昨日今日と、たまたまテレビで 番組の音作りをやっている場面を続けて見た。 私は小学校で2年続けて放送部にいた。 その小学校は放送部が活発で、 お昼の時間には週3回くらいドラマを放送し、 音楽もクラシックや私が勝手選んだロックを流したりしていた。 どういう訳か最新の設備が揃っていたので 担当の先生はとても誇らしげで熱心だった。 ところが私たち出来損ないの放送部員数名は、 朝礼は放送室で聞き、給食は放送室で食べていたという事もあり 放送中に吹き出したり椅子を倒したり、私語放談 年中彼に怒鳴られていたものだった。 なかでも、面白かったのがラジオドラマ作りで 放課後に企画を立てたり、録音したりした。 擬音を作るのも、とても楽しいものだった。 汽車の音なんかはレコードになっているのを使って、 様々な音は自分たちで作ることが多かった。 色んなやり方で作ったのを思い出して懐かしくなった。 テキトウにスカートをパタパタやったり 水の音を録りに行ったりしたっけな・・・ まだカセットがなかった時代なので、大きなオープンリールの テープを切っては繋いで場面作りをしたものだった。 小学生でもきちっとした体験をしていれば、 随分とちゃんとしたものを作れると、今思い出しても思う。 あのまま職業につながっていく事だってあるだろうな、と思う。 でね、、 スマップ好きなのとあんまり関心なかったのと、 曲があんまりいいのとで、 歌詞をちゃんと聞いていなかったのだけど 最近やにわに耳に入ってきた 「世界で一つだけの花」 ちょっとまっておくんなまし!という感じがした。 そうさ 僕らは 世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい なんか違うんじゃないかな〜?? と、ふと感じた。 うまくいえないけど これって、ゆとり教育とか、徒競走に一等二等が無いというのと 似てるように聞こえてきた。 自分を大事にする事は大切な事だけれど 何かの価値観のところに自分を近づけなければならない時もある。 できなければ、手に入れられないのだ。 厳然としたものだ。 優劣ということではないけど 持ってるものと持っていないものとの違いというのは明らかにあるのだ。 それを、まるですべての価値観に当て嵌めてしまったとしたら みんな一緒のように言い含めてしまったら 世界は大事なものを見失うようになっていてしまうと思うのだ。 乱暴な言い方になってしまうけど、 例えば、 ブスはブスで、ブスで可愛いはあるけど、美しいとは表現できない。 割り算ができないからといって馬鹿とは言わないけど、 割り算ができないのは事実だ。 才能あるミュージシャンだと自分を描いても それ相応の力が必要だ。できなければ誰も認めない。 若者たちを見て、いい子だったら余計に もっといろいろな事ができるのにと可哀想になることがある。 言葉が足りないけど、もう書くのに疲れたので また今度、ほかの話題になると思うけど書いていきたいと思います。
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