寒ーくなって来ました。
今日はアジを焼いて見ました。 でも、アジさばいたの初めてで、 えっこの体の両側についてる背骨?って何?って感じ。 いえいえ、キリの方でも医療職のはしくれ、 マジで背骨と思ったわけではないですが・・・びっくりしました、
「ウロコの一種でゼイゴと呼びます」(by non-noお料理基本大百科)
・・・。あ、そうなんだ(汗)。何のためにあるんだろうね。
皮ごとこそげ取ります。
・・・っておーい、もうおろしちゃったよん。 こんなちび魚から皮とったら、食べるところ、 なくなっちゃうんじゃないの!? どうにかこそげとり、 (うち包丁が指に1HIT!どおお、切れてなーい。あーセーフセーフ。) 皮が思ったより堅いことに気づいて(ワタクシの皮含む)、 皮をむいて身だけを使うことにする。
一口大に斜め切りし、塩コショーをする。 フライパンで、先にナス、キノコ、余った細々野菜を オリーブオイルでさっと焼いておく。 ホントはオーブン焼きのつもりだったので、あまりかき回さない。 アジを入れてさらにオイルをかけて火を通す。 水分を飛ばすので蓋はしない。 上からオレガノ、バジル(たっぷり雪のように)、 ガーリックパウダー(ちょびっと)を振りかけ、 市販のトマト缶を加えてさらに焼く。 最低限魚に火が通ったら、あとは 野菜の焼き加減と水分のとび具合で、 その時の好みで火を止めできあがり。
夕食時。
「いいかもー。手かかってるー」 ゴメン、手がかかったのはアジとワタクシの指だけでした。 「パスタに合うかも」 そなんだよね。でもご飯朝炊いちゃってたから、ご飯なの。 完全イタリアンメニューのつもりだから、 本来パンにでもしたかった!
ちなみに他にはこないだの冷凍エビと白菜のクリーム煮。 簡単料理に感謝――! ワイン代わりに食後はシェルパティーにしたよ。 今日はケイタイ当番の日だから。 でも、シェルパティーは白ワインの方がうまー。
その日、急変した利用者さん宅からは電話も来ず。 良かった良かった。
いつかは去り逝くこの地、この世。 毎日を楽しく過ごしたい。この日が大切。
訪問をしていて思うのは、看護で言う共感とは、「相手に自分と心情的な共通点を見出し、できる限り想像力を巡らせて自分と近い存在だと結論つけること」だと思う。つまりは「他人じゃない」と思うことではないかと。
訪問看護は対象者が生活の場にいるので、IVHが入ってようが、癌末期であろうが、先天性の疾患を持っていようが、「自分達と同じように」家族があり、生活があることを忘れないで援助することができる。生活の援助や全人的な援助というのは看護の決まり文句だが、それを援助できる訪問看護は他より偉い、というつもりはない。それは訪問看護の「偉さ」ではなく単なる「利点」だからだ。 なかなか見えてこない対象者の自宅の生活に思いを巡らせ、一緒に退院後の生活を考える病棟の看護の方が、一口に「全人的な援助」と言っても不利で大変なのである。
話はそれたが、訪問看護を受ける人は、あるいは散らかった部屋に住み、家族と喧嘩し、ご近所の通夜に香典を出し、地域を徘徊し、犬や猫ときままに寝起きする。これが施設で叶うなら、もっと皆が入所を希望するだろう。けど、そうではないから多くの人ができる限り家で過ごしたがる。 健康レベルがどうであろうとも。 重い病気を抱えても在宅生活に戻った人が、(周りの)思いのほか長生きするのはやはり人らしくいられるからだと思う。治療や検査で必要があれば多くの人は入院を選ぶかも知れないが、病院は生活の場ではない。人として末期を迎える場所ではないと思う。社会と切り離されることが、人間としての死を早め、結果的に生命を縮めてるように思う。
施設、病棟で看護をするとユニフォーム、縦割りの業務、医療者先導の管理型サービスの中で、看護職が相手を「自分と同じ」と思うことが果たしてできるのだろうか。幾ら相手に共感をしようと思っても限界があるのではないだろうか。 看護師はキャップをかぶり、白いお仕着せを見に付け、上から見下ろす。ワンピース型の白衣はスタイリッシュに窮屈に、しゃがんだり、相手に必要以上に近づくことを妨げる。つんと立って腕組みするのに実に向いたデザイン。相手は、寝る時間でもないのに寝巻き。無防備と無力の象徴。社会の顔を剥ぎ取られ、押付けられた健康至上主義の中で気ままに生きる権利の主張も認められない。 いやならば医療を受けなければ良い、と言う意見もあるが・・・いや、今書いたようではない医療を選べばいいだけです。他人には違いなくても、その中でも「他人ではない」とほんの一部でも思ってくれ、医療者が自分と一緒に考えてくれるような医療を。
