気持ち★すっ飛びダイアリ
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2003年07月28日(月) ひねくれた・素直な・自分と休日

最近更新が〜怠りがちです。
書いて吐き出したいと思うことが少ないからかしら。
おかげさまで、自分は幸せな生活を送ってるんだと
日々思えています。

今日は休み。
山に上って、お茶を飲んだ。海を見渡すといい気分です。
何にもしなくていいんだなあ、と思うと気持ちが楽に、
すっからかんになる気がします。

普段、どうしても同じ事をずっと考えてしまう傾向があるので、
時々それをごみ箱に放ります。他人にとっては実に大したことでは
ないですが、まあ、・・・・「何で○○は××なのだろうか」とか、
ほとんどが「何でだろう」の世界です。

小さい頃は神経質な子どもだったので、何故か?と疑問を持ったら
とことん聞かないと気が済まなかった。
それを探究心と思ってくれる大人(幸い両親はそういう人間でした)は
いいけど、時に親戚のおじやおばなどから、
「どうして素直にはい、と言わない、素直じゃない子だ」と
言われることもあって、それは大変心外だったものです。

そこでワタクシは言いました、
「自分の疑問を我慢しないで聞いている、
納得できないから聞いている、
それがわたしの素直な気持ちなのに!!!」
 思えばそれも、時代が昔だったのですね。
恐らくうちの両親よりもずっと年かさのおじ、おばは、
自分たち自身が「黙って親や年長者の言うことに従え」という
教育を受けて育ったのでしょう。
今は子どもの「何故?」を大切にしましょう、という観念が
初等教育から行き届いており、
「余計なことに疑問を持つな!」と怒る親御さんは
あまりいないのではないでしょうか。
ワタクシも、小学校に入学してから、学校では納得のいく
対応をしてもらえ、おかげでぐれないで育ったようです。

 わからないことをわからない、と素直に言っても怒られない、
それは成熟した人間同士の世界であるような気がします。
わたしのわかることが、相手にはわからなくても当然である、
だって他人なのだから。
 その違いを認めるか認めようとしないかの違いだと思います。

 山を下ったあと、髪を切った。平日なのに美容室が空いていてラッキー。
人にケアを受けるって、気分がいい。そうするんだなあ、
そう配慮してくれるんだなあ、と一つ一つ仕事の参考にもなる。

 フジテレビでプロジェリア症候群の少女のドキュメンタリーを見る。
プロジェリア症候群とは、いわゆる「早老症」の一つで、
遺伝子の異常のため、幼年のうちに肉体年齢が老化し、
早期に動脈硬化などで死に至る、実に痛ましい疾患である。
 前に同じ早老症で、他の疾患の方にお会いしたことがある。
その方とご家族も、ドキュメンタリーの少女のように、気丈に明るく、
頑張っていた。
 どうして、「自分は生まれ変わっても自分を選ぶ」と
言えるのだろうか。生活も経済的に苦しく、
日常にはテレビには映らない苦労もあるように思えたが、
それでも彼女の存在は際立って、光輝いて見えた。

 それは奇異なるものの目立ちではなく、
また強靭なものが太陽を受けて赤々と輝くのでもなく、
例えるなら暗闇の中で自らが青白くしっかりとした光を放つ、
ブラックライトのような、蛍のような、月のような熱のない光。
思い出しても、彼女の存在は輝いている。

初めから強靭で、何もかも持っているものを誇る強さには、
わたしは魅力を感じない。別に体の障害のことではないが、
何か弱かったり、何もなかったり、ねじけていたり、
それで輝く方が余程素敵だと思うのである。

 何の苦労もなく素直に育った人は、いいね、とは思うものの、
本気で素敵だとは決して思わなかったりするのである。

ま、そういうことです。素直なワタクシの好み。


2003年07月20日(日) ヒトクチ映画日記:タキシード

書こう書こうと思って忘れてました。
これもあとから書いてます。

そもそも、ジャッキー・チェンの映画は、好きじゃない。

さらにこれは香港映画テイストのハリウッド映画、
らしいが、全然面白くないで〜す。
結局香港映画のいい所も、ハイウッド映画のいい所もない
どっちつかずな代物になってしまっています。

ハイテクタキシードを着て超人になるというB級な設定は
悪くないんですが、初めからテンポが悪くて、複線もないし、
シナリオがダメダメです。
もったいつけてボスとの絡みを序盤散々描いたんだから、
もっと主人公とボスとの心の交流や友情を全面に出せばいいのに、
ジャッキー以外はキャラが死んでいます。

B級ならはB級の濃いい味付けで、ぎゅっと、生き生きと
漫画チック(←褒め言葉だよ!)にキャラを作りこまなければ
B級にもなりやしない。

アクションもだらだらと続いて、アクションシナリオの
センスが悪いです。勉強して欲しい。

極めつけは、ラスト、本当にとってつけたようなラブエピソードが、
実におかしい。変だ。なくてもいい感じ。

不愉快な映画でした。




2003年07月19日(土) 死んだあとも存在しますかねえ

死ぬことは怖いですか、皆さま?

