2005年04月14日(木) |
(5/5補完 13) めめた |
がんばれ。 がんばれ。 がんばれ。
つづきはきっといいことがたくさんだから, ここでおわるのはもったいないよ。 だからがんばろうね。 いいこね。
兄のとこのにゃんこの先天的な障害が発見されたのでした。 かなり重篤なもので,今現在のいのちも危ういとのことでした。 めめたといいます。 めめたがうんとしあわせでいられるなら, おいら何したっていいなあって, 今は思うんです。
ことばといのちのはなし
言葉が話せない子たちのことを考えている。 めめたのことと身近にいる子供たちのことと。
言葉があるという状態がどういうことか。 まず第一に,説明ができるということだと思います。 「説明ができる」と一言で言うと,対外的に言語により理論的なコミュニケーションをとることができるという意味にとられることと思います。 しかしそれは「発言語」のみの問題であって,言葉そのものの問題を捉えているわけではないのです。 「説明ができる」ということは,発言語以前の問題として内言語が整理されているということが重要になるわけです。 自分のおかれた状況を整理,分析し,自分で理解できるということなのだ。 例えば『頭が痛い』という状況があるとする。 「説明ができない状態」がどのような混沌かというと,つまり ・今感じているのが「不快な感じ」なのだということがわからない ・今の不快感が「痛み」なのだということがわからない ・痛む部分が「頭」なのだということがわからない この段階だと,もうただひたすら生きることは恐怖だと思うのですよね。 何がなんだかわからない。 何が起こっているのかわからないけれども危機感だけはあって嫌でこわくてしょうがないのじゃないかしら。 もちろんそのあたりは推測になりますが。 不快を不快と感じられるようになると,次の段階。 ・不快感があったとして表出の仕方がわからない ・表出できたとして,伝達の方法がわからない この時点でやっと発言語が関連してくると思われるわけですが, 一足飛びには発語に至りません。 未分化な子たちは,「相手に訴えるように泣く」ということすらまだできなかったりするのですから。 伝達にはいろいろと方法があります。 快の表出と不快の表出を使い分けられるかどうか。 喜んでいるのか嫌がっているのか見分けにくい子も多いのです。 機能的に,発声が難しかったり,身振りが難しい子もいます。 そしてなんらかの方法で不快の表出ができたとして,相手にそれが伝わると改善してもらえる(かもしれない)ということが理解できるかどうか。 このあたりは社会性として「人を意識できる」「人を頼りにできる」などの問題も関わってきます。 そして伝わることがわかったとして,どうすればより具体的に伝わる(痛い部位を見せる,泣き方を変える,言葉で伝えるなど)のかがわかるかどうか。 と,このあたりで愛猫の問題が絡んでくるわけです。 ああ文章が読みにくい。
言葉があったらいいのにって,思うんだ。 僕はいつも思うんだ。 言葉がありさえすればって思うんだ。 言葉があっても伝わらないことがあるなんていうのは言葉があってある程度伝わっている世界のちょっと贅沢な話だからこの場合は話がずれるから置いておく。 「言葉があってもどうせ伝わらないのだから言葉のない世界に行きたい」なんて言われたら,次元の違うことを言われているのだと百も承知ながら愚鈍にぶん殴ってやりたいなあ。 言葉がほしい。 僕は君に言葉がほしいよ。 僕に君に伝わる言葉がほしいよ。 僕たちは伝え合いたい。 伝え合いたいんだ。
饒舌なのは,こころがぎざぎざしているからです。 めめたは先天的な重篤な障害とのことです。 土日になでなでしに行こうと思います。
生きられませんよって言われる子たちと毎日遊ぶ。 いのちはそれでもうつくしいんだ。 せかいはそれでもうつくしいんだ。
まじめな話の後だが,余談として近況。
・転居先の友人に「近くに来たよー!」と報告したら「あっそう」と言われた。 ・不動産屋がついに「あー,連絡ください」とだけの電話(留守電)を寄越した。どうしようかしらね。「文書で返事ください」とだけFAXで連絡しようかしらね。 ・南国少年の悪戯のせいで,キリンの写真を正視できない。 ・大学の先輩からメールが来たので返事をすると, 神 様 に な っ て た 。 みくしにもいることが確認された…発見されませんように…ガタガタブルブル。
世の中変な人ばかりだ。
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