楓蔦黄屋
もくじ←昔のを読む新しいのを読む→

2020年11月09日(月) 丙辰・たべる生活

「たべる生活」。

-----

ごはんは大切だ。

そしてごはんを作るというのはとても大変な仕事だ。

人の健康に直接作用する仕事。
人の味覚を喜ばせる仕事。
人に、ごはんの楽しい思い出を作る仕事。

私はごはんを作るのが苦手で、
でも苦手だという自覚がなく、
そして知識も経験も足らず、
ごく最近まで本当に、本当に台所に経つのが苦痛だった。

でも少しずつ、いろいろな失敗や後悔や諦めや再生を積み重ねて
ごく最近ではあるが、ごはんを作るということに向き合えるようになっている。

ごはんを作るのが楽しいとか、そういうことではない。
ただ、ごはんを作るということ。
そして食べさせるということ。
それを、知ること。

-----


この作者さんの本は昔からとても好きなので
今回も楽しく読めると思っていた。

が。

母親がどうのこうの、子どもがどうのこうのという部分で
どうしても気持ちがとっちらかってしまう。

「ああ、いるよねこういう人」と思ってしまう。

「こういう、庇護が必要な子どもが好きなだけで、
 その母親のことは好きでもなければ興味もない人」と。

昔読んだ、おじいさん医師の育児書を読んだときもそう思った。

赤ちゃんや子どものことはとても好きで、慈しみかたも知っている。
でも母親のことには興味がない。

「他の人には優しいのに、自分の夫にだけきついお母さんがいる。なぜだろう」
というようなことが一行だけ書いてあって、あとはそのことにいっさい触れずにその本は終わった。

そのことが妙にひっかかったし、それ以上その育児書を読む気はなくなった。
何の役にも立たないと思った。
その一行が、実はものすごく根深い問題を抱えているのだと知ったのは、子どもを産んで数年経って、
田房永子さんの本を読んだときだった。
その育児書を頼りにしなくてよかったと思った。

今回の「たべる生活」でも、そのおじいさん先生に感じたことと同じことを思ってしまった。

そういう人は、本当に子ども好きと言えるのだろうか。
子どものことを考えていると言えるだろうか。

だって、年齢を考えれば、そのお母さんこそが彼らの「子ども」である世代なのに。

自分に一番近しい子どもであるはずの人たちを
ただ「母親」と呼び、
その行動に頭をひねるだけで、深追いしようとしない。

「母親」と呼ばれた彼女たちだってたしかにかつては子どもで、
そして育てた親は、自分と同じ年代なのだ。
あなたたちが理解できない「母親」を育てた世界を作ったのは、あなたたちではないのだろうか。
それとも、自分は少しも責任がないとでもいうんだろうか。
自分が育てたわけではないから?

ならばあなたたちの書いた本は、ただの子育てのいいとこ取りではないのか。

子育てのいいとこ取りをする人は、結婚出産育児をしているいないに関わらずいる。
子どものためになっている自分が嬉しいのだ。
愛されたいのだ。子どもに。

-----


…と、余計な憤りを感じてしまって、
肝心の楽しい食の話が何も頭に入ってこない。

私はこの本が求めている読者ではなかったということだ、きっと。

かつて
「見えてる世界がもう違うのよ」
と言った母の言葉がまた心にじわっと広がる。


-----


おみやげに、自家製の梅干しをもらったので
大葉といっしょに豚肉をあえて、エリンギといっしょに炒めたら美味しかった。

今年漬けたばかりであろう、生梅の感触が残る梅干し。



2020年11月08日(日) 乙卯・山茶始開・星の子

「星の子」を読んだ。

事前にいろいろ情報を仕入れてしまったせいで
自分で読み解くということをせずに
ただただ淡々と読んだ。

でもよかった。

優しい世界だった。
ちひろちゃんを芦田愛菜ちゃんで読んだからなおさらかもしれないけど
ちひろちゃんがまず可愛かった。

ちひろちゃんが可愛くて、お姉ちゃんのまーちゃんも可愛いから、
両親が娘達を可愛いと思う気持ちに同調してしまって、
両親がひどいことをしているという気持ちにはあまりならなかった。

