ダメダメちゃむ日記
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2006年03月18日(土) 無念

○○先生のご実父の話題は2、3週間前まで、普通の食卓の会話として出てきていた。
先週末に、突然の脳梗塞。ご家族の1週間の看護も空しく、他界されたとのこと。
予想すらしなかった突然の死も、
10年間近くの療養と闘病生活も、
1週間の猶予と精一杯の看護を経ても、
ご遺族の悲しみは深く、喪失感に苛まれることだろう。

だから人は生きていかなければならない。

「女王の教室」SP第2夜を見る。
ダースベイダーの復活といった愛と挫折の究極の状態で、
生徒の壁になった阿久津真矢。
「教育は奇跡を起こすことができるからです」

人生は、いつまでも学び続けるべき生き物である。
ましてや専門職ともあろうものは、
失敗の中からも、学び続け、成長し続ける義務を持つのですね。


2006年03月17日(金) 連続

何故こうも連続するのかわからないけれど、(偶然なのでしょうが)
私が副担をしているクラスの担任の先生のお父さんが同じく55歳で亡くなり、
敬愛するY・薫子(仮名)先生の元教え子が17歳で突然亡くなったとのこと。

クラスの生徒に話すかどうか、学年長と相談していたのですが、
某教科の先生がポロッと授業中にもらしたとのことだったので、
帰りの会にて、生徒に改めてきちんと知らせました。
「もう●●先生に聞いたと思いますが、あなたたちの担任の○○先生のお父様が昨夜亡くなりました。担任の先生と同じ24歳という年が自分に来ることが想像できますか? できないでしょう? 
だったら考えなさい。想像してみなさい。あと11年先の自分がどんな生活を送っているかを。
そして、考えなさい。親を亡くすとはどういう気持ちなのか。
人はいつか必ず死にます。世の中には、○○先生のお父さんや今週亡くなった私の義理の兄のように、厳しく愛情をもって子どもに接してきて『何故あんないい人がこんなに早く……』と惜しまれる素晴らしい人も、
私の父のように『あの時死んでくれて本当によかった』と言われる人も、
私の夫の実の兄弟のように、人生の困難から逃げて逃げて逃げ回って、全てを親や他人のせいにして「俺の人生、本当はこんなはずじゃなかった」と一生逃げ回る人もいます。(<これは伏線として授業中に話しておいた)
そして、全ての人に必ず死が訪れます。だから、考えてみなさい。生きるとはどういうことなのか? 命の尊さと儚さを。
そして、13歳の今、あなたたちなりに、先生に掛けてあげられる言葉を毎日ノートの日記に書いてきなさい。今のあなたたちなりに先生に差し上げるにふさわしい言葉を考えなさい。お家の人に相談しても構いません。
葬祭場は遠いので、あなたたちは直接見ることはできないけれど、今、13歳なりに巡り合った死という現実ときちんと向き合いなさい。
そして、今の自分に何が必要なのか本気で考えなさい」

まんま「女王の教室」のパクリである(ーー;)

追記
昨夜娘sのいない間にダーに電話のことを話しました。昨夜は義兄に何度電話しても出ませんでしたが、
今日ダーが携帯に連絡したところ、やっと出て「今から振り込みに行く」と言ったそうです。
私は信じてはいなかったのですが、後で記帳したところ、これまで貸してきた金額130万円振り込まれていたそうです。金額は全然知らなかったσ(o^_^o)
年下の赤の他人σ(o^_^o)に叱られて赤っ恥をかかされるのも、義兄にはいい経験になったようだ(笑)


2006年03月16日(木) 嫌味

先週の土曜に引き続いて、
義兄に嫌味たっぷりの電話を入れた。
物腰柔らかに、嫌味に皮肉に当てこすりのオンパレード。
完璧、泥沼系昼ドラの悪役(ヒール)!!
ダーがいくら言ってもずるずる延ばすばかりで返済する気すらない。

私が、土曜の朝に、
「お願いですから、誠実に生きて、誠意を見せてください!」
と懇願した電話も、
夜にダーが直接問い詰めたら、「ああ、早く返せと言われたわぁ」だと。
事実を受け止める勇気すらない呆れた人間。

今日の夕方。義兄の家電に電話した。<子どもに聞かれないよう2階でね
「○○の○○ちゃむ(仮名)です。お義兄さん、お通夜に葬儀にお疲れ様でした。私の先日のお電話覚えていてくださいましたか?」
「ああ、覚えていますよ」
「じゃあ(ダーと金曜日に約束した通り)お振込みいただけたんですね^^」
「いや、今日は妹の手伝いで忙しくて」
「それはお疲れ様でした^^」
どこまで本当やら? 銀行のキャッシュコーナーに行く10分の余裕もなかったんでしょうか?(笑)
いいえ、返済する気などかけらもないだけなのです(嘲笑)

