外出の行き帰りに、よく本屋に行く。 何か買う目的があって、立ち寄ることもあるが、たいていは、ぶらっと覗くためである。 新刊書、長く売れているベストセラー、雑誌・・。 家には、親の代からの書物も含め、たくさんの本があるので、なるべく本は買わないことにしているが、今、どんな本が売れているか、話題になっているかを見て歩くのは、楽しいし、世相の変化も判って、面白い。 パソコン関係の雑誌などは、立ち読みで、新しい情報も得られるので、便利だ。 文庫本、新書などは、安いので、興味を引くタイトルの物があると、つい、買ってしまったりするが、読まずに置いておくことが多いので、誘惑に負けないようにしなければならない。 本が売れなくなったとよく言われるが、その割には、本屋にはお客が多い。 みな、私のように、立ち読みか、ウオッチングで済ませる人が多いということだろうか。 私の最寄り駅の構内に、大きな本屋があり、そこへ行くと、見ているだけで楽しい。 売れそうもないような固い本や、岩波の新刊も、たいてい置いてあるし、思わぬ発見をしたりする。 インターネットで、たいていの情報がタダで得られるようになったといっても、やはり、活字で埋まった書物を手にする喜びは、ほかの物には代え難い。 絶版になっていた本が、いつの間にか再刊され、そんな物に出会うと、何もかも忘れて買ってしまうのだ。
学生時代に入っていた合唱団の同期会に行く。 本当は一番いい季節のはずなのに、冬に戻ったような寒い一日。 行きも帰りも雨だった。 参加者18人。 親の介護や、自分自身の病気などで、出て来られない人も何人かいたが、いつも顔を見せている人たちは、大体来ていたし、賑やかに話が弾んだ。 若い時のように声は出ないし、音程もあやしくなっているが、昔唱っていたレパートリーは、なんとかハモった。 1分スピーチが、みな、5分くらいかかって、思いの外、時間を取られてしまったのは、お互い老化現象なのである。 ひとの話は長く感じるのに、自分の番になると、ついつい長くなってしまうのも、特徴。 年に一度の顔合わせだから、近況を聞いても、たいてい帰る頃には忘れてしまう。 立食パーティなので、食べたり飲んだりしながら、いくつかの固まりが出来、話はそれで充分な気がする。 折角だから唱う時間を多くした方がいいのに、と正直思ったが、いざ自分の番になると、やはり5分くらい喋ったようだ。 近況として、父の亡くなった話をした。 あっさりと聞いてくれたのは、もうみんな、もっと早くに親を亡くした人が大半だからである。 自分自身の老いが迫っていて、連れ合いに先立たれたひともいるのだ。 三人の幹事が、毎年開いてくれる会。 昨年、もう発展的解消をしようかという話も出た。 出てくるメンバーは大体決まっているし、元気な人はそれぞれ、仕事や趣味で忙しいし、合唱の同窓会はほかの年次でもやっているので、そちらに合流してもいいのではないかという案である。 しかしやはり、同期の会は得難いので、続けましょうと言うことになり、今年もいつもの場所に顔を合わせた。 午後四時に集まり、九時に解散。 同じ電車に乗る人と、途中まで一緒だった。 今日は、晴れていれば、同期会の前に行くところもあったのだが、寝坊してしまい、慌ただしく出かけるのもイヤなので、そちらはパスした。 もう一日に一つのことだけでいいと思うようになった。 これも、加齢現象であろうか。 することが沢山あって、いつも忙しく、あちこち飛び回る生活をするのを自慢にするひとが、私の時代は結構いた。 リタイアする年になっても、相変わらず、同じような日々を送り、その人たちは、ひとより忙しいと言うことが、未だに誇りなのだ。 今日もそんな人が何人かいた。 若い頃は、「すごいなあ、エネルギーがあるなあ」と感心したものだが、今は、思わない。 なんで、そんなに忙しくなきゃならないのと、冷ややかに見ている。 そう言うタイプのひとは、多分、どんなに時間があっても、足りないのだろう。 死ぬまで、何かに追われて暮らすに違いない。