共感とは「他人じゃない」と思うことだと言う訳は、ワタクシ自身が自分が一番大事な人間だからです。相手に起こっていることが、「自分や自分の家族、周りの人にもあり得ること」だと感じること、それは相手が自分と「地続き」であると感じることです。自分と相手は別の人間だけど、共通する部分もある。生き物としての人間は少しずつ違うバリエーションがあり、その少しずつ違う部分が相手と自分の個性で、人間の全ての個性を四方に広がるグラデーションに例えたら、どこかで相手と自分はつながりがある、そう信じることで自分を大事に思う気持ちを相手に使うことができるのです。
だから、単なる言葉の違いかも知れないけど、似ているような言葉で、「のめりこみ」は嫌いです。相手と自分の境目がなくなったり、相手の中に取り込まれたりすることには、単なる言葉の解釈の差と幾ら言われたとしても断固、拒否します。それは病的で、気味悪いからです。この言葉が好きな人は、自分は他人に成り代われると思っているのでしょう。その思い上がりも恐怖です。
「他人じゃない」とは相手を自分と同一視することではありません。違う人間であることを認識しながら、「でも、無関係ではない」と考えることです。熱心にかかわってる振りをしながらどこか空々しく無責任なケアを受けたとしたら、相手の看護職は、きっとどこかで「関係ないし」と思っているのです。
素ってなんでしょうね。突然ですが。いやあ、考えて見ると、 この日記のワタクシははっきり言って「素」ではないです。
WEB日記の前にも書いていたような、それこそエンピツ書きの日記・雑記なら、 読むのは自分しか想定してないものだったんで、たぶん他人が読んだとしても 意味が抜けてて理解不能だと思う。ただの願いとか、そんなことをひたすら 書き連ねてたりして。書くことをまじないのように続けていたと思う。
では何で自分がこんな風に書いているかと言うと、 第三者の目を多少は意識することで、書くの上手になるだろうかなんて 思ったりしているからです。
ただ、事実を書くのには案外手間がかかるもので。もし私小説のように、 そのまま書けと言われたら、ただのお出かけの話だったとしても、 それが友達と一緒だったらその友達のことまで書かなきゃいけない。 じゃあその友達の説明や何やらで、何をどこまで書くかと考えるとひたすら 選別するのが面倒くさいから、そういう時は書かない。
まさに、その友達との間に起こったエピソードだと言う内容なら ともかく、そうでないなら友達の存在は初めから書かなかったりする。
という訳で。
先日特急に乗ってました。
そこそこ混んでいて、ワタクシのまん前の座席には女性4人。 仲良しなのでしょう、仕事かお友達かわからないけど、楽しそうに 喋っていました。通路を挟んでその横、ワタクシの斜め前に女性が一人。 書類とペンをとり出して書類のチェックを始めました。 しばらくしても4人組のお喋りは滞らず、ずーっとにぎやかでした。 とは言え、ワタクシもうたた寝したり、本に夢中になっている分には 気になるというほどではなく、特に興味も持たなかったのですが。 一方書類を出していた女性は、ちょうど視界に大きく写る方向なので 見るともなしに見ていると、オヤツを出して食べ始めました。 仕事の書類というより自分の個人的な資料か何かなのだろうか、 汚さないのかな・・・と密かに心配になったりして。 まあ、ここまではそれだけの話です。
だが、その書類が見えてしまった。
と言うのが(しつこいようだがじろじろ見たわけではない。広げると斜め 後ろには丸見えなのだ)、何だかワタシらか介護畑の人が使うような、 人間のアセスメントチャートのようなのです。 ほほお・・・と(再三ですが、別にじろじろ見つめてたわけでは ありません。字まで見えるんだよ!)見てみると発達段階とか、何かそれ らしい項目・・・そして様式の隅には書いた人の氏名、クラスと、 某看護養成機関の文字が!
