夕食の片づけも済み、さあ、ブログを書こうかと机に向かったら、テレビから聞こえてきた歌が、私の好きな歌だったので、終わりまで聞いてしまった。 新沼謙治歌う「津軽恋女」。 リフレインで歌われる雪の名前がいい。 降りつもる雪 雪 雪 また雪よ 津軽には七つの 雪が降るとか こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪 なんとすばらしい詞だろう。 特に最後の二行。 作詞は久仁京介。 メロディもいいが、何度か繰り返されるこのくだりに惹かれる。 雪にこんないくつもの表現があるなんて、作詞者は、やはり雪国で生まれ育った人なのだろうか。 こういう詩に接すると、日本語の持つエロキューションの豊かさに、今更ながら、感嘆する。 都会で出会う雪は、わた雪、粉雪、牡丹雪、がせいぜい、あとは大雪ですませてしまう。 手元の小型歳時記を見ると、ほかに、しずり雪、新雪、根雪、細雪、が出ている。 雪を冠した言葉は結構多い。 初雪、六花(むつのはな)、雪催い、雪暗、残雪、雪起し、雪折、雪掻、雪囲、雪女、雪合戦、雪沓、雪景色、雪しまき、雪吊、雪まろげ・・・。 雪の名前だけでなく、雪に関連した仕事や、状況も入れると、なんとたくさんあることよ。 ここまで書いたら、懐かしいメロディ。 キム.ヨンジャが、「冬のソナタ」のテーマ曲を韓国語で歌っている。 そうだ、二年前、夢中で見たテレビドラマだった。 そのあとも、いくつかの韓国テレビドラマを見ているが、バックになる音楽は、とてもすばらしい。 叙情的、情熱的だ。 昨年見た「オールイン」の背景に流れていた音楽も、とても良かった。 今日の歌謡番組は、キム.ヨンジャがメインらしい。 この人の歌唱は、すばらしい。 本当はほかのことを書くつもりだったのだが、いい気分になったところで、ペンを置く。
このところ、昼前に記事を書くことが多くなった。 以前は、深夜にエントリーすることがほとんどだった。 昼間書いた記事と、夜から未明にかけて書いたものと、どう違うか。 自分の記事だから、アップしたものについて、比較してみたことはないが、キイボードを叩いているときの気持ちは、時間帯によってかなり違う。 明るい光が窓から差し込んでいるときは、あまりに悲惨なニュースなどを取り上げる気にはならない。 前向きな話題や、楽しかったことなど、書きたくなる。 が、深夜、周りが寝静まっているとき、キイボードの音だけを聴いていると、時に、世の中を否定的に見たようなことを、恨みがましく書いたりする。 しかし、何かのテーマについて、じっくり書きたいときは、やはり、夜、一人になったときがいい。 誰にも、邪魔されず、自分の心の中を見つめるには、夜ほどいいときはない。 昔は、インターネットなどは存在しなかったから、直に会えない人との交流は、電話か手紙だった。 電話も、私の高校生のころまでは、自宅になかった。 近所に持っている人がいると、緊急時の呼び出しだけ頼むのがせいぜい。 しばらくして、近所の家と共同で引いたが、片方が使っていると、もう片方は使えないし、知らずに受話器を取ると、ほかの家の会話が聞こえたりするので、親たちが、必要最小限使うだけで、子供にまで回ってこなかった。 小学生にまで、ケータイが普及している今とは、隔世の感がある。 だから、思春期の若者たちのつき合いには、手書きの手紙が重要な役を果たした。 好きな人に、思いを伝えるのに、どれほど心を砕いたか。 例え、東大を一番で入学するほどの頭脳があっても、恋は別である。 不安と、一途さと、相手を思う気持ちが、溢れそうになったとき、矢も楯もたまらず、ペンを取る。 でも、最初の一行を、どうやって書くか。 何度も書いては消し、破り、一晩かかって、一行もかけないつらさ。 削除も、上書きも出来ないのだし、書いたものは、残るから、誤字脱字、言葉の使い方にも気を配らなければ、ならない。 たくさんの本を読み、その中に書かれた恋の話には詳しくても、いざ自分のこととなると、気の利いた言葉一つ浮かんでこない。 そんな胸の痛む思いを、今の60代、70代以上の人たちは、多かれ少なかれ、経験している。 そんな中で、読む力、書く力も、培われたような気がする。 