楓蔦黄屋
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明けたよね。
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今年の自分のテーマをきめる。ことをYUKIちゃんの日記で思い出す。 「善意に従わない私をゆるす」。
もうちょっとくだけた言い方とか、比喩的暗喩的かつポップで可愛い表現を 考えようとしたけどこれはこれでいいかなと。
2019年「改善はするが反省はしない」 2020年「Wrap around fluffy」 で、 2021年「善意に従わない私をゆるす」
なんか日本語と外国語がテレコになる予感。
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世の中は善意であふれている。 世の中はというか、私の中は。 なんでもあふれすぎると息苦しくなる。 従わなければならないという気持ちになっている。
従わなくてもよいのだ。 私ならゆるす。 だから私は私もゆるす。
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2020年の「Wrap around fluffy」は難しかった。 じつに難しかった。 まず忘れることが多かった。
それに、自分の周りを包み込むには 私の持っているふわふわは圧倒的に少なすぎた。 ちょっと高望みしすぎたのかもしれない。
自分のテーマは、あくまで自分に照準をあててセットするのがよいらしい。
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世界はいつもただ進むだけで、戻らない。 何が起きても、いつでもそれがふつうだ。 たとえこの先状況がどうなっても、きっとそれがふつうなのだ。
そのふつうの中で、今までしてきたように、一生懸命やるだけだ。
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…とかなんとか言ってたら エンピツ不具合により2021年の日記がアップロードできなくなっている。 サポートメール出しても戻ってくる。
他にもそういう人がいるみたいで、 その人達の例にならって100年前に戻ってみた。 というわけで今日は2021年の1月3日です。 (※現在は復旧しています。ご対応ありがとうございました!)
大晦日にはまだまだ特別感を感じる。
ある種の緊張感があるからだろうか。 カウントダウン感がすごい。
昼間にけっこうな文章を書いたのだが ウッカリ消してしまった。 エンピツならではだ。
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きのうは H&Mのリサイクルボックスにドキドキしながら向かったわけだが、 ふつうに服を箱にいれたらふつうに店員さんが気づいてくれて ふつうに値引きチケットをくれたという すばらしい結果に終わりました。 よかったよかった。 子どもの靴下を買って帰りました。
これからも利用したい。
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こたつでみかんやらカニやらぶどうやらを 楽しみつつあと5分。 ドキドキだ。 できれば大晦日ぐらいは一生ドキドキしてたい。
服がやっとどうにかなった。
クローゼットの中の服がいつ見てもパンパンで 何があるかいまいち把握できないし、 把握できないからつい新しく買ってしまう という悪循環がちょっと改善された。
私は着替えるのが面倒くさい。
その日の気温と気分と用事とを照らし合わせて 服を選び、そして寝間着を脱ぎ、 そして選んだ服を着る、という行為に ものすごい労力を費やした気持ちになってしまう。 要するに苦手なのだ。
スティーブ・ジョブズのように毎日同じものを着られればラクだとも思うが、 しかし私は身につけているものに大層気分を左右されてしまう上に 「いつも同じ」ということにかえってストレスを感じてしまうタイプなので その方法はたぶん合わないなと思っていた。
ならばせめて、「組み合わせを考える」という労力を省けないだろうか。
「着回し」というテクニックが当たり前のように謳われている昨今であるが、 別に着回さなくてもいいんじゃないか。 このトップスにはこのボトムス、と決めて、基本それ着てりゃいいんじゃないのか。 「私服の制服化」ってやつだ。
というわけで決めた。 かなり楽しかった。 そしてクローゼットがかなりすっきりした。
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要らない洋服がけっこうはっきり区別できる。 買い足すのもきっとラクになる。
