沢の螢

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天才モーツァルト
2006年03月01日(水)

2月から始まった「毎朝モーツァルト」という10分間番組を見ている。
最初に1,2分ゲストの話、そのあとで、山本耕史のナレーションと映像で、モーツァルトの生涯を追う。
そして、残りの7,8分の時間内で、「今日の一曲」を流す。
ウイーン、ザルツブルグ、イギリス、フランス、イタリアなど、ヨーロッパ各地を、父親と一緒に旅をし、王室や貴族に認められて演奏をしたり、その地で作曲をしている。
5歳から始まった旅は、今、17歳に来ているが、今日は、ザルツブルグで作曲した「交響曲25番」が流れた。
これは私の好きな、モーツァルトはじめての短調による交響曲。
今日は第一楽章だけだが、よく聴く曲である。
シンコペーションを多用した激しい旋律は、当時、ヨーロッパに吹き荒れた、文芸の疾風怒濤の波に呼応してもいるらしい。
17歳で、これを作曲したのだが、あらためて、やはり神童というか、天才だと思う。
自筆の楽譜が映像で出たが、彼の頭の中には、常に音符が渦巻いていて、一寸したきっかけで、しゃべり言葉と同じように、旋律となって、舞い始めたとしか思えない。
そして、モーツアルトは、14歳くらいから、旅の間、留守中の母や姉に宛てて、毎日のように手紙を書いている。
それがまた、ユーモアと、独特のセンスに溢れていて面白い。
わずか10分のモーツァルト番組。
朝見逃した時は、夕方の再放送を見る。
あ、これもモーツァルトの曲だったのかという、発見もあって、楽しみである。


如月末日
2006年02月28日(火)

昨日は母の誕生日。
一日遅れで、ケーキを持ってお祝いに行く。
93歳になった。
4年前からケアハウスで、父と共に暮らしている。
父の方は、私の顔と名前がもうわからない状態だが、年なりの健康状態を保っている。
母は、耳が遠く、補聴器も気休め程度にしか機能せず、会話も一方通行になるが、頭はかなりしっかりしていて、記憶力もいい。
3人の娘をうまく使い分けて、未だにゴッドマザーをやっている。
両親が私の家で生活した3年の間に、私と二人の妹とは、断絶状態になったが、それには、母の権謀術数めいたやり方が、原因している。
人には言われぬいろいろな思いをし、連れ合いにも、心労をかけたが、6年経った今では、母に対しては、恨みがましい気持ちは持っていない。
ただ、妹たちに対しては、まだ許せぬ気持ちが消えたわけではないので、母も、それを感じ取っていて、私と妹がかち合わないように、気を使う。
顔を合わせれば、普通に、話はするが、私の心の中には、わだかまりがあるので、何処かよそよそしい雰囲気になってしまう。
だから私も、母の前で、あまりそう言う状態を作りたくないのである。
昨日電話した時、「誕生日だから行くわよ」と言ったら、「今日はちょっと都合が悪いから、あした来て頂戴」と言った。
多分、妹のうちのどちらかが行く予定になっていたのだろう。
そんなわけで今日になった。
90を過ぎた老人に、こんな気を使わせるのは、実に親不孝だと思うが、母がしっかりしている証拠でもあるし、家族とその周辺のことのみで人生を送ってきた人だから、しなくていい身内の間の気遣いも、大事な日常ではあるのだ。
父も母も、同世代の友人知人は、大半彼岸に行ってしまい、一人であちこち出歩くには、無理なので、私たちが、代わる代わる顔を見せて、世間話の相手になってやるのが、母にとっては、わずかな楽しみなのである。
私の妹の息子が、来月結婚することになり、それに出席するのを楽しみにしている。
はじめは、とても出られないと思いこんでいたが、「今は、結婚式場などは、ちゃんと対応出来るようになってるから、大丈夫よ」というと、その気になったらしい。
父の方は無理なので、当日はハウスのケアに委ね、夫の車で母を迎えに行き、一緒に式場に行き、終わってからその夜は、私の家で泊まり、翌日ハウスに送り届けるという算段をした。
「これが最後かも知れないから」といいながら、母は、久しぶりに晴れやかな席に出るのを楽しみに、足を鍛えているという。
行った時、ちょうどテレビで、永田議員の記者会見をやっていて、それを見ているところだった。「民主党は、これからどうなるのかしら」という。
母は私と違い、政治大好き人間である。
テレビの音も、聞こえにくいようだが、今は、文字情報が出るので、内容はよくわかるらしい。
新聞と併せて、結構世の中の動きは、把握している。
夕方、母の作ったお総菜を貰って、ハウスを後にした。
寒さがぶり返した一日だった。


