楓蔦黄屋
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2020年12月07日(月) 甲申・大雪・歳時記カレンダー

ヘンな夢をたくさんみる。

たいていは仕事が進んでいなくて、納期ギリギリになるとたくさんみる。
起きているときにあせることはほとんどなくなったが、
やっぱりそのぶん心のどこかでストレスを感じているのかもしれない。

さっき昼寝したときには蘭寿とむさんとお会いした。
夢の中でもおきれいだった。

起きてしばらくしたら、家族が宝塚版「逆転裁判」を観はじめた。
…予知夢?

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ある時期から、歳時記カレンダーを仕事部屋にかけている。

「山茶始開」(さんちゃはじめてひらく・椿が開花する頃のこと)や
「朔風払葉」(さくふうはをはらう・冷たい北風が木の葉を散らす頃のこと)や
「橘始黄」(たちばなはじめてきなり・柚子やミカンなどが黄色に色づき始める頃のこと)など
カレンダーでなんとなく意識してるとまさにその通りになってたりして、
なんというかちょっとした魔法気分だ。
呪文を唱えたらその通りになっているというか。
本当は逆なんだけども、それも含めてちょっとしたマジックショーのようだ。

もしくはアドヴェンドカレンダー感があって楽しい。
クリスマスまでのカウントダウンじゃなく、毎日送られる小さな贈り物感があるというか。

歳時記カレンダーを作っている人に心から敬意と感謝を。

2020年12月02日(水) 己卯・橘始黄・ちょきん

部屋をきれいに保つことについてわずかばかりではあるが前進できたんだから、
経済観念においても育てようと思って遅すぎることはもしかしたら
ないんじゃないかと思いはじめてきたお。太鳳。

わりと欲しくなったらすぐ買ってしまうタチだ。

昔に比べたらさすがに少しは考えるようになってきたが、
ひょんなことから小金が入ったりするともう財布のヒモはガバガバだ。
財布のヒモっていうか、指から流出するクレカの情報が。

世の中には借金に抵抗がある人もいると思うが、
クレカ程度ならば私はあまり抵抗はない。
要は返せばいいからだ。
返さないから大変なことになるわけで、ちゃんと返せば別に何の問題もないのだ。

「正しい借金ならば、返していくことで逆に信用になる」というのは母の主張だ。
奨学金を返済し終わったとき、ちょっとだけその意味を実感した。

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しかしまあ、ここらで少しは「お金を使わないでとっておく」という技も身につけたほうがいいのかもしれない。
家のローンをわずかではあるが背負っている身としてそう思う。
奨学金のときの経験で、自分は「借金を返すために働く」のが別にイヤな性分ではないことを知った。
ならばお金をお金のまま所持できるよう精進するのもいい経験になるかもしれない。

そういうわけで、ちょっと前からやってみたいことがあった。
それは「つもり貯金」だ。

カードの支払額を見るたび、「このお金を全部貯蓄に回したらけっこういい額いくよなあ」と思っていた。
それを実行するのだ。
何か欲しいものがあったら、お金を支払う感覚でメイン口座から貯蓄口座へ振り込む。

最近、それを初めてやってみた。

おお。
わりと抵抗があった。
「こんなの買っちゃって本当によかったんだろうか」という後悔がほんのり芽生えた。
モノが手に入るときはまっっっっったく感じない類の後悔だ。

ただ口座の額がマイナスになる(実際はならないが)だけなので
次にお金を使う抑制力になりえるな、これは。

ちなみに1ヶ月以上経ってもまだ欲しかったら
そのときは迷いなく貯蓄口座からお金を払って買ってよいルール。
なのでガマンしているという感覚は一切ないのも有効だ。
むしろちょっと購買欲も満たされてる。

さて、この方法は私に合ってるだろうか。



2020年12月01日(火) 戊寅・師走・おかたづけ

仕事部屋がそろそろ散らかってきたので片付けたい。

が、なんだか気分が乗らずに放置したまま何日か経つ。

仕事部屋に限らず、
「部屋をきれいに保つ」ことに関してだいぶ前から試行錯誤している。
諦めたり、諦めきれなかったり。

「部屋をきれいに片付ける」ことはできる。
要らないものを捨てて、必要なものをそれぞれの居場所におさめればいい。
でもそれと「部屋をきれいに保つ」というのはじつは全く別のスキルだ。

「片付ける」というのはつまり「散らかす」とセットになっていて、
要するに「きれいに保つ」のとは正反対のスキルではないかと私は思っている。
「きれいに保つ」というのがどういった行為から成り立つものなのか
私は知らない。教わってもいないし自ら手習いにも行っていない。

