沢の螢

akiko【MAIL

My追加

書店ウオッチング
2006年05月16日(火)

外出の行き帰りに、よく本屋に行く。
何か買う目的があって、立ち寄ることもあるが、たいていは、ぶらっと覗くためである。
新刊書、長く売れているベストセラー、雑誌・・。
家には、親の代からの書物も含め、たくさんの本があるので、なるべく本は買わないことにしているが、今、どんな本が売れているか、話題になっているかを見て歩くのは、楽しいし、世相の変化も判って、面白い。
パソコン関係の雑誌などは、立ち読みで、新しい情報も得られるので、便利だ。
文庫本、新書などは、安いので、興味を引くタイトルの物があると、つい、買ってしまったりするが、読まずに置いておくことが多いので、誘惑に負けないようにしなければならない。
本が売れなくなったとよく言われるが、その割には、本屋にはお客が多い。
みな、私のように、立ち読みか、ウオッチングで済ませる人が多いということだろうか。
私の最寄り駅の構内に、大きな本屋があり、そこへ行くと、見ているだけで楽しい。
売れそうもないような固い本や、岩波の新刊も、たいてい置いてあるし、思わぬ発見をしたりする。
インターネットで、たいていの情報がタダで得られるようになったといっても、やはり、活字で埋まった書物を手にする喜びは、ほかの物には代え難い。
絶版になっていた本が、いつの間にか再刊され、そんな物に出会うと、何もかも忘れて買ってしまうのだ。


同期会
2006年05月13日(土)

学生時代に入っていた合唱団の同期会に行く。
本当は一番いい季節のはずなのに、冬に戻ったような寒い一日。
行きも帰りも雨だった。
参加者18人。
親の介護や、自分自身の病気などで、出て来られない人も何人かいたが、いつも顔を見せている人たちは、大体来ていたし、賑やかに話が弾んだ。
若い時のように声は出ないし、音程もあやしくなっているが、昔唱っていたレパートリーは、なんとかハモった。
1分スピーチが、みな、5分くらいかかって、思いの外、時間を取られてしまったのは、お互い老化現象なのである。
ひとの話は長く感じるのに、自分の番になると、ついつい長くなってしまうのも、特徴。
年に一度の顔合わせだから、近況を聞いても、たいてい帰る頃には忘れてしまう。
立食パーティなので、食べたり飲んだりしながら、いくつかの固まりが出来、話はそれで充分な気がする。
折角だから唱う時間を多くした方がいいのに、と正直思ったが、いざ自分の番になると、やはり5分くらい喋ったようだ。
近況として、父の亡くなった話をした。
あっさりと聞いてくれたのは、もうみんな、もっと早くに親を亡くした人が大半だからである。
自分自身の老いが迫っていて、連れ合いに先立たれたひともいるのだ。

三人の幹事が、毎年開いてくれる会。
昨年、もう発展的解消をしようかという話も出た。
出てくるメンバーは大体決まっているし、元気な人はそれぞれ、仕事や趣味で忙しいし、合唱の同窓会はほかの年次でもやっているので、そちらに合流してもいいのではないかという案である。
しかしやはり、同期の会は得難いので、続けましょうと言うことになり、今年もいつもの場所に顔を合わせた。
午後四時に集まり、九時に解散。
同じ電車に乗る人と、途中まで一緒だった。

今日は、晴れていれば、同期会の前に行くところもあったのだが、寝坊してしまい、慌ただしく出かけるのもイヤなので、そちらはパスした。
もう一日に一つのことだけでいいと思うようになった。
これも、加齢現象であろうか。
することが沢山あって、いつも忙しく、あちこち飛び回る生活をするのを自慢にするひとが、私の時代は結構いた。
リタイアする年になっても、相変わらず、同じような日々を送り、その人たちは、ひとより忙しいと言うことが、未だに誇りなのだ。
今日もそんな人が何人かいた。
若い頃は、「すごいなあ、エネルギーがあるなあ」と感心したものだが、今は、思わない。
なんで、そんなに忙しくなきゃならないのと、冷ややかに見ている。
そう言うタイプのひとは、多分、どんなに時間があっても、足りないのだろう。
死ぬまで、何かに追われて暮らすに違いない。