きょう母のところに行った。 父が死んで早くも10日経ち、ひとり遺された母を気遣って、私と妹二人が、代わる代わる訪れている。 初めのうちは、泊まったりしていたが、部屋にしつらえた檀に、父の遺影と遺骨が安置されているので、母はそれで気持ちが落ち付くらしく、夜も安心して眠れるという。 昔、母の友人が夫を亡くし、遺骨が部屋にある間、気味が悪くて眠れないと言った人がいて、「なんてバチあたりかしら。亡くなったご主人が守ってくれると思えば、心強いはずなのに」と、憤慨していたことがあった。 葬儀いっさいが済み、だんだん通常の生活に戻ると、母は、傍にある遺骨と遺影に向かい、朝に夕に手を合わせ、語りかけているらしい。 ハウスのスタッフが日に何度か見回りに来てくれるので、孤独にもならず、そんな遣り取りのうちに、気持ちも落ち着いてきたようだ。 一人になった時、まだ涙が出たりもするらしいが、人は、大切な人と死別した時、充分に悲しんで、思い切り涙を流すプロセスが必要なのである。 その過程を経ないと、次のステップを踏み出せない。 まだ納骨もあるし、相続の手続きもある。 きょうは、そんな用事もあって、行ってみたのだ。 母の気持ちや雑用との付き合いは、妹たちがやってくれるが、難しいことは、結局私がやることになりそうだ。 私たち夫婦は、両親と同居していた3年間に、出来る限りのことをしたつもりだが、たまにやってくる妹たちには、あまり感謝もされず、批判ばかりされた不快な経験をしている。 同居している人間が、外に居る人間から、悪者扱いされてしまうのは、嫁姑ばかりではない。 昔、「となりの芝生」というテレビドラマがあり、長男夫婦と同居している母親が、よりよい環境を求めて、子どもたちの間を、渡り歩く話だったが、環境は自分が努力して作るものである。 誰かが作ってくれるのではない。 いろいろな過程を経て、母も、分かってきたらしいが、娘たちを、性格と力量に併せて、使い分けるやり方は、変わっていない。 「お父さんのためには、何でもしてあげたい気持ちになったけど、お母さんには、裏切られたからなあ」と、夫は言う。 私たち夫婦と同居すると決め、共に過ごした間、父は、私と夫を信頼し、何一つ不満は言わず、感謝の気持ちを持って接してくれた。 夫も、よくそれに応えてくれた。 でも、私は、もう、母を責める気持ちはない。 自分を守るための、年寄りの知恵なのだと、今は思っている。 きょうも、今後の事務手続きについて、「お母さんが頼みたい人に頼めばいいのよ」と言ってみたが、母は私に期待している。 お墓のこと、諸手続のこと、「お願いね」の一言には重すぎるが、これも長女の宿命、夫に手伝って貰って、やることにした。 妹たちは、母と一緒に泣いたり、慰めたり、私の指示に従って、動いていればいいのである。 「長女は泣いてばかり居られないのよ」と言いたくなる。 でも、やはり一番かわいそうなのは、夫を亡くした母である。 残りの人生を、安心して過ごさせてやりたい。 余談だが、私の年になると、死というのは、遠い話ではなくなる。 夫は毎月、誰かの葬式に行っている。 黒い背広をクリーニングに出すのが、難しいくらいである。 平均寿命から行くと、妻が残る方が多いのかも知れないが、最近は、夫の知り合いでも、妻に先立たれる男性が増えてきた。 「お父さんより1分でも長生きして、見送りたい」と言っていた母は、その通りにつとめを果たした。 私と夫はほぼ同年。 私は、自分が先に逝きたい方である。 遺される側にはなりたくない。 夫の居ない人生を考えただけで、ぞっとする。 だから「長生きしてね」と、夫にはいつも言っている。