「お義兄さん? 先日の私の電話をちゃんと聞いてくださったんですか?」
「ああ、聞きましたよ」
「私は『せめて誠実に生きて、誠意を見せて下さい』とお願いしたんですよ。それすらもおわかりなっていただけないのですか?」
「ああ!? わかってますよ」
「いやだわ、お義兄さん、わかっていらっしゃるんなら、きちんとお約束を守って下さいよ。今週の月曜日に振り込んで下さる約束だったんでしょう?」
「ああ、わかってます」
「それから、私は先日の電話で『早く返せ』なんて申しておりませんよ。『誠実に生きて誠意を見せてください』とお願いしただけですよ。
夕方夫がお義兄さんに聞いたら、私の話した内容は完全にゆがんでいましたよね。事実を勝手にねじまげて親族に悪口を言いふらさないで下さいね。私も不愉快ですから」
「僕は誰にも言ってませんよ!」
「そりゃあ、そうでしょうね?(笑)とにかく、そちらの実家の土地も財産も全てお義兄さんにお譲りしたはずですので、今後困った時はそちらで何とかなさってくださいね」
「ああ、わかりましたよ」<切った(笑)

……仕事すら探そうともしない寄生虫め!


2006年03月15日(水) 葬儀

葬儀は葬祭場で行われました。
ダーと娘sと4人で参加しました。
私の父が亡くなった時、従兄弟姉妹は全員参列してくれましたので、
それが当然と思っていたのですが、何故か亡くなった彼の甥姪(の小さい子)は娘sだけでした。
義弟の家は子どもが5人もいて、かなりの借金(我が家にも)がありますから、礼服を買う余裕がなかったのではないかと私は勝手に想像していますが、それもどうなのでしょう?<義兄から知らされていなかったので礼服の用意ができなかったこともあるでしょうが。
実の伯父の葬儀にも参加しないで、子どもたちはいつ「命の尊さ」を学ぶのでしょうか?
娘sが退屈するのは、昨日のお通夜でわかっていたので、
本(長女愛読「ハ○ー・○ッター」)とお絵かき帳を持参しました。
葬儀の最期に、彼の長男(23歳)が涙ながらに、親族を代表して挨拶した姿を見て、父の葬儀を思い出しました。

20歳の兄が喪主となり、18歳の私が遺影を持ったあの日のことは、
つらかったのでしょう、これまでほとんど思い出すことができませんでした。

子どもたちを立派に育て学校を卒業させ就職や結婚も決まり、
それでも55歳の若さで亡くなった義姉のご主人も、
人生半ばにして病に倒れ、死すことはどんなにか心残りであったことでしょう。
ましてや、49歳の若さで、過労と妻から追い詰められて発病した心の病気を理解されることすらなく、家族から見捨てられ、愛想を尽かされ、
娘の大学受験を前にして追い出されるように追い詰められて亡くなった父の心の痛みを……40歳になった私は初めて想像して涙が溢れました。

娘sも何とか子どもなりのペースで、祖母以来の通夜・葬儀・初七日に参列し、おとき(会食)もいただきました。
それが身内として最低限の礼儀だと私たちは思っていますから。
看病疲れ、通夜・葬儀と張り詰めてきた義姉と、やっとほんの少し話せました。
「お義姉さん、困ったことがあったら、(義兄になんか相談して事態が悪化する前に)ダーに相談して下さい。必ず(ダーが)駆けつけてお役にたちますから」
私からは、それしか言えませんでした。
義兄は私とは目も合わさず(こちらも無視を決め込んでいましたから)
一言の挨拶もなく、別れました。

今日は、父の命日でした。
でも、父の遺影すら飾っていない実家には行きませんでした。
母の態度に不愉快な思いをすることはわかっていましたから。
墓には、発病したての20代の頃、遺骨と一緒に墓石の中に小1時間もぐって以来ほとんど行っていません。
父の墓は私の心の中にあります。あのガランとした空間にあるのはただの遺骨。
手を合わせなくても、線香を立てなくても、父は私の病とともに、私の心の中にいます。


2006年03月14日(火) 通夜

夜から通夜なので、出勤しました。
短縮5時間授業であり、私が副担任をしているクラスの担任の先生も、
実のお父さんの危篤状態が続いていてお休みだったので。
そのクラスにはある軽度障害を持つ生徒がいるのですが、
病院に行っても、彼の障害は診断されることなく、
また親御さんの逃げも手伝ってか、
彼の状態は二次障害、反抗的態度へと悪化している状態です。
昨日も今日も、私は散々彼の反抗を受け、深く傷つきました。彼への指導は必要でした。
今日は通夜があるため、私は帰りの会直後に帰らなければならないので、
学年の生徒指導の先生に相談して、指導をお願いして、年休をいただいて帰りました。

