六本木ミニだより
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1度目に見たときからまったく無視していのですが、どうもこの映画、「ドリス・デイのラブコメのパロディ」みたいなこといわなくちゃいけないみたいなんですね、「プロ」の映画ライターとしては。でも、「そんなの、知らないもーん」という開き直りこみで、私はこの映画が大好き。オチを気にする人の気持ちもわかるけど、私はあまり気にしていない。 昔見たTVドラマだったか少女マンガだったか、「強いフリをして生きていれば、いつか本当に強くなれるのよ」というセリフがあった。そのセリフを聞いたのは、ずいぶん前(たぶん10代)のことだ。私はそのときそのセリフを「残酷だなあ」と思ったし、ここ数年間はとくに、「そんなの、健康に悪いだけだよ」とかなり否定的な目で見てきた。でも、最近、改めて思うようになった。そうじゃないかもしれない、と。 本来の顔とは違う自分を生きようとしたバーバラが、実はそれこそ本物の自分の顔であるかもしれない、と思い始めたとき、この映画は、フェミニストの思想をさえ超越してしまう。多くの心に残る物語がもっている「あるアクシデントに主人公が巻き込まれ、それによって主人公が成長する」ストーリーと同じように、それは、決してアクシデンタルではないのだ。その「事故」は、起こるべくして起きたものなのである。それを、一部の人々は「霊の導き」と呼ぶ。 過去の私のように、強いふりをして疲れちゃった人は、まだ本当に「なりたかった強い自分」に出会えていないだけだと思う。そして、なりたかった自分の姿は、「自分の努力」と、「一見偶然に見える霊の導き」という両親が揃わなければ生まれない。私は、それを感じさせてくれる物語が好きである。
試写状を見たときから、「におう、におうぞ〜、この映画は私を呼んでいる!」と思った映画です。最近ちょー忙しいのに、どうしても書かずにはいられないぐらい、私にとっては問題作です。
作品終了後、宣伝会社の方に、「どうでしたか?」といわれて、「ケイティ、おいしくないですかあ〜?」と叫んでしまったんです。(担当者さん(女性)も、「たしかにそうですね〜」といって笑ってましたが)。ケイティというのはこの映画の主人公の名前で、この映画はいわゆる「ラブ・サスペンス」で、詳しく書くとネタばれするのでそれ以上はかけませんが、ケイティはあまり幸せな女の子ではありません。でも! やっぱり! ケイティはおいしい! 「わたしは鬱依存症の女」の映画評で週刊金曜日にも書きましたが、ときどき、映画には、私の嫉妬をかきたてる女が登場します。ケイティは、そういうタイプの女の子(女子大生)です。 「私の嫉妬を呼ぶタイプの女」の条件、その1、その女は必ず正反対のタイプの男をふたりボーイフレンドにしている。その1っていうかそれがすべてだな(恥)。「私は鬱依存症の女」で主人公のリジーは、「ハンサムでちょっと危険なにおいのする男(ジョナサン・リース・マイヤーズ)」と、「ハンサムだけどちょっと朴訥とした感じで確実に守ってくれそうな男(ジェイソン・ビッグス)」のふたりと付き合ってました。しかし、くだらない指摘ですが、この二人はどちらもブルネットでした。今回は、かたっぽがブロンドでかたっぽが黒髪です。これ、例えば007シリーズでボンド・ガールが二人出てくるときに使われるキャラ分けです(最新シリーズでもハル・ベリーは黒髪でロザムンド・パイクは金髪でしょ)。ルックスにも正反対をもってくる心憎さです。「片方は危険な男、片方は安全な男」っていう図式は変わらないんだけども。(これ、男の「妻は聖母マリア型、愛人はマグダラのマリア型」っていうのと変わらないかもしれない) 危険な方はケイティの大学の同級生で、1年前に失踪した天才、エンブリー。これを、イギリスのティーンに大人気の新人、チャーリー・ハナムが演じ、安全な方は、エンブリーの失踪を探るうち、しだいにケイティにひかれていってしまう刑事、ウェイド。こちらは「デンジャラス・ビューティ」でもサンドラ・ブロックに対して「見守る王子様」(こちらも刑事だったね)をやっていた、黒髪のベンジャミン・ブラッド(苦みばしってますねー)が演じる。ふたりは年齢差もかなりある。ますますおいしいぞ、ケイティ。