-----

「朝が来る」で、子どもがいること、育てられることの幸せを感じる。

でも「おらおらでひとりいぐも」で桃子さんが言った
「自分より大事な子供なんていない」も、ほんとうだと思う。

親子、ときいて想像するのは、小さい子と手をつないでいる親の姿だけど、
でも実際は、子どもが成人してからの時間のほうがずっと長い。
ならば、いっとき一緒にいるぐらいに思ったほうがいいのではないかと。
その言葉が、やさしい色合いをした白い石のように、心にコトンと置かれている。

-----

ちひろちゃんは食べることに貪欲で、
何年かに1回の法要のお弁当を楽しみに生きていけるような子で、
両親はもう、ちひろちゃんが何を食べても文句を言わないのなら、
ならばこの先もちひろちゃんは、けっこう強く、うまく生きていけるんじゃないかと思った。

ちひろちゃんがもし、おじさんのお家に行こうと思っても、
両親は反対しないだろうし、
もしそうなって、おじさんのお家で暮らしても、
ちひろちゃんの考え方は、そんなに変わらないんじゃないかと思った。

-----

むかし、宗教の勧誘にきたクラスメイトがいた。
そのときの、熱に浮かされたようなその子の目を今でも覚えている。

そして大人になってからも、
彼女のような目をした人に何人も出会った。
そしてその人たちはべつに、宗教にハマっていたわけではなかった。

熱に浮かされたような目をした人はいっぱいいる。

私もきっとそういう目をしていた瞬間が何度もある。
覚えがある。
これからもあるかもしれない。

上手に、しなやかに、かわしていきたい。
人のことも。自分のことも。



2020年11月07日(土) 甲寅・立冬・おらおらでひとりいぐも

映画「おらおらでひとりいぐも」を観たよ。

爆泣きでした。

いい映画だった。

自分の中に何人もいろんな人がいて、
彼らがいつも話しかけてくる。自分と会話する。
過去の自分も、いつもそばにいる。

私はそれを自分だけがそうなんだとずっと思っていたので、
まえに舞台「愛犬ポリーの死、そして家族の話」ではじめて
その現象は他の人にも起こりうることなのだと知って
驚愕して、そしてまるで自分の人生をビデオで観ているような感覚に陥って
爆泣きしたことがある。

だから今回も、桃子さんが同じような人だと知って
「ああ、あるあるこの感じ」と終始こころのなかでうなずいていた。
年をとるとそれが顕著になっていくパターンもあるんだ、と知る。

自分のなかのたくさんの、
きっとはじめは自分をつくる一要素だったものが
年を重ねるにつれてすっかり自分になった、自分たち。
思い出。過去の自分。
彼らがにぎやかに、背中を押してくれて山道をのぼるシーンで爆泣き。

昔、娘のために夜なべして作ったスカートを、本当はイヤだったんだと言われたと
酔っ払いながら言うシーンで爆泣き。

雪の帰り道にマンモスを連れて歩く桃子さん。

-----


今住んでいるこの場所が終の棲家かもしれないし、そうでないかもしれない。
いずれにしろ、年をとった自分はどんな気持ちで世の中をながめているのだろうと
ふと思う瞬間が、やけに多くなった。

不惑を前にして、少しずつ心がおばさんとしての自分を受け入れ始めているからかもしれない。

その矢先のこの映画。
桃子さんには共感する部分が多くて、
鵜呑みにはしないにしろ、この先のヒントをもらったような気がして心強かった。

はじめてつきあった人と、そのまま付き合い続けて結婚できた。
桃子さんの言葉を借りれば「惚れぬいだ」人に、おそらくなるだろう。

どういう別れ方をするんだろうと思う。
自分が先に死ねたらいいけど、とも思う。
でも先に死んだらむこうが本当に可哀想だな、とも思う。

むこうが先に逝ってしまったら、私はほんとうにひとりぼっちで、
誰とももう言葉が通じなくなる。

そのときにどうすればいいだろうと、常日頃思っている。

そのときがきたら、桃子さんのことを思い出せるんだろうか。


-----

映画があまりにも面白くて、帰りに寄った本屋さんで原作の本を買った。
原作が読みづらそうだったらやめとこうかなとも思ったが、
ぺらっとめくって一瞬で読みやすいものだとわかったので即買う。

