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2002年10月07日(月) 訪問看護の苦悩

6日分から続く話。

訪問看護でスタッフが苦しむのは、ほとんどが
利用者(またはその家族)との人間関係のストレスではないかと思う。
要因はまあそこそこ考えられる。
訪問ならではの要素様々。
面白くないので書かないですが。

そしてそれを乗り越えられる人とそうでない人の差は何か?
一つは、職員同士のサポートと、もう一つは介護職つまり
ヘルパーさんとの差にヒントがあるような気がする。

生活に密着した、言い換えれば正の意味も不の意味も含んだ
「汚れ仕事」であり「シャドーワーク」であることを、
初めから宿命つけられているかのように、充分覚悟を持って仕事に臨む
彼女たちに比べ、「医療職」であり、大きな集団で守られた「臨床育ち」で
ある誇り高き訪問看護師には、それが耐えられないのではないか。

何となくそう感じるのですけど。
証拠に、というのもなんですが、
ワタクシ、行政保健師経験から来た人がそういう愚痴こぼすの
聞いたことないですし・・・。施設の経験ある人も・・・。

技術的には素晴らしい仕事をされるにもかかわらず、
病棟にどっぷり浸かって偏った看護をしてきたのかと
思える人ほど異様に愚痴が多い。

愚痴そのものは全然問題だと思わないけど、
その内容が「えっそんなことが耐えられないんだ?」という
実に「同じ仲間の中でずっと守られてきたお嬢さま的看護師」を
思わせる内容だったりする。
それまではその人が何年も援助してきた「患者さん」は
「素直」で、「物分りが良く」、「性格のいい人」が
多かったんじゃないですか(笑)


 ※ だとすれば「患者さん」は、看護者であるあなたたちに
  対して、本当に思ってることや、本当の人間像や、生活は
  全然見せてなかったのではないでしょうか。
   違いますか?違うって自信を持って言える???ホント?


訪問看護は経験がなくても、それまでの職務経験で人の生活や、
素の部分にかかわったり、実際にはそういうケ−スに
かかわらなくても、きちんと勉強し想像されていた人は、
すんなり訪問の仕事に溶け込んで喜びの方を多く
見出すことができると思う。

自分たちの相手は聖人君子でもなければ、時には人間として
すごく嫌な人だっている、自分と同じ、ただの生身の人間だと
言うことがたぶんわからないのだろう。
そして自宅という本当の利用者自身の舞台に、
よそ者として上がっているのは自分たち看護者だと
言うことが、何年経験してもずっとその人は、
本当にはわからないのだろう。

わかろうとしない限りは。


何かと嫌だ、大変な利用者ばかり、とこぼす架空のあなたへ。
もっとひどいことなんて、世界には山ほどある。
誰でも自分が一番可愛い。苦労なんてしない方がいいと自分だって思う。
でも痛いほど人とぶつかり合ったり、自分を追い込んで死にそうに
なってみたり、時には危ないことをやって見たり、そういう傷の経験が
転ばない人のバランスを作る。傷から早く癒える強さを作る。

明るい所しか見えず、見ようとしないおとぎの国の
お姫様・奥様・王子様看護師なんてまっぴらだ。
痛みも傷も持ってるような人にわたしは看護してもらいたい。




2002年10月06日(日) ファイル整理で寄り道

古い書類やファイルを整理する。
数年たって役に立たなくなるのを待って、やっと捨てられた資料が多くて。
とかくワタクシ、他の物とは違って仕事・学生時代の書類は、
捨てられないんスよねえ。
だから、写真も、整理するのが大変だからあんまり撮らない。
捨てたら捨てたで、絶対記憶に残らずに忘れてしまうから、
ホントは何でも捨てたらいいんだよね。

で、看護関係の資料でも、書籍はどんどん新しいものが出てるから
簡単に捨てる。行政関係の資料も同じ。
捨てられないのが、自分や他人が書いた文章やレポート。
これってここにしかないもんだから・・・
しかも、こうやって整理の度にたまには読み返すと新しいことや、
自分の初心を発見したりして・・・

いつも思うのは、
   ワタクシ、10代の頃が一番飛ばしてましたなあ。
   セミナーのレポートで、キューブラー・ロスのあの、
   あの超有名な著作、「死ぬ瞬間」の5段階に!!
  