さて、この映画でとってもキモなのは、ケイティが、すごく苦労人だってことです。彼女は大学4年生なんだけど、80年代のキャリア・ウーマンが乗り越えてきたような、「他人からの差別も自分の実力で何とかしてきた」みたいな優秀な学生である。名門大学でも合格率は数十倍といわれる、経営コンサルティング会社への内定を、実力で手に入れようとしている。でも、頑張りすぎのケイティの精神は、すでにボロボロになりかかっている。「才はあるのに色はない(映画中では You have no grace オマエはダサい、と訳されている)」というセリフは、自分がその通りだと思っているケイティをいたく傷つける。きっとケイティは、こんなにハンサムな男ふたりを手玉にとった自分は、ちゃんと「grace」もあるってことに、気づいていないのだ。彼女は幸せを認知する力が弱すぎるんです。それが映画の中で悲劇を招いていきます。
……バレバレでしょ、この映画のオチ。私も宣伝会社さんに「オチは見えるような宣伝でいいから、彼女の心の闇に共感したい女性が見に来たくなるような宣伝の方が良かったのでは?」といってしまった。(彼女も納得げであった)。私は、単に謎解きを楽しむだけの観客がこの映画を見にきて、「ケイティって、嫌な女」と思って帰られるのがイヤなのだ。主役を演じるケイティ・ホルムズ、「フォーン・ブース」にも出てますけど、ちょっと内向的な感じがぴったりなんだよね。
アル・パチーノ主演、くたびれた映画監督が理想の女優をCGで作っちゃったら、その女優が大人気になっちゃうお話。 この映画は、たぶん、今の現実とリンクしすぎている。いうなれば、地下鉄サリン事件が起きた後に、『空前のスケールで描くサスペンス超大作! カルト毒ガス殺人事件』を見ても、イマイチ盛り上がらないじゃありませんか。現実の方が超えちゃってる。バーチャルとリアルの境目のなさがもたらす危険に、多かれ少なかれ私達はぶち当たっちゃってる。映画の中で追体験しようという気にはならないのです。 ただし、この映画を救っているのは、バーチャル女優シモーヌを操作して右往左往する監督役のアル・パチーノです。彼が人間臭さを丸出しにした情けない演技がすごくうまい。この人間くささがあってこそ、シモーヌのロボットくささが引き立つ。(シモーヌは本当のCGではなく、スーパーモデル出身のレイチェル・ロバーツが演じていますから)。あと、完全無欠の美、シモーヌに対抗する「トウのたったワガママ女優」をウィノナ・ライダーがやっているのもいい(ぴったり?) ウィノナも人間臭いですからね。ウィノナはいい役見つけたなあ(いや、イヤミじゃなくて)。頑張れウィノナ!
2003年07月24日(木) |
『歌追い人』/『パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち』 |
『歌追い人』
「カントリー・ミュージック」といえばディズニーランドと『ブルース・ブラザース』しか知らなかった自分にとって、この映画は衝撃的でした。カントリー・ミュージックの原点。ちゃんとスピリットがある。黒人霊歌ならぬ「白人霊歌」だなあと強く思いました。 100年前のアメリカのお話。音楽学博士なのに大学の象牙の巨塔の女性差別のおかげでなかなか教授職につけない主人公・リリーが、妹を頼っておとずれたアパラチアの山の中で、スコットランドやアイルランドから持ち込まれた民謡(バラッドという)がそのまま残っているのを見つける。歌とのめぐり合いは人とのめぐり合いでもあり、その中で彼女は世界観を変革させていく。「山の民」の中の生活に息づいている音楽がすばらしい。 突然ですが、わたしはこの映画の中でうたわれているバラッドを聞いて、盆踊りで使われる「炭鉱節」を思い出しました。あの悲しい音楽。「月が出た出た、月が出た、あんなに煙突が高いので、さぞやお月さん、煙たかろ」とノーテンキに歌いながら、あれは、過酷な炭鉱労働者の一種の突き抜けた感情吐露なんですよね。自分が炭と熱にまみれているのに、月を思いやるそのやさしさが悲しい。カントリー・ミュージックもそれと同じで、あのノーテンキさは背景を無視してそこだけ切り取ってしまったらわからないものなんですね。「詞書(ことばがき)」が必要、というか。AFNで、日曜日の昼間のカントリー電リクが不滅なわけがわかりました。
『パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち』