父が亡くなって1週間経った。 親族だけの通夜と告別式。 縁のあった人たちの中には、もう高齢や病床にある人もいるので、報せは、子どもと孫、直系の親類に限ったが、父が最後まで世話になったケアハウスのスタッフも、数人、参列してくれた。 地元の葬儀社の手で、手際よく進められる喪の儀式の中で、母も私たちも、涙を流している暇はなかったが、それらの次第に従うことで、直接的な悲しみは、一旦外に措かれた。 本当の悲しみは、むしろこれからであろう。 4日の告別式の後、父の遺体は荼毘に付され、遺骨の壺の中に収まって、母の元に戻ってきた。 それまでの、一連の儀式の中で、私がもっとも心を打たれたのは、ケアハウスの人たちの、別れの姿であった。 そこで暮らす人たちは、多くが、車椅子であったり、杖をついてやっと歩ける人たちであり、いずれも、介護士の介助を受けながら、ハウスの中の一部屋にしつらえた、父の棺に別れを告げに来てくれた。 中には、何故そこに来るのか、よく意味も分からない人もいたかも知れない。 しかし、人が長年培ってきた礼節や人柄は、そうした場合にも、滲み出るものである。 棺の小窓をのぞき込み、長いこと手を合わせながら涙を流した老婦人、小さな声で「さよなら」を言って、瞑目してくれた父と同年配の男の人、そのほかの人たちも、それぞれの作法で、静かに別れをしてくれた。 やがて来る自らの死と重ね合わせても居たのだろうが、美辞麗句を並べるでも、大げさなことをするでもない動作の中に、人の真心が現れていた。 母と、私、末の妹が連れ合い共々、礼を返しながら、自然の涙が溢れるのを禁じ得なかった。 これが本当の、死者との別れの姿だと、感じた。 スタッフたちは、住人たちのケアをする中で、日常的に、人の病苦や死と向き合っている。 その日も、ほかに、2人の「お別れ会」があったらしい。 介護の仕事の中で、時間を調節して、仕事着のままで、手を合わせに来てくれた。 中でも、いつも、父の介護に当たってくれた若い青年が、遺体となった父の枕元で、座り込んだまま、長いこと泪を流した姿は、仕事を離れた一人の人間の気持ちであったろう。 父は五月生。 晴れ男だったのだろうか。 旅だった日から、告別式まで、ずっと青い空であった。 父は元気な頃、短歌を愛し、その道にいそしんでいた。 短歌を捨て、連句に入ってしまった私だが、父の死をきっかけに、また、短歌に戻りたい気持ちが湧いてきた。 本当に自分を表現できるのは、短歌である。 連句には、孤独に耐える厳しさがない。 いずれ、父の遺稿をまとめることになる。 もう一度、短歌を見つめ直したい。 大空の絹ひとひらも動かさず父は逝きけり初夏の日に
9年前になる。 蓼科の山荘に、父と母を連れて行ったことがあった。 散歩の好きな父に、森の中を歩いて貰いたかった。 そのころには、もう父は、知らないところを一人で歩くには、不安を覚えるようになっていて、夫か私が付いて歩いた。 家の前からなだらかな坂を下り、別の小道に出ると、小さな流れがある。 「この川はどこに流れていくんだろうね」と父が言った。 そして「逝く秋の川の流れに付いていく」と、独り言のように付け加えた。 短歌を嗜んでいた父は、時々、こんな風に、喋っている言葉が韻文調になる。 そしてしばらくの間、小さな流れを見つめていた。 こんなことも、いまは彼岸に渡ってしまった、父との思い出である。