うちの母は、「死ぬ瞬間はたぶん苦しくないと思うから怖くない、
その後は無になるから怖くない」と昔から言っています。

大体死が怖いと思う人は、死んだ後無になってしまうのが
怖いと言いますね。ワタクシはと言うと、
死んだ後何か存在するのか、それとも無になってしまうのかは、
考えても考えても想像の域を出ないので
考えるのは止めました。

なのでそれは置いておいて。
今いる知己の人々と別れるのは大変寂しいと思うのです。
自分はわからなくなるならいいとして、残した人が
悲しむだろうと思うと、やっぱ自分も悲しいわけです。

その中で、病気で死ぬというのは、いい方かなあと
最近は思うのです。病気の症状にもよるけど、
事故や災害や犯罪の被害などで、自分にも家族にも
何の予測もなく、あっけなく逝ってしまうよりは、
少しずつ、少しずつ、別れの準備をしていく方が
余程お互い納得できているような気がします。
(死んだ本人のその後は知りませんが、生きているうちの
心持ちは、その人の考え方でいかようにでもなっている部分が
あるように見えます。)

自分をまた横において、今この年で、さらに仕事を離れて
個人的に不思議に思うのは、かなりの高齢になった人でも
「自分だけは死ぬはずがない!!!!」
と固く信じて、死に対して大変な恐怖と抵抗を
繰り広げる人もいることです。
(念のため、妄想の種類のうち、
「自分は永遠に生き続けなればいけない」
というものがあるのですが、そのことではありません。
また、病気の告知がうまく行かず、そのため
「死ぬような病気ではないはずだ」と本人が
思っているということでもありません。)

「高齢者はよく口ではいつ死んでもいい、などと言うが、
それは本心ではない」と言う人もいました。
でも・・・・・・じゃあ、いついつまで生きればいいの?
いつまで生きればその人は満足なのでしょうか。

他人の死生観に、諦めるべきだなどと押付けるつもりは
ないですが、どうしてその人が、自分は死なない、自分こそは
死ぬはずはないと考えるに至ったのか、そこに興味があります。

わたしはどっちかというと、
絶対死ぬよ、死ぬ死ぬ、あー死ぬ。
だって毎日ちょっとずつようやっと幸運で
生きて来れたんだもん。

と思っていたりしますから。

だから今日はっきり思ってることを言うんです。
今日死んでもおかしくないから。
嫌です。こう思います。って。
おかしいと思うことはやらないんです。


あの人は、どう考えているのかな。
そういう話もして見たい。


2003年07月17日(木) 氷解

今日一つ、わだかまりが解けた。

過去の出来事は、形がなくなってどこかに消え失せてしまったのではなく、
ばらばらになり、元と同じ形の硬い塊ではなくなっただけ。

だから氷「解」と言う。
解きほぐされた糸は、なおわたしの前にある。
なかったことにしないこと、それが一つ自分で背負う、生きる責任。

どうかわたしの信じる人に、誰も、何も、悲しみや苦しみを与えないで下さい。

わたしはあげられるものが何もないから・・・本当に
何もないのですから・・・。


2003年07月08日(火) 例えば四肢麻痺になったとしてさ〜

 例えば、手も足も動かなくなったとする。
中枢性の原因でも、神経原性のものでもいい。事故でもいい。

そこで毎日人の介護を受けて暮らすことは苦しいだろうか。

毎日同じ暮らしを続けることは、苦痛にはならないだろうか。

ワタクシはずっと同じことを繰り返していくということが苦手で、
しばらく何かをやったら、いつか「ああ、もういいかな」と、
自分の中でリミットが来てしまう。
この仕事もたぶんいつか「ああ、もういいかな」と自分の中で
満足して終了させる時が来るのと思う。
飽きっぽいと言われるのはちょっと心外で、自分では
「満足が早い人間」だと思っている。
別に何かを途中で放り出すわけじゃあないし・・・。

その自分が四肢麻痺などの体が動けない状態になったら、
日々同じスケジュールで生体と、生活を維持することが第一義になる
生活自体は、これは案外苦痛ではないかも、と思う。

 何故なら、生活行動一つ一つを行うことが自分の仕事になり、
1日の中では変化そのものだからだ。

 毎日変化のない生活・・・とぼやく人のほとんどは、
経済的、時間的に一定以上のレベルの高い生活をしている。
 何かに追われたり、傍目に何もしていないように見えても
本人の中で必死に戦いと苦しみを続けている人、
必死に生きている人にとっては退屈とは全く縁のないものだ。

 退屈は余剰から生まれる。

 中途障害を持つとは、ある意味「余剰のない生活」に
飛び込むことかも知れない。
 それを受け止め自分のものとしていける人にだけ、
心の余裕、光、福音、そんなようなもの、それまで
得ることが難しかった何かがもたされるのかも知れない。

 人の恵みを受け取るには、手を空っぽにして
受け取る準備をしなければいけないんだろうな。
 

  そんなことを思った。


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