誘われて、ハウスコンサートという催しに行った。 家から沿線の駅を4つほど下った東京郊外。 三百年前の民家を、一部移築して、コンサート会場に使えるように建て、家族で、クラシック演奏会を企画、実行しているという。 24年前からやっていると言うが、私は今まで知らずにいて、今日が初めてだった。 個人の家でのコンサートだから、70人位で一杯になる。 住宅地の中の一軒で、外からは、道路に沿って建て並んだ普通の家である。 オープンに作られたアプローチに、小さな看板があるので、それと分かる作りである。 誘ってくれた人は、今日の演奏者であるメゾソプラノの歌手から、歌を習っているそうだ。 私が、音楽好きと知っていて、チケットを買ってくれた。 開演前に、会場は満員になった。 ハウスコンサートのオーナーから、簡単な紹介があって、演奏になった。 フランスの歌曲から始まり、休憩を挟んで、後半はオペラのアリア。 伴奏はピアノだけだが、小さな会場なので、声がびんびん響く。 聴きに来た人は、大半が女性。 演奏者の弟子と関係者、それに、ハウスコンサートの固定客が大半のようだった。 アンコールには、日本歌曲の「初恋」と「宵待草」。 さらに、会場の人も一緒に「この道」を斉唱して終わった。 終わると、厨房からコーヒーが用意され、大きさも模様も様々な、すてきなカップで、美味しいコーヒーを飲んだ。 防音装置はしてあるだろうが、こうした普通の家でのコンサートも、またいいものだと思った。 次回以降のために、会員登録して帰ってきた。
ワールドカップも、決勝戦を残すのみになった。 準決勝では、ポルトガルを応援していたのに、フランスに負けてしまって残念! フィーゴと若いロナウドがよかったのに。 ドイツもイングランドも、キライなわけじゃないけれど、私は判官贔屓。 いわゆるサッカー大国よりも、苦戦してやっと、出てきたようなチームに肩入れしてしまう。 トーゴ、トリニダード・トバゴ、コートジボワール、そしてウクライナ。 アジア、アフリカ、オセアニア、ユーラシア、そして準決勝で南米も姿を消し、残ったのは、ヨーロッパばかり。 その中では、ポルトガルに勝たせたかった。 決勝戦のフランスとイタリア、うーん。 私は白ワインより赤ワインの方が好きなので、この際イタリアにしよう。 赤ワインの輸出は、イタリアの方が多いと聞く。 太陽を燦々と浴びたイタリアなら、真っ赤なトマトと共に、ワインも、熟成しているだろう。 ちょっとズルイところもあるけれど、何となく憎めないイタリア。 最近、固有名詞を忘れる傾向があるので、地名が出て来ないが、イタリア、フィレンツェのちょっと北(ここのイタリア語が正調イタリア語だとか)の、何とか言う地方のレストランで飲んだ赤ワインの美味しかったこと! 日本で買ってみたが、現地で飲んだ味とは違う。 輸出用は、防腐剤でも入っているんだろうか。 ここまで書いて思い出た。 ブルネロ.デ.モンタルチーノ(スペルちょっと自信ないので)とか言うんだった。 現地在住のコンダクターが、「銘酒中の銘酒」と言ったので、産地の値段にしてはとびきり高いワインを夫が注文したが、ホントに美味しかった。 グループのほかの人たちは、キャンティかなんか注文して、私たちのワインを一口ずつ味見したりしたが、私は、中身が減ることを気にしていた。 私はケチだろうか。 だから(この接続詞は何の脈絡もない)イタリアを応援する。
ワールドカップに夢中になっている間に、北の隣国から、日本海に打ち込まれたもの。 その詳細と、今後の成り行きは、当然気になる。 憂慮する冷静な意見と共に、好戦的、感情的な考え方も、インターネット上には散見する。 太平洋戦争終結後の60年間、日本は、いかなる国に対しても、不当に侵略したり、他国民を迫害したりすることなく、過ごしてきた。 これは素晴らしいことだ。 もちろん、平和憲法があり、防衛上はアメリカの庇護の元にあったからだと言えば言えるが、そうした議論をここでするつもりはない。 史上初めて、原子爆弾が投下され、私の叔母も含めて、たくさんの人命が失われ、今もその影響が続いている事実を考えると、アメリカに対しても、複雑な思いがある。 