ベビーブーム60年後
2006年02月27日(月)

来年はいわゆる団塊の世代が一斉に60歳になり、社会の一線を退き、家庭や地域社会に帰って来るというので、それなりの懸念も、起こっているようだ。
プラスの面としては、今まで、頭がつかえていた世代が居なくなることによって、職場では、若年層の活躍する場が増え、全体が若返るということがある。
人件費も、少し減るであろう。
60歳と言っても,今の時代老人とは言えない。
まだまだ元気だし、新しいことにも、チャレンジする気持ちもあるので、違った場所で、力を発揮して、世のため、人のために働けるエネルギーがある。
これは、その世代を、好意的に見て、プラス評価した場合である。
問題は、団塊世代が大量に世の中に跋扈しはじめることによって、考えられるマイナス面。
私の末の妹夫婦が、ちょうどまさに団塊の世代。
同じ親のもとに生まれ、同じ家に育っても、こうも考え方、価値観が違うかと、思うことが少なくない。
やはり、人間は社会的動物であり、育った家庭の影響よりも、社会や学校で受けた影響の方が大きいのかと思うし、時代背景の差もある。

団塊の世代は、戦後のベビーブームに生まれ、混乱した戦後の状況の中で、育ってきた。
物質的にも、恵まれず、親たちは、まず、明日の食べ物を確保するのに必死だったから、ゆとりを持って、子どもを育てる余裕はあまりなかったと思う。
本来、家庭でしつけるべきことも、なおざりにされたりしている。
そんな中で、成長し、小学校、中学校と進むのだが、何しろ数が多い。
公立の学校は次々と学級を増やし、校舎を建て増し、お金のある子どもは私立に行くが、それも、競争が激しく、常に、人としのぎを削って、大人になっていく。
彼らが大学に入る頃、学園紛争が起こるが、少し上の私たちの世代の学生運動と違うのは、ゲバ棒を使い始めたことである。
60年代世代も、安保闘争や原水爆禁止運動など、いろいろな活動をしたが、座り込みやジグザグデモや、警官ともみ合ったりしても、ともかく素手であった。
これが70年世代となると、次第に激しい暴力を伴ったものに変わり、ゲバ棒や火焔ビンなどの武器を使うようになり、内ゲバと言って、仲間内での、殺し合いなどが出てきた。
教師たちを軟禁状態にして、要求を突きつけた学園紛争は、この世代である。
大学生だった妹が、活動仲間の男子学生たちのために、支援のおにぎりを持っていくというので、母親が朝早く起きて、大量のにぎりめしを作ったという話を聞き、すでに結婚して一児の母になっていた私は、激怒した。
「偉そうなことばかり言って運動するんだったら、親なんかに助けを頼むんじゃないよ。おにぎりくらい自分で作りなさいよ。それに、口では理想的なことを言いながら、女子学生におにぎりを作らせる男どもって、何なのよ」と私は妹に言った。
頭でっかちな学生の思考というのは、足が地に着いていないのである。
それは、私にも、覚えはあるが、少なくとも、学生運動に、親の手を借りたことはなかった。
そして、いくら大学改革のためだからと言って、仮にも、自分の先生たちを、何日も、教室に閉じこめて、自分たちの要求を迫るなどと言うのは、考えられない無礼なことだった。
「私たちは、生まれた時から、ずうっと競争の中で生きていくんだから、古い物は、どんどん壊して行かなくちゃ、居場所がないのよ」と妹は反論した。
熱血漢だった私の父は、妹のやっていることの意味や、学生たちの考えが知りたいと言って、家族が止めるのも聞かず、単身、駅前に出かけていき、学生の屯している中に乗り込んで、議論したそうだが、母は、帰ってくるまで、ずいぶん心配したらしい。
この世代が、社会に出ると、それまでの高邁な主張はどこへやら、多くは見事に体制に同化してしまい、一部は浅間山荘事件に繋がる過激なテロに走って、大衆の支持を失っていく。
その後は、日本が豊かになるにつれて、学生運動も影をひそめてしまった。
そして、団塊の世代が60歳を迎える。
この世代は、まだ、リタイアしていない人が多いので、地域のボランティア活動や、趣味の会でも、まだ、家庭人としての女性と、少数の男性が参加しているだけだが、やがて、いろいろな場に、入ってくることになるだろう。
昨年、たまたま、誘われて、近くのシルバー人材センターと言うところを覗きに行った。
シニア世代が、自分の特技や才能を生かして、地域社会のために、働いたり、奉仕したりすることを唱い、報酬はわずかだが、それに生き甲斐を持ち、地域の人たちとの交流が目的である。
パソコンを使って、自分に出来ることがあればと、説明を聞きに行ったのである。
「2年ほど経つと、団塊の世代が、どっと入ってきますので、今のうちに、基礎を作っておかないと・・」という主催者の説明が印象的だった。
内容はわからないが、今までのように行かなくなると言うような、漠然とした危機感を持って居るのである。
多分、その言葉を裏付ける事由が、いろいろあるのだろうなと想像した。
私自身、趣味の会で、「あれ」と思うような感じを、その世代の人たちに持つことが少なくないからである。
抜け駆け、自分本位、目立ったことはするが、陰で人を支えるような地味なことはやりたがらず、自分の得になるところだけで付き合うといった、ドライな面を、私たちよりは持っていそうである。
その世代の女性に、手ひどい仕打ちを受けた経験を持つ私は、手放しで信用してはいけない感じを彼らに抱いている。
その世代の人が読んだら、おそらく不快感を持つであろう。
あくまで、私の偏見であることを、断っておく。