要らない洋服はH&Mのリサイクルボックスに出してみることにした。 ブランド問わず、靴下かたっぽでもよれよれのTシャツでも汚れたシーツでも 布なら何でも回収してリサイクルします、というスタイルがとてもいいと思った。 服をただゴミにするのはあんまり気持ちのいいものじゃないが、次の道筋に送ると思えば気がラクだ。
まだ出してないからどんなものかドキドキする。
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着回さなくてもいいやと思って気づいたことがある。
「オールシーズン着られる」ものも、別にオールシーズン着なくていいということだ。
春まで長く着られる冬物でも、春か冬どっちか着れば別にいい。 どっちかに決めて制服化したほうがラクに着られる。
今まで服は「春夏」「秋冬」でざっくり衣替えしていたが、 「春」「夏」「秋」「冬」で細分化したほうが 常用クローゼットの中はすっきりする。
春用にと決めたレースのスカートを どうしても冬物に合わせたいとかいうこともたまにはあるだろうが、 そしてそのときはふつうに合わせようと思うが、 たぶんそんなことは本当にたまにだ。
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この整理整頓をするにあたって、いっこだけ気をつけた。 「どうでもいい格好」も2、3通り制服化すること。
この場合の「どうでもいい」は 「着なれてるけど気分が上がったりはしない」だ。
服の断捨離の基準で「着て気分が上がるか否か」というのがあるが、 私には気分が上がる服を着る気分じゃない日が毎月必ず数回は訪れる。
体調よくない日、気分がどんよりする日、 ラクにいきたい日、ホッとしたい日。 そんな日には 適当に選んだちょっとイマイチな服がとても安心する。
だから、どうでもいい服はけっこう重要だ。 心地いい生活をするためのクッションになる。 そして気に入った組み合わせの制服は、気持ちを新しくしてくれる。
私がスティーブジョブズスタイルに向かないのもこのへんに理由がある。
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来年の夏は、ワンピースとカラー靴下の組み合わせを楽しんでみようかなと今から思ったりしている。
身体がすごく休みたがっている。
思えばこの1年、休みらしい休みをとったことがなかった。 去年はとった。…かな?あれ、一昨年だったかも。
ずうっと仕事のことを考えていたし、 そもそも「休日」というのが制定されていない。 加えて親という業を背負っている。 逆に言えば休みたければいつでも休めるわけだが、 誰かに許されたわけではないので休んでいる間いつも後ろめたい。
そういう1年だった。
そういう後ろめたさで身体を壊したりしたもんだから、 秋口あたりからもうその後ろめたさを放棄した。
休んでもたいがいは何とかなってきた。 ならもう休んでしまえ。 休んでダメになるならもうそれはそれ、先のことなど考えてたって どうせ憂い通りになったことなんてないしもういいや。
と考えるようにしたら 別に状況は良くもならないが悪くもならず、心持ちだけがちょっとラクになったので まあじゃあこれはこれでいいかな、と思うようになる。
そんなこんなで仕事を納めた。
そしてそこからこっち、ビックリするぐらい何もできない。 身体が全然動かない。
こうやって無為に日記などぽちぽち打つならできる。 本を読んだりもできる。テレビも観られる。ゲームもできる。 でも家事がなんにもできない。 部屋の掃除をしようと思ったけどそれもできない。 しようとすると頭がフリーズする。
これはもう、1年分休めということだと思っている。 というわけでゴロゴロ休んでいる。
一緒に住んでいる人たちは、そんな私を特にとがめることもなく 家のことをやったり楽しく過ごしたりしてくれている。 そして私は逆にふざけがてら鬱陶しく彼らにつっかかったりしている。
いま一緒に住んでいる人たちが、この人たちで本当によかった、と思う。
メリークリスマス。
もう何をしても、子どもの頃に感じてた あのクリスマスのきらめきや特別な空気感は 味わえないけども。
でも実はサンタさんはいると今でも思っている。
記録の上でしか存在しないなら徳川家康だって一緒だ。
とはいえ盲目的に信じているのとはちょっと違って、なんというか
ここ数年、クリスマスを親として毎年慌ただしく過ごしていて、 その原動力になっているのは確かに自分が子どもの頃サンタさんにもらったすべての輝きで、 そうするとああやっぱりサンタさんていうのはいるんだなと、 いるからこうやって私は子どもが楽しめるように手を動かしているんだなと、 そう思うわけです。
親の手柄をサンタにとられてたまるかみたいなことは、だからあんま考えたことがないわけです。
楓蔦きなり
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