沢の螢

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魍魎たちの宴
2006年04月27日(木)

人が集まる場では、いろいろな動きがあるのは、会社や政界ばかりではない。
本来利害とは関係ないように思える趣味の世界でも、時に、どろどろした人間模様が、見えないところで、展開されていたりする。
聖人君子ばかりではないのだから、仕方ないかも知れないが、何もそこまでしなくても、と思いたくなる人の動向を見ていると、やはりさびしいなあと思い、イヤだなあと感じることも、事実である。
いかに文明が発達し、生活が向上しても、イヤ、だからこそかも知れないが、人は、元々持っているピュアな気持ちを何処かに追いやってしまう。
そして、まじめな人をバカにし、物事に誠実であろうとすることを嘲笑したりする。
ホントに傷つく。
うっかり信用して、裏切られることが多くなった。
自分の得になる人には、近づくが、そうでないと思う人には、洟も引っかけない。
そんな手合いが、増えてきた。
このごろ、さすがの私も、そう言う見極めが付くようになり、一方的に、利用されたり、取り込まれたりすることはなくなったが、そんなことが分かるようになった自分も、イヤだなあと思う。
金銭的利益に結びつかない趣味の世界であっても、それなりに向上しようとか、人に認められたいと思うのは、悪いことではない。
いい意味での競争もあった方が、自分を磨くことになるし、切磋琢磨して、その世界全体のレベルが上がるから、いいことであろう。
でも、日頃親しくしていながら、その世界での情報を、出し惜しみしたり、こちらの人脈にある実力者に、知らぬ間に近づいて、出し抜くようなことをする人というのは、どういう神経の持ち主なのだろう。
そんな事実を、間接的に知ると、やはり心穏やかではなくなる。
昨日は、趣味の会合があり、終わってから、二次会に行くつもりであったが、そんな雰囲気を感じたので、寄らずに帰ってきた。
魍魎たちの動きは、遠くから見ているだけでいい。


お菓子の時間
2006年04月14日(金)

けさ、何年ぶりかで、ケーキを焼いた。

我が家の朝食は、和食である。
ご飯にみそ汁、納豆、野菜のおひたし、香の物。
そのくらいが定番。
食後には、果物を食べることもある。
納豆は、以前は卵の黄身、大根おろし、鰹節、もみ海苔を混ぜて、ほぼ完全食品に近い食べ方をしていた。
南米にいた頃、週に2度くらいは日系人が経営する店に行き、現地産の日本的食材や調味料を買い、納豆も豆腐も、食べることが出来た。
醤油さえあれば、かなりの食材も、日本人の口に合う料理に変身させられることも、外国暮らしの中で、発見した。
日本から派遣されてきた独身の若い人が、週末になると、わが家に食事に来るのが習慣になっていた。
上に書いた納豆の食べ方は、その人が教えてくれたのである。
「ご飯とみそ汁、それにこの納豆があれば、完璧ですよ」と、その人は言い、日曜日の遅い朝食に、我が家の家族と共に、その食べ方で、納豆を食べるのを楽しみにしていた。
これは息子の大好物になり、日本に帰ってからも、我が家の納豆は、このやり方だった。
しかし、息子が家を離れ、やがて夫婦二人になると、納豆はもっとシンプルな方がいいと夫が言い出し、最近は、ネギとタレだけで納豆を食べている。

