たまに見る人シリーズ。 ああ、いますねえこういう人。ていう人を勝手にシリーズ化して見ました。 主に同業者になるかと思うけど、たまに気づいたら書いて見ることにします。
さて、日ごろ訪問してたり病院や行政など、他の機関の看護職の人を 見たりしてると、こういう人がいる。 利用者(患者)さんやご家族に対して、大変愛情を抱く人。 愛情を抱くっつうとちょっと語弊があるのですが、ちょっと看護っぽく 書くと(?)親密性が高い人という感じで読んでください。
ワタクシたちのような仕事には、まあ、人と接するのが嫌で嫌で しょうがないなんて言う人はあまり就かないわけで。 少なくとも、プロとして看護サービスを提供する上で、そのサービスの 一つとして、またサービスがスムーズに行くために相手に感じ良く 思ってもらえる対応・接遇をするのは一応、基本となっているわけです。 (まあ、たまにはどうしようもなく対応の悪い機関もありますが、 それは我々の仕事の基本として、論外です。そういうのは今回は 忘れてください。)
そこで、「温かい対応」や「心使い」というのは、あくまで 看護職のわたしたちが、お客さまである利用者さん、患者さんに 提供するものだと思うのです。ところが、日々の仕事の中で、 たまには利用者さんや患者さん、あるいはご家族から、わたしたちに 何かしら心使い(これは物品の戴き物ではなく文字通りの気遣いと いう意味です)を下さることもあるわけです。
それは、我々の仕事に対するお礼やねぎらいの言葉であったり、 親密に声をかけてくださる態度であったりします。 その背景としては、まさに我々がある程度サービスを提供し続けて それなりの成果が出た場合、それに対するねぎらいや素直な 喜びの表現であることも多いし、また、さして成果が出なくとも、 その利用者さんの他人に対する優しい性格や品のある接し方によって、 社交辞令でも何かしらこちらが温かい気持ちになることがある。
そういうことだと思うのです。
こちらだって血の通った人間だから、いくら相手がお客様だからと 言って、あまりに非人間的な扱いを受ければ傷つくこともあるし、 逆もまたしかり、だと思います。 訪問先の利用者さんやご家族が、看護師にとって、仕事を別にしても 個人的感情的に非常に気持ちの良い方たちであった場合は、 プラスアルファの要素として、訪問するのがちょっと楽しみに なったりもします。それは確かです。 何も誰も、サービス業だからって人間的に嫌〜な人の所へは、本心は、 出向きたくないのが当たり前だと思います。
でも。 でもでも。
それを、メインに求めるようになっていたら、看護職は自分の心に 警告を発するべきだと思うのです。
わたしたちって、何のために訪問をしてるの??? それって・・・・・誰のため?????
気持ちいい訪問を提供する立場にいながら、いつの間にかそれを 無意識に利用者さんに求めるようになっていては、いけないと思います。 そうでないと、訪問する自分の中で、利用者さんのおかしな格付けが できてしまいます。「ここは訪問していて楽しい家」「ここは嫌な家」 ・・・・・何か変だと思いませんか。
「無意識に」求めるのはいけない、と書きましたが、利用者さんに 個人的な思いで入れ込んで、挙句に(勝手に!)燃え尽きてしまう人の パターンには、そのような人が多いように思うからです。
そういう人は傍目からちょっと見ると、実に熱心にサービスを提供 しているように見えますし(実際に熱心なのでしょう。仕事というには あまりに情熱的ですらあります)、 発言を聞いていると、実に人間的で、利用者さんやご家族に対して 情緒的な表現が目立ちます。同情的で、庇護的、かつ献身的です。 そして、当の利用者さんにも好評です。
しかしよくその人の他の仕事も広く見渡して見ると、実際には熱心に かかわる利用者さんと、そうでないお宅とがあることに気がつきます。 ケアそのものは差をつけることもなく行っているでしょう。
しかし、発言を注意深く聞いていると、「お気に入り」でない 利用者さんに対する発言には、普段の愛情深く情緒的なその人の口から 出たとは信じられないような言葉が見られます。 「ああ、あそこのお宅なら、〇〇でもいいよね」「勝手にやってもらおう」 実に適当で、ぞんざいです。当の利用者さんが聞いたら、 絶対気を悪くすると思うのですが。
そのような看護師にとっては、ケアがうまく運ぶお宅とそうでない お宅との差は、看護師としての「仕事上の悩み」ではなく、 すなわち個人的関係としての「人間関係上の悩み」になってしまいます。 それは仕事でのかかわりでも、無意識に必要以上に親密性を相手に 求めてしまうその人の習癖に他ならないと思うのですが、当の本人は、 何かうまく運ばないことがある度に、どうしてそのように深く悩んで しまうのか、自分ではわかっていないような気がします。
そういう看護師が、ビジネスでも個人的な愛情を乞うてしまうのには、 きっとそれまでの生育歴や、何か心理的な背景があるのでしょう。 私生活で満たされない思いがそうさせるのか、どうかはわかりません。 オチはつけられませんが、ただ一つ言いたいのは、
利用者さんに愛されたいというのは本末転倒だと思います。 無意識に愛情乞食をやってないか、寂しくて、人の愛が欲しくて 看護職を選んだような人は、気をつけた方が良いと思います。
以上でしたん。
2003年03月12日(水) |
interlude〜春の日に〜 |
風の匂いが春を告げる。 幸せと、遥か遠くに求める想い。 手にしても、たぶん満たされない。
今のわたしは内に内に向かう渦巻き。
ばったり、学生時代の同級生に出会った。
わー久しぶりー元気にしてたー?