メールの怖さ(2)
2006年02月20日(月)

私が受けた不快な経験の一つに、こんなことがあった。
「電話やファックスは音がするし、手紙はしまっておくところがないから」と言って、コミュニケーションの手段に、メールを多用していた人がいた。
他人のことだから、そんなことは構わないが、たくさんの相手とメール交換をしていると、時に混乱するらしく、他の人宛のメールが私に来たり、当然私に送って来るはずの連絡メールが、送られてこなかったりと言うことがあった。
おそらく本人も、手に余るほどの、膨大なメールの量だったのかも知れない。
ある時、突然、一方的に私を非難するような詰問調のメールが来て、私はビックリした。
そんなメールが来るまでには、当然、前提となるような事実がなければならないし、そこに至るまでの、いくつかの段階があるはずだが、いきなりの詰問に、私には、思い当たることがない。
文面から考えられるのは、私の知らないところで、いつからか、私に関する何かが、メールで情報交換されていて、一方的に、私が悪者にされているらしいと言うことだった。
そして当の本人である私には、何も、知らされずにいたことになる。
人の集まるところでは、そうした誤解や曲解は、よく起こることではある。
しかし、そうした事柄の真偽を、私に直接確かめもせず、片方からの情報のみを鵜呑みにして、一方的に、私を非難するメールを送ってきたことに、私は驚きと同時に、深く失望した。
メールを多用している人たち同士のつながりには叶わない。
多勢に無勢である。
ルールに沿って、善意で使えば、こんな便利な手段はないが、ひとたび、間違えれば、人間関係を壊し、人を誹謗中傷する道具になる。
このことで、私は一時人間不信に陥ってしまった。
子どもたちの間で、メールによる虐めがあるという話も聞くが、よくわかる。
悪意のあるところでは、他人をどんな風にでも、陥れる手段として、メールが利用されることもある。
能面のような表情のなかにも、刃物が潜んでいる怖さ。
どんな人の、どういう場所に流れるかわからないメール。
それが、法廷にまで持ち出される時代。
今回のメールの信憑性はともかく、個人レベルでも、こういうケースは、これから起こって来るであろう。
よほど信頼出来る相手とでなければ、うかつにメールなど使うべきでないと思う。
今、私のアドレス帳には、常時メール交換する相手は、10人足らず。
やむを得ない場合のほかは、なるべく、メール以外でコミュニケーションを図るように努めている。