昨日父は帰らぬ旅路についた。 おとといの夕方、私は泊まるつもりで父の様子を見に行った。 いつも日曜日に、夕食を共にすることになっていた妹が、急用が出来たので、代わりに行って欲しいという。 3時過ぎに行くと、父は点滴が終わったばかりで、眠っていた。 熱が高く、苦しがっていたが、痰を引き、水分補給の点滴が終わって、少し楽になったらしい。 数日前から、もう自分の口から食べたり飲んだり出来なくなった父は、点滴だけで生きていた。 熱もあるので、命の終焉が近づいているのかも知れないと思い、妹たちと交代で、見舞っていた。 「きょうは泊まっていくから」というと、母は、ホッとした顔をした。 疲れの目立つ母を、少し休ませたいと思い、妹が帰った後、父と母が見えるところに、椅子を置き、仮眠した。 介護士が、夜中でも、ちょくちょく来て、世話してくれる。 その度に母は起きて、一緒に様子をのぞき込む。 父は時々苦しそうな息をした。 口が乾いているのだ。 何か飲ませてやりたいとどんなに思ったことか。 だが誤嚥の可能性があるので、禁じられていた。 明け方、介護士に「脱水があるようだけど、息が苦しそうなのは、それもあるのではないですか」というと、「朝、ドクターの回診もありますから、様子を見て、点滴をするかも知れません」と言った。 朝になり、看護婦さんに啖を引いてもらった父は、楽になったらしく、穏やかな寝息を立て始めた。 しばらく様子を見ていたが、父は静かに眠っていた。 良かった、そのうちに医師も来るだろうし、妹も、昼頃来ると言っていた、今のうちに自宅に帰って、また来ようと思い、父のもとをはなれた。 家に帰り、シャワーを浴びた。 暑い日だった。 しかし、その間に父は、寿命が尽きてしまったのだ。 電話を掛けて来たのは、母だった。 涙声ではあるが、しっかりしている。 すぐに別の妹に知らせたが、二人とも電話口で泣いてしまった。 あのまま、父のそばにいれぱよかった、後悔に胸がしめつけられる。 タクシーでかけつけ、父の顔を見ると、生きているようだ。 触るとまだ暖かい。 私も、妹たちも間に合わなかった。 そう、思うと、また悔いの涙が溢れる。 こんなことなら、夕べ、沢山水を飲ませてあげればよかった。 もし、誤って窒息しても、父にとっては、命の水になったかも知れぬのに。 でも、最後に目を開け、母の顔を見て、うなづいたと言う。 それが別れだったのだろう。 母のそばで亡くなってよかった。 父は五月生れ。 誕生日が来れば、96歳になるはずだった。 五月の訪れを待つかのように、晴れた空の向こうに行ってしまった。 父の行った先には、たくさんのきょうだい、友人たちが、酒好きな父のために、酒宴を用意して待っていてくれるだろう。 この世とあの世を隔てる橋を渡る時、父は何を思っただろう。 残された私たちには悲しいが、人間らしく死を迎えてよかった。 今はそう思っている。
先月肺炎で入院し、幸い大過なく、1週間後に退院した父だったが、やはり、徐々に衰えが進み、一昨日あたりから、また熱が出始めた。 両親は介護付きマンションで4年前から暮らしており、医者も看護婦も、常駐している。 21日に医者から話があるといわれ、二人の妹と共に、親たちの居るハウスに行った。 入院時にも、病院の主治医から言われたことだが、母も私たちきょうだいも、無理な延命治療は受けないという点では、ほぼ同意している。 なるべく自然体で、父の持っている寿命のままに、穏やかな終焉を迎えることを、望みたいというと、ハウスの医師も、同意見であったので、「じゃ、原則入院しないで、ここで、出来るだけのケアをするということでいいですね」と言うことになった。 誕生日が来れば96歳になる高齢である。 昨年終わり、父の10歳下の弟が亡くなり、8人兄弟のうち、父だけが残っている。 明治生まれ、戦争も飢餓の時代もくぐり抜け、その生命力はハンパではない。 しかし、退院後は、移動には、車椅子を使うようになり、このひと月、ハウスで調理してくれる刻み食を食べていたが、大分飲み込みが悪くなっていて、時に噎せるようになったという。 