  「そうではなく受容―否認の間で果てしなく行き来を
   繰り返すだけなのではないか」と、反論を展開していました…ハハハハハ。
   同じ汗の仲間は全国多数と思います。今もいますか。
   5段階説に「違うじゃん!」と言ってしまった方。

   若いっていいね。文章とか、硬いけど、今よりよほど。
   素直さ(自分はどう思うかの自覚)と、気概と、えーと
  (何か書こうとした言葉、忘れた。後で直しておくかも)
   ○○を、もう一度。

最近、考えると、現場に居にくくなるよ。
すごく閉塞感を感じる。
どうして、看護はもっと考えられるのに、
考えられる素材を持っているのに、
現場は安直に行こうとするの???
手持ちのカードだけでやっていこうとするの?
たまには他人のカードと交換したり、山から引いたりしてみろよって
言いたい。全部取り替えろ、とは言わないからさ。

 ちなみに、自分、手技的な技術はすんなり学んでいたようだ。
看技はいいな。単純明快。教えるなら看技担当がいいでしょうね。
自分で今学びなおすなら、当然「在宅」をやりたい。
今は「地域看護学」ですね。で「利用者(在宅では患者とは言わない)
―看護者間の人間関係におけるストレス」をやりたい。
これは、ワタシというより、訪問看護の課題で、焦点じゃないかと
思うからなの。
続くかも。



2002年10月05日(土) ホントに大事なことは

才気や、速度や、ただの頑張り、そんなものがどうでもいい時がある。

中途半端な自分ですが、一応お約束として大多数に合わせて
何かの価値を信じてるかのような振りをして楽しんでます。
だけど、たまにあらゆることに対して「…だから何?」と思う。

たった一つだけ、自分が相手にはたらきかけて、何かの反応が起こって、それで何かが動いけばいい。

それが唯一、自分という箱の中に閉じ込められて外界を狭い窓から覗き見るしかできないという苦しさから、一瞬でも逃れられる手段。

…だねえ。


2002年10月03日(木) よいとまけ

なつかしい菓子を戴いた。

「よいとまけ」
苫小牧のお菓子メーカー三星の銘菓である。
ものすごい子供の頃食べた気がする。
ハスカップ(昔のパッケージにはわざわざベリー類になじみのない
日本人向けに「ゆのみ」と書いてあった気がする。しかし今お年寄りに
「ゆのみ」のジャムですよ、と解説しても「はぁ?」と訊き返される)の
ジャムを塗って巻いたロールケーキである。

これが強烈に甘い。
実はこの手の菓子は苦手だ。

が、戴き物なので、我慢して何とか一切れ食べていくと、
ハスカップジャムの甘酸っぱさが、案外いけることに気づく。

オバアちゃん、ゆのみだよ、ゆのみ。
ゆのみのジャムだよ。

昔、実家の向かいのうちでは、お年寄りがトイレにこの
「よいとまけ」の空き箱を、ちり紙入れとして
使っていましたなあ。
2本入りサイズがちり紙に丁度いいのだ。


はて、よいとまけとは何だろうと、ふと検索してみる。
出てきたのはぞろぞろと美輪明弘の「〜の唄」が・・・。
なるほど、労務者のせつない唄なのね。
苫小牧・三星は、港で働く人の掛け声として「よいとまけ」を
お菓子の名称にしたと書いてありました。

よいとまけ、何となく自分の語感連想の中では

 → イヨマンテ → 井沢八郎の歌声 でしかなく、
(台風→波平の「台風いっかか」と言うコマ のように)
謎の言葉だったのですが、検索してみたら、
どうも井沢八郎もひっかかるのでまんざら無関係の連想では
なかったようです。

てえ、単なる唄つながり、て言っちゃあ言えるんですけどね。

あたしって何年生まれ。



2002年10月02日(水) 台風いっか

からりと晴れました、青空です。

雲が早いので、追いつけない。

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きゃれる [MAIL]
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