わたしは、J・ブラッカイマー製作の映画で、久々に面白いと思いました。説教ゼロ。メッセージ性ゼロ。ひたすらに娯楽。『カントリー・ベア―ズ』のときも書いたけど、ディズニーは純粋な娯楽を作らせたら面白いの。説教入れるから臭くなるの。つまり、家族連れの観客に対して子どもの方を向いて作るか大人の方を向いて作るか、っていうことだと思うんです。 呪いをかけられたために死んでも死にきれないゾンビな海賊がたくさん出てくる。殺しても殺しても立ち上がってくるハエみたいな敵、というのは、いつも、J・ブラッカイマーの頭にあるんだろうけど、それを日本軍にしたり、ソマリア・ゲリラにするからおかしくなるんですよ。18世紀のカリブの海賊にすれば、誰もイヤな思いしなくてすんで、みんなで楽しめてハッピーじゃありませんか。彼はこういうところに彼の「うちなる子ども」としての才能を発揮すればいいのでは? イギリス人同士の対立だしさ。呪いの元凶を作ったのは欲深いコルテスだった、ってはっきりいってるしさ。 あのジョニー・デップが「子どものために出た」なんていっちゃって、あーあ、と思っていたけれど、ジョニーは子どものためになんかこの役をやっていない。自分のためにやっている。彼は完全に子どもに返っちゃってます。ジェフリー・ラッシュもかなり返ってるね。ヒーローとヒロインの若いふたりの方が、まだそこまで突き抜けていないだけに力入ってよっぽど大人。作るほうがこれだけ恥ずかしげもなく子ども返りしているのですから、見るほうも、子どもに戻って楽しみましょ。
2003年07月19日(土) |
西本智実さんと松本大さん |
この日記はますますわからなくなってきましたね。とりあえず、生活の中で印象に残った備忘録ということで…
7月19日、「国際女性ビジネス会議」というものに参加しました(グーグル検索で出ると思うので、リンクめんどくさいのではりません)。昨年初めて参加して、すごく楽しかったので今年も申し込んでいたのですが、午前中は祖母の納骨だったので、午後からの参加になりました。 午後の分科会第2セッション「自己ベストを更新する」というのに出た。パネリストがロシア・ボリショイ交響楽団主席指揮者の西本智実さん(女性ですよ)と、、アネックス証券代表取締役社長の松本大さん、司会は実行委員長の佐々木かをりさんだった。 西本さんは芸術家、松本さんは実業家と、職業的にも対極、「自己ベスト」へのアプローチもすごく対極なのが面白かった。西本さんは「自分はコンプレックスの塊で、肯定的な自己を認識したいという渇望から自己ベストを更新していく」、松本さんは、「僕は、人間というのは弱いものだと思っているので、完全肯定から出発する。弱い自分でいいじゃない、というところから出発して、自分がどこまで歩けるかを確かめたい」というお答え。 また、西本さんは、「芸術というと芸術的に聞こえますが、現場で実際にやっていることは算数です。ドレミファの音符を作ったのはピタゴラスです」。松本さんは、「お金の動きは、実は心の動きです。今ここに百人の人間がいるとして、『全員に80万円あげるか、80人の人に100万円あげて、15パーセントの人はなし』というと、ほとんどの人は前者を選ぶ。ところが、『全員がそれぞれ80万円払うか、85パーセントの人が100万円払って、15パーセントの人はチャラ』というと、なぜか後者を選ぶ。確率的には80万円払ったほうがいいんですが。人間というのは、買っているときには安定を選び、負けているときには不安定を選ぶという傾向があります」といっていた。 わたしには、西本さんの「芸術というのは算数です」というのが身にしみた。つまり「技術点」がクリアされなければ、芸術点というのはどうにもならん、ということなんですね。 松本さんの話は具体的には思い浮かばなかったんだけど、「お金の動きは人の心の動き」うん、そりゃそうだよね。もしかして、自己肯定感の弱い人間はバクチを打ちたがる、不安定を求めるっていうこと? ……おーこわ。
2003年07月18日(金) |
『私は「うつ依存症」の女』 |