そして「朝が来る」と「星の子」も買った。
ふたつとも観たくてまだ観られていない映画の原作で、
もしかしたら上映期間が終わってしまうかもしれないなと思っていたので
がまんしきれず買ってしまった。

群ようこの新刊らしき本があって、
私はさいきんになってようやく「ごはんをつくる」ということに
興味が出てきたのでそれも買った。

ひさびさにたくさん紙の本を買った。

子どもへのお土産にこれまたたくさん本を買って、けっこうな額になってしまった。

自分の本は、家に帰ってあとで電子で買ってもいいかなと一瞬思ったのだが、
いんや待ちきれない!と思ってそのまま買った。

この「待ちきれない!」が満たされれば
紙だろうが電子だろうが、媒体はどっちでもいいと思う人間なんだな私は、とつくづく思う。


バスを待つわずかな時間で読む。
外で読むなら意外と紙のほうが読みやすいんだな。


私の職業を知った、知り合いの人からこないだ
「紙の本はやっぱりなくなってほしくないですよねえ」と言われた。
社交辞令だなーとわかったので、「いや正直どっちでもいいです」とは言えなかった。

木板でも石板でも、黒板でもホワイトボードでも、
どっかの道や壁にかかれてても、
面白ければ私は読むし、それでいい。

紙の本を求める人は、自分の人生の一冊がほしい人であり、
特にこだわらない人は、そこに書いてある情報だけがほしいんだと
とある本で読んだ。

うるさいな。と思う。人の楽しみに水さすな。と思う。

しかし出す側の立場だと紙のほうが嬉しい。まだ、紙が嬉しい。


-----

原作の桃子さんは、映画よりももっと根深い問題を抱えていて、
これをもし映画でも描いていたら、印象がずいぶんちがっただろうな、と考える。

この映画のいいところは、桃子さんを外側から眺める視点が多いところだ。
いわゆる「よく見かけるお年寄り」感を出しているところ。
何も考えずにただ生きているという雰囲気を漂わせておいて、
内側は、若い皆さんよりももっともっと多層になっているんだよ、というギャップ。

私の中のたくさんの人たちはもっと増えるのかと思うと楽しみになった。

これを映画にしてくれた、すべての人にありがとうを言いたい。

エンドクレジットで「監督:沖田修一」の文字をみて、あれっと思った。
調べたら「南極料理人」の監督でビックリした。
私の一番好きな邦画の監督だった。


-----

桃子さんは、地球46億年の歴史に想いを馳せる。
猿から人間になろうとした生き物の、その最初の歩みが
自分にも宿っていることを感じている。

私もたまにほんのちょっとだけ馳せる。
でもふだん馳せるのは、せいぜいが江戸時代あたりまでだ。

自分の遺伝子に刻み込まれている、顔も知らない自分の祖先の人格が
ときおり顔を出しているのかもしれないと思う。

-----

一人称のあり方も、ああそうだな、と感じるところが多かった。

私は、自分の考えや感情を的確に相手に伝えたいとき、
その内容によって口調を変えたほうがしゃべりやすいのだが、
その口調によってさらに一人称も変える。

「私」のときもあるし「あたし」もあるし、
「僕」にもなるし「俺」にもなる。
すべて口調が変わる。

そのほうが頭の外にでてきやすいから変わる。

でも、変えて話す相手はこの世でただ一人だ。
他の人には正直、伝わろうと伝わるまいとどうでもいいと思っている。

-----

その勢いで「朝が来る」も読む。

爆泣き。

子どもを産めたこと。子どもを育てていること。
それがこんなにも得がたく幸せなことだと、心の底から実感する。
贅沢すぎるほど私は贅沢なのだ。

これの映画、しかも監督は「あん」の河瀬直美さんだ。
(だからプライムに出てたのか)
映画を観たらきっと、件のつまんない映画の古くささなんて風の前の塵に同じだ。
観たいな。