だが、アメリカを始め、ほかの大国からどんなにバカにされようが、非難されようが、自国を守るための手段としてさえも、慎重な態度をとり続ける日本のあり方を、変えて欲しくないと思っている。 その点になると、家族の間でも、意見が異なる。 個人のレベルでどうにかなる話ではないので、家庭の平和が侵されるほどのバトルはしないが、多分、育った環境と体験の違い、男と女の違い、様々あるのだろう。 父が亡くなってから、私は自分の育った家系の、すでにあの世にいる親族についても、調べてみる機会があり、その人たちの人生に、思いを馳せるところ多々ある。 私の父は、主計官として、当時仏領インドシナと言われた現在のベトナムに従軍したが、幸い生きて帰ってきた。 しかし、父の末弟である叔父は、太平洋上を飛行中、20歳の若さで戦死している。 墓碑には、その叔父の銘も刻まれている。 飛行服を着た叔父の、写真も残っている。 少年の面差しの残る、凛々しく美しい顔。 生きていれば、82歳。 恋も知らず、散った叔父の命を思う時、生ぬるい平和であっても、戦争よりいいと思うのだ。 しめった空気のよどむこの季節。 家中カビが生えそうである。 だが、明ければ、カッと日差しの照りつける暑い夏になる。 昨日は、大雨の中、前から約束してあった友人と、都心で待ち合わせ、さる美術館まで、骨董を見に行った。 李朝や伊万里の焼き物で、目の保養をした。 人間は、こんな美しい物も作るのに、片や、人殺しもするのだ、 今日は、父の新盆を控えて、近郷のある寺に行き、新しい位牌に法名を入れて貰った。
今日は太宰の忌。 太宰文学の愛好者であった父が、5月はじめに亡くなり、昨日は雨の中での納骨式だった。 降りしきる雨の中で、玉川上水に身を投げた太宰。 そんなことも、チラと頭をかすめながら、集まってくれた近親者に、挨拶をした。 父は筆まめな人で、よく手紙を書いたらしい。 その貴重な数通を、取っていてくれて、私に渡してくれた従妹。 子どもの私が知らない一面も窺える。 父との思い出も重なり、2年ほど前に書いたエッセイを載せる。 ------------------------------------------------------------- 6月19日は桜桃忌。 私は、太宰の墓のある街に住んでいながら、墓に行ってみたのはこの30年の間に3回くらい。 桜桃忌にも一度も行ったことがない。 太宰は、父親が著書を沢山持っていた影響で、子どもの頃から読んでいるが、「太宰ファン」といわれる人たちとは、一線を画しておきたいのである。 太宰が死んだ時、私はまだ子どもだった。 父親の本箱から「駆け込み訴え」や「ヴィヨンの妻」なんかを盗み読みしていたのは、当時、子どもの本が不足していたし、新しい本は買ってもらえなかったからである。 食べるものもないような時代に、父の本箱は、健在であった。 ある時、出張先から帰ってきた父が、靴を脱ぐのももどかしそうに、「太宰が死んだ、新聞はどこだ」と、母に言った。 そして、食事も取らずに、むさぼるように新聞を読んでいた。 太宰とほぼ同世代であった父にとって、大変なショックだったらしい。 太宰は、女の人と川に入って死んだ、というのが、子どもの私が聞いたことだった。 きっと悪い人に違いないと思った。 昭和40年代終わり近く、私は、太宰の墓のある街に住むことになった。 「あそこには、太宰の墓があるね」と父が言った。 そして、家に来ると、必ず散歩を兼ねて、太宰の墓に行っていた。 太宰の墓のそばには、森鴎外の墓もあり、目立たず、地味な墓らしかった。 10年ほど前、地元の太宰愛好家達の案内で、改めて、わずかに残る太宰の仕事場や、ゆかりの場所を訪れた。 山崎富栄が働いていたという美容院のあとも、まだ残っていた。 彼女は、太宰を死に誘ったということで、誰からも同情されず、悪女の汚名を被っているが、 本当は、結核にむしばまれていた太宰の面倒を見、何かと尽くしていたそうである。 彼女は、美容界では、大変優秀な人材で、生きていればその道で成功者になったに違いないと、案内の人は言った。 「本当は死にたくなかったと思うんです。 ひとりでは死ねなかった太宰に、同情したんでしょうね、残念です」という話であった。 太宰の旧居あとは、今や面影はないが、庭にあったサルスベリが、真向かいの家に移植されて残っている。 文豪の生と死。文学の毒と魅力。 その蔭にあって、不当に忘れられた山崎富栄のことも、考えてみた。