長年、「片付ける」=「きれいに保つ」だと思いこんでいた節がある。

逆なんだと思う。
「きれいに保つ」=「片付けない」なんだと思う。
「片付ける必要のない状態に設定する」ことなんだと思う。

書いてて気づく。

「散らかったものを収納にセットする」のではなく、
「現状の散らかった状態に、収納のほうをセットしていく」
というのが有効なのではあるまいか。


やってみよう。

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てなわけでとりあえず、
家にあまっていた数々のカゴたちを仕事部屋に一挙召還。
散らかっている箇所に設置。

おお。スッキリ。

自分の散らかしがちな場所とモノの種類が一目瞭然になる。
必要な収納家具が見えたのでそれをぽち。

と同時に、自分の散らかさない場所も見えてくる。
散らかさないでちゃんといつもきれいになっている箇所もあるのだ。
モノ単位で収納場所が決まっている作業机だ。

「小物」というざっくばらんなくくりではなく
「シャーペン、消しゴム」「手帳」「はさみ」といった単位で
100均の箱やお菓子の空き箱なんかに、マステに名前を書いたラベルを貼り付けて収納してある。

このマステラベル収納を試そう、思いついたときは
これで果たして散らからないようになるのだろうかと自分でも思っていたが、
結果1年半、きれいに片付いたままだ。自分に合っていた。

この「ラベルを貼り付ける」というのがミソで、
こうするととたんに頭の中までスッキリして、何も考えずにモノを出し入れできるのだ。
ラベルがある=名前のついてある場所にしまうという作業も好きらしい。
居場所を作ると安心するタチなのかもしれない。

自分のアクセサリーだの趣味のものだのをしまうキャビネットも散らかっていない。
これもしまい場所は決まっているが、ラベルは貼っていない。
キャビネットは長いことキッチンで使っていたものを、家具シートを貼ってリメイクしたもので、
小物入れなんかもそれなりにこだわって選んだ、
要するに自分が気に入るものだけで作り上げた収納場所で、
そういうものだとラベルを貼らなくても頭の中は常にスッキリしている。

「しまうべき場所にいちいちしまう」という行為もどうやら好きらしい。苦にならない。
しまうべき場所が目に見えていないのが苦なのだ。


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服なんかも、基本的にハンガーにかけてしまうのが好きだ。服そのものが見えるから。何よりのラベルだ。
たんすの引き出しにも、いちいちしまうものが書いてある。
こないだ、衣替えのときには、中身の見えないたんすにしまってある服の絵をカンタンに描いて貼った。
散らからなくなった。

基本的に着替えるという行為がめちゃくちゃ面倒くさいのだが、
これをやったらちょっとラクになった。


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部屋をきれいに保つ方法を、誰にも教わらなかったのでこうして
不惑を前にしてもまだ試行錯誤している。

でも試行錯誤して、できるようになるのは嬉しい。
この喜びが勝っているから、部屋が散らかっていると気になるんだと思う。
部屋が散らかってても全然気にならなくなりたいとは思わない。



2020年11月28日(土) 乙亥・大安・こたつ

こたつを出した。

今住んでいる家はわりと寒さに強いので昼間は暑すぎるぐらいだが、
朝夕が冷えてきたのであったまりたくてこたつを出した。

先週買ったみかんはもうほぼない。
こたつでみかん、がやりたくて、でもこたつを出すかどうか迷っていた時期だったので
多めに買ったのだが早々になくなってしまった。
子どもが食べる量が思っていたよりも多かった。

ついこないだまでみかんが苦手だったのに、
いつのまにか好きになっている上にみかんの皮も自分でむける年なので
ガツガツいってくれたのだ。

今まで我が家で果物が好きなのは私だけだったから、
果物を買ってもなんら気にすることなくひとり占めだったのに
これからはヤバいぞ。悠々自適の果物ライフに陰りが。

まあいいんだけど。

サクランボとかぶどうとか、時期もので高いやつはどうなるのかなあ。
好きになるかなあ。

私には好きなものをがまんする機能はついていないので
そうするとそういう果物を心ゆくまで食べるには
今までの倍量買うようになるんだと思う。

経済観念があまり育たないままこの年まできた。

まったくお金持ちじゃないのに、ていうかむしろ貧乏寄りだったのに。

でも贅沢な暮らしとかわりと性に合ってると思う。
漫画なんかで、庶子からいきなりお金持ちになった主人公が
「何もしてないのは肩身が狭くて…」と台所仕事を手伝ったりするのが
育ちのよさとか心根のまっすぐさとか清い感じとかあらわしててめちゃくちゃ憧れるけど
でもたぶん自分だったら全然肩身が狭くならないと思う。

