楓蔦黄屋
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2020年11月14日(土) 辛酉・生まれた日

11月が好きだ。

晴れの日が多い。
窓を開けて景色を眺めると
手前の建物はふんわりもやがかかってぼやけて、
遠くの景色はくっきり見える。

日が短いので
太陽の色が夜明けから一日中ほぼ変わらない。

午後になってもほぼ白い金色。
プラチナ色だ。

紅葉している桜の葉が透けて光る。
どこもかしこも美しく見える。
静かだ。

夕暮れの空の色が濃い。
紺も青も黄色もオレンジもみんな濃い。
山のシルエットも濃い。
ビルも濃い。灯りも濃い。

検索すると、私の生まれた日は晴れだったようだ。
今日も晴れていた。

11月のこんな日に生まれたんだなと思うと、
11月のこんな日に生まれて本当によかったなと思う。

2020年11月12日(木) 己未・地始凍・大安

読ませることを何も考えていない。

日々思っていることをただ吐き出す。
指で言葉にする感覚。
そうするとポエムっぽい。

今までの日記とテイストがまったく違って
恥ずかしいけど
慣れてきた。

なので毎日書けるかと思いきやそうでもなかった。
一日があっというまにすぎていく。
夜になると眠い。きのうは眠すぎて日記のことを思い出さなかった。

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下手したら10年ぶりぐらいにDVDをレンタル。
昔は毎日のようにTSUTAYAに通っていた。
最寄り駅にあったTSUTAYA。
いろんなものを観た。楽しかった。

DVDをわざわざ借りる、という行為自体がエンタテインメントになっている。

口にだすときはエンターテイメント、なんだけど、
指で打つときは指がエンタテインメントにムリヤリしている。

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ジブリの「かぐや姫の物語」。
ずっと観たかった。

めちゃくちゃ面白かった。
そして心にしみいった。

人間の世に生まれたいと願うことが罪。
人間の世に生まれることが罰。

罪と罰の中で、それは罪でも罰でもないと声を大にして叫ぶ。

生きてた。

羽衣を着せられて、言いたいことを遮られるかぐや姫。
だけど言い切ってしまわなくてよかった。
言い切らなかったから、彼女の中に残って、それが地球を振り返らせた。

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筆のタッチ、すごくよかったけど、
一方でときたましりあがり寿っぽい線に見えて、
ギャグ感がすごかった場面がいくつかあった。

それが台無しとかそういうのでなくて、
いろんなものが自分の中にはあって、
感動も笑いも共存してるんだからそれでいいじゃないという話。

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それの他にもうひとつ借りたDVDがあって、
まあ期待はしてなかったんだけど全然面白くなくて、
あああ本当に腐向けは俺には合わないな!と思った。

腐向けだからしょうがないけどだって女の子が全然可愛くないんだもん。

かといってステレオタイプな百合もそんなに興味がない。
自分が描くのも一方的な片想いものが圧倒的に多い。

あくまでファンタジーの話です。








2020年11月10日(火) 丁巳・お誕生日

肩だの腰だのが痛くて始めたYouTubeでのエクササイズ。

どのチャンネルでも何の運動でもいいから
毎日10分やろう、と決めてから3ヶ月。
体重も体脂肪もさして減らないが、増えもしない。

2ヶ月半ぐらい経ったところでハデに身体を痛めたものの
それが治ってから、また再開できている。

世の中にはほんとに、いろんなことを発信してくれる人がいて、
本当に助かっている。


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書くことがないので窓をあけて外をながめる。
スカイツリーが白と紫で交互に入れ替わって光っている。
きれいだなあ。毎日見ても飽きない。
私はスカイツリーが大好きだ。
東京タワーも好きだけど、スカイツリーのほうが
まだ建設途中のときに見に行ったり、そのときスカイツリー型のペットボトルの水を買ったり、
なんだかんだ毎日目にしていたりしてなじみ深い。
里帰りしたあとなんかに東京に戻ってスカイツリーを目にすると、
「ああ帰ってきたなあ」とホッとする。
生まれ育った土地よりもホッとする。

冬なのでとにかくビルの赤い灯りがきれいだ。

空が冬になってきた。
去年の暮れに、この窓から眺めた空に似てきている。

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生まれてきてくれてありがとう。
出会ってくれてありがとう。
お誕生日おめでとう。



2020年11月09日(月) 丙辰・たべる生活

「たべる生活」。

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ごはんは大切だ。

そしてごはんを作るというのはとても大変な仕事だ。

人の健康に直接作用する仕事。
人の味覚を喜ばせる仕事。
人に、ごはんの楽しい思い出を作る仕事。

私はごはんを作るのが苦手で、
でも苦手だという自覚がなく、
そして知識も経験も足らず、
ごく最近まで本当に、本当に台所に経つのが苦痛だった。

でも少しずつ、いろいろな失敗や後悔や諦めや再生を積み重ねて
ごく最近ではあるが、ごはんを作るということに向き合えるようになっている。

ごはんを作るのが楽しいとか、そういうことではない。
ただ、ごはんを作るということ。
そして食べさせるということ。
それを、知ること。

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この作者さんの本は昔からとても好きなので
今回も楽しく読めると思っていた。