遺される側
2006年05月11日(木)

きょう母のところに行った。
父が死んで早くも10日経ち、ひとり遺された母を気遣って、私と妹二人が、代わる代わる訪れている。
初めのうちは、泊まったりしていたが、部屋にしつらえた檀に、父の遺影と遺骨が安置されているので、母はそれで気持ちが落ち付くらしく、夜も安心して眠れるという。
昔、母の友人が夫を亡くし、遺骨が部屋にある間、気味が悪くて眠れないと言った人がいて、「なんてバチあたりかしら。亡くなったご主人が守ってくれると思えば、心強いはずなのに」と、憤慨していたことがあった。
葬儀いっさいが済み、だんだん通常の生活に戻ると、母は、傍にある遺骨と遺影に向かい、朝に夕に手を合わせ、語りかけているらしい。
ハウスのスタッフが日に何度か見回りに来てくれるので、孤独にもならず、そんな遣り取りのうちに、気持ちも落ち着いてきたようだ。
一人になった時、まだ涙が出たりもするらしいが、人は、大切な人と死別した時、充分に悲しんで、思い切り涙を流すプロセスが必要なのである。
その過程を経ないと、次のステップを踏み出せない。
まだ納骨もあるし、相続の手続きもある。
きょうは、そんな用事もあって、行ってみたのだ。
母の気持ちや雑用との付き合いは、妹たちがやってくれるが、難しいことは、結局私がやることになりそうだ。
私たち夫婦は、両親と同居していた3年間に、出来る限りのことをしたつもりだが、たまにやってくる妹たちには、あまり感謝もされず、批判ばかりされた不快な経験をしている。
同居している人間が、外に居る人間から、悪者扱いされてしまうのは、嫁姑ばかりではない。
昔、「となりの芝生」というテレビドラマがあり、長男夫婦と同居している母親が、よりよい環境を求めて、子どもたちの間を、渡り歩く話だったが、環境は自分が努力して作るものである。
誰かが作ってくれるのではない。
いろいろな過程を経て、母も、分かってきたらしいが、娘たちを、性格と力量に併せて、使い分けるやり方は、変わっていない。
「お父さんのためには、何でもしてあげたい気持ちになったけど、お母さんには、裏切られたからなあ」と、夫は言う。
私たち夫婦と同居すると決め、共に過ごした間、父は、私と夫を信頼し、何一つ不満は言わず、感謝の気持ちを持って接してくれた。
夫も、よくそれに応えてくれた。
でも、私は、もう、母を責める気持ちはない。
自分を守るための、年寄りの知恵なのだと、今は思っている。
きょうも、今後の事務手続きについて、「お母さんが頼みたい人に頼めばいいのよ」と言ってみたが、母は私に期待している。
お墓のこと、諸手続のこと、「お願いね」の一言には重すぎるが、これも長女の宿命、夫に手伝って貰って、やることにした。
妹たちは、母と一緒に泣いたり、慰めたり、私の指示に従って、動いていればいいのである。
「長女は泣いてばかり居られないのよ」と言いたくなる。
でも、やはり一番かわいそうなのは、夫を亡くした母である。
残りの人生を、安心して過ごさせてやりたい。

余談だが、私の年になると、死というのは、遠い話ではなくなる。
夫は毎月、誰かの葬式に行っている。
黒い背広をクリーニングに出すのが、難しいくらいである。
平均寿命から行くと、妻が残る方が多いのかも知れないが、最近は、夫の知り合いでも、妻に先立たれる男性が増えてきた。
「お父さんより1分でも長生きして、見送りたい」と言っていた母は、その通りにつとめを果たした。
私と夫はほぼ同年。
私は、自分が先に逝きたい方である。
遺される側にはなりたくない。
夫の居ない人生を考えただけで、ぞっとする。
だから「長生きしてね」と、夫にはいつも言っている。