娘たちには、昨日の夜遅くに、伯父さんの死を告げました。
昨日会った人が、今日亡くなったという現実に、
娘たちはかなりショックを受けてポロポロ涙を流しました。
生と死は、子どもにとってこそ必要な教育だと私たちは考えていますので、
日曜日にお見舞いに行った後、2人分の礼服と靴は買っておきました。

お通夜はご生家で営まれました。長い間療養生活を送っていた彼を、最期は生まれた家に帰してあげたい、というご遺族の願いだったようです。
我が家からは高速を使っても車で2時間弱の距離です。
金襴緞子の布団で、顔に白い布を掛け、彼は横たわっていました。
大きい人でした。
私はほとんど話したことがありませんでしたが、
誠実で家族思いの優しい人でした。
ダーなど「彼が実の兄だったら!」と何度思ったか知れないそうです。
私と娘sは義弟夫婦とその長男(中1)一緒に、奥の炬燵で通夜が始まるのを待ちました。
私は、生徒に散々傷つけられた心が痛んでおり、何も話せませんでした。
伯父の死の知らせには涙をボロボロこぼした次女(小1)でしたが、
今、隣の部屋にご遺体があり、これが本当に最期のお別れだということまでは実感しがたく退屈していたので、次女を抱きしめて私自身の疲れた体を休めていました。

義兄は怠惰な生活を送っていたせいで太ったのでしょう、
礼服も着ず、とんでもない服装で現れ、呆れる以上に彼が身内かと思うと寒気すら感じるほどの恥ずかしさを隠し切れませんでした。
ダーは彼が勝手に仕事を辞めて以来、
義父母の世話を任せていることもあって、
幾度も金銭的援助をしてきたようですが、
義兄はそれを当たり前であるかのように思っており、
先日不幸な事故でまとまった金額のお金が入ったことも内緒にしており、
全く返す気もなかったようで、
ダーは激怒し、即刻返すように言ったそうですが、
振り込むと約束だった昨日も今日もお金は振り込まれていませんでした。
土曜だったか、私も激怒して、義兄に電話して散々抗議をしたのですが、
義兄はそれすらもほとんど聞いておらず、ろくに記憶もなかったようです。
もちろん、私には目すら合わせません。
私も義兄に近づくのさえ嫌で、
お坊様のお経の時も(子どもがいたせいもあるのですが)次の間に控えてお念仏を唱えました。
ご近所や身内での打ち合わせなどもあるようだったので、
読経の後は早々に退散しました。
ダーの運転がとても乱暴で怖かったのも、義兄への苛立ちが原因でした。
帰宅すると、もう起き上がれませんでした。
娘sの連絡帳(明日の欠席連絡)は、長女が書きました。


2006年03月13日(月) 訃報

実は先週の金曜日に、ダーは用事があってたまたま実家に帰ったのです。
あいかわらずのものぐさ生活をダラダラ続けている義兄が隠してきた
とんでもない事実を二つ初めて聞いて、ダー立腹のあまり、私に八つ当たり大喧嘩勃発しました。
確かに、私も悪いこと(ちょっと嘘入り)しましたけど、
そこまで罵倒されるほどのことをしたわけではなく、
泣きながら口答えしました。
その後、いろいろと話を聞いて、私自身もいろんな人に呆れることしきり。
「でも、だからと言って、あなたの個人的なトラウマを私に重ねて八つ当たりはしないで」
と懇願しました。
メンタル患者はぶつけられた言葉を100%丸呑みしてしまうので、
言葉の暴力から逃れる術をもたないのです。<私は、ですが

義兄についてはもう不平不満を超えて、人間として軽蔑心しかもてません。
義父も義弟も同じく。
本当にダーが可哀想で仕方がありません。
あれが実の家族だというのが、ダー最大の不幸であり、
同情することさえできないほどの不運としか言いようがありません。

義姉(長女)のお連れ合い様が今日亡くなりました。

義兄(長男)は無職でぶらぶらしているので、
ずっと看病に通う義姉を車で送り迎えしていたそうです。
そして、
「ちゃむちゃんに心配掛けるといけないから、ダー(仮名)には言わないで」
という義姉の配慮する言葉を鵜呑みにして、
「あと10日もつかどうか」
の状態まで、電話連絡の一つさえよこさなかったのです。
もちろん、義弟(三男)夫婦にも連絡なしです。
偶然ダーが軽トラを借りに金曜日に実家に帰らなければ、
訃報を聞く瞬間まで私たちは何も知らされないままだったでしょう。
考えなしの義兄にはほとほと愛想が尽きました。