専門職の場合、職能の集会や研修会で同窓生・同級生と顔を 合わせることは決して珍しくないのだが、 お互い以前と離れた土地で、また出会えたというのは すごいことだと思う。
今度お茶でもー。
特別親しくしていた人ではないのだが、わたしに気軽に言う。
嬉しく感じるが、この人のこういう人なつっこい所が、 自分には欠けてるんだなあ、としみじみ思う。 名刺を渡し、連絡して、と言ったものの、短い邂逅時間だった こともあり、自宅や個人携帯の番号を書き忘れた。 それに気づいたであろうか、そうでなかろうか、 彼女も聞き返しはしなかった。
その辺から、彼女にとってはやっぱり 社交辞令の範疇だったかな、と思ったりもする。
同窓会、しばらくやらないね。
そう言い合ったが、言ってみた自分だって、 開催されて何を期待するのか????
今に忙しく、昔語りをして、それでも 何かが楽しく感じられるのだろうか。
顔や名前や中途半端に口を利いたことがある程度の 「友達」については、ゴシップが楽しいだけだ。
卒業したてで、2、3年経った頃の同窓会はやたら楽しかった。 未知の夢を語ることが許されたし、若者ならではの 社会への無責任な愚痴が許されたし、 卒業した時の思いの共有ができたから。
今は?
今の仕事の栄光を語りたい人だけが、別にそんな所でなくたって、 地元で、同じような顔ぶれでいつも仕事がらみで 集まっているような人たちだけが、集う場所になって行くのだろう。
過去のエピソードが、そんなに人より意味があるとは 思えていないわたしは、メンタルが男なのか、 あるいは転勤家庭に育った故の価値観の偏りがあるように思う。
でも、その逸脱がまた楽しかったりするから別にいいのです、 自分的にはね。
最近口癖になりつつある・・・。 これは半ば懇願の口調で読んでいただきたいです。 何に言うかって?
ムンテラをきちんとしない医者 (ICって知ってんの?自分が悩んでるって?甘えんな!)。
グローブをしないで陰洗するヘルパーさん (これはお友達からのネタ。同意同意。いくら何でもさあ・・・)。
そっちの電話が壊れてんのに文句を言う事業者。
うち「宛て」のFAXが間違って届いたと怒鳴って電話をよこす某所。
何かと毎日訪問、抱え込みを良しとする某他所のSTの所長 (売らんかな、ですか)。
実調に来るのに介護保険のことをなーんも知らん県職員 (もしもし?ここは講習所ではないですよ?基本的なことまで わかってないレベルで実調に来られても、 こちらも忙しいですから迷惑です。)
まあ、毎度のことだと正直、どうでも良くなりますわな。 今日も一人こりゃあ・・・というお人がいましたが、 まあ、死ななきゃいい、死ななきゃ。
・・・・・しかーしな。 うちらの仕事って、人が死ぬ仕事なんよーーーー。。。。。 自覚しようよ、みんなもうちょっとさあ。
さて。 某火竜の映画。 あとでずにーの現地人蔑視あにめ。
くっそーーーーーーー!!!!!めちゃひどい映画でした。
では今日はこれまで!
2003年02月20日(木) |
interlude〜どうしていつまでも恨むの〜 |
見えないものなら、どこまでも愛せる。
でも見えないものは、いつまでも憎むことはできない・・・。
相手を恨む気持ちを、持続させるというのは 真に根気のいることだと思う。 相手を思い出し、今も見続け、執念深く 思い続けなければ、憎しみの気持ちを継続して 行くことはできない。
それは、建設的なエネルギーではないから・・・・。
どうして、いつまでも、恨みたいのですか。 本当は好きだからですか。
いつまでも愛することさえ自信がないわたしには、 心底、わからない。
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