偶然見たテレビ。 7年前に亡くなった三浦綾子さんの、生前の談話の中で、こんな言葉があった。 「私という人間は、この世が始まってから終わるまで、私ひとりだけなんです。 同じ人間は、いないのです。 たった一つのもの、たったひとつの人生なんですよね。 それに気づいたら、今、病気で苦しんでいることも、神様が私だけにくださった、かけがえのないものなのだ思えるようになりました」。 若いときから病苦に悩まされた彼女だったが、後に夫となった三浦氏と巡り会って、クリスチャンになった。 小さな商店を営みながら、初めて書いた小説「氷点」が、朝日新聞の懸賞小説に入選、作家の道に入った。 信仰や罪をテーマにした小説や、いくつかの、キリスト教に関する書物も出版している。 夫の三浦光世氏は、病気がちの妻をよく助け、その死を見送ったが、その結婚生活を振り返って、「すばらしい人生でした。私の方が、いつも彼女に助けてもらっていました」と語った。 深い信頼感と、愛情に包まれた日々だったのだろう。 光世氏にとっても、綾子さんとの結婚生活は、たったひとつのものだったに違いない。
5日,6日と、伊東に一泊の旅をした。 女ばかり6人で、温泉と連句を愉しみましょうという趣向である。 メンバーは、2月にみなとみらいで、同じ旅をした人たち。 先輩格の3人に、私を含めた弟子格の若手?3人が付いて行く。 若手と言っても、年には関係ない。 ひとりは、連句歴20年くらいのベテラン、もうひとりは、連句でこそ新人と謙遜しているが、外の世界では、その道で名前の通ったキャリアウーマンである。 残る私は文字通り最年少だが、もう60を過ぎる年になると、前後5年や10年は四捨五入して考えるのが、この年代の特徴である。 連句歴は、メンバーの中で、短い方の2番目と言うことになるが、歯に衣着せぬ物言いで、妙に最近目立ってきたらしい。 「ナマイキだし、外すとウルサイから、仲間に入れておこう」といったたぐいの誘いが増えてきた。 でも、今回は、前回の旅行が楽しかったので、同じメンバーで、またやりましょうと、先輩の方から、誘ってくれたのである。 父の四十九日が済まないのに、と思ったが、「行ってきなさいよ。留守中何かあれば、代わりに対応するから」と夫が言ってくれたので、参加の手を挙げた。 当日は、東京駅から踊り子号に乗っていく。 先輩のお姉様たちは、指定席を買ったらしいが、私は、平日だから混むこともあるまいと、ケチって自由席で行くことにした。 一時間早く出ることになるが、早く着いて、伊東の駅前を探索するのもいい。 同じ電車で、横浜からもうひとりが乗り込むことになっている。 早めに家を出、最寄り駅で、切符を買い、かなり早く東京駅に着いたので、構内で、にぎりめしなど仕入れ、横浜から乗り予定の友達に、ケータイを掛けたりした。 三十分前、踊り子号の出るプラットホームに移動。 私の荷物は、中型のリュックとショルダーバッグ。 ただの旅なら二つで済むが、連句の困るのは、歳時記、電子辞書、ノート、筆記用具、短冊などが結構な嵩になることで、しかも、重い。 そこで、それだけを小型の手提げバッグにまとめて、手に持つことにした。 車中で読もうと、文庫本も入れた。 連句では、発句を持っていく習いである。 これも、車中で考えようと、連句用品は、いつでも、取り出せるよう、手に持つ方のバッグに入れたのである。 電車を待つまでしばらくホームの椅子に腰掛けていた。 リュックは、足下に置き、ハンドバッグは膝の上、連句バッグとお弁当の袋は手に持っていた。 電車が来たので、立ち上がり、荷物を持って、指定の場所に並んだ。 私の前には、ひと組のカップルがいただけ。 