-----

「星の子」はこれから読む。



2020年11月06日(金) 癸丑・パーティション

「ラヂオの時間」を観る。もう何回目だ。

保坂アナウンサーがパタッ!と台本を閉じて
「その時だった!」と喋り始めるシーンで
年々流す涙の量が増えている。

おかしなシーンなのに泣く。
最近観た「誰かが、みている」もそうだったけど
おかしいけどなぜか胸がいっぱいになる。三谷幸喜映画。

「short cut」も大好きだ。
「大空港2013」も大好きだけど、まだちょっと観られない。観られなかった。

-----

自分の死に関してはどうとでも言えるけども、
他人の死はただただ哀しい。
ほんとうに哀しい。

-----


仕事の仕方を変えたので、今まで仕事場で使っていた机がひとつ空いた。
なのでレコードプレイヤーを出しやすくなって、
なんだかルーティンのように毎日レコードを回す。

起きて、なんやかんや支度して、
仕事を始める前のうだうだした数分にレコードが聴きたいなと思うようになってけっこう経つ。

たった一人で仕事をするのはつらいときもあるが
こうやってレコードを聴きながら仕事の準備を始められるところは素敵だ。

たいていYUKIかChara+YUKIを聴く。


-----

脳内で
ひとつのことを処理できる領域は
じつは限られている。

仕事でいっぱいいっぱいで、他のことなんてできないと思っていても、
それは自分を100%使ってるわけではなくて、
限られた領域の中での100%にしかすぎない。

エンジニ屋さんに就職したとき、
社外研修でならった、ハードディスクのパーティションの話が
なぜかずうっと心にひっかかっていた。

一番初めに、ハードディスクの中を区切って
それぞれに使う領域を決めるのだと。

最近になって、人間もそんなようなものじゃないかと思うようになってきた。

仕事をする領域、
家事をする領域、
育児をする領域、
遊ぶ領域。
それはあらかじめ区切られていて、たとえば
家事をする領域を仕事に割り当てることは
当たり前にやっているようでいてきっとできないのだ。

そう思うようになってから、
仕事も家事も、その他のことも、
同じようにやれること、
回していけること、
すべてはつながっていることを
体感している。

2020年11月05日(木) 壬子・映画の話

映画「あん」を観た。

お菓子の映画かと思ってたら、もう何歩も踏み込んだ内容になっていて
泣くまいとしても何度も涙がこぼれた。
千太郎と一緒に何度も泣いた。

徳江さんが住んでいるところで、徳江さんがしゃべるシーン。
映画だということを忘れて見入る。聞き入る。

樹木希林はいつも映画の中でそこに生きている。

最近になって制度が改善されたからといって
長く続いてきた歴史は、日常は変わらないということを思い知る。

市原悦子ももういない。
年寄りを一人失うのは、図書館をひとつ失うのと一緒だという言葉を思い出す。


-----


つまんない映画を観た。

でもそのつまんない映画のおかげで、自分の気持ちをあらためてじっくり知った。

ストーリーという枠組みの中で(外でもか?)
母という立場を対立させるのが好きな人がたくさんいる。
生みの母と育ての母とか。
嫁と姑とか。
ママ友とか。
対立するものだと頭から思っている人がいるのだなと。

母に限らず、女性は対立するものだと
ハナから信じて疑わない人がけっこういるのだと知った。

なぜ力を合わせることを嫌うのだろうか。

べつに女性同士だって仲いいよ!と主張したい感じでもなくて
(むしろ私は女性の友だちを失いがちだ)
(そしてすごく仲のいい女性同士も何人も知っているのでとくに主張する気が起きない)、
なんというか、

別に女性同士に限らず、
「仲がいい」も「対立」も「協力」も共存し得るのに
なんでいっこだけしか描かないのかなと思った。
いっこだけしか描かないのは今時もうつまんないでしょと。

古くさいのはつまんないです。

-----

その古くささを払拭してもらいたくて
映画「朝が来る」を観たい。

その前に「おらおらでひとりいぐも」も観る。

-----

私は映画「南極料理人」とかドラマ「バイプレイヤーズ」が好きで、
それは
「男性だけのコミュニティで、いつかその立場が変われば自然消滅するであろう関係性」
に憧れがあるからだと思う。
南極観測隊の任務が終われば、ドラマが終わって同居期間が終了すれば、
きっと彼らはもう積極的には会わないんだろうなと思うのが、
それでも成立する関係性が、とても羨ましいなと思う。

南極料理人のクレジットで、ビーチバレーをやっているシーン。
あれはあくまで妄想で、実際にはみんなやんなかったんだろうな、と
解釈するのが好きだ。



楓蔦きなり

My追加