間違いない、介護ではなく看護学生の実習か演習記録です。 この人は看護教員なのでしょう。見てると(しつこいけど見えるんだよ!) 引いてる引いてる赤線青線・・・全部引いてます全部!! それじゃあアンダーラインの意味がないでっしょ。 何か字も書いてる書いてる!電車の揺れで、字は大丈夫か? あまり楽しそうな雰囲気は漂って来ません。難しい顔をしてます。
看護教員と思われる彼女は次にオヤツの追加に行きました。・・・お腹が 空いてたのかも知れないけど、学生も、センセイがオヤツ食べながら記録を 読んでたとは思わんだろうなあ。それで何か小難しい真面目なことを 書いている(かのように見えた)かと思うと何だか、です。 お、向かい側の4人組も絶好調。この辺りの観光的知識や名物などについて 話が盛り上っています。
すると。おお?
看護教員(と思われる。以下言い切っちゃいます)の女性は、じろり、と 横に一瞥をくれたのです。ワタクシがアフレコをするとすれば、
「うっせいんだよ、あんたら」
と言った感じで。 いやあ、肝が冷えましたねえ。
それで4人組がどうかなったかと思えば、ぜーんぜん、気づいていない ようです。いいぞ。こう言う時ワタクシはこっちに心の声援を送ります。 どうなるのかなあと思っていたら、教員の女性はさらに事あるごとに、 ちらり、ちらりと視線を送っていました。
その学校名と記録をワタクシの方にばっちりご開帳したまま。
やがて、4人組の方が先に降りました。最後まで楽しげにお喋りしながら。 この4人組に対してワタクシはうるさくはないと感じたように、他の乗客から も苦情などは出ていませんでした。
つまり、あくまでワタクシの視界だけで言うなら、「うぜえ」と感じて 無言のアピールをしていたのは看護教員さんだけ。しかもその無言の言葉は「恐れ入りますが、少し声を低くして下さいませんこと」 ではなく明らかに「うぜえ」でした。
何が言いたいのか、お分かりいただけましたか。
看護教員の彼女は、横にいた周囲に(と言ってもつまりは自分だ) 無頓着なグループを非難していながら、実に見事にワタクシに対して、 「そういう自分も同類」であることを暴露していたわけなのです。
彼女の職業はこの際どうでもいいかも知れないですが、 ワタクシは何だか、「あたしって看護教員なの、偉い仕事してんのヨ」 さらに「横で無知なお喋りしてんじゃないヨ、偉いあたしの仕事 邪魔すんじゃねーヨ」と言った態度に見えてしまった訳ですね。
確かに人に迷惑をかけるという視点では、お喋りの方がその可能性は 大きいし、彼女は書類を広げて作業していただけで、(オヤツのことを除いては。それだって汚さなければ勝手だと言われれば特に反論はしない) 別段他人の迷惑になる行為はしていなかったと思う。
けれど、他人に対してあからさまな視線を投げかけることの無礼さを全く 意識せず、うるさければはっきりと相手に対して告げればいいものを、 「言わなくてもわかれよ、バーカ」とばかりに睨みを飛ばすなんて、 誠に品のないことだと言わざるを得ません。 日ごろ学生に対して、コミュニケーションうんぬんと説いてる人の姿とは 到底思えません。
これはたまたま見た彼女がそうだからと言って、別に看護職が全員・・・じゃあないと思いたいですけどねええ。でも、事実恥ずかしながら看護職って、・・・な人も多い。 そういうワタクシは先日に続いて買ってしまった「逆説の日本史」に ムチューでした。・・・それだって誰か見てたかもよ、恥ずかし!