別れ
2006年05月08日(月)

父が亡くなって1週間経った。
親族だけの通夜と告別式。
縁のあった人たちの中には、もう高齢や病床にある人もいるので、報せは、子どもと孫、直系の親類に限ったが、父が最後まで世話になったケアハウスのスタッフも、数人、参列してくれた。
地元の葬儀社の手で、手際よく進められる喪の儀式の中で、母も私たちも、涙を流している暇はなかったが、それらの次第に従うことで、直接的な悲しみは、一旦外に措かれた。
本当の悲しみは、むしろこれからであろう。

4日の告別式の後、父の遺体は荼毘に付され、遺骨の壺の中に収まって、母の元に戻ってきた。
それまでの、一連の儀式の中で、私がもっとも心を打たれたのは、ケアハウスの人たちの、別れの姿であった。
そこで暮らす人たちは、多くが、車椅子であったり、杖をついてやっと歩ける人たちであり、いずれも、介護士の介助を受けながら、ハウスの中の一部屋にしつらえた、父の棺に別れを告げに来てくれた。
中には、何故そこに来るのか、よく意味も分からない人もいたかも知れない。
しかし、人が長年培ってきた礼節や人柄は、そうした場合にも、滲み出るものである。
棺の小窓をのぞき込み、長いこと手を合わせながら涙を流した老婦人、小さな声で「さよなら」を言って、瞑目してくれた父と同年配の男の人、そのほかの人たちも、それぞれの作法で、静かに別れをしてくれた。
やがて来る自らの死と重ね合わせても居たのだろうが、美辞麗句を並べるでも、大げさなことをするでもない動作の中に、人の真心が現れていた。
母と、私、末の妹が連れ合い共々、礼を返しながら、自然の涙が溢れるのを禁じ得なかった。
これが本当の、死者との別れの姿だと、感じた。
スタッフたちは、住人たちのケアをする中で、日常的に、人の病苦や死と向き合っている。
その日も、ほかに、2人の「お別れ会」があったらしい。
介護の仕事の中で、時間を調節して、仕事着のままで、手を合わせに来てくれた。
中でも、いつも、父の介護に当たってくれた若い青年が、遺体となった父の枕元で、座り込んだまま、長いこと泪を流した姿は、仕事を離れた一人の人間の気持ちであったろう。
父は五月生。
晴れ男だったのだろうか。
旅だった日から、告別式まで、ずっと青い空であった。
父は元気な頃、短歌を愛し、その道にいそしんでいた。
短歌を捨て、連句に入ってしまった私だが、父の死をきっかけに、また、短歌に戻りたい気持ちが湧いてきた。
本当に自分を表現できるのは、短歌である。
連句には、孤独に耐える厳しさがない。
いずれ、父の遺稿をまとめることになる。
もう一度、短歌を見つめ直したい。

大空の絹ひとひらも動かさず父は逝きけり初夏の日に


川の流れ
2006年05月05日(金)

9年前になる。
蓼科の山荘に、父と母を連れて行ったことがあった。
散歩の好きな父に、森の中を歩いて貰いたかった。
そのころには、もう父は、知らないところを一人で歩くには、不安を覚えるようになっていて、夫か私が付いて歩いた。
家の前からなだらかな坂を下り、別の小道に出ると、小さな流れがある。
「この川はどこに流れていくんだろうね」と父が言った。
そして「逝く秋の川の流れに付いていく」と、独り言のように付け加えた。
短歌を嗜んでいた父は、時々、こんな風に、喋っている言葉が韻文調になる。
そしてしばらくの間、小さな流れを見つめていた。
こんなことも、いまは彼岸に渡ってしまった、父との思い出である。



蒼穹の彼方へ
2006年05月02日(火)