メールの怖さ(1)
2006年02月19日(日)

ライブドア関係の一通のメールを巡って、その信憑性を問う議論が、かまびすしい。
メディアでも、インターネットでも、さんざん取り上げられている話題であるから、ここでわざわざそのことについて言及する気はない。
場合によっては、政治の根幹が揺るぎかねない可能性も含んでいるが、今の段階では、どこまでが正しい事実なのか、わからないし、公人でない人のプライバシーにも触れる問題でもあるから、その段階で、あれこれ言うことは、控えたい。
国会やメディアでの議論の行方を追っていくうちに、いずれ真実が明らかになるだろう。

それよりも、私が思うのは、メールという物が持つプラスの可能性と、それにまつわるマイナス面の怖さである。
私も、5年前から電子メールという物を使うようになった。
はじめは、なんと便利な機能であろうと感激した。
顔を合わせてなかなか話をする時間がなかったり、口答でコミュニケーションを取りにくい相手とも、時間や場所を選ばずにやりとり出来るメール。
電話やファックスのように、かしましい音も立てず、送受信出来る。
手紙に比べ、挨拶言葉や形式も軽便なので、構えずに、書くことが出来るし、保存も簡単で場所を取らない。
知っていても、遠方で滅多に顔を合わせられない相手との遣り取りはもちろん、時々顔は見るが、あまり話をしたことのない人とも、メールを通じて、ずいぶん親しくなったり、相手の人柄もわかって、良かったという経験もした。
ひと頃は、くだらないおしゃべりも、メールで交わしたりした。
簡単な原稿も、それで送った。
人間関係も、ずいぶん広がったような錯覚さえした。
しかし、こうしたことは、お互いが、善意でやりとり出来ている間にのみ、成り立つ利点である。
いったん、人間関係にヒビが生じた相手とは、メールという物が、一つの凶器になる。
相手を貶めるために、保存してあったメールを恣意的に編集し、そこに自分のコメントを付け加え、「この人は過去にこんなメールをよこしました」などと、実名を挙げて、不特定多数に送りつける。
本来、二人の間でのみ、遣り取りしていたはずのメールを、コピー貼り付けで、関係ない第三者に転送する。
手紙なら、信書の秘密に触れるようなことを、メールだと、簡単にやってしまい、罪悪感がないのである。
それは、出版物なら、著作権侵害に触れるようなことを、ネットでは、あまり罪悪感を感じないで、やってしまうことと、よく似ている。
顔を見て話せば、分かり合えることを、メールでくどくど言うことによって、かえってこじれてしまったり、そんなに簡単なメールなのに、細かく伝える手間を惜しんで、中途半端な情報を流して、お互いの間で齟齬を生じることもある。
同じ集団に属していながら、メールの遣り取りの多い、少ないによって生じる不公平さもある。
メールに頼りすぎると、裏切られるという思いを、時にするようになった。


アゲインストの風
2006年02月10日(金)

みなとみらいに、連句仲間の女性6人で、一泊の遊びを愉しんだ。
2月は、ホテルが比較的すいている時。
女性向きのサービスプランも、いろいろあるらしいので、一度利用してみたいと思っていた。
それなら、いっそ連句をやりながらということでどうかしらと、横浜在住のA子さんが、幹事役を買って出てくれて、実現した。
大半が60歳以上だが、まだまだ隠居生活に甘んじては居ない。
私以外は、連句の腕も、超一流の人たちである。
心意気も、若い人たちに負けてない。
こんな寒い時期なのに、一人も欠けることなく、午後一時、みなとみらい駅に集合した。