邦題が悪いなあ。原題は「PROZAC NATION」で、日本の現状とあってない、というのもあるんですが。(プロザックは、アメリカでいちばんポピュラーな坑欝剤ですが、日本では認可されていません) タイトルほど重くはありませんでした。病気との戦いの部分でいえば、「17歳のカルテ」を超えてはいなかったとは思うが。しかし、この映画で面白かったのは、クリスティーナ・リッチ演じる主人公の「完璧主義女症候群」のほうでした。タイトル、そっちの方がずっといいと思った。 「美しい」といわれるだけでは、自己評価の低い女にとって誉めことばでもなんでもないと思う。それは「美しい(けどバカ)」「美しい(けどすぐやらせる)」といわれているのと同じ。やはり、女は「才色兼備」と呼ばれなくては。「美しい(だけではないものをもっている)」といわれてはじめて、自己評価の低い女は自分が人間扱いされていると感じるのです。この原作者(エリザベス・ワーツェル、クリスティーナ・リッチよりモデル体型)もすごい才色兼備なんだけど、『サロメ』と違って、わたしは、その才色兼備さにとっても憎悪をかきたてられた。それは、「こうあれば、女は女としての幸せを体現できる」んじゃないかと思われているファンタジーを、原作者が発しているからなのね。ハーバード大学、モデル並の容姿、ローリングストーンズ誌への投稿、10代からライターとして活躍、ドラッグ、セックス。菊川玲以上だわ。 さらに、男選びがまたまたファンタジック。ハーバード大学にジョナサン・リース・マイヤーズみたいな容姿の男がいて、その男と付き合ったら、そりゃもう最高のファンタジーだと思う。(私、変?)その後、危なげなジョナサンとは別れて、堅実そうなジェイソン・ビッグス(『アメリカン・パイ』で朴訥な童貞を演じた人)に乗り換えるあたりもとってもファンタジー。「ハンサムで危ない」「ハンサムでやさしい」両方、ちゃんと手に入れるっていうあたりがね。 わたし、「ハーバード大学のジョナサン・リース・マイヤーズに惚れられるなら、完璧主義症候群になってもいい」と思うもの(大恥)。そこにはまって抜けられなくなる深い深いコンプレックスには、すごく共感できます。わたしも重症ですね。しかもわたしにモデル並の容姿はない。嗚呼、だから病が深くならなかったのか。
2003年07月17日(木) |
『レボリューション6』/『サロメ』 |
『レボリューション6』
20代の頃『テロリストのパラソル』を読んで「おじさんだよなあ」と思った(今読むと、全共闘がおじさんなんじゃなくて主人公のハードボイルドさがおじさんなんだけどさ)。今の20代の人が、『レボリューション6』を見たら、やはり「おじさんだなあ」と思うかもしれない。でもそれでいいのかもしれない。 ドイツ映画。1980年代、西側でも当局に抵抗する動きはいろいろあって、主人公の6人は、その先鋭だった。それが、ひょんなことから、21世紀の今にもう一度集まって活動せざるをえない状態になってしまったというお話。 わたしが、自分を「共感できるなあ、したがって私もおばさんなんだなあ」と思ってしまったのは、足を洗った主人公たちの職業です。広告代理店のエグゼクティブ(90年代語)になって、「I love Bil Gates」なんてTシャツ着ていたり、検事になってたり、金持ちとロマンスしていたり。つまり、しっかりバブル資本主義が身についちゃってる。今の20代の人たちって、「30代の、バブルを知っている世代の人たちは暑苦しいから付き合いたくない」っていってるんだってね。それをちょっと思い知らされた。 そんなわけで、20代の人は嫌いかもしれません。でもね、昔もいろいろ事情があったのよ、っていう点で共感できる人は、30代の人とお友だちになれるかもしれません。そんなことを考えた映画でした。あえて、「平和ボケ日本と、ベルリンの壁にはばれていたにドイツとは違うのよ」みたいなことはいいたくありません。
『サロメ』
英語の勉強をまじめにやるようになって以来、本当に「映画は吹き替えが正しいなあ」と思っているんです。字幕見ていると、画像とか、音楽とかいろいろ見落としちゃう。 この『サロメ』がすごいのは、舞踏映画ですから、字幕いっさい必要なし。映像と音楽で、たっぷり堪能させてくれること。わたしは映画の途中で時計を見るくせがあって、ふつうのだと1時間ぐらい、つまらないやつだと40分ぐらい、おもしろいやつでも90分ぐらいで一度時計を見るのですが、この映画は、とうとう最後まで時計を見ませんでした。 スペインのカルロス・サウラ監督作品。サロメを踊るアイーダ・ゴメスは98年から2001年までスペイン国立バレエ団の芸術監督をつとめた人で、それはそれはもう、すごい。わたし、こんな「美しい肉体」って、見たことない。一応フェミニストっていうのは「わたし自身の身体に自身を持ちましょう」みたいなことを提唱しているんだけど、この人と比べてだったら、「わたしの身体は醜い」ってすなおに認めちゃう。認めちゃうことにまったく屈辱を感じない。 自立的で、躍動的で、むだな脂肪はなく、筋肉はしなやかに細く、背骨はまっすぐ、おっぱいはまん丸に飛び出し、ウエストはストイックにしまり、お尻にセルライトは皆無、表情豊かな手足。「女性性を最大限に出してしかも男に媚びていない」とは、こういうことをいうのです。 バレエというのはあらゆる舞踏のなかでも「身体を鑑賞する」ことに非常に重みを置く芸術なのですが、その価値がある肉体です。 バレエ映画は、『エトワール』をはじめ、ロングランヒットが続いています。いいことです。バーチャルな時代に身体性を渇望する。塩分の足りなくなった動物が地の塩をなめるように、自然な欲望だと思います。この映画は、ドキュメンタリーではなく映画がストーリーをちゃんともっているという点でも、一般の観客にもおすすめです。