いくらでも使っていいカードとか渡されたらホントにいくらでも使えると思う。
「欲しいものを欲しいだけ買ってもむなしいだけ」って言うお嬢様も漫画でよく見るけど
自分はたぶんむなしくもならないし飽きないと思う。
メイドさんに何かを頼んでやってもらうのとかも全然抵抗ないと思う。
着替えさせようとするメイドさんに顔を赤くしながら「自分でできますから!」とかも言わないと思う。
全然平気で着替えさせてもらうと思う。

人に頼るのは本当に得意だ。

正しくは、的確な判断を手早く要求される場で
そのこと自体に気づくのが人より遅いので
(例:乗るべき電車に乗る、出るべき時間に家を出る)
まわりの人が先に気づいて行動してしまうのだ。
子どもの頃などは私のことなどほっぽって行かれることが多かったが、
年をとるにつれて皆優しくなっていくので
自然と助けてもらえるというだけなんだが。

頼られるのも嫌いではないが、
頼られて行動したところであまりいい結果が出ない。
出せたことがない。

「あなたに期待してますよ!」と言われても正直ピンとこない。
とたんに面倒くさくなる。というかちょっと裏切りたくなる。
「お前は元来頼られる立場なんだからいい加減しっかりしろ」と
怒られて初めて重たい腰をあげる感じ。
もしかしたら褒められるより叱られて伸びるタイプなんだろうか。
でも上手に叱ってくれないとすぐヘソを曲げます。

面倒くさいタチだな本当に。


2020年11月27日(金) 甲戌・朔風払葉・冒険

子どもとちょこっとおでかける。

とある目的のために土地勘のない町中を歩く。
目的を果たすのは合計30秒ぐらい。
歩いたのは5時間。

だんだん寒くなってきた季節の中を歩く。
寒くなってきたから暗くなるのも早い。
寒くなりはじめだからアウターを着たり脱いだりが面倒で忙しい。
そんな中をふたりで歩く。

目的を果たせて嬉しいねと言ったり
見知らぬ公園でギュンッと遊ばせたり
歩いてるとちょっとお互いイラッとくる瞬間が訪れて
あっこれは疲れだ、いかんいかん落ち着こうとふたりで深呼吸したり
コンビニに寄って道の脇でホットスナックを食べる。

目的に間に合うか間に合わないかのところで走る。
ワー!疲れるー!とはしゃぐ。
電車に乗り間違えたのを子どもが気づく。
目的の場所を子どもが見つける。

めちゃくちゃ楽しいな。

子どもと二人ででかけるのはめちゃくちゃ楽しい。
昔からそうだった。
赤ちゃんの頃からそうだった。

疲れるし間違うし機嫌悪くなるしで体力が削られるんだけど、
それでも楽しい。それが全部楽しい。

別にふたりで終始ニコニコしてるとかそういうわけでもないし、
すごい面白いことがあるわけでもないんだけども、
なんか楽しい。

そして子どももどうやらそう思ってくれてるらしい。
楽しいねーなんかわかんないけど楽しいんだよねー、とふたりで言い合う。

家族3人ででかけるのも楽しいし
ダンナと二人で出かけるのも楽しいんだが、
子どもと二人で出かけるのはなんというか、なんだろうな、冒険感があるのかな。

赤ちゃんの頃は特に、冒険感がものすごかった。
装備もものすごかった。
今思えばあんなに持ってなくてもよかったよな、と思うけど、
それもあんなに持って行ってたから得た、自分だけの知識だ。

ひとりでなら入れる喫茶店にも子連れだと入れなくて、
自販機で買ったあったかいコーヒーを飲みながらちょっとだけ寂しい気持ちになったけども、
それ以上になんだかその状況そのものがめちゃくちゃ楽しかった。
抱っこひもの中があったかすぎて全然寒くなかった。

ちょっと前までは、
でかけた先でイヤな思いをすることにとてもおびえていた。

でも今、子どもとでかけるときはいつも、
なんか困ったことが起こるかもねえ、そのときはどうしようねえ、
まあ無事に帰ってこられたらいっか、と思えるようになってきている。

私と出会ってくれてありがとう。

楓蔦きなり

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