえ方の違いがある。
ましてや、その現場にいなかった人たちが、又聞きで、あれこれ言う理屈はないのだが、それが人の集まりというものなのだろう。
こんな事で、今まで精進してきた俳諧の道を逸れるのは、つまらないと思いつつ、私は、それに携わる人たちが、次第に嫌いになり始めている。
ほんの少数であるが、信頼出来る人がいるから、止めずにいるが・・。
この2年ばかり、打ち込んでいる音楽。
昨年のウイーン公演が終わって、また新たな動きがある。
今年は、同じ指導者が、バッハの「マタイ受難曲」に取り組むというので、それと関連して、聖書研究にも、重点を置こうかとも思っている。


家族の新年会
2006年01月08日(日)

夫の弟から暮れのうちに誘いがあり、今日、そこに両方の家族が集まることになっていた。
義弟は夫より8つ若い。
まだ夫婦とも現役である。
その息子、娘が、この5年ばかりの間に所帯を持ち、私の息子夫婦も併せて、10人になった。
正月には、兄弟が集まる習いになっていて、弟一家が、こちらに来るというのが、長く続いていたが、最近は、義弟の方が家族が多いので、こちらから行くようになった。
義弟の家は、湘南にある。
息子夫婦と、だいたいの時間を合わせ、午後2時前後に着いた。
甥夫婦、姪夫婦がすでに集まっていて、台所で忙しそうにしていた。
居間には、大きな食卓に、10人の席が作ってあり、顔が揃ったところで乾杯した。
夫の父は夫が大学を出た年の秋に亡くなり、義弟はまだ中学生だった。
夫の母は、70歳の誕生日を過ぎたばかりの秋、亡くなっている。
今の時代としては、短命である。
義弟にとっては、私の夫が、父親代わりのような存在であった。
進学、就職、結婚まで、何かと、相談相手になっていた。
早く親を亡くした兄弟というのは、特別に結びつきが強いようである。
正月くらいにしか、会わないが、お互いを気遣っているのが、よくわかる。
それに、8つも年が離れているので、普通なら兄弟げんかをするようなことも、二人の場合は、なかったらしい。
夫も、弟も、親を早く亡くしたせいか、ともに25歳で結婚した。

今日は、昨年のウイーン演奏旅行のDVDを持っていき、みんなに見て貰った。
義弟はバイオリン、甥はフルートを趣味にしているので、音楽には関心がある。
あれこれ感想を交えながら、終わりまで、見てくれた。
たくさんのご馳走と、二世代にわたるいろいろな話題で時が過ぎ、ほろ酔い気分のまま、帰る時間になった。
義弟の家から駅までは歩いて五,六分である。
義弟が、送ってきてくれた。
東海道線に乗る息子夫婦、湘南新宿ラインに乗る私たちは、ホームで別れた。
電車の座席には、暖房が入っている。
夫は座ってしばらくすると寝てしまった。
団らんの場から、車中に代わり、気が付くと、今日の集まりの中に、二つの親世代、甥夫婦、姪夫婦、そして息子夫婦が揃ったわけだが、次の世代である子供が居ないのだった。
少子化ということばが、最近言われるようになり、人ごとのように思っていたが、考えてみると、身近にも、同じ現象があったのである。
結婚13年になる息子夫婦は、はじめから子供を欲しくないわけではなかったと思う。
共働きで、忙しく過ぎ、気づいてみたら、子供が居なかったと言うことだろう。
結婚5年目の甥夫婦、まだ一年ちょっとの姪夫婦は、そのうち、家族が増えるかもしれないが、今は、居ないと言うことである。
にぎやかで、落ち着いた雰囲気で楽しく過ぎた食卓の周りには、和やかで暖かい笑顔があったが、子供が一人二人混じっていたら、ずいぶん違った雰囲気になっただろう。
でも、帰るまで、そんなことに考えが及ばなかった。
高齢化と少子化の間には、関連性はないと思っているが、とかくセットで論じられる。
老人にかける予算を減らして、少子化対策に回せなどという議論があるのを聞くと、何か変だなあと思う。
10年先には、私の世代はかなり減るし、20年先には、団塊の世代がぐっと減るから、黙っていたって、高齢者の割合は、減少するのに。
戦後のベビーブームで、爆発的に増えた世代が、高齢者になれば、いずれ少しずつ減るのは、自然のことなのだ。
日本の人口は多すぎるくらいだから、むしろ、減った方がいいくらいだ。
高度成長期に、さんざん働いて、税金をうんと納めてきた高齢者を、お金がなくなったら、手のひらを返したようにバカにして、粗末に扱おうなんて、姑息なことをして、それが子供の生まれる有効な手段だと思っているなら、それを本気で考えている人たちは、相当なバカだ。
若い人も、確実に年をとる。
目先の現実を変えて、悲惨な未来が待っていることになるのに、それで幸せなんだろうか。
子供の問題は、もっと基本的な、人間の愛情とか、幸せとか、家族観に基づいているものなのに、世代間の確執を呼ぶような議論に持っていくから、年金生活に入った高齢者は、だんだん暮らしにくくなり、老人を邪魔者扱いにするような空気が生まれ、社会全体がギスギスしてくるのに。
子供を持ちたいという気持ちは、おそらく、政治や国策とは違うところで、出てくるものではないだろうか。
今日の新年会は、家族の良さ、ありがたさをあらためて感じた集まりだった。
若い三夫婦が、やがて、自然に家族が増えるような状況が生まれたら、それも楽しいだろうなあと思いつつ、電車に揺られていた。