昨日父は帰らぬ旅路についた。
おとといの夕方、私は泊まるつもりで父の様子を見に行った。
いつも日曜日に、夕食を共にすることになっていた妹が、急用が出来たので、代わりに行って欲しいという。
3時過ぎに行くと、父は点滴が終わったばかりで、眠っていた。
熱が高く、苦しがっていたが、痰を引き、水分補給の点滴が終わって、少し楽になったらしい。
数日前から、もう自分の口から食べたり飲んだり出来なくなった父は、点滴だけで生きていた。
熱もあるので、命の終焉が近づいているのかも知れないと思い、妹たちと交代で、見舞っていた。
「きょうは泊まっていくから」というと、母は、ホッとした顔をした。
疲れの目立つ母を、少し休ませたいと思い、妹が帰った後、父と母が見えるところに、椅子を置き、仮眠した。
介護士が、夜中でも、ちょくちょく来て、世話してくれる。
その度に母は起きて、一緒に様子をのぞき込む。
父は時々苦しそうな息をした。
口が乾いているのだ。
何か飲ませてやりたいとどんなに思ったことか。
だが誤嚥の可能性があるので、禁じられていた。
明け方、介護士に「脱水があるようだけど、息が苦しそうなのは、それもあるのではないですか」というと、「朝、ドクターの回診もありますから、様子を見て、点滴をするかも知れません」と言った。
朝になり、看護婦さんに啖を引いてもらった父は、楽になったらしく、穏やかな寝息を立て始めた。
しばらく様子を見ていたが、父は静かに眠っていた。
良かった、そのうちに医師も来るだろうし、妹も、昼頃来ると言っていた、今のうちに自宅に帰って、また来ようと思い、父のもとをはなれた。
家に帰り、シャワーを浴びた。
暑い日だった。
しかし、その間に父は、寿命が尽きてしまったのだ。
電話を掛けて来たのは、母だった。
涙声ではあるが、しっかりしている。
すぐに別の妹に知らせたが、二人とも電話口で泣いてしまった。
あのまま、父のそばにいれぱよかった、後悔に胸がしめつけられる。
タクシーでかけつけ、父の顔を見ると、生きているようだ。
触るとまだ暖かい。
私も、妹たちも間に合わなかった。
そう、思うと、また悔いの涙が溢れる。
こんなことなら、夕べ、沢山水を飲ませてあげればよかった。
もし、誤って窒息しても、父にとっては、命の水になったかも知れぬのに。
でも、最後に目を開け、母の顔を見て、うなづいたと言う。
それが別れだったのだろう。
母のそばで亡くなってよかった。
父は五月生れ。
誕生日が来れば、96歳になるはずだった。
五月の訪れを待つかのように、晴れた空の向こうに行ってしまった。
父の行った先には、たくさんのきょうだい、友人たちが、酒好きな父のために、酒宴を用意して待っていてくれるだろう。
この世とあの世を隔てる橋を渡る時、父は何を思っただろう。
残された私たちには悲しいが、人間らしく死を迎えてよかった。
今はそう思っている。


父の枕辺に
2006年04月30日(日)

  
先月肺炎で入院し、幸い大過なく、1週間後に退院した父だったが、やはり、徐々に衰えが進み、一昨日あたりから、また熱が出始めた。
両親は介護付きマンションで4年前から暮らしており、医者も看護婦も、常駐している。
21日に医者から話があるといわれ、二人の妹と共に、親たちの居るハウスに行った。
入院時にも、病院の主治医から言われたことだが、母も私たちきょうだいも、無理な延命治療は受けないという点では、ほぼ同意している。
なるべく自然体で、父の持っている寿命のままに、穏やかな終焉を迎えることを、望みたいというと、ハウスの医師も、同意見であったので、「じゃ、原則入院しないで、ここで、出来るだけのケアをするということでいいですね」と言うことになった。
誕生日が来れば96歳になる高齢である。
昨年終わり、父の10歳下の弟が亡くなり、8人兄弟のうち、父だけが残っている。
明治生まれ、戦争も飢餓の時代もくぐり抜け、その生命力はハンパではない。
しかし、退院後は、移動には、車椅子を使うようになり、このひと月、ハウスで調理してくれる刻み食を食べていたが、大分飲み込みが悪くなっていて、時に噎せるようになったという。