2002年11月10日(日) |
あ、ほんとにどうでもいい1日(笑) |
どうでもいい日常の始まり。
どうでもいいニュース。
きゃれる「ハリー・ポッターの主演3人声変わりで交代するって?」 うちの人「あー、それってだいぶ前から言ってたじゃん」 そうだっけ?そう言や、どこで見たんだっけそのニュース? 別々の時間にネットでニュースを見たりするので、 お互い言ってるソースがどこかわからない。 日中人のうち(って訪問先ですわい)でやってた TVのニュースだったのか、 人から(って利用者さんですわい)聞いたのか、 何だかワタクシも記憶が適当ですわ。
旧生田邸を残すとか残さないとか、正直、地元でもないので どうでもいいニュースだが、そういうのに限って、 何だか報道されてる推移までよく覚えていたりする。 人の興味ってそういうものですか。 重要なニュースとゴシップの配分がメディアでは 大切と言うのがよくわかります。
さて。出張前なので準備をする。 なけなしの服から天候にあったものを探す。 かばんを選ぶ。黒いのはどこ行ったのだろう? 先日片付けすぎて、何がどこかわからない。
利用者さんに「出張があるので来週は他のスタッフが来ます」 と告げると「車で行くの?」と聞かれる。 「車?」と聞く人は、「遠距離は疲れるから気をつけて」、 今時分なら「雪が降るかも知れないから気をつけてね」 と言いたいらしい。年配で運転をしない人なら 「若い人は車でどこでも行けるからいいね」と言う。 「長距離は自信ないんで…」と笑うと、一緒に笑ってくれる。 お定まりの会話だが、いつも楽しい。
探してたかばん発見! ナイロンの微妙な煤けを濡れふきんで拭いておく。 部屋を片付けてから、うちの人が今日は不在なので、 ホホホ。こっそり足マッサージへ。 帰ってくるまでにかばんも乾くでしょ。
「親指の付け根が痛い」と言うと、ハンドマッサージも勧められた。 やってもらうとする。こういう時は心も無にすればいいのだろうけど、 どうしても考えてしまうのが仕事!仕事!仕事のことである。 ああ、自分がすごくイヤ。 自己流で揉んでしまったが、痛みがあるときは優しくさするようにと リフレクソロジストに言われる。そうですよねえ。しゅん。 でも少し痛みが楽。自筆でたくさん書いた覚えもないんだが・・・ 他人の体の揉みすぎかも・・・。元々むくみは無かったので見た目 変わりないけど、膝から下の各部が柔らかくなり、動きが軽くなった。 医療じゃないけど、リフレクソロジーってすごい!
帰って、ちまちまと片付けて、コートを出して、洗濯をする。 部屋干しは乾燥対策。
買った本2冊。
井沢元彦「逆説の日本史2・古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎」、 勝岡寛次「韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する」(共に小学館文庫) どちらも今更だし、ちょっと自分でもどうか・・・と思うラインナップ。 けど、「逆説の日本史」は実は今出てる新刊(織田信長のやつ)が 面白くて立ち読みしてしまったんで、最寄の本屋で探したら 2巻しかなかったんだもん。 しかし、怨霊ねえ。この人、ミステリ作家だしなあ・・・どうなんだろう。 教科書問題は、扶桑社のが出た時に周辺本を何冊か読んだけど、 尽きない興味なのでもう一度。要は衝動買い。
あとはVoCE。なるべく雑誌は買わないようにしてるんですが、 してるんですが、買ってしまいました!買っちまいましたよ、ええ。
だって乾燥。肌乾燥の季節だよ、おねえちゃん。 このままだとあたし、超大台を待たずに皺皺になるよ。
マヨネーズものが食べたくなり、CMのように季節外れのブロッコリーと 安いエビを茹でて食べる。これエビは熱いうちが美味しいですなあ。 醒めるとリッチさが無くなる様は、ペテンのようだ。
うちの人から電話。 すまんのう、一人遊んでいて。クリスマスと誕生日と バレンタインは期待しててにょ。こっそり遊んでるのは ただの遊びではない!心身の回復!街のリサーチ! その他有意義な諸々ですにて!