今朝、食後のバナナを食べようとして、身が大分柔らかくなっているのに気づいた。
「きのう買ったばかりなのになあ」と夫は皮をむきかけたまま、皿に戻した。
以前は、食べ時を過ぎた果物は、庭の木に刺しておき、野鳥の餌にしたのだが、今は、鳥寄せを止めている。
「腐ってるわけじゃないから、ミキサーで牛乳と混ぜてジュースにしようかしら」と言いかけて、昔、南米で、よくバナナケーキを作ったことを思い出した。
現地では、パンもケーキも、毎日のように作っていたし、息子のお弁当に持たせることもあった。
しかし日本では、パンもケーキも、美味しい物がふんだんに出回っているので、作らなくて済んでしまう。
柔らかくなったバナナを、ケーキに使おうと思ったのは、どういう風の吹き回しかと、我ながら、不思議だが、思い立ったら吉日とばかり、朝からケーキを作ることになった。
バナナ4本を細かく刻み、潰す。
卵、砂糖、マーガリンを混ぜ、ふるった粉と重曹を入れる。
牛乳で適当に伸ばす。
分量はみな適当である。
ハンドミキサーがあったはずだが、長年使っていないので、見つからない。
泡立て器と、フォークを使う。
ほどよく生地が出来たところで、さあ、焼こうとして、ガスオーブンの使いかたが分からない。
最近は、何でも、電子レンジですませてしまうことが多いので、台所の一角を占めている大きなガスオーブンは、ほとんど使わず、操作を忘れてしまっている。
電子レンジには、パウンドケーキの型が入らない。
使い方説明書を取り出して、やっと蘇った。
そうそう、まず余熱を入れるのだった。
150度に設定、熱くなったところに、パウンド型を入れる。
そして一時間。
その間に洗濯をすませ、ベランダに干し、夫は会合に出かけ、パソコンを覗き、ケーキが焼き上がった。
型から外し、端っこをちょっと食べてみると、ちょっと甘みが足りない。
でも、バナナの匂いはするし、いかにも家庭で作った素朴なケーキと言うところである。
分量も、味も、アバウトなので、人には勧めないが、夫なら、食べてくれるだろう。
午前10時半。
怠け者の主婦が、珍しく、いい時間を過ごした。


携帯で投稿してます
2006年04月09日(日)

果たしてうまくいくかどうか試してみます。
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上の記事は、はじめてケータイで送信してみたもの。
ケータイは、今まで、電話として持っているだけで、あまり使いこなしていなかった。
持ち歩いても、オフのままにしておくことが多く、「あなたのケータイ、通じないわね」と、友人たちから言われた。
私にとってケータイは、自分が緊急の場合に使う物であって、人からかかってくることは二次的な物だったので、それで不自由は感じなかった。
しかし、2週間前、高齢の父が肺炎で入院し、妹との連絡に、はじめてケータイの便利さを痛感した。
不在勝ちの妹は、電話もメールも、ほとんどケータイですませている。
ファックスや固定電話では、緊急の連絡に間に合わないこともある。
幸い、父は経過がよく、大事に至らずに退院できたが、これを機に、私も、ケータイを少し使いこなそうと考えた。
ちょうど、ケータイサーバーが変わるので、機種も替えることになり、夫と同じ新しい機種に替えて貰った。
タダである。
そして、これまで電話機能のみだったのを、インターネット対応にした。
ケータイでネットまで・・・と思っていたが、この数年の間に、私はいくつかの掲示板とブログを運営している。
最近、それらを、ケータイで見に来る人もいて、いったいどんな風に表示されているのか、分からない。
管理者としても、知っていた方がいいだろう。
そう思ったのである。
はじめは、なかなかうまく行かなかったケータイの投稿、何度か試し送信しているうちに、やっと、馴れてきた。
今までは、旅行中などには、サイトを一旦休止中にしたりしていたが、これからは、旅行中にも、閲覧できるし、場合によっては、書き込みも出来る。
使う、使わないはともかく、何でも、知っていた方がいい。
メールも、パソコンよりは気軽に出来るだろう。
8年も前から持っていながら、何となく毛嫌いしていたケータイ。
これからは、出番も増えそうである。
点線以下の部分は、パソコンから書いた。


ケータイを替える
2006年04月01日(土)