すいている、席は充分あると見た。 ドアが開き、乗り込んだ。 入り口に近いところに席を確保、横浜で乗り込むことになっている友人にケータイを掛けた。 車両番号を言い、発車まであと10分足らずだが、今のうちに、おにぎりを食べてしまおうと、席に坐り、おにぎりの袋を開けた。 リュックは、網棚の上、ハンドバッグは隣の席に移し・・・と言うところで、もう一つ、手提げバッグのないことに、その時はじめて気づいた。 おかしい、ずっと手に持っていたのにと、座席の近くを見たが、無い。 さては、何処かに置き忘れたか、落としたか。 すでに、発車が近いことを告げるアナウンスが流れている。 どうしようか。 一瞬考えたが、このまま乗っては行けない。 あわてて、リュックをおろし、おにぎりとペットボトルを袋に戻して、飛び降りた。 乗り込むまで座っていたベンチを見たが、見あたらない。 念のため、もう一度車中に入り、さっきまで坐っていた席を確かめる。 やはり無い。 ホームに戻り、取りあえず、心当たりを探すことにした。 おにぎりを買った構内の店に行く。 お金を払う時に、カウンターに置き忘れたかも知れない。 訊いてみたが、無いという。 広い東京駅構内。 どこに行けばいいのか。 目に付いた案内スポットに行くと、「車中でしたら、1番線の事務所、駅構内でしたら外の遺失物センターです」という。 そこで、ホームの事務室に行くことにする。 歩きながら、横浜で待っている友人に電話。 1時間後に出る踊り子号に乗る旨伝える。 ほかの人たちは、最初からその電車なのである。 事務室に行き、東京駅まで乗った電車と時間、無くした手提げバッグの仕様と中身を言い、連絡先を書いた。 JR関係の場所なら、オンラインで繋がるので、私の最寄り駅で無くしたとしても、届けば判る仕組みらしい。 まず、乗り込む直前のプラットホーム、次は売店、その次は東京駅までの車中というのが、私の思い当たる場所だった。 次の電車は全部指定である。 窓口で追加料金を払って、特急券を振り替えて貰う。 家にいる夫にも、電話し、念のため、自宅から駅まで乗ったバス会社にも、届けて貰うよう頼んだ。 そんな時「だから荷物を一つにしなさいと言ったじゃないか」なんて、よけいなことを言わないのが、夫のいいところである。 「現金が入っていないなら、出てくるよ。もう忘れて、気を付けて行きなさい」と言ってくれた。 第三者にとって価値ある物と言えば、電子辞書くらいで、あとは、私にとってしか意味のない物ばかりである。 そうこうしているうちに、次の電車の時間になり、ホームに行った。 もう、あとの人たちも集まっていた。 いきさつを話し、「よくあることよ。でも、きっと出て来るから、辞書も、短冊も、私たちのを使ってね」と慰められた。 伊東までの車中は、ほかの人たちとは別になったが、電車が走り出し、おにぎりを食べて、やっと落ち着いた。 伊東でのプログラムは、主催者の心遣いもあり、盛りだくさんの連句を堪能、温泉に入って、楽しい時間を過ごした。 女ばかりの旅は、屈託が無くていい。 美味しいものも食べ、会話も弾んで、出発時のアクシデントも忘れることが出来て、帰宅することが出来た。 自宅の最寄り駅の窓口でも、念のため問い合わせたが、無かった。 「東京駅は広いから、出てきても、プールされるのに、時間が掛かるのよ。 あきらめないで待った方がいいわよ」とみんなに言われたが、半ば、あきらめていた。 ところが、次の日、東京駅駅長名の葉書で、私の物らしい手提げバッグが届いているというのである。 身分証明書とはんこを持って、取りに来るようにとの連絡である。 辞書類には、名前と住所が書いてあるから、それで、判ったのだろうか。 早速ほかの予定をやめて、駅に向かった。 東京駅南口から出て、少し歩いた「忘れ物センター」に行った。 葉書を見せると、すぐに品物が目の前に。 住所、氏名、電話番号、はんこを押して受け取る。 「どこにあったんでしょう」と訊くと、プラットホームのベンチだとか。 私が乗り込む時に、おにぎりの袋に気を取られて、バッグを置き忘れたらしい。 