入院の原因も、誤嚥性肺炎だったので、また同じ事が起こる可能性があり、ハウスのスタッフも、よくケアしてくれているが、「もう口から食べたり飲んだりは、無理かも知れません」という医師の話があった。
「万一の時に、入院させますか。それとも、ここで、なるべく負担のかからないケアをしながら、過ごしますか」という選択を迫られた。
母は、自分のそばで、最後まで看取りたいという。
入院しても、今以上の回復が望めるかどうかは分からないし、病院通いも、母は自分で出来ないから、ここで、目の届くところで、見ていたいというのだった。
私たちは、母の気持ちを尊重することにした。
なんと言っても、七〇年の歳月を、共に生きてきた夫婦である。
特に母の方は、今は、父だけが生き甲斐のようになっている。
「一日でも、お父さんより長く生きて、ちゃんとあの世に送りたい」というのが、93歳になった母の思いである。
その思いだけで、頑張っている母である。
そこには、子どもの私たちの及ばない世界がある。

一昨日からまた熱があるという妹の電話があり、昨日、父の様子を見るために、行ってみると、父は水分と栄養補給の点滴の後、すやすや眠っていた。
そのそばで、母は、父の手を握って、話しかけたり、頭をさすったりして、見守っていた。
日頃の食事は、ほかの住人たちと一緒に、食堂ですることになっているが、最近は、母が、自室で、父を見守りながら食べている。
昨日私が、「夜まで居るから、少し眠った方がいいよ」というと、母は「それなら、お風呂に入ってくるから、お願い」と言って、上の階にある風呂場に行った。
母は、自室の小さなユニットバスを嫌い、ハウスの共同浴場に行く。
大きくて、ゆっくり出来るからいいのだという。
一人で大丈夫かと心配するが、スタッフには声をかけていくし、たいてい誰かが一緒なので、大丈夫だという。あまり長湯の時は、スタッフが様子を見に来るらしい。
母の居ない間、父の呼吸が少し速くなってきた。
座薬で熱が下がっていたが、少し上がってきたらしい。
体温を測ると、7度7分ある。
ちょうど見回りに来た看護婦に、診て貰った。
「アイスノンを替えて、様子を見ましょう」と言って、帰っていった。
やがて母が戻って来た。
「ゆっくりお風呂に入って気持ちよかったわ」と、喜んでいる。
母の夕食が運ばれ、私は、母が作ってあったものや、途中で買ってきたサンドイッチなどを食べた。
ずっと眠っていた父が、そのころになって目を開けた。
私の顔が、分かるかどうか。
すっかりやせて、手も足も細くなっているが、じっと私の顔を見ている。
父の手を握ると、目から、ひとしずく涙がこぼれた。
何も言わないが、気持ちが分かる。
誰に対しても、感謝の心を忘れない父である。
母が「お父さん、少し笑ったみたい」と言う。
「安心して眠っていいよ」と言い、母が頭を撫でてやると、父はうんうんと頷くようにして、目を閉じた。
父は間違いなく、生きることを欲している。
鼻からチューブが繋がれたような状態は望まないが、こうして、命の終わりを見ていくのも、つらいことである。
人の、最後の姿というのは、どういう形が望ましいのだろう。

今朝の妹の電話は、夜勤の看護婦さんからの報告を伝えるためだった。
父と母が私の家で過ごした3年間に、きょうだいの間で、いろいろな行き違いがあり、何もない時は、ほとんど付き合いもなくなってしまったが、先月の父の入院をきっかけに、また妹たちとは、電話などで、様子を知らせあっている。
きょうだいなど、居ない方が、親の介護がしやすいと思って過ごした3年間だった。
でも、とりあえず、父を見守り、やがて、母を送るまで、裏に確執を秘めたきょうだい付き合いを、せねばならないだろう。



BACK   NEXT
目次ページ