花見を兼ねて、駅前のケータイ電話屋に行った。

私は、パソコンは、どうやら、使いこなせるようになったが、ケータイは、全くダメである。
パソコンよりも前から、緊急の連絡のために、持ち歩いてはいるが、ほとんど使うことがない。
電話番号は20件ほど入れてあるが、こちらの都合で発信するためなので、必要ないときは、オフにしてある。
「あなたのケータイは通じないのねえ」と、友人たちは、あきらめている。
夫が、外出しているときには、オンにしておく。
緊急事態があったとき、受信できないと困るからである。
一つには、指先で細かな操作をしなければならないケータイは、どうも、使いにくいし、難しいのである。
何度か新しくしているが、ほとんどタダで移行できる機種を使っている。
ケータイでメールやインターネットをすることはあるまいと、電話だけの設定で、8年ほど経ったが、先日父が緊急入院し、家族間の連絡に、やはり、便利だと思った。
そこで、この際、もっとケータイを使いこなすようにしようと思い立ち、たまたまサーバーが切り替わるのを期に、機種を替え、設定もインターネット対応にすることにした。
私のブログに、時々ケータイで見に来る人がいるが、私自身は、ケータイ閲覧をしていなかったので、自分のブログが、ケータイではどんな風に表示されるのか、分からない。
サイトの中で持っている掲示板も、ケータイ対応になっているが、私自身は、パソコンでしか、閲覧も、書き込みも出来ない。
管理者がケータイに精通していないと、セキュリティや、そのほか、困ることもあるだろう。
ケータイを毛嫌いばかりしても居られない。
また、ケータイで投稿できるようになれば、電車の中でも、更新できて便利だろうという気持ちもあった。
「どうせ、そこまでは使えないだろう」と、夫はたかをくくっているが、なに、その気になれば、私だって、ケータイくらい使いこなしてみせると、張り切って、機種変更した。
夫も同じ機種に替え、家族割引にしてもらった。
一緒について来た説明書。
何であんな小さい字で書いてあるのだろうと思う。
今までにも、この説明書は、とても読む気がせず、新しいまま、何処かに行ってしまっている。
ケータイは、若い者ばかりではないのである。
フォントをもう少し大きくして欲しい。
帰ってきてから、あれこれやってみたが、パソコンと勝手が違い、基本的なことをマスターするのに、時間がかかりそうだ。
とりあえず、ケータイのメールアドレスを設定し、自分のブログ、ホームページの掲示板の、ケータイURLを入れた。
今までパソコンで受信していたケータイのメールアドレスを、いくつか取り込んだ。


ながらえば
2006年03月26日(日)

父が緊急入院するという電話が、きのう妹からあった。
一昨日行った時は、ハウスの食堂の椅子に腰掛けていて、私の顔を見ても、反応はなかったが、元気そうだった。
しかし、大分前から、痰が喉に絡んで、自力ではなかなか吐けないので、時々介護士の世話になっているという話は聞いていた。
ハウスでは風邪が流行っていて、少し風邪も引いていたのかも知れない。
母が先に風邪を引き、楽しみにしていた孫の結婚式に出席出来ず、そのときの引き出物を持って、おととい行ったのだった。
「お父さんに移すといけないから」と、介護室のベッドに寝かせて貰っていたらしい。
しかし、何分にも、95歳という年齢。
今までは、何とか入院もせず過ごしていたが、昨日の朝高熱が出たので、救急車で、入院という事態になったらしい。
肺炎と言うことなので、ケアハウスの医師が、病院に手配してくれた。

病院は、私の家からバスで駅まで行き、電車に乗って3つほどのところにある。
とりあえず駆けつけると、妹は来ており、父は、診療中で、ハウスの介護士が、車椅子のそばで、入院に至った状況を説明してくれた。
やがて、病棟に移動、4人部屋に落ち着いた。
父は、点滴と栄養剤のチューブを繋がれた状態で、眠っていた。
声をかけると、うっすら目を開けるが、よく認識出来ないようだった。
そのうちに、もう一人の妹も来て、姉妹3人で、婦長の質問を受け、家族環境や、最近の健康状態について応対した。
詳しい状況は、日常的に世話になっているハウスの介護士が答え、きょうだいの中では、ハウスの身元引受人に登録されている妹が、主として応対した。
その後で、担当の若い医師から、大事な話を聞くことになった。

父は誤嚥性肺炎であること。
脱水があるので、今は、肺炎治療とための抗生物質と水分補給をしていること。
2週間くらいで、元の状態に回復すれば、ハウスのケアに戻れること。
しかし高齢なので、口からものを食べられない状態になったら、入院が長引くこと。
それでも、効果がなければ、いわゆる延命措置に切り替えざるを得ないこと。
高齢なので、治療と処置には限界があり、いつなんどき、命に関わる状況になるとも限らないこと。

そして、医師の言いたいのは、通常の治療と処置で、対応出来ない状態になったとき、延命措置をのぞむかどうかということだった。
昔なら、有無を言わせず、スパゲッティ症候群になったようなことだが、現在は、患者本人、あるいは家族の意志を確かめる状況になっているのだろう。
それはいいことではあるが、父自身の意志を確かめられない今、家族としては難しい決断を迫られることになる。
妹たちがなかなか口を開かないので、まず私が言うことになった。
私は、日頃思っていることを下記のように伝えた。
高齢なので、苦痛を伴う無理な延命は望まない。
自然体で、なるべく苦しまないで、命を全うさせたい。
もし、状態が良くなり、母の元に戻れるなら、それが一番いいが、もし状況が悪化して、自力で生きられない状態になったら、器械の力で、医学的に生かすというやり方はしないで欲しい。
本人の死生観としても、望まないと思いますと、伝えた。
「あなた達も、言いなさい」と妹たちに言ったが、「同じ考えです」と、答えた。
こういう場合、どうしても、長女である私が、代表して言うことになってしまう。
若い医師に、はたして、こちらの言わんとすることが伝わったかどうかわからないが、「延命治療はしない」ということだけは、理解してくれたと思う。
ハウスから救急車に乗る時、母はこれがこの世の別れであるかのごとく見送ったそうだが、先日「お父さんに、万一のことがあったら」という仮定の話をした時、私と同じ事を言っていたので、多分、同意してくれるだろう。