時間より早めに揃うのも、この年代の特徴で、一番年下の私が着いたのは、集合10分前だったが、ほかの人たちはすでに来ていた。
世話役のA子さんは、定年までずっと仕事を続けて、リタイアしても、何かと役割があって、各方面で活躍している超多忙の人。
人脈も広い。
今回のプランも、すべて彼女の采配で、要領よく、海千山千の女どもを引き連れて、たっぷり愉しませてくれた。
駅のそばのホテルは、部屋から海が一望である。
レディースプランで、通常よりずっと安く、トリプルの部屋は、充分広かった。
二つの部屋に3人ずつ分かれ、連句の際は、間のドアを開けて、6人がテーブルを囲んだ。
荷物を置いて、まず、中華街で食事。
ついでに、町中を見て歩く。
シーバスに乗って、ホテルに帰ったのが5時。
一休みして、連句に入る。
遅い昼食で、お腹が一杯なので、中華街で仕入れたつまみなど広げ、そのまま、連句を続け、歌仙一巻が終わったのが、夜中の12時。
年長組は、すぐ寝てしまったらしいが、私たちは、少しおしゃべりを続けて、そのうち、眠りについた。
翌朝は、8時半頃に朝食。
バイキングスタイルである。
メニューの豊富なのが嬉しい。
ホテルをチェックアウトして、歩いてすぐの温泉に行く。
近年都会に増えてきた、ヘルスセンタースタイルの温泉である。
湯河原から温泉を運んでいるという。
私たちは、あらかじめ、幹事役のA子さんに、一定のお金を預けてあったが、ホテルの支払い、レストラン、温泉の入館料まで、それで済んだらしい。
ロッカーの鍵を貰い、以後の会計は、すべて各自の鍵で、出口精算という便利なシステムである。
浴衣に着替え、温泉に浸かり、マッサージも体験して、肩の凝りが少しほぐれた。
館内では、食事も、カラオケも出来るようになっている。
ラーメンを食べて、また連句をやろうと言うことになった。
そこで3時間、半歌仙二巻を挙げた。
4時過ぎに退館、駅に向かう。
向かい風が吹いていたが、港町は暖かい。
4時50分の特急電車に乗る。
そこから次々、それずれの家路に向かった。
A子さんは、そのまま、ひいきの役者の出るミュージカルへ。
タフな人だといつも感心する。
ある年代に入った女同士の、屈託のない付き合いはいい。
人生経験に裏付けされて話題は豊富、酸いも甘いもかみ分けて、想像力もある。
女同士は、本音の付き合いが基本、気取りも、ごまかしもきかない。
男がひとり入ると、違った雰囲気になるたぐいの女が、今回居なかったのが、何より良かった。
わずか一泊であったが、天候に恵まれ、3日間ほどにも感じられるくらい、充実した小旅行だった。

万葉の風アゲインスト春兆す


女ともだち その4
2006年02月05日(日)

夕べ遅く、シャンソン歌手の友人から電話。
確か二年ほど前に、電話で話して以来である。
私の方からは、電話はあまりかけないが、突然かけてくるのは、彼女の方である。
「こんな時間、いい?」と一応訊いているが、「ダメよ」と言うはずはないのはわかってのことだ。
私の年代になると、女同士でも、深夜の長電話は珍しくない。
彼女が電話して来るのは、話したいことがあるからである。
表向きの用件は、今度、やっと自分専用のパソコンを買い、インターネットが出来る環境になったから、まず、メールアドレスを教えてくれと言うことであった。
今までは、アナログで過ごしていて、どうしても必要なときだけ、ご亭主のパソコンから、メールを送受信していたけど、やっぱり、自分のメールがないと、不便だからと言う。
彼女は、シャンソンの世界で、自分のお小遣い程度の仕事をしているが、今では、歌うこと以外の用事が増えてきて、アナログでは、追いつかない面が出てきたらしい。
5年前に、私がインターネットを始めた時、さんざん批判がましいことを言った彼女だから、ここぞとばかり、ネットのマイナス面を強調して、しゃべることになってしまった。