私は、手紙は、いつも夜から明け方にかけて書く習慣だった。 親たちや、弟妹が寝たあと、机に向かって、ペンを握る。 勉強道具の下に、いつも便せんが隠してあった。 ある時、珍しく、そのころ付き合っていたボーイフレンドに、昼間書いたものを投函した。 すると、相手から「別の人の書いた文章みたいだ」と言われた。 いつも、感情に流されたような書き方が多いのに、その手紙だけは、理性的で、カラッとしているというのである。 言われるまで、気づかなかった。 「手紙はいつも、夜書くの」と言われ、そうだというと、「朝読み返すと、書き直したくならない?」という。 「そのままポストに入れてるわ」というと、「僕は、夜書いたものは、朝読み返して、少し書き直すんだ」という。 そんな風に、手間ひまかけるのかとビックリし、そう言えば、彼の手紙には、破綻がないなあと、思い当たった。 冷静にしっかりと、感情をセーブする人なんだなあと感心した。 「でも、君は、夜書いた方が、君らしくていいよ」と、彼は言った。 大学生になって、それぞれ別の世界に身を置くようになり、自然に交際が途絶えたが、貰った手紙は捨てずに、まとめて仕舞って置いた。 30代半ば頃、引っ越しの折り、そっくり出てきた手紙の束を、懐かしく読み返してみたら、高校生の時にはわからなかった、彼の、真摯で、誠実な人柄が、文面から立ち上って来るではないか。 冷静で、感情を出さない人だと、私が思いこんでいたのは、表面的な見方だったことに、気づいた。 大事なところは見ていなかったんだなあと思った。 メールでは、多分、こんなことにはならない。 小出しで、饒舌で、見えなくていいところまで、出てしまう。 この数年、私も、手軽に送れるメールを使うが、貰ったメールも含めて、感動するようなものに出会ったことは、あまりない。 早さと手軽さで、事務的な用途には最適だが、微妙なニュアンスの違いや、感情的な要素が入り込むと、時に、誤解を招いてしまう。 メールは、元々そういうことには向かないし、前文も後書きもなく、瞬時に送れるから、時間をかけて、文章を練ると言うこともないのだろう。 人のメールを、コピー、貼り付けで、第三者に送ったりするケースに出会うと、メールは、使いたくないなと思う。 封筒が変色し、字が薄れても、大事な手紙は、決して捨てない。 そして、大事に思っている人へは、やはり、心を込めて、手書きの手紙を、書きたいと思う。 夜から朝への、静謐な時間に・・。
ロンドン在住中、ナショナル.フィルム.シアターの会員になり、安いお金で、世界のいい映画をたくさん見ることが出来た。 英国をはじめ、アメリカ、ヨーロッパの映画は言うまでもなく、日本映画も、当時ソビエトだったロシアの映画も上映された。 毎月、テーマが設定されて、特定監督、俳優を中心に、特集でプログラムが組まれることもあった。 機関誌の上映予定表を見て、月単位で、チケットを予約購入しておく。 1本500円くらいの安さである。 決められたシートで、ゆっくりと映画の世界に浸る。 私にとっては至福の時間だった。 日本映画では、黒澤明、小津安二郎、大島渚の作品が、取り上げられた。 母国語で、他の人より先に、笑ったり泣いたり出来る楽しさ。 その代わり、英語の映画は、耳だけが頼りだから、セリフの半分以上は聞き取れなかったが・・。 フランス、ドイツなどの映画となると、英語の字幕を頼りにしなければならないが、耳より目で見る方が、よくわかるような気がしたのは、文字情報の方が、慣れていたと言うことかも知れない。。 ソビエト映画は、日本では、あまり見る機会がなかったが、このシアターで見た、アンドレイ.タルコフスキイの2本の映画は、大変印象に残っている。 「鏡」、そして「ノスタルジア」。 タルコフスキイは、1932年生まれ。 1986年に亡命先のパリで亡くなっている。 54才という若さ。 生涯に残した映画作品の数は、あまり多くないようだが、私の見た2本の映画に限っても、映画詩人と言っていいような、詩的幻想的な映像と、自分の生涯を重ね合わせたようなストーリイの運びが、感動的だった。 二つとも、主演は、オレグ.ヤンコフスキイ。 