風呂に入って、さあ、寝るよ寝るよ・・・ 今日はちーさい生き物にでもなったつもりでくうくうと安らかに寝る・・・ 寝たいものだ・・・夕べ何故か寝付かれなかったので・・・ でも・・・こんな時間まで起きてたらおんなじだ・・・
・・・・オヤスミ〜〜。。。。。。
デリコの歌詞は一体…と、落としたCDを聴き直す。こうして夜が更ける。
2002年11月09日(土) |
職業と患者役割・本論 |
役割。
在宅、訪問看護の場合。
病院で出会ういわゆる「入院患者さん」よりは、 ずっと自然体でわたしたちを受け入れてくれることが多い。
それでもしばしば、自分の職業に大きな誇りを持ち、 自宅にいて仕事と離れた場面でも、ずっとその役割で いつづけようとする方にもお会いする。 初回訪問でそう感じられた時は、相手を 何とお呼びすれば良いか、訪ねる時に配慮する。 教職や医者、作家、政治家(?)などなど、物を教えたり、 人から「センセイ」と呼ばれていたような利用者さんには 「先生」と呼んでいいのか尋ねる。
わたしの同業者はわかってくれると思うんだけど、 そうではなく何で?と思った人。 だってね、教職の人って、ご近所の人にまで 「先生」と呼ばせることがあるじゃありませんか。 地域によったり、その家のカラーにもよりますがね。 そういう人は就業時間の呼称を、 私生活にも広げて当然と思っている人なのです。
そういう人もいらっしゃるのです。
おかしいと言えばおかしいんですけどね。 別にワタクシこの人の生徒じゃないし、とか。 家でお父さんだと近所でも「お父さん」って呼ばれることもあるし。 お母さん、お祖父ちゃんお祖母ちゃんもそうですね。
高齢の方の呼称として、医療・介護の患者・利用者さんを おじいちゃんおばあちゃん呼ばわりするというのは もうだいぶ無くなっていますが、日本の地域の文化としては 根強いものがありますね。 関西人ではないワタクシは、大阪で 「ねえちゃん」と呼び止められると、 ちょっとムッとしたりしますが。 (ごめんね悪気がないのは知ってるんだけど。慣れの問題よね)
閑話休題。
人によって「いやあ」と言いながらも嬉しそうであったら、 それは「そう呼んで欲しい」というサインと判断することが多い。 中には「いやいや、もうずっと昔に引退したので それは勘弁して下さい」とおっしゃる方も。 その場合は苗字でお呼びする。
しかしその程度で済む気がする。 いつまでもケアの内容まで「先生」として、 高圧的に訪問看護に指示しようとしたりする人には、 今の所お会いしたことがない。 職業役割というより、私的な性格も奔放なんだな、と いう人はああしなさい、こうしなさい、ちょっとアンタ、と いう感じで生涯接して来られたりしますが(笑)。
今の所、ワタシの経験ではそのような 「ワガママお嬢さんタイプ」は圧倒的に女性が多いです。 女性は強い?
男性は体が弱って、家にいるようになると、何だか 気落ちしてしまうのでしょうか。それも気の毒な気がする。 おお威張りで堂々としていた人なら、年をとっても、 障害を持っても、家で過ごすようになっても、 ずっと堂々としていて欲しい。
ちょっと命令口調になったって、ワタクシは許します (て言うのも偉そうだね。いえある意味、ははあ、と 頭を下げる時ほど心の中では静かにプロとしての誇りを 感じていますから。それが不遜であることは自覚してます)。
誇りは持った方がいい。
それによるリスクや負の見返りは充分その人たちは 受けてるんです。変わらない誇りであれこれ頼むその人に、 「老体のくせに」「『元』センセイか、偉いねえ」 「病気のくせにワガママばかり」 家族や親戚から冷たい視線を浴びせられている人もいます。 プロ意識が足りない介護・看護サービス従事者の中には、 何を勘違いしたのか、家族や親戚なら在り得るこのような 「私的な感想」を、ご本人にあからさまにする者もいます。
高く伸ばしたプライドは、飛び出せば飛び出すほどへし折られる・・・。 それもまた、痛々しく、この上なく悲しく目に映るのです。
生活や立場に合わせて自分の役割を変えていくのは、 あくまで本人の自然な心の変化があってからでいい。 それを他人が強要するのは激しく本人を傷つけます。 そうでなく、少しずつ、少しずつ、 仕事をしていない自分も大切にされるし、 家にいてもいいし、その価値があるのだと 思ってもらえるように・・・。
そのためにほんの1時間ばかり、訪問看護が 「先生」「先生」とお呼びし、こんな偉い方の所を 訪問させていただいて嬉しいとばかりに ニコニコすることなんて、
なーんにも苦にはならないのでした。
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