『趣味は読書。』斉藤美奈子 平凡社 「読むのが面倒くさい」と思っていたベストセラーを著者が代わりに読んで解説してくれるという便利な本。それにしても斎藤さんはどうして、ジェンダー・バイアスについては相変わらずするどいのに、親子の力関係の問題についてはこうも冷笑的なんだろう。ジェンダーの問題だけ論じても意味ないと思うのだが。神経でものをいう中村うさぎみたいな文体も気になる。『妊娠小説』の頃はもうちょっと違ったと思うんだけど。 『パーフェクトH』 河出書房新社 スカイパーフェクTVの同名番組の再録。番組進行役は山田邦子、AV男優の加藤鷹、日本家族計画協会クリニック医師の北村邦夫。北村先生が出演しているのに、デートレイプやセクシャルハラスメントの話が一度も出てこないのは気になる。
ISLの新コンテンツ、「new new woman」のために千葉敦子の著書を再読する。『乳ガンなんかに負けられない』『「死への準備」日記』『いのちの手紙』『ちょっとおかしいぞ、日本人』『よりかかっては生きられない 男と女のパートナーシップ』『ニューヨークの24時間』など。 たった数日でなぜこれだけ大量に読めるかというと、それだけ彼女の本は読みやすいのです。実に平易で、主張がはっきりしているから文に虚飾を加えずにすむ。詩もたくさん作る人だけあって、散文にもリズムがある。 そして、彼女の書くものはスリリングなのだ。私は、ミステリでさえ、これほど速くは読めない。よく、「犯人なんて、誰でもいいよ」と思うと途中でやめてしまう。彼女の生き方の方が、ずっと先を読みたくなる。
2003年01月11日(土) |
正月休みに読んだ本2 |
『フォックスファイア』ジョイス・キャロル・オーツ、井伊順彦訳 DHC 50年代、女の子だけで結成されたギャング団の話。こんなふうに女性作家の翻訳もの、もっとおもしろいのを探して出版してほしい。 『飛ぶ教室』エーリッヒ・ケストナー、山口四郎訳 講談社青い鳥文庫 高橋源一郎の『一億三千万人のための小説教室』を読むと、ケストナーが読みたくなるのです。ああ、芸術って素晴らしいなあ。 『Piss』室井佑月 講談社 室井さんは投稿するまで一言も書いたことがなかったそうで、そのぶん謙虚で基本に忠実。まねぶところの多い作風。 『姑獲鳥の夏』京極夏彦 講談社文庫 古本屋で見つけたので買ってみたのですが…20ページで挫折。あと、表紙の写真がリアルすぎて、私はご飯を食べられなくなってしまうのです。またチャレンジしたいけれども。
『フラニーとゾーイ』サリンジャー、野崎歓訳、新潮文庫 『永遠の仔』(上下)天童荒太 幻冬舎 『命』柳美里 小学館 『父―娘 近親姦 家族の闇を照らす』ジュディス・L・ハーマン、斎藤学訳 誠信書房 『わたしたちはなぜ科学にだまされるのか』(斜め読み)ロバート・L・パーク、栗木さつき訳、主婦の友社 『男女摩擦』(再読、斜め読み)鹿島敬 岩波書店 『昨日と違う今日を生きる』(再読)千葉敦子 角川文庫 『うちの子がなぜ! 女子高生コンクリート詰め殺人事件』佐瀬稔 草思社
「もうダメだ、ダメダメモードだ」と騒いでいた年末年始のわりには、リストアップしてみるとこんなに本を読んでいる。やっぱり私は自分に厳しすぎる? あと、2002年には平日に映画を見るのが当たり前の生活をしていたので、休日こそ活字の楽しみに浸りたいという欲求もあった。 どれもかなり印象な本ばかりでいい読書生活が送れたと思うが、とくに感慨深かったのは千葉敦子の『昨日と違う今日を生きる』。二十台の前半で出会って何度となく読み返したこの本、歳の始めに「自分はどう生きたいのか? どう生きるべきなのか?」自問するのに、とてもふさわしい本だったと思う。
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