初学び、初買い物
2006年01月07日(土)

年があらたまって、一週間経った。
今日は、昨年秋から受けている比較文化の講座を受けに市民大学へ。
「音、祈り、ことば」というテーマで、日本および外国の様々な文化を対象とする。
韓国のパンソリ、アフリカやアジアの音楽と宗教的習慣、バッハの音楽、そして今日は、日本の古能、古歌舞伎について、実演を伴った内容。
朝、あまりに寒いので、さぼり心がわいたが、すでに、13回の講座のうち、海外旅行で2回休んでいる。
それに、講師は、どんなに寒くても、教えに来るのだ。
心に鞭を当てて、出かけた。
外に出れば、寒さはそれほどではなく、バスで10分の駅前の教室に行く。
逡巡していた分、少し遅刻したが、実演の舞踊などは、すべて見ることができた。
この講座も、来週で終わる。

教室を出て、駅ビルの本屋へ。
本は増えて困るので、あまり買わないが、見て歩くだけで、出版界の様子を知ることが出来るし、本屋ほど、好奇心を満足させてくれるところはないから、外出の折りには、かならず立ち寄ることにしている。
その中で、たまたま手にした古本屋とコーヒーの店についての本。
推薦の喫茶店の中に、家からすぐのところにそんな喫茶店が出ていて驚いた。
バスに乗る道沿いにあって、いつも前を通るのだが、入ったことはなかった。
今度、一度入ってみようと思った。
今、よく売れている本を一通りめくってみて、必ず寄るのは、パソコン関係。
webデザインの本を手に取ってみる。
これらは、立ち読みで、だいたい用が足りる。
買いたい本がいくつかあったが、家にある膨大な本のことを考えて、ぐっと我慢。
最後に、ビジュアルな作りで出来た家計簿と、ティーンエイジャー向きだが、これなら書くのも楽しいのではないかと思える、小型の日記帳を買った。
家計簿は、落第主婦の私のため。
結婚以来付けていた家計簿を、この5年ほど付けなくなってしまった。
収支が合わずに、いらいらすることが多く、精神衛生上良くないと、止めたのだが、今年からまた復活することにした。
90歳を過ぎても、ちゃんとお金を自分で管理している母を見習ってである。
そして、ビジュアルな日記帳は、母のためである。
母のところに行くと、壁に、毎月一枚入ってくる新聞社のカレンダーが貼ってあり、それに、その日のことを、びっしり書き込んでいる。
母が、数年前までずっと日記を付けていたことは知っているので、こんなカレンダーではいかにもかわいそうである。
「もう、書くこともないから、これでいいのよ」と言っているが、大きな字で月日の入っている、カラフルな日記帳なら、カレンダーとは別に、書く気になるのではないかと思う。
本屋の一階下には、ランジェリーの店。
暖かいパジャマを自分のために買った。
食料品は、正月過ぎからちょくちょく買っているが、買い物らしい買い物は、今日が始めてであった。


腹立たしい話
2006年01月05日(木)