しかし、もう一度父の顔を見、妹たちと別れて、帰路につきながら、私が医師に言ったことは、あれで良かったのかどうか、疑問が残った。
父は、浄土真宗の家で育ち、本願寺にちょくちょく通うほど、仏教への思いが強かった。
元気な頃、人間の尊厳という問題は常に、父のテーマであり、人格を伴わない死に方はしたくないと言っていた。
私の家で暮らした3年の間に、やはり肺炎で一度、ヘルニアの手術で一度、入院している。
病院の扱いに腹を立て、夜中に「帰りたい」と言い張った父を、なだめに行き、そのとき、「病院と言うところは、ひどいところだ」と言ったことを覚えている。
それは自分のことではなく、同室にいた高齢の男性患者に対して、看護婦が、手荒な扱いをしたことに、怒っていたのだった。
「何もわからないと思って、バカにしている」と訴える父を、ともかく、ベッドに戻し、看護婦に「父は、自分のことでなくても、心を痛めるのです。それで、安眠出来ないようです」といいに言った。
それが8年前のこと。
「もう充分生きましたから手術などせず、このまま帰してください」と言った父に「いえ、人間はみな、持っている寿命まで生きることになってますから」と、穏やかに納得させてくれたのは、ヘルニアの執刀に当たった年配の医師だった。
ベテラン医師のおかげで、父は、手遅れになりそうな状態から脱して、命を貰った。
そう言う病院でも、末端の現場では、患者の心をないがしろにするような状況が、皆無ではないのである。
だから、延命治療は望まないと言ったことで、家族が、父を見放したというように、取られはしないかという不安が起こってきたのである。
私たちは、父が、人間らしい治療と介護を受け、その結果として人知の及ばないものであるなら、自然の状態で、安らかに終わりを見届けたいと思っているのである。
その気持ちが、逆手に取られるのは困るのだが、医療現場に、どのくらい伝わるのか。
こんな事を考えるのは、20年前、私の入院経験から、医師と医療現場に、不信感を持っているからだが、現在、医療現場にいる医師や看護士たちが、患者の命について、どういう哲学を持っているのか、短い時間の確認では不十分であろう。
後で悔いが残らないよう、もう一度、行ってこなければと思った。


春うらら
2006年03月25日(土)

中世文学なんかに浸かっている間に、季節は移りすぎて、彼岸も過ぎ、今日は3月最後の週末。
いい天気である。
連句の会も一つあるが、こちらには昨年からほとんどご無沙汰。
連句の会も、さまざまあれど、メンバー構成もいろいろで、進んで行きたい会と、あまり気の進まない会とある。
一昨日の会は、個人で連句会を主催している人が、一月前から呼んでくれていたもので、メンバーは常連の3人に、その都度、違うメンバーを3人加えて、やっているようだ。
1月にも呼んで貰い、今年2度目。
いずれもいいメンバーで、楽しく、闊達な座だった。
11時から午後5時でピタリと終わる。
ずるずると2次会まで、引きずらないところも、かえってすっきりしていい。
主催者は男性。
ほかのメンバーはみな女性。
中高年ばかりだから、今更おとこおんなもないようなものだが、やはり女の声は姦しい。
「女のおしゃべり、うるさくないですか」と訊いたら、「いやあ、同じウルサイなら女性の方が、いいですよ。男は、蘊蓄垂ればかりだからね」という答えが返ってきた。
フムフム、なるほどと、いくつかの顔が浮かんできたが、ほかの人が思い浮かべた顔と同じだったかどうか。
忌憚ないおしゃべりの中でも、ある一線を越えないところが、常識をわきまえた中高年グループの良さである。
こういう会には、呼ばれれば喜んでいくことにしている。
今日の連句会も、ひと頃まで、進んで行っていたが、昨年合唱の練習とかちあって、ご無沙汰しているうちに、だんだん雰囲気が合わなくなった。
「たまには来ませんか」という誘いが前回あって、気持ちも動いたのだが、結局足が向かなかった。
そんなわけで、今日も、久しぶりの麗らかな春の一日を、家で過ごすことにした。