入院の原因も、誤嚥性肺炎だったので、また同じ事が起こる可能性があり、ハウスのスタッフも、よくケアしてくれているが、「もう口から食べたり飲んだりは、無理かも知れません」という医師の話があった。 「万一の時に、入院させますか。それとも、ここで、なるべく負担のかからないケアをしながら、過ごしますか」という選択を迫られた。 母は、自分のそばで、最後まで看取りたいという。 入院しても、今以上の回復が望めるかどうかは分からないし、病院通いも、母は自分で出来ないから、ここで、目の届くところで、見ていたいというのだった。 私たちは、母の気持ちを尊重することにした。 なんと言っても、七〇年の歳月を、共に生きてきた夫婦である。 特に母の方は、今は、父だけが生き甲斐のようになっている。 「一日でも、お父さんより長く生きて、ちゃんとあの世に送りたい」というのが、93歳になった母の思いである。 その思いだけで、頑張っている母である。 そこには、子どもの私たちの及ばない世界がある。 一昨日からまた熱があるという妹の電話があり、昨日、父の様子を見るために、行ってみると、父は水分と栄養補給の点滴の後、すやすや眠っていた。 そのそばで、母は、父の手を握って、話しかけたり、頭をさすったりして、見守っていた。 日頃の食事は、ほかの住人たちと一緒に、食堂ですることになっているが、最近は、母が、自室で、父を見守りながら食べている。 昨日私が、「夜まで居るから、少し眠った方がいいよ」というと、母は「それなら、お風呂に入ってくるから、お願い」と言って、上の階にある風呂場に行った。 母は、自室の小さなユニットバスを嫌い、ハウスの共同浴場に行く。 大きくて、ゆっくり出来るからいいのだという。 一人で大丈夫かと心配するが、スタッフには声をかけていくし、たいてい誰かが一緒なので、大丈夫だという。あまり長湯の時は、スタッフが様子を見に来るらしい。 母の居ない間、父の呼吸が少し速くなってきた。 座薬で熱が下がっていたが、少し上がってきたらしい。 体温を測ると、7度7分ある。 ちょうど見回りに来た看護婦に、診て貰った。 「アイスノンを替えて、様子を見ましょう」と言って、帰っていった。 やがて母が戻って来た。 「ゆっくりお風呂に入って気持ちよかったわ」と、喜んでいる。 母の夕食が運ばれ、私は、母が作ってあったものや、途中で買ってきたサンドイッチなどを食べた。 ずっと眠っていた父が、そのころになって目を開けた。 私の顔が、分かるかどうか。 すっかりやせて、手も足も細くなっているが、じっと私の顔を見ている。 父の手を握ると、目から、ひとしずく涙がこぼれた。 何も言わないが、気持ちが分かる。 誰に対しても、感謝の心を忘れない父である。 母が「お父さん、少し笑ったみたい」と言う。 「安心して眠っていいよ」と言い、母が頭を撫でてやると、父はうんうんと頷くようにして、目を閉じた。 父は間違いなく、生きることを欲している。 鼻からチューブが繋がれたような状態は望まないが、こうして、命の終わりを見ていくのも、つらいことである。 人の、最後の姿というのは、どういう形が望ましいのだろう。 今朝の妹の電話は、夜勤の看護婦さんからの報告を伝えるためだった。 父と母が私の家で過ごした3年間に、きょうだいの間で、いろいろな行き違いがあり、何もない時は、ほとんど付き合いもなくなってしまったが、先月の父の入院をきっかけに、また妹たちとは、電話などで、様子を知らせあっている。 きょうだいなど、居ない方が、親の介護がしやすいと思って過ごした3年間だった。 でも、とりあえず、父を見守り、やがて、母を送るまで、裏に確執を秘めたきょうだい付き合いを、せねばならないだろう。
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