日曜日にようやく私たちは娘を連れてお見舞いに行けました。
「おじちゃんが病気で入院しているからお見舞いに行こう」とだけ告げて。
すっかり痩せて、黄疸が出て、弱りきった状態だった彼は、
多分モルヒネのおかげで痛みにうめくこともなく、
意識のある状態で、成長した娘たちと、病気ながらも元気に生きて働いている私の姿をお見せすることができました。
掛ける言葉すら見つかりませんでした。
これが最期のお別れだということもわかりました。そして、次女に
「バイバイ、またね」
と挨拶をさせました。

今日の午後、ダーから携帯が入りました。
彼が亡くなったそうです。
これまで、たくさんのご心配をお掛けしてきた義姉夫婦へ、
せめて礼を尽くせたなんて、結局自己満足に過ぎませんが、
無口で誠実に生きた彼の死を悼み、心よりご冥福をお祈りします。


2006年03月12日(日) 本物

丸一週間働きづめで、正直かなりキツかったのです。
お友だちブログなどを見る暇もないほど疲れきっていたし。
互助会から何か手切れ金(?)みたいなお金が入りまして、
エヴァ2とかでちょっと遊んでリフレッシュ(丸損)した後、
かなり八つ当たりの夫婦喧嘩勃発とかいろいろありまして、
ついに市内のヴ○トンの店で、
マルチカラー(白)トゥルー○ィルの本物を購入しました。
並べて見ると、笑えるほど違いました、某国製バッタモンとは(笑)

本当にがんばってきた自分に、パチのあぶく銭ではなく、
1点豪華主義のおしゃれのご褒美を、ダーの援助付き(ここポイントね^^)であげました。
さて、職場の同僚には散々偽者と吹聴している○ィトンバッグ、
本物に摩り替わったことにどなたか気づかれるでしょうか? ((o(* ̄ ̄▽ ̄ ̄)o))ワクワク♪


2006年03月10日(金) 弁当

昨夜は9時まで残業していたが、
ダー様当直<夕飯はダーが買っておいてくれた
今朝は、子どもの遠足のため、「弁当ができるのか!?」
と本気で苦悩していた娘sのために、
ちゃむ、弁当2人分作りました♪


2006年03月07日(火) 久々

約1年振りの鬱転。
もちろん原因は昨日の管理職のお言葉ゆえ。
朝は5時半に早朝覚醒して、6時40分に出勤してみたら、まだ職員玄関も開いてなかった。
完璧に久し振り過ぎる鬱をどうしていいかもわからず、
書類はPCの達人、教○にお願いして、結局夜9時までお付き合いした。
しかもまだ終わっていない。
授業中は、まだ演じられる、先生のふり。
職員室では、ただのどんよりした人。
誰とも口が聞けないし、誰も話しかけたくない状態が1日続く。
一日中誰もに嘲笑われているかのような被害妄想気分。
でも、○頭のおかげで文書の目途がついて一安堵。
さぁ、夕飯も喰ったし、薬も飲んだし、さっさと寝よう。
寝るしかないから。
ダーにもありがとう。
心配掛けてゴメン<(_ _)>


2006年03月06日(月) 誤解

人事に希望が言えるということは、本当に恵まれているのだとわかっています。

でも、
「来年度、このまま現在の職場に残った場合、私の命の危険が大きいのです! 1年勤務できる自信もありません!」
と力説したメンタル職員に、
「人事がとても難しいし、あなたは授業がうまいし、留任希望でよろしいですね?」
というおだて文句で留任させようとする管理職というのは、どうなんでしょう?
確かに1校だけ、「○中に行かされるくらいなら留任でいいです」
と1校だけは固辞したのが、それが言質となり、留任希望と誇大解釈されていました。
メンタル患者に力説・迷惑が掛かる自己主張は至難の技なのです。
ダーから校長に抗議の電話を入れてもらいました。

昨年1月〜2月の日記・うつ病板はご覧にならないことをお奨めしましが、
(私でもとても読み直す勇気がありません)
元気に見えるのは、現在マックスの抗鬱剤&安定剤&眠剤のおかげなんです。
パワフルで同教科の各学年長の多大なるご配慮で、副担仕事すらほとんどできてない私。
家事なんか完全不能。
週末は30時間以上寝込みます。
娘の教育すらできません。
授業だけで全ての力を出し切って、あとは抜け殻なんです。

最悪の場合は、私は「在職中に自殺しかねない」危険が高い職場なのです
事実、昨年1月には自殺未遂・完全拒食症で、檻のついた閉鎖病棟に入院したこともあります。

学校運営と、命のSOSを訴え続けた職員の命と、どちらが大切ですか?>管理職様
私が悪化して自殺した場合はそれ相当の責任をとってもらいますよ。

組合の分会長にも、去年のことも含めて報告しました。<申し訳なくて泣けました

仕事も大好きだけど、命には代えられないのです。


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