ソビエト映画の、主力俳優だった。 シアターでは、特集映画の前後に、監督や、出演俳優を招いて、インタビューや、講演を行うこともあった。 ちょうど「ノスタルジア」の上映前に、このオレグ.ヤンコフスキイが会場に姿を現し、司会者のインタビューに答えたことがある。 それと知らず、当日の切符を買っておいた私は、ラッキーだったのだが、映画で見るより、ずっと気さくな感じの俳優の顔に接して、嬉しかった。 英語で交わされた会話なので、記憶には残っていないが、「ノスタルジア」のワンカットの演技に苦労した話を、フィルムを写しながら語ったことだけ覚えている。 5分ほどのシーンを、ロングで撮るのに、何度も取り直したエピソードだったと思う。 それから1年後にソビエト崩壊。 「鏡」と「ノスタルジア」で、強烈な印象を残したあの俳優は、その後、どうしているだろうか。
今日からウイークデイの朝、10分間、モーツァルトの生涯と作品を取り上げた番組を、毎日流すというので、早速BS2にチャンネルを合わせた。 音楽はディヴェルティメントの2楽章。 映像は、幼い頃から両親や姉とともに、旅をしていたモーツァルトの軌跡を追う。 ナレーションは山本耕次。 ソフトで耳障りのいい声である。 モーツァルトの音楽は、いつか何処かで耳にしていたように、自然に入ってきて、心地よい。 毎朝、これを見ていたら、今までそれと知らず、知っていた旋律が、モーツァルトだったのかと、あらためて思うものも出てくるだろう。 今、時々「モーツァルトの手紙」を読んでいるが、神童とも、天才とも言われている彼の、人間くさい一面もよく出ていて、興味深い。 番組が終わり、そのままにしていたら、「世界我が心の旅」という、過去に放映したらしい番組の映像に変わり、高野悦子さんがポルトガルを旅したものだったので、そのまま終わりまで見た。 パリの映画学校イデックに学び、監督を志したが、いろいろな経緯で、監督にはならず、岩波ホール支配人を皮切りに、映画の仕事を幅広く続けている高野さん。 世界中に、同じ志を持った友人知人が居て、ポルトガルへの旅も、その縁につながっている。 岩波ホールで上映した作品は、商業ベースに乗りにくいアジア、アフリカの作品や、地味だが問題意識のあるテーマを取り上げたものが多い。 私もよく通ったが、今でも、印象に残って居るのは、インド映画「大地の歌」三部作。 一日に一回の上映で、休憩を挟んで、全部で八時間くらいかかったと思う。 それからドイツの女性監督作品「ドイツ青ざめた母」。 グルジアの「落ち葉」という映画。 題名が思い出せないが、ソ連当時の、優れた作品もいくつか見た。 最近の岩波ホールについては、知らないが、状況が違っているかも知れない。 高野さんにとっては、映画発掘は、旅の続きであるのだろう。 この人の講演も、何度か聞いたが、決して居丈高なところがなく、女性らしい柔軟な、静かな語り口は、とても説得力のあるものだった。 こういう番組を見ると、旅への思いに、心を誘われる。 我が子わが妹、夢に見よ かの国に行き、ふたりして住む心地よさ のどかに愛し、愛して死なむ 君にさも似しかの国に ボードレールの詩の一節。 愛する対象は、人ばかりではない。 その地に根づいた文化、遺跡、暮らしの形。 そして人々が育んできたこころ。 それをもとめるのが、旅の心なのだろう。
新国立劇場で、モーツァルトのオペラ「魔笛」を見る。 昨年ウイーンで、私たちの合唱公演のソリストだったバスのアントン.シャリンガー氏が、パパゲーノ役で出演するというので、それもあって、チケットを買った。 佐藤三枝子の夜の女王が一番聴きたかったし、パミーナ役のソプラノ、砂川涼子も、期待出来た。 寒中のオペラはマチネーがいい。 夫と一緒に午後からゆっくり出る。 お茶代わりの軽食を途中で買い、開演前のロビーで食べる。 開演は午後3時。 25分くらいの休憩を挟んで、6時に終わった。 舞台からちょっと遠い席になってしまったが、十分楽しめた。 モーツァルトのオペラは、端役が居ないと言われるくらい、主役以外の登場人物も、生き生きしていて、楽しい。 コロラチュラ佐藤三枝子の夜の女王は、期待通り。 空中に釣り上げられての歌唱に、ややボリュームが欠けたのは、不安感があったからか。 