通りがかりの乗客か、駅の清掃の人か、駅員か、誰だか判らないが、私が気づく10分足らずの間に、いち早く、保護されていたと見える。 中身は、すべて無事、紙一枚無くなっていなかった。 たくさんの人が行き交う東京駅。 「誰かが持って行ったのよ」と、見知らぬ人を疑ったことを、反省した。 そして、無くしたものが、ちゃんと出てくる日本は、なんといい国だろうと、あらためて感激した。 私の暮らした外国の大都会は、物を置き忘れたら、二度と自分の手には戻らないのが常識だった。 悪いことが多くなり、殺伐としてきた日本だが、まだまだ、素朴な善意が生きている。 駅の事務室で、あちこちの車中に連絡を取ってくれた駅員、売店の人、忘れ物センターで、「よかったですね」と言ってくれた年配の係員、私のドジに、咎め立てすることもなく、付き合ってくれたのだった。 そして、そのおかげで、私にとって大切な物が、すべてそのまま、返ってきたことが嬉しい。 忘れ物センターには、「あじの干物、30枚忘れました」などと駆け込んできた人もあり、ウッカリさんは、私ばかりではないようだ。 「今度から、ハンドバッグのほかは、大きな荷物一つにしなさい」と、夫に言われた。 いつも、連句仲間から「どうしてそんなに大きい荷物持っていくの」と言われるので、今回格好を付けて、小型のリュックにしたために、はみ出してしまった連句道具一式。 もう、誰がなんと言おうと、大型キャリーバッグを引いていく。
6月に入った。 雨の日と晴れた日とが、交互に訪れるような空模様が続く。 梅雨の季節は、憂鬱という言葉に置き換えられたりするが、私はこの季節、そんなにきらいではない。 晴れた日は、スーパーに買い物に行き、洗濯物を干し、雨の日は、家の中で片づけものをしたり、書斎で書いたり読んだりの時間を過ごす。 主婦としての長い年月の中で、ごく自然に身に付いてしまった、生活スタイルであろう。 この10年ばかりは、俳諧の道に遊ぶことが多くなり、それに伴った交流も増えてきたが、人間くさい現場には、心安からぬことがあるのも、事実である。 そんな風に感じた時は、しばらくそこから身を遠ざけることにしている。 私が楽しいと感じる時は、片方に楽しくない人もいるだろう。 人の集まりというのは、時として、大変理不尽で、残酷なものである。 これが、学校や職場であったら、我慢して乗り越えなければならないだろうし、忍耐が実を結んで、よりよい環境が得られるかも知れない。 しかし、もはや人生の黄昏期に入った私には、そんなことにエネルギーを使うよりも、残された日々を穏やかに過ごしたいという気持ちの方が強くなった。 俳諧、短歌、詩、エッセイ、小説、シナリオ。 大半は世に知られていないそれらのものを、元気なうちに、そろそろ整理しておきたいという気持ちもある。 先日父を亡くしてから、そんなことを考えるようになった。 昨日はよく晴れていたので、外出。 都心の仏具屋に頼んであった物を取りにいった。 墓守になってしまったので、最小限の心得も、知っておきたいと、仏教の勉強をし始めた。 宗祖の教義とかけ離れたものになってしまった現代の仏教。 葬式に関してやたらに決まり事が多いが、本を読むと、宗祖は、決して、そんな形式ばかりを一番に考えていなかったことが分かる。 形骸化して、お金ばかりかかるようになってしまった今の仏教。 それでは、貧しい人は救われないではないか。 父は信心深い人であったが、形式主義ではなかった。 その遺志を生かしていきたい。 仏具屋の帰り、母のところに寄る。 父が亡くなってちょうどひと月。 最初は眠れぬ夜もあったらしいが、昨日はさっぱりと落ち着いた顔をしていた。 納骨の打ち合わせをしながら、世間話もして帰ってきた。 今日は曇り空。 夕方には雨になるのだろうか。 テラスの塗装が剥げ掛かってきて、気になっていた。 先日職人さんが来て、きれいになった。 乾くまで、雨に降られず助かった。 透き通る思い出もあり芒種かな
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