が。

母親がどうのこうの、子どもがどうのこうのという部分で
どうしても気持ちがとっちらかってしまう。

「ああ、いるよねこういう人」と思ってしまう。

「こういう、庇護が必要な子どもが好きなだけで、
 その母親のことは好きでもなければ興味もない人」と。

昔読んだ、おじいさん医師の育児書を読んだときもそう思った。

赤ちゃんや子どものことはとても好きで、慈しみかたも知っている。
でも母親のことには興味がない。

「他の人には優しいのに、自分の夫にだけきついお母さんがいる。なぜだろう」
というようなことが一行だけ書いてあって、あとはそのことにいっさい触れずにその本は終わった。

そのことが妙にひっかかったし、それ以上その育児書を読む気はなくなった。
何の役にも立たないと思った。
その一行が、実はものすごく根深い問題を抱えているのだと知ったのは、子どもを産んで数年経って、
田房永子さんの本を読んだときだった。
その育児書を頼りにしなくてよかったと思った。

今回の「たべる生活」でも、そのおじいさん先生に感じたことと同じことを思ってしまった。

そういう人は、本当に子ども好きと言えるのだろうか。
子どものことを考えていると言えるだろうか。

だって、年齢を考えれば、そのお母さんこそが彼らの「子ども」である世代なのに。

自分に一番近しい子どもであるはずの人たちを
ただ「母親」と呼び、
その行動に頭をひねるだけで、深追いしようとしない。

「母親」と呼ばれた彼女たちだってたしかにかつては子どもで、
そして育てた親は、自分と同じ年代なのだ。
あなたたちが理解できない「母親」を育てた世界を作ったのは、あなたたちではないのだろうか。
それとも、自分は少しも責任がないとでもいうんだろうか。
自分が育てたわけではないから?

ならばあなたたちの書いた本は、ただの子育てのいいとこ取りではないのか。

子育てのいいとこ取りをする人は、結婚出産育児をしているいないに関わらずいる。
子どものためになっている自分が嬉しいのだ。
愛されたいのだ。子どもに。

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…と、余計な憤りを感じてしまって、
肝心の楽しい食の話が何も頭に入ってこない。

私はこの本が求めている読者ではなかったということだ、きっと。

かつて
「見えてる世界がもう違うのよ」
と言った母の言葉がまた心にじわっと広がる。


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おみやげに、自家製の梅干しをもらったので
大葉といっしょに豚肉をあえて、エリンギといっしょに炒めたら美味しかった。

今年漬けたばかりであろう、生梅の感触が残る梅干し。



2020年11月08日(日) 乙卯・山茶始開・星の子

「星の子」を読んだ。

事前にいろいろ情報を仕入れてしまったせいで
自分で読み解くということをせずに
ただただ淡々と読んだ。

でもよかった。

優しい世界だった。
ちひろちゃんを芦田愛菜ちゃんで読んだからなおさらかもしれないけど
ちひろちゃんがまず可愛かった。

ちひろちゃんが可愛くて、お姉ちゃんのまーちゃんも可愛いから、
両親が娘達を可愛いと思う気持ちに同調してしまって、
両親がひどいことをしているという気持ちにはあまりならなかった。

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「朝が来る」で、子どもがいること、育てられることの幸せを感じる。

でも「おらおらでひとりいぐも」で桃子さんが言った
「自分より大事な子供なんていない」も、ほんとうだと思う。

親子、ときいて想像するのは、小さい子と手をつないでいる親の姿だけど、
でも実際は、子どもが成人してからの時間のほうがずっと長い。
ならば、いっとき一緒にいるぐらいに思ったほうがいいのではないかと。
その言葉が、やさしい色合いをした白い石のように、心にコトンと置かれている。

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ちひろちゃんは食べることに貪欲で、
何年かに1回の法要のお弁当を楽しみに生きていけるような子で、
両親はもう、ちひろちゃんが何を食べても文句を言わないのなら、
ならばこの先もちひろちゃんは、けっこう強く、うまく生きていけるんじゃないかと思った。

ちひろちゃんがもし、おじさんのお家に行こうと思っても、
両親は反対しないだろうし、
もしそうなって、おじさんのお家で暮らしても、
ちひろちゃんの考え方は、そんなに変わらないんじゃないかと思った。

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むかし、宗教の勧誘にきたクラスメイトがいた。
そのときの、熱に浮かされたようなその子の目を今でも覚えている。

そして大人になってからも、
彼女のような目をした人に何人も出会った。
そしてその人たちはべつに、宗教にハマっていたわけではなかった。

熱に浮かされたような目をした人はいっぱいいる。

私もきっとそういう目をしていた瞬間が何度もある。
覚えがある。
これからもあるかもしれない。

上手に、しなやかに、かわしていきたい。
人のことも。自分のことも。



楓蔦きなり

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