でも、見せ場のアリアは良かった。 砂川涼子は、数年前に見たトゥーランドットの舞台から、さらに歌唱力がアップして、いい演奏を見せてくれた。 パパゲーノは、このオペラの道化役だが、いい芝居を見せて、舞台をさらっていた。 このオペラ劇場では、よく、知った人に会うが、今日も、昔の合唱仲間に会い、休憩時間に話が弾んだ。 終わって外に出ると、もう日は暮れていた。 今年はモーツァルト生誕250年ということで、ザルツブルグやウイーンなど、ゆかりの地では、観光客も多く、賑わいそうである。 日本でも、モーツァルトの音楽が、いろいろ取り上げられそうだ。 NHKでも、毎朝、10分間モーツァルトの音楽を、流すとか。 こういう試みはいいことである。 私は、昨年、いち早くモーツァルトの魂を追って、ウイーンに行ったので、今年は、お祭りから距離を置き、モーツァルトの手紙を読んだり、彼の作曲のピアノ曲を練習したり、今まで聴いたことのない作品を、探ってみようと思う。 今年になって最初に見たオペラが「魔笛」というのも、何かの縁であろうか。
先日、夫が、眼の検診のために、大学病院の眼科に行った。 9年前、飛蚊症があるというので、近所の眼科に診て貰った。 多少白内障の気もあるらしく、「今はまだ大丈夫ですけど、そのうち手術することになるかも知れませんよ」と言われた。 いつも気にしながら過ごしていたが、この1年ほど、パソコンの画面が見にくいとか、字を間違えやすいとかいうことが多くなり、「いよいよ手術しなきゃだめか」と、まず、行きつけの開業医に、大学病院への紹介状を書いてもらいに行った。 白内障の手術は、難しいものではないらしいが、失敗例は、よく聞く。 私の知っている人でも、手術の後にばい菌が入って、3週間もの入院に至った例がある。 夫の知人にも、似たようなことがあった。 いい病院だと言われていても、手術は執刀医次第だから、いきなり行くよりも、一筆書いて貰えば、いくらか安心かというくらいのことである。 そこで、紹介状を持って、大学病院に行ったと言うわけである。 眼に関する様々な検査を受けたらしい。 その結果、「特に手術しなければならないような症状はありませんよ。眼鏡が合わないのかも知れませんね」と言われ、眼鏡は半年前に新調したばかりだが、眼鏡屋に行った。 病院でも、眼鏡用の検眼はしてくれるが、目に異常のない場合は、眼鏡屋の検眼の方がいいようだ。 すると、検眼を終えて眼鏡屋の言うには、「私どもは商売ですから、作れと言われれば作りますが、今の眼鏡で、合わないことはないですよ」との返事だった。 強いて言えば、片方のレンズが少し度が合わなくなっているが、片方だけ変えることは出来ないので、もうしばらく、今の眼鏡で、様子を見たらどうですかと言う。 つまりは、大学病院でも、眼鏡屋でも、夫の視力と疾患について、特に何もしなくていいという結論だったことになる。 「まあ、目も老化しますから、多少は、見えにくくなりますけど、手術とか、すぐに眼鏡を変えるとか言う段階ではないですよ」ということである。 9年前に診た眼科医の言った言葉が、一種のマインドコントロールになっていて、何でも、白内障のせいにしていたことになる。 私も、最近夫の撮ったデジカメ写真が、どうも、みな白っぽく写っているので、これも白内障のせいかと思っていたが、関係なかったことがわかった。 「眼というのは、見えないと思っていると、よけい見えないんだな。すっかり思わされてたよ」と、憤懣やるかたない表情である。 そして夫が、私の顔を見てつくづく言うには、「今まで見ていた君の顔は、やっぱり、真実の君だったんだな」。 ん、ん? これってどういう意味? 白内障だから、見えていたのは、私の顔じゃないと思っていたわけ? こんな筈じゃないと思っていたってこと? 「・・・と言うことだよ」と、夫はさっさと自室に逃げてしまった。