数年前、ある文芸サークルに参加していた。
15,6人くらいの小さなグループで、主催者の住む地区を中心とするメンバーで成り立っていた。
どこにでもある自治体の、コミュニティセンター主導型の活動サークルの一つと言ったらいいだろうか。
私はその地区の住人ではないが、はじめはゲストとして招かれ、何度か行くうちに、「入りませんか」と言われて会員になった。
ほかにも、地域外の人が何人かいて、私だけが特別と言うわけではなかったのである。
家から行くには、バスに乗り、私鉄に乗り、会合の場所によっては、途中で乗り換え、さらには、またバスに乗り、という具合で、決して行きやすいところではなかったが、私はそのグループが好きだったし、メンバーも、いい人たちだったので、途中まで夫に車で送ってもらったりして、例会には、他のことに優先して出席した。
1年半くらいたっただろうか。
些細な行き違いから、私はそのグループから抜けることになったが、そのいきさつについては、ここには触れない。
インターネットでは、私は、サイトごとに決まったペンネームを使い、ニュースなどで公表された以外の、実在の個人や団体について、固有名詞をはじめ、それを特定するようなことは書かないが、たまたま私の実名とペンネームを結びつけることの出来た人が見に来た場合、ネット上に書かれたことを、すべて実在の事実や人物に当て嵌めて、詮索されるのは困るからである。
ケータイなどで、ちょくちょく覗いている知人が居ることも、知っている。
リアルの場で話題にしなければ、こちらも、そのままにしておく。
私が自分のサイトで、何を発信しようが、それがネット上のルールを侵さない限り、本来自由な筈だが、それを黙って見ている限りは、ただの観客に過ぎないからである。
もし、言いたいことがあれば、これも、ルールに従って、コメント欄に書き込むなり、メールボックスに送信すればよい。
人の思いこみというのは、厄介であるから、たとえば、テレビドラマを見ても、自分と同じ状況にあるヒロインが出てくれば、それを自分のことだと思いこむタイプの人はいるであろう。
実際に、私のホームぺージを、しつこく検索で追いかけてきて、そこに書いてあることを、事実と引き比べて検証し、少なからぬ数の人たちに怪文書のごとく流すといった、とんでもないこともされている。
知らない人が見たら、どこの世界にでもありそうな、どうということのない記事であった。
書かれた記事を、どう読もうが、読み手の勝手だが、私は、特定団体の記録係でもなければ、魅力のない無名の人物の評伝を書く義務はないから、記事内容がたまたま読み手の状況と似た現実があったからといって、「あそこに書いてあることは、事実と違う」などと、文句を言われても困るのである。
こんなことは、ちょっと物を書く人なら、わかることである。
だいたい、どこの誰とも書いていない記事の主人公が、その読み手そのものであるなどと、誰が特定するのだろうか。
サイトやブログに、私の書くものは、自分の心の問題が主なので、面白おかしい内容ではないが、その中には虚の部分も混じる。
小説のようにフィクションにした部分も、ずいぶんある。
その中で、私は男になったり、どこかの誰かの人格を借りて、ありそうでなさそうなドラマを作って愉しんでいる。
ニュースや、有名人についての記事は、伝えられる事実に即してはいるが、テレビや新聞の受け売りではない。
すべて私の見方、考え方に沿って書いている。
そうやって、発信している記事を、いちいち検事のごとく、事実検証などされては、たまったものではない。
第一、家族、知人、友人、その他、リアルの世界の人には、一部のカテゴリーを除き、公表さえしていないのである。
だから、たまたま見つけた私のサイトやブログの書き手が、私だと言うことは、推測でしかないのである。
そうはいっても、思いこみの激しい人に、私の生活圏で、怪文書など回されては困るので、場面や人物設定は、芝居仕立てにして、配慮している。

前置きが長くなったが、私が腹を立てているのは、そのような虚実の皮膜の世界の話ではない。
つまり、固有名詞があり、団体名が明らかにされている場所でのことである。
前述したグループの発行する会報が、100号に達するというので、前後に記念の記事を特集したらしい。
私のところに送って来るわけはないが、そのグループで実権を持った人のサイトに、その会報の記事を一部転載したのがあって、そこで見て知った。
そのサイトは、グループの活動状況も載せているが、誰でも見ることの出来る別サイトにリンクしているから、私でも、アクセスできるのである。
そして、特集記事の中には、過去の会員の作品なども出ていて、私の名前や作品も、実名そのままで出ている。
多くの人の目に触れるインターネット。
しかも、やめて何年も経つ私の名前。
その名前と作品の一部を転載するのなら、あらかじめ、一言断りがあってしかるべきではないか。
いったん会報に発表された物だからといっても、無断で転載することはないだろう。
せめて、会報の一部くらい送って知らせるべきではなかろうか。
会報の段階なら、配布の範囲は限られているからまだいい。
インターネットサイトは、どこの誰が見るかわからないのである。
その危険性を、サイト管理者はわかっているのだろうか。
本人にことわりなく、実名をネットにさらすという無神経さ。
実は、この無神経さと配慮の無さこそ、私がグループから去った一番の原因なのだ。
グループの責任者宛に、クレームを送ろうかどうか迷ったが、これまでの経緯で、そんなものは、無視され、誠意ある対応がなされないことはわかっている。
載っているのは名前と作品の一部。
住所や電話番号まで晒してあるわけではない。
記事そのものも、そのうち、スクロールされて、見えなくなるだろう。
そう思って、静観することにしたが、腹立たしいことには違いない。



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