まず、メールを使う際の、基本的なセキュリティとか、ルールとか、マナーとか、そんなものを一通り話したあとで、「メールは、時によっては凶器にもなるから、くれぐれも気を付けた方がいいわよ」と付け加えた。
そして、私が過去に受けた、メールにまつわる、いくつかの不愉快な経験を話した。
「メールは手紙と違って、第三者の目に触れることを、前提にして、使った方がいいわよ」
たとえばメールの中では、実名を表示しない、第三者について言及しない、用件以外のことは書かない、メールで人間関係に関わることは、出来るだけ触れない、必ずほかに回るからというと、「へえ、そんなことがあるの」とビックリしている。
「メールは手紙のように、手間暇かけなくて、手軽に出来るから、人のメールをべたべた貼り付けて、都合のいいように編集して、あちこちに転送するのも、簡単に出来ちゃうの。だから、相手をよく見極めて、危ないなと思う人には、アドレスを教えない方がいいわよ」と教えた。
送信の際のCCとBCCの違い。
出来れば、標準アドレスのほかに、ネット専用のWEBメールとか、いつでも変更出来る種類のメールアドレスを持ち、使い分けするといいと言うことも、付け加えた。
「こんなことは、基本的なことだけど、インターネット歴の長い人でも、マナーの出来てない人って、結構居るの。男の人の中には、メールを武器にして、疑似恋愛みたいなことを仕掛けてくる場合もあるし」
と、まずは、ご亭主に、その辺のことをよく教えて貰ってから、はじめた方がいいと、念を押した。
一九や二十歳の小娘ではないのだから、基本さえ掴んでいれば、あとに起こることは、良い面も悪い面も、彼女自身の選択であり、責任である。
言わずもがなのアドバイスであった。

彼女の話は、ここからが本番である。
私と彼女との縁は、十数年前、シナリオ学校の研究生だったときからである。
その辺のいきさつは、今までにも書いているから繰り返さない。
私は、健康上の理由でシナリオを断念、彼女の方は、しばらく修行を積んでいたが、やがてシャンソンの道に転向し、活動を続けている。
しかし、最近になって、やはり、シナリオの形で書きたいことがあり、今、構想を練っているという。
「エライわねえ」と、私は感心した。
「私なんて、ホームページに、あのころ書いた短い作品を載せていたけど、読み返すと、未熟で恥ずかしいし、アイデアを盗まれてもイヤだから、非公開にしてしまった」というと、
「そこなのよ。私も、自分の書いたシナリオが、映像化される可能性は少ないけど、そのうちホームページを作って、せめてそこに掲載したいの」
だから、いずれ、二人で、リレーシナリオを書かないかという話である。
「面白いわね。あなたが、自分の力で、ホームページを立ち上げてからね」と、賛同した。
「ホームページを作るのは、少し技術がいるし、すぐとは行かないから、まず、手軽に出来るのはブログよ」と、アドバイス。
「あなたのブログ、見せてよ」と言ったが、それは断った。
これは、ネット上の一般読者を対象にしてるので、家族、友人、知人など、顔見知りには、見せないことにしてるのと言い、何故、そうしているかの理由を話した。
シナリオを志した彼女だから、ネットでは仮想空間に徹したいという私の気持ちは、すぐ理解してくれた。
「それでも、何が目的なのか、検索で探し出して、黙って見に来る顔見知りが居るらしいけど、ネットは、見たくない物を見るところだという人もいるから、そのたぐいかも知れないわ」と付け加えた。
「見てますよなんて、挨拶があるの」と訊く。
「そんな友好的な態度で来るならいいんだけどねえ・・・」と言うと「妨害行為なんかされたりするの」と心配している。
「そんなことも、なかったわけじゃないし、アドレスを変えても、すぐ見つけちゃうし、私の知らない場所で、何を言われてるかわからないけど、無視することにしたわ。
でも、私のところに来る、顔見知りでないお客さんは、今まで、不快な思いをさせられたこと、一度もなかった。私のブログは、面白おかしいものは何もないけど、少数でも、応援してくれる人がいるから、それで満足なの」というと、あとは、来月の、シャンソンの会への誘いの話になり、長電話が終わった。
気が付くと、すっかり気温が冷えていた。



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