ホームページを、一番最初に立ち上げたのが2002年正月。 今年から5年目に入った。 2001年夏に、私専用のPCを買い、はじめはメールとインターネットを覗くのがやっとだったが、夫がホームページを作っているのを見て、自分も作りたくなった。 自費出版しようかと、時々書きためていた原稿があり、インターネットにアップすれば、お金もかからず、手軽ではないかという、単純な理由である。 後になって、ネットの特殊性を知るにつれ、著作権のことなど考えると、出版物の方が、本当は私には合っているのではないかという気が、今ではしているが、そのときは、そう思わなかったのである。 思い立ったが吉日とばかり、まず、ヤフージャパンでIDを取り、ジオシティーズに、最初の1ページを作った。 ページの作り方などは、全くわからないので、サーバーお仕着せの、子供っぽいテンプレートをそのまま使った。 日記も、掲示板も、サーバーの既製品だった。 そのうちに、飽き足らなくなり、夫が使っているホームページのソフトを借りて、もう少しデザイン性のあるページに、作り替えた。 そして、正月を待って、アップしたというわけである。 一月ほど経つと、ページの作り方も、だんだんわかってきて、次第に面白くもなり、手持ちの原稿を、次々とアップロードした。 掲示板も、日記も、カスタマイズして、画像などを載せられるようになった。 ただ、私のwindowsMEは、買っていくらも経たないのに、エラーが多く、ホームページソフトを使うと、よく、フリーズした。 私の使い方も、悪かったのかも知れないが、その年の秋に、ビルダー7をインストールしようとしたら、そのまま動かなくなった。 一つの器械に、二つのホームページソフトは無理だったのかも知れない。 このときは、保存も怠っていたこともあり、それまでに作ったファイルもメールも、すべて失われてしまった。 悲しくて、三日ほど、メソメソした。 それまでにも、何度もフリーズして、そのたびに、夫に助けて貰い、修理に出したり、サポートセンターに問い合わせて貰っていたが、度重なる器械のエンストに、ついに夫が、業を煮やし、近所のPCセンターで、OSを、XPに入れ替えてしまった。 しかし、XPに変えてからは、エンスト現象はほとんど起きず、サイトも次々更新を重ねることが出来た。 今は、無料のサーバーで三つ、有料のサーバーで一つ、サイトを管理している。 私の場合は、全くの個人サイトで、机の引き出しの中を、そのままインターネットに載せているような性格のものなので、実生活とは無関係な、ネット上の見知らぬ訪問者が来るのは、歓迎だが、実生活で、知っている人には、なるべく見せないというやり方をしている。 プロの作家なら、実生活を見せて食べていくのだから、仕方がないが、私は、名もない一市民なので、せっかくネットの中で愉しんでいる想像の世界を、リアルの世界に引き戻されたくないからである。 知らない人は、書いてあることを、そのまま、読んでくれるが、なまじ、知っている人は、先入観があるし、現実と結びつけて、あれこれ詮索しがちである。 それが一番いやなのである。 今までに、サイトの引っ越しを何度もしているが、すべては、わたしの心の自由が失われることを防ぎたいからであった。 そうやって、いつの間にか5年目に入った。 ページのデザインや作り方だけは、いくらか上手くなったが、肝心なのは、中身である。 昨年末、PCを新しくしたのを機に、無料サーバーにアップしているサイトを一つ、ほかのサイトに合流し、そのサーバーから抹消した。 これも、サイトの整理と、心の自由のためである。 ソフトは、最近はビルダーに絞っている。 使い慣れると、大変便利なソフトである。 ブログは、今のところ無料サーバーにお世話になっているが、そろそろ movable typeに切り替えるべきかも知れない。 私には、まだ技術が伴わないので、すこし先のことになるだろう。 市井に生きる平凡な女が、ネットという場で、自分なりの考えや見方を発信し、心のありようを見つめていくのが、私にとってのブログであり、ホームページである。 アクセス数など、多くなくてもいいから、それに共感してくれる人が見てくれればいい。 ファイルの量も、かなり多くなった。 ブログを含むサイトの整理と構築を、まじめに考えるときが来ている。 大寒が過ぎ、いちだんと寒くなった。
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