この時期、花粉症の夫は、外の空気に触れたくないと言うので(そのくせ夜の飲み会には出かけていく)、毎年、春彼岸の墓参りは私一人で行っていたが、先々週の14日、少し寒いが、花粉も少なそうだと言うことで、夫の運転で、思い切って早めの墓参に行った。
彼岸の中日の頃は殺人的に込むが、その日は、平日で道もすいていたので、すいすいと、霊園に着いた。
高台にある墓地は寒かったが、人が少なくて、静か。
いつもよりゆっくりと、墓地の周りをきれいにし、植木の手入れもし、花を生け、手を合わせた。
ここには、夫の両親と、生まれてすぐ死んだ弟が眠っている。
霊園内のレストランで、遅めの昼食をすませ、帰路についた。

毎年よ彼岸の頃に寒いのは  鷹羽狩行

この句は、作者の母親が言ったことばをそのまま句にしたとか。
確かに、彼岸過ぎから、大分春らしくはなった。
台風のような荒れた風の日も、何日かあったが、やがて、春も終わりにはいる。
21日、甥の結婚式。
WBCで日本が優勝。
めでたさ一杯の一日が終わり、昨日は、父母のところへ。
父は私の顔がわからないようだったが、母は、先週引いた風邪の具合も良くなり、声も、普通に戻っていた。
孫の結婚式に出るつもりでいたのだった。

春宵や母の涙の皺伝ひ


ある命のこと
2006年03月02日(木)

もう一昨年10月のことになるが、イラクで香田証生さんが、殺害された。
当時、日本人にとっても危険だと言われていたイラクに、何故、単身幸田さんが入ったのか、理由はわからないが、テロ組織に拉致され、数日後に無惨な死という結果になった。
香田さんは、身の危険を感じて、イラクから去ろうとしていたところをつかまったようだが、犯人たちの前に座らせられ、カメラに向かって、「済みませんでした。日本に帰りたい」と訴えた。
そのときの、息をのむような表情を、私は正視出来なかった。
親たちの気持ちを考え、また、香田さん自身の、死の恐怖の中で、縋ろうとしたかすかな望みを思うと、何とも言えない気持ちになった。
日本政府も、手をこまねいていたわけではないだろうが、犯人グループの「自衛隊撤退」という要求はのめず、期限が来て、香田さんは、殺害された。
両親は、日本政府に対して、声高に、息子の救出を要求したりしなかったが、本当は、生きて帰ってくることを願っていたはずである。
しかし、その半年前に、イラクで捕らわれた日本人3人の救出を巡って、世間では、いわゆる「自己責任論」が主流を占め、また、アメリカ、そのほかの、イラク駐留の外国人軍人、民間人が犠牲になったりしたこともあり、「自衛隊を引き上げて香田さんを救え」などと言う意見は、とても、受け入れられない空気があった。
致し方なかっとと言えばそれまでだが、やはり私は、みんなで見殺しにしたという気持ちを拭えなかったし、今でも、それを思うと、心が痛む。
憎むべきは犯人グループである。
そして、そのうちの一人が逮捕されたというニュースが入った。

「イラク治安当局により逮捕された国際テロ組織アルカイダ系のテロ容疑者の男が、香田さんの殺害を自供、当局が起訴していたことが1日までに分かった。男は捜査官同席の下で、時事通信イラク人通信員の取材に応じ、香田さんを殺した時の模様などを詳細に語った。」

犯人であることは、どうやら間違いなさそうである。
その報に対し、香田さんの父親は、「犯人が捕まって嬉しいという気持ちはない。今は、なぜ息子が殺されなければならなかったのかという、空しさだけです」と語った。
病気の祖母の世話をしたり、気持ちのやさしい子だったと、当時語っていた母親。
両親にとっては、異国でたった一人、恐怖と苦痛の中で、無惨に殺害された息子のことを思うと、この一年半近くの間は、言葉に尽くせない日々だったろうと想像する。
そして、息子を悼む気持ちさえ、表明することを憚るような、あのころの空気。
あらためて香田さんの冥福を祈り、いつまでも、記憶に留めたい。

当時書いた日記を書きに表示しておく。

「一掬の涙を!」



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